第三章 犬養家の金脈
犬養島には古代から伝わる不気味な伝説があった。そしてその伝説になぞられて次々に事件が発生してゆく。いよいよベタな無人島連続殺人事件が動き始める。
現在の京都府の中部、北部そして兵庫県の一部に渡る旧丹波国は、古墳時代には、大和王権や吉備国などと並んで独立性のある大国であったと言う説がある。大国であり得た大きな理由は産鉄であると思われる。鉄が豊富にあればクワなどの農具に使用でき、鉄の刃先を持ったクワは木のクワとは比較にならないほど効率よく農作業や開墾を進めることができるからだ。
その丹波国を支える産鉄業に携わっていたのが犬養氏だ。古よりこの地域で鉄や水銀を産していた。そして同じく丹波国は宮津一帯で勢力を張っていた白山神社と犬養氏は対立よりも協調の道を選んで共に栄えていった。
神社は平地を開墾して農地を広げ、港を整備して漁業を盛んにすることで村を大きくし、権力と財力を蓄え拡充していく。犬養家は山を探り、掘り、鉄を産することから領域的にも競合することが少なかったことも協調関係を深める要因だった。
やがて大和王権の台頭が始まると、畿内から全国へとその勢力圏を拡げてゆき、出雲国、吉備国などの大国を平和的な交渉で支配下に置いていった。丹波国もその例外ではなく、大和王権に協調しながらも実質的には緩やかに服従し、朝廷が任じた丹波国造が統治するようになった。
丹波国造には、古代より籠神社に奉祀してきた海部氏が任命され、大和王権の臣下となり海産物の貢納と航海技術を以って大和朝廷に奉仕した。
独立時代より丹波国を支えて来た犬養家と、大和朝廷の支配下になってから大きく力を伸ばした海部家とが対立するのは容易に想像できるが、その両家が平安時代の初期に接近した。その理由はいろいろ考察されているが明確な理由は公式には明らかになっていない。
海部家から犬養家に養子を送り、両家の関係が良好になって両家は繁栄の急坂を上って行ったが養子縁組は一度きりで、その後は朝廷の力を借りた海部氏のみが繫栄し、犬養家は次第に勢力を減退させてゆく。
「大昔からお金持ちだったのね、犬養家の一族は」
鈴が感嘆の声を上げて小八木を焦らせた。何しろ長男の犬養龍彦が洞窟内で倒れた後だ。意識はまだ戻っておらず、本宅で酸素吸入をしながら安静にしている。
雄一の話によると、病院へ運んだとしてもここで行っている治療以外に術はないらしい。そのため、移動によるリスクを考えてこの島で治療することを選んだそうだ。
本宅から雄一が戻って来てダイニングに集まっていた兄妹たちに容態の説明をした後、なぜ、洞窟の扉が閉まったのかが話題になった。
洞窟の扉は厚さが20センチほどあり鉄製の台車に乗っている。台車の鉄製車輪がはまっているレールには若干の勾配がつけられているため、開けやすく閉めにくい構造になっている。要するに自然に閉まることはあり得ないと言うことだ。
「兄さんが自殺する訳がないし、誰かが扉を閉めたとしか考えられない」
「中から開けられないの?」
「扉の内側は凹凸がないように削られているから手を掛けるところがない。しかも、洞窟の外壁の外を覆うように扉があるから、扉の端に指を差し込んで開けるようなこともできない」
一馬が説明した。
「誰が扉を閉めたのよ?守井さん以外はみんなここにいたのよ」
思わず叫んだ小夜は、
「ごめんなさい、別に守井さんが閉めたと言う意味じゃ」
と、慌てて久子に謝った。
「気にしないでください。事実ですから」
ほんの一瞬、気まずい空気が流れたがすぐに小八木が推理を始めて雰囲気を変える。
「論理的に考えると、時間的には守井さんが一番実行しやすい。そして守井さんを除外した場合を考えると、龍彦さんが風呂あがりのビールを飲んでから部屋に戻り、食事のために全員がここに集まるまでの時間が犯行時刻と考えるべきですね」
小八木の言葉に全員が疑心暗鬼の瞳で周囲を見渡す。
