第九章 復讐の扉
とうとう最終話です。
盆地特有の暑い夏が過ぎ、秋もすっかり深まっている。紅葉の見頃情報や穴場情報、グルメ情報などがネット上で踊る時期になっていた。京町のいたる所で紅葉の葉が太陽に焼かれて真赤に輝いている。
この時期の土日は、京のどこもかしこもが観光客で混んでしまうため、休みが不規則な刑事たちと時間に余裕のある鈴たちは平日の昼間に宇治川の辺にある料亭でランチを食べている。
川面から吹き入る風は、暑くも寒くもなくちょうど良い。宇治川の流れは存外速く激しい。青空に吸い込まれてゆく早瀬の音を聞いていると、秋風に夏の懐古が溶け込んで、無人島の夏が遠い昔の記憶に埋もれているような感覚に陥る。
「どうせなら夕食の方が良かったな。会席料理……」
「前にも言ったが俺たちの財布にも思いやりをくれ」
「ランチと言っても高級料亭ですよ、ここは」
小八木が知った風に言う。
「あんたに言われなくても見ればわかるわよ。この掛け軸なんか高級過ぎて何て書いてあるのか読めないわ」
四人は、窓から宇治川沿いに並ぶ紅葉と大吉山の景色を眺めながらランチの御膳を楽しんでいる。昼間から熱燗も並んでいた。昼食前には平等院にも立ち寄り小八木のうんちくに熊野がしきりと頷いていた。
夏のあの日、犬養商事の会議室で一発勝負を挑んだ。あともう一歩の所まで推し進めたが雄一の反撃に完敗してしまった。あの時、奇しくも雄一が言ったように警察には十分な証拠も証人も押さえる術はなかった。犬養家が個人で所有している無人島と言う特殊な環境で起きた事件であり、防犯カメラも第三者もいない。
更に事件の通報も遅く捜査には全く不利な環境であったため完全に手詰まり状態だった。捜査員たちの気持ちとしては、逮捕は無理でもせめて真相を明らかにしたかった。もしかすると、その真相の中に逮捕に繋がるヒントがあるかも知れないと言う期待があったのも事実だ。
鈴たちは作戦を練り、首謀者の文美が自白するように誘導する計画を立てた。葉菜の取調べを脅しの材料にし、文美に真相を語らせるところまでは成功したが雄一に罪を認めさせることはできなかった。
鈴たちの作戦は半分しか成功しなかったが、畑山の裏切りによって雄一は逮捕された。文美と葉菜の違法行為、例えば遺体遺棄や殺人教唆、幇助、共同正犯など、様々な可能性を探ってみたがいずれも逮捕するまでには至らなかった。
「葉菜さんが逮捕されなくて良かったです」
小八木が本音を吐く。
「彼女が行った行為自体に違法性はないからな。全て仕事の一環として指示に従っただけだと主張されれば、殺人の手伝いをしていると言う自覚があったことを証明することは困難だ」
「あの様子だと、雄一さんからある程度は聞かされていると思うけどね。まあ、真実は墓場まで持って行くでしょう」
鈴が両手で小さな猪口を包んで、
「お二人とも、お疲れ様でした」
と、鈴には珍しく丁寧な態度で刑事たちを労ってから杯を合わせた。秦野と熊野も少し頬を固くして心持ち頭を下げた。
雄一逮捕により新たな情報を得られるかと期待したが、彼はあの会議室で明かされたこと以外は何も語らなかった。捜査員たちは何とか文美を逮捕できる証拠を見つけようと、更に調査を続けていた。
だが、いつまでも一つの事件を追い掛けている訳にもいかない。仕事はどんどん増えている。ついに捜査本部も解散となってしまい、鈴の発案で残念会を開くことになった。
「結局、犬養商事も無くなってしまいましたね」
小八木が残念そうな表情をした。
「もしかして、ほんとに就職するつもりだったの?」
雄一が逮捕されてしばらく後に龍之介は亡くなった。事件の真相は公にならなくとも色んな噂が飛び交い、風評被害で犬養商事の事業は衰退する一方だった。
最後の頼みだった龍之介が亡くなり、事業継続は無理だと判断した文美は事業を別会社に譲渡した。
「社員はどうなったの?」
「従業員を引き続き雇用すると言うのが文美さんの出した条件のようです」
