第六章 犬養家の血脈
二十年前と三十年前に犬養島洞窟で起きた事故。その隠された事実が、犬養家の血脈とともに次第に明らかになってゆく。
数台の警察車両が京都縦貫自動車道を走っている。自動車道のトラフィックはさほど多くはないが、片側一車線の区間が多いため全体としてはのんびりと走っている。いったいいつになれば片側二車線ある本物の高速道路になるのだろうか。
太陽はだいぶ西の方へ傾いているがまだまだ暑さは緩まない。鈴が乗っている車には小八木と秦野、熊野が乗っており、葉菜は別車両に乗っている。
「葉菜ちゃんも一緒に乗れば良かったのに」
道の駅で熊野に買わせたアイスを舐めながら、鈴があどけない不思議顔を浮かべて小八木を見つめる。
「え?マジで言っているのですか?」
「真面目よ。知らないお巡りさんたちに囲まれて窮屈でしょうに」
「あんなに堂々と犯人扱いした鈴さんと一緒にいる方が窮屈でしょう」
鈴のマイペースに慣れている小八木もさすがに呆れている。
「犯人扱いなんてしてないわよ。関係しているとか、手伝ったとか言っただけよ」
「犯人だと言っているようなものです。葉菜さんの立場なら」
「そう言えば、あんた葉菜ちゃんの味方をしていたわね」
「鈴さんの推理を確認しただけですよ」
秦野と熊野は、葉奈が何らかの形で事件に関与していることも彼女の言い訳が嘘であることも見抜いていたが、葉菜を自供に追い込むほどの材料もなく事件の全体像も見えていない今、深く追求することはしなかった。
小八木は、横に座っている鈴のアイスが溶け落ちる瞬間、手の平で受け止めて彼女の白いブラウスを救った。
「ナイスキャッチ。それで秦野さん。守井さんは犯人なの?」
唐突に話を振られた秦野が面食らって後部座席を振り返ったが、すぐに前を向き直り静かに首を横に振りながら、
「心象では白だな」
と小さく溜息を吐いた。
「守井さんの無実を信じるとか言っちゃったものね」
鈴は秦野を少しからかうと、アイスがしっかり詰まったコーンを小八木に手渡して、
「美味しいわよ」
と微笑んだ。小八木は複雑な面で溶けかけたアイスを見つめていたが、思い切ってかぶり付いた。その冷たい甘さが口いっぱいに広がることを感じながら、彼は守井の告白を思い浮かべた。
守井は息子聖一の事故について全てを告白した。それでも真相の全てが明らかになった訳ではなかったが……。
30年前の犬養家伝統儀式の前日、犬養家は家族旅行を兼ねて子供たちと一緒に一日早く犬養島に到着した。それに合わせて守井夫妻と聖一も島に渡っていた。
長男の龍彦が18歳、一馬が15歳、波留が10歳、聖一は8歳。そして兄妹最年少の小夜は8歳だった。親たちが儀式の準備に追われる中、子供たちだけで遊びに出掛けることになったが、18歳の龍彦が一緒なので両親たちは安心していた。
しかし、龍彦と一馬は岩場での魚獲りに夢中となり幼子たちへの関心が薄れてしまった。まだ海遊びには参加できない年齢の波留、小夜、聖一は、仕方なく洞窟の周囲で遊んでいた。
洞窟の中に入ってはいけないと親から厳重に注意を受けていたが、子供たちは好奇心を抑えきれずに知らず知らずのうちに洞窟の入口に近づきながら遊んでいた。そして誰からともなく洞窟の入口に立ち、恐る恐る洞窟を覗いてみては急に怖がって洞窟から離れてたりしていたが、何度か繰り返すうちに洞窟の薄気味悪さにも慣れてゆき、最初は洞窟に一歩踏み込み、次は三歩踏み込み、そしてとうとう奥の方まで入り込んで遊び始めると、いつの間にか親の言いつけも恐怖心もどこかへ消えてしまった。
洞窟の中を走り回りながら時間を忘れて遊んでいるうち岩の扉が自然に動き始めた。危険を察した子供たちはすぐに外へ走り出したのだが、たまたま一番奥にいた聖一が取り残されてしまった。
波留と小夜は兄たちに助けを求めに行ったが、魚獲りに没頭していた二人は、すぐに行くからと二人を待たせたまましばらく魚を追っていた。
当時、龍彦も一馬も洞窟内に有害なガスが発生していることは知らされていなかったし、彼らも幼い頃にはふざけていて洞窟に閉じ込められた経験もある。
中は完全な闇ではなく、扉の隙間から光も入って来るので泣き叫ぶほどの恐怖を感じるものではない。龍彦と一馬もそんな体験をしていた。だから魚獲りの区切りがつくまで放置していた。波留と小夜も親を呼びに行くと洞窟で遊んだことがばれて叱られるから、兄たちが来てくれるのを待っていた。
半時間ほどして龍彦と一馬が洞窟の扉を開けた。そしてそこに倒れている聖一を発見した。慌てて別荘まで運んだが既に呼吸はしていなかった。
更に酷いことに、犬養島の白山神社で禊の準備をしていた聖一の両親に知らせたのは、船の手配と病院への根回しが済んだ後だった。危篤状態の聖一を別荘に連れ帰ってから約半時間が過ぎていた。勿論、人口呼吸などの救急対応はしていたし、両親に知らせるよりも船の手配が最優先だったと言うのが犬養龍之介と前妻の恭子の言い分だった。
警察の調書には、たまたま島に残っていた船ですぐに病院へ搬送したことになっているが、実際には宮津に帰ってしまっていた船を呼び戻している。
結局、洞窟での事故のことは伏せられ、子どもたちと遊んでいる最中に聖一君の体調が急変し病院に搬送するも間もなく亡くなってしまった。死因は突然死であると言うことで世間には公表された。
守井夫妻は、なぜもう少し早く龍彦と一馬が洞窟に駆けつけてくれなかったのか、聖一を別荘に運んだ後になぜもう少し早く連絡をくれなかったのか、龍之介夫妻に怒りをぶつけた。
龍之介夫妻は守井夫妻の怒りが収まるまで何日間も誠意ある謝罪を続けた。そして、守井夫妻が少し冷静さを取り戻した頃、十分過ぎる補償を申し出た。
「洞窟の扉は本当に自然に閉まったの?」