「犯人なんていないわよ」
波留が硬直した表情で呟く。
「やめてよ」
小夜が波留の言葉を遮る。だが、波瑠は、
「祟りよ。あなたたちもそう感じているんでしょう!」
と、少し興奮気味に言い放った。
「やめてったら!」
小夜も興奮して叫んだ後、今度は黙りこくってしまった。鈴は兄妹たちの表情を観察するように見渡してみる。みんな俯いて沈鬱な目をしたまま誰も言葉を発しない。そんな重苦しい沈黙がしばらく続く中、
「俺はもう寝るよ。疲れた」
と、耐えかねたように言い放った一馬の声に波留と小夜も従った。三人の去ったダイニングには久子と雄一、そして鈴たち三人の学生が残った。
「祟り?」
当然のように、鈴が雄一と久子に向かって好奇心の目を向けたが、二人とも何かに躊躇している。ますます鈴が身を乗り出してしつこく雄一を催促する。
「鬼火の祟りと言う伝説です。あくまでも言い伝えなので本気にしないでください。それから口外も禁止です。一族の名誉に関わることでもありますから」
ようやく重い口を開いた雄一の言いつけに三人は静かに頷いた。
「本当に秘密を守れますか?」
小八木が鈴に疑いの眼を向ける。
「失礼ね。墓場まで持って行くわよ」
雄一が少し頬を緩ませてからゆっくりと話し始める。
「まず、丹後地方に伝わる天女伝説を説明する必要がある」
「まさか、天女が水浴びしている間に誰かが羽衣を隠して天に帰れなくなったと言う全国統一のお話?」
「色々な地方で同じような伝説が残っていますね」
葉菜も鈴に同調した。
「神代の昔、八人の天女が真名井神社の神域に舞い降りて真名井川でお酒を造っていた。その時、塩土翁が天女を欲しいと思い、ひとりの天女の羽衣を隠したため、天女は天に帰れなくなり、翁と夫婦となって酒造りに励んだ。この天女が豊受大神をお祀りして籠宮となるのですが、この天女も御酒殿の守護神・醸造神として勧請され、日本酒の始まりとなった」
「突っ込みどころ満載だけど、伝説だから我慢しましょう」
「私たちは、この天女は産鉄の技術者集団のことではないかと考えています」
久子が雄一の説明を引き継いだ。
「私たちと言うのは、郷土の歴史ファンはと言う意味よ。この島では平安時代に貴金属、恐らくは金を産していたと思われるの。証拠はないけどね」
「天女が帰れなくした。つまり技術者集団を帰れなくしたと言う意味ですか?」
小八木が深く考えている。
「もしかして、この島に閉じ込めたとか?」
鈴の鋭さに久子が少し驚く。雄一が言葉を継いで、
「高給で雇ってこの島で働かせた。そして厳重な警備で島から出られなくした。犬養家は傭兵集団も持っていたからね。もっとも、船が無ければ出られないけど」
と鈴の予想に応えると更に続ける。
「もうひとつ言い伝えがあります。今度は海部家の話です。平安時代の初め、海部家三十一代雄豊の娘に厳子姫がいた。物心ついた厳子姫は十歳にして都に上り、日々真言の呪を唱えつつ修行に励んでいた。姫は、天性の美しさと優しさ、気品を漂わせており、二十歳の時、大伴皇子に見初められ、真井御前の名を戴いた。しかし、後宮の激しい嫉妬に嫌気がさし、二十六歳の時に宮中を出て、如意輪摩尼峰に神呪寺を建立した。その後、真井御前は空海の弟子となり、役行者を慕って吉野の大峰山にも登って修験した」
「まあ、勿体ない。お妃の地位を捨てるなんて」
「修験者たちと交流があったと言うことは、鉱脈を探しあてる技術を手に入れたと言うことよ」
久子が鈴に補足する。
「なるほど。修験者の中には、修行をするだけのために奥深い山に潜伏するのではなく、山の道案内をしたり、鉱脈を探したりして生計を立てている者もいましたからね」
小八木が知識を披露する。
「海部家から犬養家に養子を送り、両家の関係が良好になったのはちょうどこの頃なの」
久子が意味深な視線で鈴たちを見つめた。
「両家が手を組んで、この島で金を掘り出していたって言うこと?」