「それは良かった。あのオバサンにしては思いやりがあるわね」
「文美さんは不要な会社資産を全て売り払い負債の返済に充てた。そして株式以外の全ての犬養家個人資産も売却し、その半分を葉菜ちゃんに相続させた」
秦野は静かに猪口を口に運んだ。
「私なら会社貰うよりお金貰った方が嬉しいわ。きっと葉菜ちゃんもそう考えているでしょうね。いったいどれだけ貰ったのかは知らないけどね」
鈴がお膳に箸を伸ばす。
「多分億単位でしょう」
「億?」
鈴の箸が止まる。
「危ない橋も渡る訳ね。たった三四日間、文美さんの指示に従うだけで億よ!いったい時給いくらなのよ?」
「僕たちは合計十万円でしたね」
小八木も苦笑いを浮かべる。額が大き過ぎて想像すらできない。
「小八木、あんた葉菜ちゃんを誘ってここで大宴会をする企画を立てなさい。私たちみんなで参加するのよ」
「僕たち、葉菜さんにはかなり嫌われていますよ。主な原因は鈴さんですけど」
熊野が噴き出して皆が大笑いしたところへひと際爽やかな風が窓から入って来た。鈴は風を感じながら窓の景色を眺め日本酒を舐めると不意に秦野を見つめて、
「私、会社の合併とか資産売却とか良く知らないけど。何か気持ち悪いの」
と、猪口を置いて箸に持ち替えた。
「やはり感じたか」
「何か変ですか?」
熊野が口をモグモグさせている。
「段取りが良すぎない?龍之介さんが亡くなってからまだ数か月よ。事業譲渡や資産売却とか、良くわからないけどもっと時間が掛かるものじゃないの?条件の交渉や手続きなんかで」
鈴は刺身を頬張る。
「確かにそうですけど、犬養商事の社員が優秀だと言うことでしょう」
熊野はビールを流し込む。
「俺も違和感を覚えている。捜査本部で文美の過去を徹底的に洗い直したんだ。もしかしたら、俺たちは何か見落としているような気がしてならない」
秦野が少し神妙な表情で言った。
「どんな情報?」
反射的に鈴と小八木が前のめりになる。
「まず、これは柳田刑事が大阪府警から得た情報なんだが。文美さんと畑山の顧問弁護士は、1~2年前から頻繁に会っている。表立ったところでは会っていないが、秘密裏に定期的に会っていたようだ。時期的に考えると、文美さんが犬養兄弟の殺害計画を立てている頃からだ。まず考えられるのは、自分が有罪にならずに犯行を行う方法の一般論的な指南。次に兄弟たちや龍之介さんが亡くなった後の財産分与や会社処分方法について相談していたのではないか。だからこんなに手際よく処分できた」
「なるほど。IRエンタープライズの顧問弁護士ですからね。裏社会にも通じているのでしょう。土地の売買は多くの利権が絡んでいて揉めることも多いですが、裏社会に通じている人がいると話はスムーズに進みやすい。もしかしたらIRエンタープライズが事前に動いていたのかも知れませんね」
熊野が自分の言葉に納得するように頷いた。
「そうよね。遅かれ早かれ龍之介さんが亡くなることは見えていたから、その時が来たらすぐに動けるように準備していた訳ね。さすが鉄のオバサン、用意周到だわ。で、他にも面白い情報があるんでしょう?」
「どうしてわかるんですか?」
熊野が驚いている。
「だって“まず”って言ったじゃない。小八木でもわかるわ」
秦野が口元を緩めてから話始める。
「文美さんの生い立ちについて調べてみたところ、少し気になることがあった。彼女の実家は京都で宝飾店を営んでいた。小さな個人商店だが細々とそれなりに経営は成り立っていた。文美さんが小学生の頃、宝飾店のチェーン店化の波が押し寄せて来た。多くの店が飲み込まれてゆく中、文美さんの父は拒否した」
「もう先は読めますね」
「ああ。加盟を拒否した文美さんの実家はあの手この手で嫌がらせを受けて結局潰れてしまい、多くの負債を残した父は自殺し、保険金で負債を賄った。そしてその潰れた店の後には『宝石の都』が営業を始めた」
「それってまさか?」