久子が当然の疑問を口にした。波留と小夜がふざけて扉を閉めたのかも知れないと言う疑惑は守井も抱いていた。しかし仮にそうだっとしても子供のしたことだ。遊び中の事故に変わりはない。
龍彦と一馬がもう少し早く駆けつけたとしても医者のいない島である。命が助かったという確証はない。当時の守井夫妻はそう思い込むことの他、現実を受け入れる術はなかった。
鈴たちと久子の前で全てを語り終えた守井は、
「犬養家の子供たちを恨んだことが無いかと言えば嘘になります。しかし私は神職です。罪を犯して恨みを晴らすような真似は絶対にしません。ただ、犬養家の人たちとはできるだけ距離を置いていたのは事実です。無意識のうちに、憎悪感が湧き上がることを避けていたのだと思います。ですから儀式の期間も私は犬養家の別荘には立ち寄りません。犬養家の方も事情はご存知ですから私の我侭を聞いてくださいます」
と、秦野を見据えた。
アイスの残りを小八木に託した鈴は、
「美味しかった。熊野君、ご馳走様」
と、運転中の熊野に礼を言った。
「アイスで喜んでもらえるなら僕の財布も喜びます」
「ところで小八木、龍彦さんが洞窟で発見されて雄一さんが本島に運んだ夜のことだけど、みんなでダイニングルームに集まっていた時、小夜さんたちが異常に祟りを恐れていたことを覚えているわよね?」
「ええ」
小八木はひと言返した後少し考え込んでから、
「あの人たちが恐れていたのは、伝説の祟りじゃなくて聖一さんの祟りを恐れていたのかも知れませんね」
と、時代を遡るような視線を窓の外に注いだ。
「珍しく私の考えと一致したわね。客観的に考えると、島の伝説になっている洞窟で処刑された人たちの祟りで聖一君の事故が起き、雑誌記者の事故があったと考えるのが順当だけど、自分たちに多少なり罪悪感があるから聖一君の祟りだと感じたのよ。だからあんなに恐れていた」
ここまで話した後鈴は少し考え込んでから、
「30年前、波留さんと小夜さんが洞窟の扉を閉めた。私はそう確信している」
と言って、小八木と反対側の窓から山肌の景色を見つめた。
「仮にあの二人が扉を閉めていなかったとしても、聖一君を死に追いやった要因の一端が自分たちにもあると自覚していたとしたら、兄妹が順番に死んでゆく恐怖感は想像を絶しますね」
熊野が前を向いたまま感想を述べた。車は京都市内へ入ってゆく。
「守井さんが犯人でないとすると、いったい誰が犯人なんだ?」
秦野が自問自答している。
「だから祟りよ」
車内に響いた鈴の声は、理屈では笑い飛ばせても心情的には納得してしまいそうな部分もある。
「関係者以外の指紋は出ませんでしたから、外部からの犯行説も立証が難しいです」
熊野が鈴に聞こえるように大きな声で話した。
「守井さんを除外すると、残る可能性としては一馬さんと雄一さんの共犯説ですね」
小八木が後部座席からメモを差し出した。助手席の秦野がメモを受け取る。メモには犬養島にいた人物と事件のマトリックス表が書かれており、〇×で犯行可能性を表していた。
「守井さん以外で、龍彦さん、波留さん、小夜さんを殺害できる可能性があるのは一馬さんです。そして一馬さんを殺害可能なのは久子さんと雄一さん。しかし、久子さんは聖一君事件の真相を知らなかったので動機面が弱い。雄一さんの動機はまだ分かりませんが、小康状態を保っていた龍彦さんの死に雄一さんが関わっている可能性も捨てきれない今、雄一さんを疑うべきかと思います」
小八木の意見に秦野は唸っている。
「雄一さんと一馬さんは共犯で最後に雄一さんが裏切ったのかしら。それとも一馬さんの単独犯で、雄一さんまで殺そうとして逆襲されたのかも知れないわね」
鈴は誰に語るでもなくひとりでブツブツ言っているが三人は耳を傾けている。
「でも波留さんと一馬さんの殺害を葉菜ちゃんが手伝っていたとすると、やはり共犯説が有力ね。雄一さんとその従妹の葉菜ちゃん、そして一馬さんに共通の利益があり兄妹を殺害。でも、雄一さんと葉菜ちゃんは最初から一馬さんを裏切る計画を立てていた」
鈴は腕を組んで考え込んでいる。
「しかし葉菜ちゃんの協力を得て一馬さんが波留さんを殺したとしたら、わざわざ窓から出てその後葉菜ちゃんが窓の鍵を掛けるような面倒なことをしなくても、一馬さんは犯行後、廊下を通って自分の部屋に戻ればいいじゃないですか」
熊野が運転しながら意見した。
「バカね、もし廊下に出たところを誰かに見られたらどうするのよ。一馬さんは犯行後、窓から出て自分の部屋の窓から戻ったのよ」
「葉菜ちゃんが廊下の様子を確認してから、波留さんの部屋にいる一馬さんに合図すれば誰にも見つかりませんよ」
熊野が反論する。
「想像力の乏しい刑事ね。波留さんを殺害してご遺体に偽装工作をするのにどれだけの時間が掛かるか、葉菜ちゃんにわかると思う?ちょこちょこ部屋を覗いて、まだですか?って確認する訳?それとも終わるまでずっと廊下で待っているの?その方がよほど発見されるリスクが高いでしょう」
「熊野さんは運転中ですからね、推理に集中できないのですよ」
小八木が庇う。そんな会話に秦野は少し噴き出してから、
「今、メールが入った。文美さんの古い知人が経営する店が見つかったらしい。祇園だ。署に着いたら想像力豊かな鈴ちゃんと俺が話を聞きに行く」
と半ば後ろを振り返って鈴を見つめた。
「まあ、祇園だって。仕事が終わったら美味しい店に連れて行ってくださいね」
鈴が無邪気にはしゃいでいる。だが秦野は彼女の言葉を聞き流して、
「君たちは葉菜ちゃんを家まで送って、両親から話を聞いてくれ。特に亡くなった雄一さんの父親、秋人さんのことをな」
と、熊野に強い視線を送った。
「両家ともが奥さんの姓を名乗っている理由も忘れずに聞くのよ」