鈴が自信なさげに久子を見つめ返す。
「ええ。しかも、あからさまに採掘していると朝廷に見つかって召し上げられてしまう。だから、この島に技術者を囲い込んでこっそりと極秘事業を行った」
「説明が足らなかったが、この島は宮津を支配していた白山神社の勢力版図にあった。だから白山神社もこの極秘事業に参画し、商流を司った」
「商流ですか?」
小八木の理解が少し遅れている。雄一がひと呼吸を置いてから、
「採掘、製錬した金を売る商流が必要だろう?これも表で取引できないから闇ルートで取引をしていたと考えられる。正式記録は一切ないが、白山神社と都の有名寺院との間で高額物品の取引をしていたことを示す記録が多数残っている。金を他の物品と混合して流通させていたのだろう。有名寺院は大陸と貿易のチャネルを持っていたから、金製品を輸出する貿易で多額の利益を得ていたことは容易に想像できる」
と、できるだけわかりやすく話した後、手元あった湯呑をゆっくりと口に運んだ。
「なるほど。犬養家、海部家、白山神社の闇のトライアングルが完成した訳ですね」
「なかなか壮大なお話ね。で、その闇稼業が鬼火の祟りにどう結びつく訳?」
鈴もお茶をすすった。
「鬼火の祟りはこの島を舞台にした四つの逸話で語り継がれています。ひとつ目が洞窟の深い穴に吸い込まれてしまう話。天女の羽衣に包まれて天へ運ばれる話。狛犬が夜に暴れ回り、夜遊びしている者を食い殺す話。そして最後が、若い男女が岬に立つと海の龍に食われてしまう話」
「狛犬の話は、籠神社に鎮座しているワンちゃんのことかしら。夜な夜な松林で悪さしていた」
鈴は存外真面目顔だ。雄一が鈴に微笑んでから続ける。
「この島で働かされていた人たちは、金採掘の秘密を知っている。当然、そのことを口外してはならないし、外部の人間との接触も禁じられていたのだろう。だが、この島で自給自足の生活ができる訳でもなく、どうしても本土との交流が生まれる。そんな機を利用して外部に秘密を漏らそうとしたり逃亡を企てたりした者は当然粛清される」
「え、まさか?」
葉菜が不安な瞳で雄一を見つめた。
「そう、処刑場だよ」
「処刑場……」
葉菜の表情が曇ってゆく。
「あの洞窟は処刑場だった。だから、中からは扉が開かない構造になっているし当然レールも付いたいない。そして後の時代になって壁面に仏像を彫像した」
「何年間もこんな小さな島で働かされていたら、島から逃げたくなるのは当然でしょうね。精神が壊れる人がいても不思議じゃないわ」
「何年も?」
葉菜の表情には絶望感が浮かんでいる。
「洞窟で処刑された人は当然帰って来ない。だから洞窟の深い穴に吸い込まれてしまう逸話ができた。天に運ばれた話は、恐らく首吊り自殺。自分の着物や帯で首吊りをした様子を羽衣に包まれたと表現したのだろう。狛犬は夜警。夜中にこっそり逃げ出そうとした者を警備兵が切り殺した。そもそも、その頃にはまだ白山神社はこの島に分祀されていなかったから狛犬がいるはずがない。この話が後世で作られた証拠だ。そして四つめの若い男女が恋人岬で海の龍に食われる話は……」
雄一が最後の話に移った時、
「心中。恋人岬から飛び下りたのね」
と静かに鈴が言い当てた。
「そのとおり。この島で海に出られるのは北端の船着場と南端の恋人岬の崖下しかない。他は原生林に覆われているから素手で通り抜けることはできない。昼間見たとおり、恋人岬から下りるには細い小路しかない。追っ手の目があるから灯は点けられないだろうし、例え点けたとしても十分な光量ではない。滑落した者もいただろうし、確信的に飛び下り自殺した者もいただろう」
「残酷な話ね」
葉菜が大きく溜息を吐いた。
「それらの逸話をまとめて鬼火の祟りと言われ、恐れられていたのですね。でも、どうして鬼火なのですか?」