鈴はポカリと開けた口に煮物を運ぶ。
「そのとおり。その頃の犬養商事は貴金属の卸だけでなく小売にまで事業を拡大していた。当時の犬養商事の手法は荒っぽく、加盟しない店はどんどん潰されていった」
「じゃあ、文美さんは犬養商事に恨みを持っていたと考えるのが自然ですよね?なのにどうして龍之介さんと結婚なんか……」
熊野も煮物に箸を伸ばす。
「本当のところは彼女に聞いてみないと何とも言えないが、会社に対する感情と龍之介個人に対する感情は別物だったのかも知れない。文美さんの実家の件に龍之介が直接指示をしていたのかどうかも分からなかっただろうしな」
「穿った見方をすると、犬養商事を破壊するために龍之介さんと結婚して内部に侵入したとも考えられるわね」
「ああ。そんなひねくれた見方をする人間は少ないが、結果的にはそうなってしまった」
「私、褒められてるの?」
あどけなく笑っている鈴を秦野はじっと見つめた。
「まだあるの?」
鈴の言葉に秦野は頷くと、煮物を口に入れて少し酒を味わってから話を続ける。
「俺たち捜査本部は文美さんの学生時代についても調べてみた。今となっては学生時代の知り合いを探すことは大変だったが、ようやくひとりの元友人から情報を得ることができた」
「友だち少なそうだからね、あのオバサン」
「文美さんの告白では、文美さんと秋人さんは綺麗な別れ方をしたと言っていたが、元友人の話では全く違うようだ」
「あら、ドロドロ?」
鈴の目が輝く。
「何か嬉しそうですよ」
「別れ話は女の大好物よ。特にドロドロ系はね」
秦野が苦笑いを浮かべながら続ける。
「結論から言うと、秋人さんが文美さんを振った形だ。文美さんはいつまでも未練がましく秋人さんに付きまとい、就職してからも追い続け、秋人さんが結婚しても諦めなかった」
「やばい人ね」
「そう、まさにストーカーだな。文美さんは精神的にも不安定になり会社も半年ほど勤めただけで休職扱いになっている」
「あらら……。本物ですね」
「秋人さんの奥さん、優子さんは知らなかったの?」
「何とか家庭には影響が及ばなかった。それを防いだのが秋人さんの弟である銀次さんだ。文美さんが秋人さんと付き合い始めた頃から文美さんは銀次さんを紹介されていて、秋人さんと三人で食事をしたり酒を飲んだりした仲だった。だから文美さんも銀次さんの言葉を聞くことができたのだろう。何度も銀次さんが接触しているうちに文美さんの気持ちが整理されていって、銀治さんとの恋仲が噂されるようにまでなったらしい」
鈴は箸にカボチャ煮を挟んだまま、小八木は猪口を手に持ったままの状態で秦野の顔を見つめている。
「文美さんが銀次さんと付き合っていた?」
漸く小八木が言葉を吐く。
「あらあら、秋人さんと銀次さんが同じ女性と?二人は兄弟になっちゃったのね」
「元々兄弟だ」
「まあ、世間では珍しいことでもないですね」
熊野が少し大人ぶる。
「兄弟なら遺伝子が似てるからね。両方を好きになっても不思議はないわ」
「女子の順応力は恐ろしいですね」
小八木の言葉を流した鈴は、はっと思い立ったように、
「まさか葉菜ちゃんが文美さんの子供だったとか?」
と小さく叫んだ。
「さすがにそれはない。歳勘定が合わないからな。それにあくまでも噂だ、事実はわからない。兄弟を好きなったとか言う話も女の大好物だろう?」
秦野が鈴に笑い掛けた。
「恋人だったかどうかは別にして、銀次さんは精神異常を疑われるまでになった文美さんの心を根気よく癒して救った。文美さんが葉菜さんを可愛がる理由は明確になりましたね」
小八木が明るく言った。
「でも、逆に雄一さんは……」
鈴の想像を秦野が受け継ぐ。
「文美さんは、銀次さんに心を癒されて正常に戻って来ると、今度は逆に秋人さんを恨むようになっていたらしい。そして秋人さんを家庭に固く結びつけて不動のものにした子供、即ち雄一をも憎んでいた。あくまでも元友人の感想だが……」