鈴の追加指示に熊野は苦笑いを浮かべるしかなかった。
【小八木作成の犯行可能マトリックス】
龍彦 波瑠 小夜 一馬 雄一 葉菜 守井 久子 文美(加害者)
龍彦 × 〇 〇 〇 〇 × 〇 × ×
波瑠 × × 〇 〇 × 〇 〇 × ×
小夜 × × × 〇 × × 〇 〇 ×
一馬 × × × × 〇 × 〇 〇 ×
(被害者)
鈴たちが京都府警本部で車を乗り換えてそれぞれの目的地へ拡散した頃、捜査本部に重要情報がもたらされた。この桧山殺害事件の捜査本部は、犬養島の殺害事件を受けて犬養商事殺害事件として捜査本部の対象範囲を広げていた。
犬養商事殺害事件捜査本部にもたらされた情報は、桧山事件発覚当初、捜査員たちが全力で聞き込み調査を行っても辿り着けなかった目撃情報が一般市民からもたらされたのだ。
目撃情報は、桧山殺害の夜川端通二条橋辺りで大きな荷物を河原に運んでいる不審な車両を目撃したと言う内容だった。夏だと言うのに黒っぽい長袖の服を着て帽子を深く被った二人の男が大きなキャリーバッグを川土手に滑らせている姿だった。
目撃者は若いカップルで、助手席に乗っていた女性の方がより正確に記憶していた。ニュースで事件を知った女性は、その夜のことを思い出しドライブレコーダを確認してから通報しようと考えたが、車の所有者である彼氏が出張のために数日戻って来られず、彼女もまた忙しい数日のうちに忘れてしまっていた。
久しぶりのデートで彼の車に乗った時、事件のことを思い出した彼女はドライブレコーダの記録映像を確認した。記録されていた車はワゴンタイプの軽自動車でシルバーグレー。そして幸いなことに登録ナンバーもきっちりと映っていた。
連絡を受けた捜査員がすぐに映像を回収し車の登録番号を調査した。大阪ナンバーであったが盗難届が出されている番号だった。しかし届が出されている車種とは違っていたため、ナンバープレートだけが犯罪に使われたことがわかった。
大阪府警に協力を依頼し、窃盗グループによる犯罪データベースに当該登録番号が存在するかを確認している。もし存在すれば、登録されている窃盗グループ情報から犯人を特定できるかも知れない。
鈴や秦野たちが20年前の人間関係を洗っている頃、犬養商事殺害事件捜査本部は大阪府警の調査結果を固唾を飲んで待っている状況だった。
東大路通沿いにあるパーキングに車を止めた秦野と鈴は、八坂神社を背にして富永町通りを歩いた。ちょうど開店準備の時間帯で、業者の自動車やバイクが忙しそうに走り回りお酒や食材の配達人が行きかっている。
花見小路通の少し手前、古い雑居ビルの一階にその店はあった。開店前の掃除をしているのだろう、扉は開けっ放しで掃除機の音が響いている。
「お邪魔します」
秦野の声に掃除機の音は止まった。
「あら、もしかして警察の方?」
カウンターで事務作業をしていた年配の女性がメガネを外しながら鈴の顔を不思議そうに見つめて尋ねた。前もって電話連絡を入れてある。
「はい、そうです。京都府警の秦野です」
「同じく京都府警の方から来た星里鈴です」
「あら、可愛い刑事さんね」
「いえ、この子は民間の協力者です」
秦野が慌てて訂正する。
「わかっているわよ。鈴ちゃん、うちでバイトしない?可愛いし、ミニスカートもお似合いよ」
店のママらしい女性が上品に笑いながら二人をソファに案内した。掃除機を掛けていた男性が冷たい麦茶を運んで来た後、気を遣って買物に出掛けた。
「昨夜はうちの者が失礼しました」
秦野が最初に謝った。
「いいのよ、たまたま団体さんが入っていたのでお相手出来なかっただけですから」
昨夜、別の刑事がこの店を訪れたが、話を聞ける状況ではなかったので日を改めて出直すことをママに告げていたのだ。
「で、ご用は文美ちゃんのこと?」
和服姿のママは、いかにも高級クラブで働いていたと言った気位の高い雰囲気を醸し出している。
「はい、文美さんとどのようにお知り合いになったのかをお聞かせください」
ママは少し過去を思い起こす仕草をしてから、
「そうねえ、あれはもう四半世紀も前のことね。私がまだ二十代前半の頃、祇園の『椿』と言う名のラウンジで働いていたの。本職としてね。文美ちゃんは私より少し年下だった。彼女がアルバイトでその店に来たのが出会いね。ホステスは全部で二十人ほどいる大きな店で、ほとんどがプロだったからアルバイトの子と仲良くなる機会は少なかったけど、文美ちゃんとは何となく気が合って、仕事の後で飲みに行ったりもしたわ」
そこまで話してひと息入れたママは麦茶を飲んだ。文美と桧山が一緒に写っていた例の写真は椿と言う店で撮ったことになる。
「文美ちゃんは大学卒業前にバイトを辞めて、卒業後京都の企業に就職した。4~5年は勤めたようだけど、会社を辞めてまたこの世界に戻って来たわ。卒業後も何度か連絡は取り合っていたので、当時私が働いていた『古都』と言う高級クラブを紹介したの。そこはプロしか雇わないので、文美ちゃんも覚悟を決めて転職したの」
「企業を辞めた理由はご存知ですか?」
「さあ、もう忘れちゃったわ。人間関係だとか、お給料だとか、よくある事情だったと思う。記憶に残っていないからね」
「文美さんの、お店での評判は良かったの?」
鈴が口を挟む。
「ええ。たくさんいるホステスの中で売上はいつも上位にいたわ。勿論、私の方が上だけど」
「でしょうね」
鈴は愛想笑いを浮かべる。
「でも唯一負けたのが、文美ちゃんが犬養商事のオーナーに気に入られたことね。あの店で一番のお得意様、つまりお金持ちだったから悔しかったわ」
ママは当時を懐かしむように笑った。
「最終的に、文美さんは犬養龍之介さんと結婚したのですね?」
ママは秦野の言葉にゆっくりと頷いてから、