「実は、鬼火の祟りと命名し、四つの逸話を積極的に広めたのは犬養家なんです。もしかしたら、話をかなり脚色していたのかも知れない。その目的は誰もこの島に近づかないようにすること。そんな祟り話を本土の村々に広めた」
「わざわざ舟を漕いで恐ろしい島に来たがる人はいないでしょう」
小八木がひとり納得している。
「鬼火の祟りという命名も絶妙だ。実際、金属の製錬には多大な火力が必要で、多数の窯が24時間稼働していた。窯の火や作業用の灯りでこの島には夜通し灯がともっていた。漁師などが遠くから見ると鬼火のように見えたのかも知れない」
「なるほど。頭良いわね」
「その後、10年足らずで金脈を掘り尽くし、海部家との関りも薄くなっていった犬養家の勢力は衰えていきます。犬養一族の中で多くの者が不幸な事故や病気で次々と亡くなる時期もあった。世代が変わってゆくと、現実に起きた不幸と島の逸話が一緒になって、犬養一族の中では本物の祟り話となっていった」
「それで、白山神社を分祀して鎮魂を行うようになった訳ですね。洞窟の壁面には仏像を彫り、恋人岬にも祠を置いた。守井さんが恋人岬の祠は鎮魂のためだと仰っていましたから」
小八木が得心したように大きく頷いた。
「昔の人は非常に祟りを畏れていましたから、とても丁寧な鎮魂を行っていたと思います。でも、近年では年に数回、私たち神官がここへ来て参拝をする他は犬養家の方々が10年に一度集まって鎮魂儀式を行うだけになってしまいました」
久子が残念そうに声を落とした。
「でも、占いがどうとか言っていませんでしたか?鎮魂と占いは何か関係があるのですか?」
「いえ、全く関係ありません。儀式はあくまでも鎮魂のためのものです。ですが時を経るに従い、一族の重要事項を決める神事的な要素まで含むようになりました」
久子の悲しそうな表情に、
「どこまでも自己中な一族ね」
と、鈴が悪態を吐く。
「そんな裏事情があったのですね、兄妹の皆さんが祟りを恐れるのには。確かに、洞窟で倒れたりしたら鬼火の祟りと関連付けしてしまいますね」
小八木の言葉に葉菜も深く頷いた。
「でもね、古代や中世と違って事故やら病気やらの因果関係がかなり判明している現代においてよ、まだ祟りを恐れる訳?小夜さんなんて絶対に心霊現象を信じないタイプのオバサンよ。それが三人ともあんなにリアルにビビっていた。これはきっと何かあるわ」
鈴は鋭い勘を披露してからお茶をすする。
「実際に龍彦さんがあんな風になったからですよ、きっと」
葉菜が珍しく意見する。すると、久子と雄一が目配せをしてから、
「あの事故のせいよ」
と、久子が音量を下げて神妙な口調で告げる。
「事故?」
鈴たちが目を丸くする。
「20年前の鎮魂儀式を取材に来ていた週刊誌の記者が亡くなったの。洞窟に閉じ込められて」
一瞬冷たい空気と沈黙が佇む。
「こ、こわ……」
そう呟くと突然手を合わせて天井を仰いだ鈴が、
「私は皆さんの存在を信じていますからね」
と、可愛く訴える。
「誰にアピールしているんですか?」
小八木が彼女の横顔をチラリと見やってから、
「本当に事故だったのですか?」
誰もが抱く疑問を口にした。
「警察はそう判断しました。岩の扉が強風にでもあおられて自然に閉まったのだろうと」
「でも、あの扉は開ける方に傾斜していて、勝手に閉まるのは不自然じゃないですか?」
「君の言うとおり。でも閉まり難いように傾斜をつけたのはその事故があってからなんだ。それまでは、レールの傾斜は水平かやや閉まりやすい方に傾いていた。だから、何かの衝撃が加えられて少しでも動き始めると加速度的に閉まる方向に力が掛かる。実際、海に面していると突風を受けることも珍しくはないからね」
雄一が小八木に応えた。
「それに、週刊誌記者とは誰も面識がなかったの。だから誰にも殺害の動機はなく、殺人事件としては成立しなかった」
「きっと祟りだわ」
鈴が再び天井を仰いで何やら呟いた。葉菜も不安を隠せない様子で、何かを探すように周囲を見渡した。小八木はじっと考え込んでいる。