「文美さんは雄一さんを憎んでいた?」
小八木が恐る恐る口にする。
「子供さえできなければ、自分にはまだチャンスがあったと考えていたらしい。実際、銀次さんが文美さんを説得する際にも、家庭を壊すと子供が不憫だと言うことを何度も繰り返していたようで、それが却って文美さんが雄一を憎む原因となった。皮肉な話だ」
秦野の話を聞き終えた鈴は、箸を持ったまま呆然と何かを考え込んでいる。その異様な雰囲気に気づいた三人も言葉を吐かずに彼女を見つめる。窓から入る爽やかな風だけが会話しているようだ。
「もしかして、私たちは大きな考え違いをしていたかも知れないわね!」
突然叫んだ鈴が秦野を見つめる。彼はゆっくりと頷いた。
「考え違いですか?」
熊野もじっと鈴を見つめる。鈴は喉が渇いたのか、自分でビールを注いでゴクゴクと一気に飲み干した。
「秋人さんが龍之介さんの子供である秘密を兄弟たちに明かしたのは桧山さんだと、私たちは思い込んでいた。そして兄弟たちは自分の相続分が減ることを恐れて秋人さんの殺害計画に乗ったと……」
三人の男たちはゆっくりと頷く。
「でも、兄弟たちに真実を伝えたのが文美さんだったとしたら?」
鈴の言葉に三人とも息を飲み、沈黙にはまり込んだ。宇治川の流れる音だけが部屋に舞い込んで来る。
「いえ、直接話したのは桧山さんだとしても、それを指示したのが文美さんだったとしたら……」
再び訪れた沈黙の後、熊野が静かに呟いた。
「文美さんは秋人さんに復讐したと言うことですか?」
「そう言うことね。自分を捨てて他の女と結婚し子供を作ってしまった男よ。別れた原因は何であれ、振られた立場から見ると復讐したくなるのも理解できなくはない」
「完全な逆恨みですけどね」
小八木の意見に微笑んだ秦野が続ける。
「文美さんも一時的に心を病むまで思い詰めたものの、銀次さんに救われて平静に戻った。そして過去のことは心の奥に沈めて今を生きる道を選んだのだろう。ところが、突然秋人さんと出会ったことにより恨みが蘇ってしまった。もしかしたら、桧山と再会した頃から過去への回帰が始まっていたのかも知れない」
「文美さんの過去と言う意味では、龍之介さんと出会った時点で父親の自殺を思い起こしていたのかも知れませんね」
小八木が静かに酒を口にした。つられるように秦野も酒を舐めてから柔らかく語る。
「これは俺の希望的な想像だが」
と断ってから秦野が話始める。
「文美さんは龍之介さんと結婚する時には、過去を忘れて生きる道を貫こうとしていたのではないかと思う。もし文美さんが犬養家に暖かく迎え入れられて幸福な暮らしを続けていられたなら、過去の復讐など思いつきもしなかったのではないかと……」
鈴が頷く様子を見てから秦野は続ける。
「しかし、実際は真逆だった。兄弟たちには受け入れられず、執拗に虐められていたのだろう。そして彼らの人間性にも辟易していた。人間、不幸になると今の環境に追いやった過去に責任転嫁したくなる。過去の出来事を思い出しては後悔したり、他人を恨んだり、環境に責任を押し付けたりするものだ」
「さすがオジサマ。何度もつまずいているのね?実感がこもっているわ」
鈴に笑いを誘われた三人は元のリラックスした空気に戻り、再び料理に手を付けて酒を飲み始めた。秦野も杯を重ねて少し間を置いてから話を続ける。
「文美さんの決して幸福とは言えない結婚生活の中に、突然桧山と秋人さんが入り込んで来た。いったんは過去に沈めておいた復讐心が蘇ってしまった。それは現在に対する不満の表れでもあったのだろう。だから兄弟たちに秋人さんを殺害させ、彼らに罪を犯させても平気だった」
「説得力あるわね。秦野さん、作家に成れるわよ」