「龍之介さんの奥さんが病死されて、何年か後に文美ちゃんと再婚したの。文美ちゃんも三十を少し過ぎていたからちょうど良かったと思うわ」
そう言ってやさしい笑みを浮かべた。
「その後も文美さんとは交流があったのですか?」
「まさか。もう別世界の人になったのよ。文美ちゃんからは時々連絡があったけど私が距離を置いたので自然と疎遠になった。彼女も私の意図は理解しているわ」
「そうですか……」
秦野は手帳に何かを記録してから、ポケットから例の写真を取り出した。
「こちらの男性をご存知ですか?」
「あら、懐かしい。椿で撮った写真ね。桧山さん、若いわね。この頃の文美ちゃんはまだ子供だったわ」
ママは母親のような柔和な表情を浮かべた。
「桧山さんとは最近も会っているようですね?もしかして常連さんですか?」
鈴の問いにママと秦野が驚いている。
「どうしてわかるの?」
「だって、文美さんはママさんより年下だから、文美さんと同じ学生だった桧山さんも年下のはずでしょう。なのに、さん付で呼んだから、お店のお客さんみたいに感じたの」
「あなたの言うとおりよ。文美ちゃんが結婚した後だったと思うけど、桧山さんが偶然クラブ『古都』に遊びに来て、それが縁で時々遊びに来てくれたの。私がこの店を持ってからも、年に数回は接待で使ってくれていた。なのにあんなことになってね……」
ママは急に悲しみを瞳に表した。
「本当に残念です」
秦野が少し目を伏せる。
「ママさんは、文美さんが犬養家に嫁いだことを桧山さんに話したの?」
鈴が可愛く尋ねる。
「話したと思うわ。共通の知人である文美ちゃんの話題を持ち出すのは自然でしょう」
そう言ったママは、
「ああ、桧山さんが犬養商事に転職したこと?」
と、鈴の意図を見透かすと、
「桧山さんがどんな心持ちで文美ちゃんの結婚話を聞いていたかは知らないけど、まあ、それも縁と言うものでしょう。利用できるものはどんな伝手でも利用するのが常識。あなたも色んな人と繋がりを持つことが大切よ」
と、鈴に人生のアドバイスをした。
「ところで、このお二人は学生時代に付き合っていたのですか?」
秦野が写真に写った文美と桧山を指し示した。ママは再び感慨深げに写真をじっと見つめてから首を横に振った。そして、
「付き合っていたのはこの二人よ」
と、文美ともうひとりの男性を指さした。
「え?そっち?」
鈴が改めてその男を見つめる。
「この方の名前を覚えていますか?」
秦野の表情が引き締まって身を乗り出す。
「さあ、大人しい学生さんと言う印象しか残っていないわね。何て名前だったかなあ……」
「誰にも覚えられてないのね、この人」
「文美さんは覚えていたはずだ。嘘を吐いたようだがな」
秦野が鈴に言った時、ママは、はっと何かを思い出した表情を作って、
「確かこの方も亡くなったのよ。随分前に……。桧山さんから聞いたことがあるわ」
と、気の毒そうに眉間に皺を浮かべた。
「影が薄くて早死に?神様はなんて残酷なのかしら」
鈴は改めて写真の男を見つめたが、何やら胸につかえる不快な感覚を覚えた。
「二人は『椿』で知り合ってから付き合い始めたようだけど、店の従業員同士の恋愛は禁止されていたから、私と文美ちゃん、そして桧山さんとこの誰かさんの四人だけの秘密だった。店の中ではこの二人が変に他人行儀で可笑しかったわ」
ママがだんだん昔話に没頭してゆく。鈴はそんなオバサンの雰囲気に危機を感じながら秦野を盗み見たが彼も困惑しているようだ。するとママが唐突に顔色を変えて、
「あっ、確かこの彼氏は雑誌の記者で、何かの取材中に事故で亡くなったのよね。桧山さんがそう言っていたわ」
と、やや興奮気味に言った。
「雑誌の記者!」
秦野と鈴が同時に叫んだのでママが目を丸くする。そして鈴はその丸い目を見つめながら今しがた脳裏を駆け抜けた一瞬の閃光を追い掛けている。もう少しでその閃光が写真から感じた不快な感覚を打ち砕きそうだ。
鈴は昨日の朝のホテルロビーの様子を思い浮かべる。文美さんはこの写真を見て元恋人のことを知らないと嘘を吐いた。葉菜は興味津々で写真を覗き込んでいた。だが雄一さんはチラリと一度見ただけで後は全く無関心だった。鈴が見覚えはないかと尋ねた時も写真を見ずに鈴を見て首を横に振っていた。
「もしかして、この男性は草加秋人さんじゃないですか!」
閃光が不快な塊に突き刺ささり、鈴は思わず叫んでしまった。雄一は写真に興味が無いのではなく、この父親の写真を何度も見ていたのだ。そして嘘を吐かなければならないから見ようとしなかった。
「草加……。そう、そうだわ。草加君だった」
ママは鈴の興奮に困惑しながらもモヤモヤが吹っ切れて明るく笑った。秦野は鈴の閃きに驚きながら、犬養島で起きた過去の事故を調べなかったことを悔やんだ。だが彼もまた興奮しているようで麦茶を口に運ぶ手が震えていた。
秦野が祇園から捜査本部に戻ると、捜査本部の雰囲気が異様に興奮していた。それは桧山殺害事件に関する目撃情報を得られたことと、その証拠動画に車の登録番号が映っていたことが原因だった。
そこへ秦野が持ち込んだ新たな情報によって、捜査本部は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。中でも捜査員たちを一番驚かせたのは、犬養文美、桧山修三と一緒に写っていた三人目の男性が吹田秋人であり、学生時代に文美と恋人関係であったこと、そして彼が吹田雄一の父親であることだ。
大至急、雑誌記者であった吹田秋人、旧姓草加秋人の事故死に関する捜査資料が取り寄せられて捜査本部全員に情報共有された。事件の概要は次のようだ。