「あら、もうこんな時間。明日も早いからもう寝ましょう。私は神社に帰ります。三人とも朝6時30分にはダイニングに来て手伝ってくださいね」
久子が急に明るい声を出して立上った。
「僕も本宅に戻ります。鬼火の話はあくまでも伝説だからね、かなり創作も入っているはずだからあまり気にしちゃだめだよ」
雄一が鈴と葉菜に優しく言葉を掛けながら立上る。
「雄一さん、私、こわい……」
鈴が甘えるように雄一を見つめたが、
「そのベタな演技の方が怖いですよ」
と小八木が冷たくあしらう。
「これだから二次元オタクはもてないのよ。葉菜ちゃん、私たちも寝ましょう。小八木、戸締りを厳重にしておくのよ」
小八木に命じた鈴と葉菜がダイニングを出てゆく。
「戸締りしたくらいで霊を防げますかね?」
「ヒエー!」
鈴と葉菜が肩を寄せ合い小走りで部屋に戻って行った。
柳田は急遽大阪ミナミから京都河原町へ戻った。そろそろ終電が近くなり、駅に向かって足早に歩く人たちの姿が散見される。そして大抵は機嫌よく酔払っている。
柳田は河原町五条近くまで下り加茂川の河原に出た。この辺りは四条界隈と違って人は少ない。彼が河原に下りると、初老の男がタバコを吸いながらぼんやりと川の流れを見つめていた。
「お待たせしました」
「いや、俺も来たばかりだ」
この初老男は警察協力者のひとりだ。長年、裏社会の情報をつかんでは警察に提供している。勿論、彼にも個人的なメリットはある。しかし、このことは公にできるものではない。
「この前、加茂川に浮かんだ男の情報だ」
「確か犬養商事の役員だったな」
柳田もあの事件には興味を持っている。
「桧山という男だ。犬養商事の常務取締役」
「犬養商事か」
柳田は思考を巡らせた。犬養商事の創業家である犬養家が古くから京都財界に影響力を持っていることは周知の事実だ。だが京都財閥を完全に支配している訳ではない。
犬養家よりも大きな覇権を握っている財界人がまだまだたくさん存在する。犬養家の勢力は大雑把に言って三割程度しかない。そこで、今回のカジノ誘致を契機に半分以上の勢力を取り込もうと画策しているようだ。
犬養家は政界にも積極的に働き掛け、出すものもしっかり出している。そしてリスクを冒しながらもカジノ誘致先とされる土地を先行取得していた。
見方を変えると、京都財界のために身銭を切りリスクを冒して先行投資している訳だ。誘致が成功した暁には、当然犬養家が財界のリーダーシップを取ることができるし、利権も優先的に取得できる。勿論、失敗した時には多額の損失が発生する。
「犬養家は今回のカジノ誘致で勝負に出ているようだな」
柳田が男に言った。
「だが、犬養家の思うようにことは進んでいないようだ。確かに表の部分では主導権を握れそうだが、京都財界など所詮は古い京都人の集まりだ。リスクだけを犬養家に背負わせておいて、美味しい油揚げだけを頂こうと言うトンビたちが大半だ」
「京都人?」
「良いとこ取りはお公家さんたちの得意技だ。大昔からな」
「なるほど。財界の秩序を乱そうとする者は成敗される訳だ」
「おまけに、都人はタタラなど人間扱いしていなかったからな」
柳田は男のジョークをあまり理解できないが、
「桧山のどんな情報を?」
と本題に入った。
「桧山は京都政財界の秘密クラブである雅会の情報を嗅ぎ回っていたようだ。犬養家の全員も桧山自身も雅会に所属しているが、会員たちは雅会の全容を知ることはできないし、知ろうとすること自体がご法度だ」
「だったら、なぜ桧山はそんなことを?」
「これは想像に過ぎないが、犬養家は京都財界人たちを利権だけでは操れないと考えていたのだろう。利権で釣れないとわかれば弱みを握るしか手がない」
「なるほど。スキャンダル情報を入手してコントロールしようと言う訳か。日本人は脇が甘いから有効な手段かも知れないな」
柳田は笑いを零してから、