「犬養家での生活が更に20年続き、龍之介さんの余命が明確になって来た。そこで今度は父親を死に追いやった犬養商事の解体を企む。更に運命の悪戯か、秋人さんとの別れを決定づけた雄一までもが目の前に現れた。文美さん自身も言っていたように、兄妹たちの卑劣な人間性に対する怒りと、彼女に対する虐めの遺恨は殺害動機には十分なほどに蓄積していた。文美さんは、畑山の弁護士と相談しながら犬養島連続殺害計画を立て、その後の犬養商事解体の準備も進めていた。もしかしたら弁護士とも気脈を通じていたのかも知れない」
「気脈を通じていた?どう言う意味ですか?」
小八木が秦野の話を遮る。
「要するにグルってことよ。弁護士さんは、畑山さんに関する情報や計画を文美さんに提供していた。文美さんは財産を持っているからね、弁護士にしたらいい金蔓でしょう。文美さんは桧山さん殺害計画も事前に知っていて、一連の計画を立てたのよ」
「文美さんと畑山を脅し続けていた桧山は共通の敵だ。桧山がいなくなることは文美さんにとってもメリットはある。弁護士を通じて何らかの援助をしていた可能性もあるな。畑山がK国系組織に裏切られたのは計算外だったが、雄一が龍彦を殺害した有力な証拠を畑山にリークさせて、文美さんは全ての復讐を終えた」
「畑山が録音データをリークしたのも文美さんの指示ですか?」
熊野が目を丸くしている。
「指示と言うよりは元々の計画よ。文美さんと弁護士さんはグルなんだから畑山さんに話を持ち掛けていたのよ」
「だったらさっさとリークすれば良かったのに。どうしてあんなタイミングで出したのでしょう?」
今度は小八木が不思議顔を浮かべる。
「畑山さんと弁護士さんは結末を見届けていたのよ。もしも文美さんが逮捕されて計画が頓挫するようなことがあれば雄一さんを庇って録音データを温存しておく。畑山さんのお勤めが終わってから雄一さんを脅すつもりだったんでしょう。でも、文美さんは成功した。となると文美さんの指示に従って報酬を頂く方が賢明でしょう」
「なるほど、さすがは裏社会の人間。処世術に長けていますね」
熊野が素直に感心している。
「小娘の私でもわかるのよ、あんたも少しは処世術を磨いて出世しなさいよ。いつまでもランチじゃ許さないわよ。警視総監を目指しなさい」
「京都府警ですから警視総監にはなれません」
小八木が熊野を庇う。
「じゃあ、警部になりなさい」
「警視総監って言われている方が楽ですね」
熊野が苦笑する。
「しかしここまで真相に近づけたのに証拠が一切ない。逮捕できないのが悔しいな」
秦野が真面目顔に戻って酒を口に運んだ。
「お疲れ様」
鈴が優しく言ってから秦野と熊野に銚子で酒を注いだ。そして、窓の景色を少し眺めてから、
「父親の復讐、元恋人への復讐、脅迫者への復讐、自分を虐めた者たちへの復讐、そして自分を救ってくれた男の家庭には恩返し。ほんと恐ろしいオバサンね」
と言って猪口を口に運んだ。
「でも、文美さんはこれで幸福になれたんでしょうか……」
小八木も景色を眺めながら言葉を零した。
「男のくせにB級サスペンスドラマのありきたりのセリフしか吐けないの?」
「男とか、関係あるんですか?」
「うるさい。あのオバサンはね、どんな環境でもそれなりに自分の幸福を見つけて生きてきたのよ。復讐もその幸福のひとつだったかも知れない。そんな人間がよ、目標を達成して、財産も手に入って、自由を手に入れたのよ。幸福になれるに決まっているでしょう。私なら、まず美容整形手術で若返って、ボディもボン、キュウ、ボンに修正して、若い男を何人も囲ってやるわ」
鈴は明るく笑ってから小八木にビールを催促した。
「30年後の鈴さんには怖くて会えないですね」
小八木が鈴にビールを注いだ。
「今回は熊野君にご褒美をあげられなかったわね。次の事件が起きたらまた相談に来てね」
秋の香りをたっぷり含んだそよ風が吹き込んで来て、酒の香りが漂った部屋を洗い流していった。そのわずかな時間の間、四人の脳裏には、盛夏に輝く青い海が広がっていた。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。