平成11年7月28日午前10時頃、犬養島の洞窟で吹田秋人33歳遺体が発見された。吹田秋人は犬養商事からの依頼で、太古から続く犬養家の伝統儀式の取材に訪れていた。儀式の様子を雑誌に載せて、犬養商事の歴史あるブランドイメージを醸成しようとする犬養商事の企業イメージ戦略の一環だった。
発見者は守井亮。当時45歳。十年に一度の犬養家伝統儀式準備のために洞窟へ入ったところで発見した。いつもは開いている洞窟の扉が閉じられていたことに嫌な予感を覚えたと供述している。秋人は壁面に彫られた仏像の足元にある泉に顔を突っ込み、うつ伏せ状態で亡くなっていた。
肺には大量の水が入っており、有毒ガスのために意識を無くして水の中に倒れ込んだのか、自らの死を覚悟して自決したのかは不明だった。
専門家の話では、大量に有毒ガスを吸った状況で正常な意識を保つことは難しいとのことだった。そのため秋人の不審な行動に関しては追及されなかった。
死亡推定時刻は、前夜の21時から0時頃。目撃証言と胃の残留物からの判断だった。秋人は別荘で犬養家の兄妹たちと食事を取った後、21時ぐらいに部屋に戻った。
当夜別荘に居たのは、犬養家の兄妹たちと食事の世話をしていた守井久子だけだった。龍之介と妻の文美は本島にある本宅で食事をしており、別荘には来ていない。
久子は23時には別荘の戸締りをすませて神社に戻っている。兄弟たちは、龍彦の部屋で深夜2時くらいまで飲んでいた。
なぜ吹田秋人がひとりで洞窟へ行ったのか、その理由も明らかになっていた。鎮魂儀式前夜の催事として洞窟の中では蝋燭が何本も灯されており、狭い空間が神秘的な雰囲気に満たされていると言う話が食事中に出たのだ。
記者である秋人は、当然のように後ほど写真を撮りに行くと言っていた。兄妹全員の証言であるから疑いようもなかった。
更に人間関係も調査されたが、秋人は桧山の紹介で取材に来たため、本島にいた龍之介夫妻とも、兄妹たちとも、守井家の二人とも初対面であった。このような経緯から、何の疑いもなく事故として処理された。
20年前の吹田秋人事故死の情報共有を終えた頃、葉菜を自宅に送り、葉菜の両親である藤田銀次と藤田美代子から話を聞いた熊野の情報が報告された。もう22時を過ぎていた。
だが、それまでにもたらされた衝撃的な二つの情報のためか熊野の情報は捜査本部に動揺を与えることはなかった。その報告内容は以下のとおりである。
銀次の兄である秋人は、学生時代に文美と恋人関係にあったものの卒業直前で別れていた。
卒業後秋人は雑誌社に就職し、就職後間もなく仕事関係で知り合った吹田優子と結婚。早々に雄一が生まれた。その後も雑誌記者としての仕事をこなし平凡な家庭を築いていた。そして秋人が33歳、雄一が10歳の時に取材中の事故で亡くなった。
鈴のリクエストで熊野が調査した、草加兄妹が揃って草加姓を名乗らずそれぞれの妻の姓を名乗っている理由については明確な回答は得られなかった。
藤田銀次の話によると、母親である草加春子の強い要望だったと言うことだ。その理由は一切答えなかったらしい。母子家庭のために苦労を重ねた春子に従順な秋人と銀次は、深く追求することもなく母親の言葉に従った。
その草加春子も30年ほど前に50歳の若さで病死している。女手ひとつで二人の息子を育てるための無理が病気を誘ったと考えるのが自然だ。
草加春子に親族はおらず、今となっては知人友人も見当たらない。唯一のヒントは、秋人と銀次が子供時代京都市伏見区に住んでおり、母は電子部品の工場へ自転車で通勤していたことから、その界隈の工場に勤めていたであろうと言う情報だけだった。
捜査本部では、今回の犬養島殺人事件、桧山殺人事件に関して文美と秋人、桧山の人間関係が事件の真相に関わっている可能性を検討し、考え得るいくつかの仮説を洗いだした。
①桧山が犬養商事に入社した事実について
桧山は『古都』と言うクラブに偶然客として訪れた。何度か通ううちに犬養家へ嫁いだ文美の話が耳に入り、その伝を伝ってより条件の良い企業、つまり犬養商事に就職をした。
この時点では、桧山には自己の利益追求以外の目的は考えにくい。だが例えば桧山が文美に関わる何らかの秘密を握った上で就職したとしたら、就職後も利益追求のための武器となり文美がそれを排除しようとする動機は考えられる。
②犬養商事が伝統儀式の取材に秋人を選んだ事実について
会社が儀式の取材をさせる決定をした時、幹部社員である桧山が友人の雑誌記者を推薦するのは自然なことだ。もしも桧山が取材以外の目的で秋人に依頼したとすれば、それを企図したのは秋人のことを知る桧山と文美以外には考えられない。仮にそうだとすると、洞窟事故が仕組まれたものであり、桧山か文美、或いはその両者が秋人殺害を企てたことになる。
③吹田雄一の事件への関りについて
秋人のひとり息子で犬養龍之介の掛かり付け医になっている吹田雄一は、犬養家と深い関係を持っていると言える。仮に秋人の事故に何らかの裏があったとすれば、いや、それが事実ではなくても雄一がそう思い込んでいたとすれば、今回の事件に深く関与している蓋然性は高い。更に、従妹である藤田葉菜も関与している蓋然性も高いことから、雄一への疑いは濃いものと言える。
翌日開かれた捜査会議では以下の方針が示された。
①雄一に関する身元調査を徹底して行うこと。桧山と秋人が社会人になってからどの程度の付き合いをしていたのか、秋人が桧山に恨まれていたような事実はないか、妻の吹田優子を中心に情報を得ること
②吹田秋人の洞窟事故を担当した宮津署へ再確認を行うこと
更に秦野が強く主張したために次の項目も追加された。
③草加春子を知る人物を探し出す