「それが原因で奴は殺されたと?桧山は殺されるほど重大な何かをつかんだのか?」
と、男の視線を覗く。
「恐らく。だが今夜はここまでだ」
男は笑みを浮かべて話を終えた。
「なんだ、チラ見せか?」
柳田は小さく溜息を吐いてから若干の小遣いを手渡した。
「もう少し確かな情報をつかんでから連絡する。たっぷり礼を準備しておけよ」
男はそう言い残して去って行った。
犬養島二日目の早朝、鈴はドアをノックする音で目覚めた。
「鈴さん時間ですよ。起きてください」
小八木の声がする。
「いつもながら几帳面ね」
鈴はTシャツと短パン姿のままドアを開け、小八木に向かって眠そうな眼を向けた。時計は5時55分を指している。
「いつもながら時間にルーズですね」
「女は準備に時間が掛かるのよ」
「準備していたようには見えませんけど」
「心の準備に時間が掛かるのよ」
そう言った鈴が忙しい足音に気づいて廊下に顔を出す。すると玄関から葉菜が入って来た。
「あら、葉菜ちゃん早いわね。外で何していたの?ラジオ体操?」
だが、葉菜は緊張した面持ちで、
「波留さんが……」
と、そのまま波留の部屋まで小走りで近づき、
「波留さん!波留さん!」
と、大声でノックを始めた。鈴と小八木は不思議そうに顔を見合わせてから葉菜のそばに近寄る。
「まだ寝ているんじゃない?」
「昨夜、朝6時に超すように言われたの。朝食前に散歩をしたいからって」
「窓から覗いてみましょうか?」
小八木が提案する。
「目がやらしいわよ」
「もう、確認したわ。でもカーテンが閉まっていて中の様子が分からないの」
「それで玄関から入って来たのですね」
そこへ、台所で食事を作っていた久子が騒ぎを感じて足早に近寄って来る。
「久子さん、合鍵を貸してください。波留さんの部屋をいくらノックしても応答がありません」
怪訝な面の久子が慌てて合鍵を取りにキッチンへ走ってゆく。
「波留さん!波留さん!」
小八木も加わって大声で叫びながらドアを叩く。騒々しさに一馬と小夜も部屋から出て来た。
「どうしたんだ?」
「波留さんの返答がなくて」
そこへ久子が戻って来る。彼女は合鍵を取り出すと、一馬に視線で確認をしてから鍵を回した。そして、ゆっくりとドアを開けた久子は息を飲む。
「波留さん!」
今度は飲み込んだ息を一気に吐き出すように叫ぶとそのまま波留に駆け寄る。同時に鈴たちもなだれ込む。そしてその全員が息を飲んで動きが固まった。波留は梁に括りつけられたシルクのスカーフに首からぶら下がった状態でわずかに揺れている。
「波留!」
一馬が慌てて彼女の身体を抱き上げスカーフの輪から解放しようとしたが、
「待ってください。残念ですがもう手遅れです。葉菜ちゃん、雄一さんに連絡してちょうだい。可哀想ですけど、もうしばらくこのままにして警察に調べてもらわないといけません」
と、久子が一馬の動きを制止した後、うつむく彼の背中を優しく撫でた。小夜はその場にうずくまって震えている。
「とにかく、皆さん部屋から出ましょう。現場を保存しなければなりません」
小八木が全員を部屋から出した。そのまま鈴が先導して全員をダイニングへと導く。葉菜は小走りにキッチンへ向かい内線電話で雄一に連絡を取る。
一馬と小夜は呆然と椅子に腰を下ろすと、青白い顔色を浮かべて小さく震えた。久子がコーヒーを入れて一馬たちの心を落ち着かせようとしている。
「どうして自殺なんか」
一馬が呟く。確かに自殺と見るのが自然だが遺書らしいものは見当たらない。携帯はないのでメールなどのデジタル手段で遺書を書くこともできない。鈴はそんな思考を巡らせながら全員の表情を見渡した。
「天女に連れて行かれた……」
一馬が小声で呟く。小夜も真青な唇を震わせて、
「祟り……」
と、こぼした。本島へ連絡を終えた葉菜も席に着いたが、周囲をきょろきょろ見渡すばかりで事態を飲み込めていない様子だ。事件現場を経験している鈴と小八木を除くと、久子が一番落ち着いている。
久子が入れたコーヒーにようやく一馬が口を付けた頃、雄一が部屋に入って来た。年配の女性を連れている。
「奥様、何と申し上げてよいのか……」
久子がいち早く声を掛ける。一馬も小夜も母親である文美の顔を見たものの、何も言葉を発しない。文美は小柄だが背筋がピンと伸びた迫力のある女性だ。鈴が最も驚いたのはその若さだった。文美は後妻でまだ50代だと言う話は聞いていたが、とても50代とは思えない若さを感じる。自分の母親と大差がないはずだが文美の方が断然若く見える。そして美人だ。
「皆さん、ご苦労様。久子さん、波留さんのところへ案内してください」
凛とした文美の声に、鈴と小八木、そして久子の三人が二人を波留の部屋に案内した。一馬たちは動ける状態ではない。波留の姿を見た文美はさすがに動揺を隠せなかったが、すぐさま手を合わせて黙祷すると、
「雄一さん、検死をお願いします。現場の写真を撮ってから波留さんを本宅に移してください」
と指示をしてから部屋の中を見渡した。鈴は、テレビの電源が入っていることが気になってタイマー設定を確認した。毎朝5時半に電源が入るようになっている。さすがにさっきは気にも留めていなかった。
「警察を呼ぶのが先じゃないですか?」
タイマー設定を確認した鈴がまっすぐに文美を見つめて問うた。
「あなたは?ああ、お手伝いに来てくれている学生さんね。警察はまだ呼びません」
「まだ?」
鈴が怪訝そうに文美の瞳を覗く。すると文美は作り笑顔を浮かべて、
「明日の鎮魂儀式が終わるまでは呼びません。犬養家にとってはそれほど大切な儀式なのです」
と、優しく説明した。一日通報が遅れても警察は何も言わないと思っているのだろうか。それほど犬養家は力を持っているのか。鈴は、文美の余裕に満ちた笑みに大きな権力の影を感じた。
「申し訳ないけど、雄一さんを手伝って頂けますか?」
文美が小八木に声を掛ける。
「私も手伝いますよ。小八木よりも役に立ちますから」
鈴の申し出に文美はニコリと笑うと、
「そう、頼もしいわね。でも人前では男を立てるものよ。女はもっと控えめにして陰で男を操るくらいがちょうど良いものよ」
と言い残して静かに部屋を出て行った。
「悲しくないのかしら」
鈴が文美の背中を見つめながらポツンと呟く。
「文美さんは気丈な女性だからね。それに家庭にはそれぞれの事情があるものだと、久子さんも言っていただろう。じゃあ始めようか。小八木君は写真を頼む」
雄一の指示で小八木が波留に近づく。
「この真夏にシルクのスカーフなんて持って来たのかしら?波留さん」
鈴の呟きを聞いた小八木は、
「何だか天女の羽衣を連想しますね」
と、深く考え込んでいる鈴をちらりと見た。
波留のご遺体を本宅に移動する仕事を雄一と小八木に任せて、鈴は文美に少し遅れてダイニングへ戻った。そこには、魂の抜け殻のようになっている一馬と小夜が椅子にだらりと腰掛けており、彼らの目の前には手つかずの朝食が並んでいた。
「二人ともお辛いでしょう。でも、龍之介さんは鎮魂儀式を必ず行うと仰っています。波留さんの御霊も一緒に鎮魂しましょう」
椅子に腰を下ろしたばかりの文美が静かに言った。
「どうせあなたは他人ですからね、悲しくもないでしょう」
小夜が文美を睨みつけた。文美は後妻でこの兄妹たちの実母ではない。小夜が軽々とこんな言葉を吐くことから、親子の間にはずっと距離があったのだと鈴は感じた。
「あら、鈴さん。ご苦労様でした」
小夜の言葉を聞き流した文美が戻って来たばかりの鈴を労う。
「今、雄一さんと小八木が波留さんを本宅にお送りしています」
「そう、ありがとう」
文美が微かに口元を緩めて鈴に笑みを送る。
「やはり祟りかも」
青白い面のまま俯いている一馬が呟く。そんな彼を見つめながら、文美がしっかりとした声を響かせた。