柳田は京都府警の自席で調書を読んでいる。それは、IRエンタープライズの畑山が学生時代に逮捕された時の調書だ。先日、山伏ソフトで連行された件については、賭博への関与が証明されず一泊二日の勾留だけで解放するしかなかった。結局、柳田は畑山を直接取り調べることは出来なかったため彼の身辺調査を念入りに行っている。
そんな中で畑山が学生時代に強姦未遂を起こしていることを知った。友人の部屋で同じ大学の女子学生と酒を飲んでいた。畑山と友人の男子学生、そして被害者の女子学生。夜も更け友人男子が先に就寝した後、畑山が酔った女子学生を襲った。
しかし、女子学生は激しく抵抗し自力で逃げ出して警察に訴えた。二人の男子学生は逮捕され起訴寸前に至った時、女子学生が訴えを取り下げた。畑山の弁護士が多額の示談金を用意して被害者を説得したようだ。
不幸なのは畑山の友人学生だった。彼は畑山に頼まれて女子学生を呼び、自分の部屋を宴会の場として提供した、全くの善意の第三者であったにも関わらず、結果的には犯罪に加担したことになり、事実はどうあれ世間からは同罪の犯罪者として扱われた。
調書を読み終えた柳田は小さく溜息を吐いてから冷めたコーヒーを口にした。社会には一定の割合で犯罪常習犯がいる。それは育った環境のせいなのか、先天性のものなのか。この畑山と言う男もそう言った類の男であると柳田は絶望感に近いものを感じた。
自分たちがいくら犯罪者を取り締まっても、先天的に犯罪者が生まれるのでは切りがない。もう何年も前に自覚しているはずのことを、畑山の調書を読んで改めて感じさせられた。
柳田は手にしていた調書のコピーを机の上に放り投げて再び溜息を吐いた。そしてゆっくりと立上りコーヒーの器を手にした瞬間、脳裏にひと筋の閃光が走った。
柳田は慌てて器を戻し机に置いている手帳を捲った。彼の両手は震えている。そしてあるページに視線が釘付けになると、どっかりと椅子に腰を下ろして天井を見上げた。
「こりゃ、秦野さんたちが腰を抜かすなあ」
グラスの泡が消えてしまいそうなことも気にせずに、鈴は20年前の吹田秋人死亡事故の調書コピーを読み込んでいる。その隣では、秦野が当時の宮津署担当者へ再確認を行うことになった捜査本部での経緯を話している。
「それでお二人は宮津まで往復してきたのね、ご苦労様」
調書を読み終えた鈴が優しい笑顔で秦野にビールを注いだ。癒された秦野から人間らしい笑みが零れる。
「運転したのは僕ですけど」
熊野が自分の肩を叩きながら疲れをアピールする。
「だからこうやって、二人の間に美人ホステスが座ってサービスしているじゃない、ほら」
鈴がいたずらな笑みを浮かべると、カウンターの下でミニスカートの裾を持ち上げて白い太腿を更に露にした。熊野が目を丸くする。
「こら」
秦野が鈴を軽く叱ってからビールを注ぎ返した。
「あら、秦野さんが照れてる。可愛い」
秦野をからかった鈴が更に熊野を弄ろうとした時、
「それで、宮津署での調査結果はどうでしたか?」
と、熊野の横、一番奥に座っている小八木が待ち切れないような口調で尋ねた。四人はバー『やすらぎ』に集合している。
「当時の担当者に話を聞きましたが事実関係は調書のとおりでした」
「“事実関係”は?」
カウンター内に立っている梅木が思わず口にした。秦野が驚いて梅木を見つめる。
「ああ、彼は梅木君。私たちと同じ歴史研究会のメンバーよ。結構推理力はあるし口は堅いから安心して」
「鈴ちゃんが歴史研究会だったことに今驚いている」
秦野が疑うように鈴を見つめる。熊野は梅木に向かって、
「その担当者は、当時犬養家の兄妹たちの態度に不自然さを感じたようです。あくまでも個人的な感覚だったそうですが。しかし不自然さはあるものの、突然の事故で動揺していることも十分考えられるし、何よりも事件性が無かったのでそれ以上の追及をしなかった」
と、担当者から聞いた話を告げた。
「不自然さを感じたと言うことは、兄妹たちが秋人さんを殺害した可能性があると疑ったと言うことですか?」
小八木も熊野に迫る。
「いえ、そこまでの確信はなかったそうです。第一動機がありませんから」
「もし動機があれば殺害は可能ですか?」
梅木の突っ込みに熊野は少したじろいだ。すると空になったグラスを振りながら鈴が答える。
「あの四人なら誰にでも犯行は可能よ。全員が龍彦さんの部屋に集まってお酒を飲んでいたのだから。四人がずっと一緒にいたと証言を合わせれば済む話だもの。部屋の窓から抜け出して洞窟へゆき、岩の扉を閉じて帰ることくらい誰にでもできる」
鈴のグラスに秦野がビールを注いだ。小八木が手を伸ばして調書のコピーに目を通す。
「死亡推定時刻に四人が一緒にいたとなると運命共同体ですね。全員が白または黒。証言を合わせている訳だから」
そう言った梅木が新しいビールを開けた。熊野が空き瓶の数を目で数える。
「事実はどうあれ、雄一さんが犬養兄妹の犯罪を確信していたとしたら動機は理解できます。しかし、今回の兄妹殺害に関しては雄一さんの単独犯行は不可能です」
調書を置いた小八木が、今度は犬養島にいた全員の犯行可能マトリクス表をカウンターの上に広げた。宮津からの帰りの車中で披露した物だ。この表では、雄一が犯行可能なのは龍彦を閉じ込めた件と一馬の件ではあるが、雄一には龍之介と文美にいつ呼ばれるかも知れないと言う潜在リスクが常にあり、現実的には不可能と考えるのが妥当だ。
「もうひとり犯行可能な人がいるじゃないですか」
梅木がマトリックス表を指さした。彼は一馬を指している。すると何か言おうとした鈴を遮って小八木が勢い良く叫ぶ。
「やはりそう思いますか!」
いかにも梅木を誘導したかのような口振りだ。
「一馬と雄一、葉菜の共同犯行説か」
宮津から帰京しているときの車中の会話を思い出した秦野が呟く。あの時は途中で会話は終わってしまったが、鈴と小八木の考えは、雄一とその従妹の葉菜、そして一馬に共通の利益があって兄妹たちを殺害。雄一と葉菜は最初から一馬を裏切る計画を立てていた。と言うものだった。
秦野はちらりと鈴の横顔を見てから言葉を続ける。鈴は秦野の前にあるローストビーフにこっそりと箸を伸ばしている。
「俺もあの後ゆっくりと考えてみた。もしも雄一が秋人さんは殺害されたと考えていたら確かに犯行動機となり得る。そして一馬の犯行動機は遺産相続。犯行自体も可能だ。ただ、葉菜が協力した理由がまだわからない」
すると小八木が即座に答える。
「葉菜さんにとっても秋人さんは叔父さんですよ。不条理に殺されたと知ったら協力するかも知れません。それに、もしかすると葉菜さんは雄一さんに好意を抱いているかも知れません」
熊野も深く考え込んだ。遺産相続のために身内を殺害することが出来るかどうか、また、仇討ちのために殺人の指示をすることが出来るのか。熊野の感覚では無理がある。だが犯罪者の心理は推し測ることは出来ないし仮説としては成立している。
「小八木、今夜は冴えているわね。そう言えば、車の中で最初に共同犯行説を言い出したのもあんただし。二次元の世界で可愛い女子でもゲットしたの?」
鈴はさり気なく秦野のローストビーフを口に入れた。
「あれ、忘れたのですか?元々この仮説は鈴さんが言ったのですよ、小夜さんが亡くなって一馬さんがまだ生きている時に」
鈴は美味そうな笑みを浮かべて首を傾げている。何も覚えてなさそうだ。
「“まったくの空想だけど、被害者三人を恨む人がいて、遺産相続殺人事件に見せ掛けて一馬さんに罪を被せているって言う筋はどうかしら”て言いましたよ。一馬さんに罪を被せたと言う部分を一馬さんに犯行を行わせたと言い換えただけです」
「そんなこと良く覚えているわね。チラ見した私のパンティの色は覚えていないくせに」
「見ていませんから」
「ウソばっかり。私が脚を組む時にいつもチラ見するじゃない」
「何色でも良い。それより、雄一さんの身元調査や秋人さんの奥さんへの聞き込み結果は入っているのでしょうか?」
完全に、梅木も捜査へ加わっている。
「ああ。雄一の身元調査はまだ時間が掛かっている。秋人の妻、吹田優子には秋人と桧山の友人関係について確認がとれた。桧山は秋人夫妻の結婚式にも参列しており、結婚後も時々家へ遊びに来ていたらしい。雄一が幼い頃には良く遊び相手になって雄一も懐いていたようだ。だが事故の後は年賀状のやり取りをする程度になっている。まあ、当人がいなくなったのだから当然だがな」
秦野が手帳を閉じた。
「懐いていた?秋人さんが亡くなった時雄一さんは10歳くらいの計算になるけど、10歳頃の記憶なら今でもしっかりと残っているわよね?」
「でしょうね。特に取材の話が決まってからは、仕事の打ち合わせを兼ねて頻繁に家を訪れていたようですから、雄一さんとの接点も多かったと思われます」
熊野が答えた。
「その割にはクールでしたね、宮津のホテルで三人が写った写真を見せた時。もっと感慨深げな反応をしても良さそうじゃないですか?」
「あれは男のことを知らないと嘘を吐くためにじっくり見なかっただけよ。表情を読み取られないようにね」
鈴が昨夜の閃きをみんなに共有する。
「雄一が写真を見たのは一瞬だったが、あの写真を見慣れていると言う印象を受けたな」
秦野がプロの洞察力を見せつける。
「もしかしたら秋人さんも同じ写真を持っていて、雄一さんも何度か目にしていたのかも知れませんね」
熊野も前のめりになった。
「それ、奥さんに確認してこなかったの?てか、普通、写真を見せて確認を取るでしょう。この方はご主人の秋人さんですねって」
「え?いえ、もう確認は取れていますし……」
熊野が言い訳を始めた時、秦野の携帯が鳴った。
「こちらでどうぞ。他にお客様はいらっしゃいませんから」
梅木の言葉に頷いたものの秦野は席を立った。むしろ聞かれたくない様子だ。
「ああ、俺だ。ご苦労様……」
秦野はドアの方に向かいながら返答している。が、突然足が止まって、
「どう言うことだ!」
と張り詰めた声を店じゅうに響かせるや席に戻って来た。
「わかった。ありがとう。詳細は明日聞かせてくれ」
携帯をポケットに仕舞った秦野を全員が凝視している。
「吹田秋人、藤田銀次の母親である草加春子は犬養龍之介の妾だった!」
秦野が小声ながらすごい圧の言葉を吐いた。その圧力感に梅木を含めた全員が固まっている。そこへ新たな客が入って来たが、この緊張した空気に一瞬足を止めた。
「妾って?」
鈴のあどけない疑問顔が緊張感を解きほぐす。
「愛人のことですよ。てか、わからないのに驚いてたんですか?」
「みんなが驚いているから一応ね」
若い女性客が数人入って来て、店内が急に明るくなる。
「詳しい事情はまだ分からないが、秋人と銀次がまだ幼い頃に春子は龍之介から縁を切られたそうだ。子供たちが小学校に上がる頃までは手切れ金で生活していたらしいが、その後は春子が稼いで二人を育てた。今風に言えばシングルマザーだ」
「子供まで作っておいて縁を切るなんて酷いジイサンね。今度会ったら息の根を止めてやる」
鈴は軽口を叩きながらも頭をフル回転させている。様々な状況が変わってくるはずだ。
「そりゃ大変だ」
梅木も思わず口走った。梅木の言わんとすることに同意した秦野が、
「そう言うことだ。もしも龍之介が認知すれば、吹田秋人と銀次は犬養家の遺産を相続する資格者だ」
と相変わらずの圧で結論を誘った。
「20年前、兄妹たちには吹田秋人を殺害する動機があったと言うことですね!」
熊野は自分に言い聞かせているようだ。
「ウーン。でも相続人が増えただけで殺しますかね?恐らく莫大な遺産でしょう、相続人がひとりや二人増えたところで兄弟たちは十分な額を貰えるのではないでしょうか?」
小八木が遠慮気味に水を差す。
「人の欲望に限りは無いわよ。まして貰えるはずの物が貰えないなんて。しかも逃した魚が本マグロ級なのよ。私なら絶対に嫌だわ」
鈴は秦野の二枚目のローストビーフを口に入れる。
「鈴ちゃんは欲望に正直だな。それに、もしもだ、龍之介さんが草加春子に対して贖罪意識があったとしたらどうだ?」
秦野の説に梅木が深く頷いて、
「確かにそうですね。別れた理由が龍之介さんの本意でなかったとしたら、その償いをしようと考えますね。現に、秋人さんのひとり息子である雄一さんを、まだ医者としての実績が浅いにも関わらず主治医においている。事故死に対する謝罪だけでなく草加家に対する贖罪意識、もしかすると孫に対する愛情もあるのかも知れない」
と、考えを加えた。
「そう言うことだ。例えば龍之介が草加秋人、銀次に兄妹たちより多くの遺産を相続させようとしていたら。若しくは兄妹たちがそう疑っていたとしたら、鈴ちゃんのような強欲人間には十分な動機となり得る」
秦野は鈴に微笑み掛けると茄子の煮浸しを口にした。
「さすがベテランデカね。人の心を良くわかってらっしゃる」
そう言った鈴は、ねだるような視線を秦野に送りながら彼の煮浸しにも箸を伸ばした。
「でも、秋人さんを殺害してもまだ銀次さんがいますよ。彼に財産を奪われる可能性は残っています」
「熊野さんのご意見はもっともだと思いますが、龍之介さんが秋人さんの事故を兄弟たちの犯行だと疑っていたらどうでしょうか?或いは兄弟たちが匂わせたとしたら……」
梅木が熊野を見つめる。
「もし、銀次さんに相続させたら彼の命も危ない?」
「龍之介さんはそう考えるだろうな。さりとて子供たちの犯行を暴けば家の汚点だ。自分が亡き後、残った文美さんの身にも何が起きるかわからない」
話し終えた秦野が梅木の瞳を頼もしく見つめた。秦野が会話している間に、鈴が彼の煮浸しを全部口に運んでしまった。
「お金持ちは大変ですね。20年前と言うと龍之介さんがまだ60歳代ですよね。そんな頃からもう遺産相続が火種になるのですから」
「そうだな。60代ならまだまだ元気だったはずだ」
秦野が熊野に同意する。
「人間、病気で死ぬとは限らないわよ」
鈴の声が冷たく響く。
「その目が恐いんですけど」
小八木が少し顔を強張らせてから、
「秋人さんが殺害されたのだとすると、儀式の取材を秋人さんに依頼したこと自体に裏がありそうですね。全くの偶然とは考えにくい」
と、話を戻してから鈴にビールを注いだ。
「ありがと」
「知ってのとおり、犬養商事に秋人を紹介したのは桧山だ」
秦野が鈴の前にあるローストビーフを自分の方へ引き寄せながら鈴の横顔を盗み見る。
「秋人さんが龍之介さんの子供であることを兄弟たちが知ったのは、取材に誘う前なのか、取材が決まってからなのか……。まあ、いずれにしてもその情報を知らせたのは桧山と言うことか」
寂しそうな鈴の視線を感じながら秦野がローストビーフを口にする。
「桧山が秋人さんに取材を依頼したことや秋人さんと古くからの友人であったことから、桧山が事実を知っていた蓋然性は高いですね」
熊野が同意する。
「文美さんが教えた可能性もありますよ。彼女なら秋人さんから聞くことも龍之介さんから聞くこともあり得ます」
しばらく考え込んでいた小八木が意見した。
「ないない」
梅木と鈴が大きく首を振って否定する。
「どうしてですか?」
「文美さんが兄弟たちに事実を教えるメリットは何もなくデメリットの方が多い。文美さんは桧山さんに脅迫されていた可能性すらあるのだから」
梅木の意見に鈴が深く頷いて、
「でしょうね」
と、秦野に取り返されたローストビーフに再び箸を伸ばして愛らしい笑みを浮かべた。
「何をネタに脅迫を?」
小八木の反応に目を丸くした鈴がローストビーフを口に入れたままで何か言おうとすると、梅木が代わって答えた。
「龍之介さんの立場になって考えてみろよ。自分の愛人に産ませた息子の秋人さんが、自分の妻と恋人関係だった。そんな事実を知らされたらどんな気持ちになるか想像できるか?」
「でも、昔の話だし文美さんに落ち度はないでしょう」
小八木は真面目顔で言っている。
「三次元の女とやらないからそんな考えになるのよ。責任とかじゃなくて心の問題でしょう。自分の妻が若い時にワンワンニャンニャンしていた相手が自分の息子なのよ。百歩譲って龍之介さんが平気だとしても、文美さんは絶対に知られたくないはずよ。秋人さんとの恋愛関係は勿論、知人であったことすら隠し通しているはず」
鈴は女の立場から意見した。
「だから、そのネタをつかんでいる桧山は文美さんを脅し犬養商事に入社。その後も出世コースを歩むことができた。十分考えられる筋ですね」
熊野が秦野に同意を求める。
「やっぱり他人の物は美味しいわ」
ローストビーフを食べ尽くして満足そうな笑みを浮かべた鈴は、
「もしも雄一さんがこの血縁関係の事実を知っているとしたら、兄弟たちへ復讐する動機は確実なものでしょうね。更に桧山さんに対する復讐心があっても当然と言える。葉菜ちゃんが雄一さんに味方するのも自然なこと。だって叔父さんを殺された上に父親の相続権まで奪われたのだから。おまけに文美さんにとっても桧山さんは邪魔な存在だった。て言うことになるわね」
と言って秦野にビールを注ぎながら、
「シャチョウさん、白身の魚のカルパッチョはいかがですか?今日は良いヒラメが入ってますよ」
と愛らしく微笑んだ。
〇関係図
桧山(友人)文美(恋人)秋人
(夫婦)
龍之介(愛人)草加春子(母)
桧山(友人)草加秋人(兄) 草加銀次(弟)
吹田優子(妻) 藤田美代子(妻)
吹田雄一(息子) 藤田葉菜(娘)