「波留さんは、夫婦仲のことで悩んでいました。先週、電話で話しました。ずいぶん愚痴を言った後すっきりしたと笑っていたので、少しは気が晴れたものと安心していましたが、まさか自殺するほど思い悩んでいたとは」
文美の声がダイニングに響いた後廊下へ抜けてゆく。
「まさか!姉さんが悩んでいたって?」
小夜は精一杯驚いているが、鈴には小夜の安堵感が伝わって来た。
「ええ。だから祟りなどではありません」
文美の力強い明言で一馬の表情にも血の気が戻って来た。
「ひとつ確認して良いですか?波留さんの部屋の窓もドアもロックが掛かっていたんでしょう?」
鈴が久子と葉菜を見つめる。
「はい。私は何度かドアノブを回しましたが開きませんでした。外からも窓を開けようとしましたが無理でした」
文美に報告するような口調で葉菜が言った。
「いわゆる密室状態ですね。やはり自殺しかあり得ません」
文美は、きっぱりと言い切ってから久子が運んで来たお茶を両手で受け取った。
「遺書はありませんが」
久子が小声で意見する。すると、ようやく血の気が戻った一馬が、
「もしかしたら自宅に置いてあるかも。最初からこの島で自殺するつもりだったとしたら、旦那宛てに何か残している可能性もある」
と言った。鈴はその言葉に納得する。
「私、部屋で休むわ。葉菜ちゃん、悪いけどスープを温めて持って来てくれる?」
小夜が立上る。
「はい、分かりました」
「俺も部屋に戻るとしよう。食事を温め直して持って来てくれ」
一馬も小夜の後を追った。が、ふと振り返って、
「あっそうだ、誰か昨夜のサッカーの結果を知らないか?京都対静岡戦。朝のスポーツニュースを見逃してしまった。ネットも使えないから調べようがない」
と、意識的に明るい声で尋ねた。
「確か、京都の勝ちでしたよ」
葉菜も明るい笑みで答える。
「そうか、京都が勝ったか。じゃあ、兄貴の言ったとおり次の試合では京都に賭けてみるか」
わざとらしく明るく笑った一馬が部屋に戻ってゆく。彼なりに気を遣って沈鬱な空気を軽くしようとしていた。
熊野と秦野が課長に呼ばれて署内の小会議室に足を運んだ。中に入るとすでに課長が座っていて、その隣に捜査二課の課長と柳田警部補が座っていた。
「お久しぶりです」
秦野が柳田に挨拶する。秦野は顔見知りのようだが熊野は口を利くのは初めてだ。
「熊野です」
二人は軽く挨拶を交わしてから席に着いた。熊野は少々不安だった。課長に呼びつけられるとは、何か落ち度があったのか。
「実は、犬養商事の桧山氏殺害の件だが、二課から重要な情報提供があった」
課長の言葉を聞いた秦野と熊野は思わず身を乗り出す。桧山の事件について目撃情報は得られず、マンションの防犯ビデオからも特に怪しい人物は特定できなかった。マンション住人や訪問者、業者の人間などかなりの人間が頻繁に出入りしていたため、ひとりひとりの身元を確認するなど不可能だ。
要は、今のところ手詰まり状態であったので、何かしらの情報提供はありがたいことだ。
課長の言葉の後、柳田が政財界の秘密クラブ『大阪発展会』『雅研究会』そしてその幹事企業である『IRエンタープライズ』『BGマネジメント』について説明し、更にカジノ誘致を巡って大阪と京都の政財界が各々の秘密クラブを中心に激しく争っていることを説明した。
「二課さんも大変だ。で、それが我々の事件とどう関わっているんだ?」
秦野が柳田の表情をじっと見つめている。ひとつでも嘘は見逃さないと言った気迫が漏れている。
「桧山はその秘密クラブ、雅研究会の会員だ」
熊野はその事実が意味するところを懸命に考えている。
「桧山だけではない。犬養商事の役員と犬養家の人間は全員が加盟している」
「桧山はカジノ誘致争いの結果殺されたのか?」
秦野が慎重な口調で柳田に詰め寄る。
「まだ何もつかんではいない。だが、犬養商事が今度のカジノ誘致のために多額の資金をつぎ込み多大なリスクを負っていることは事実だ。カジノ誘致候補になっている京都の土地、勿論、まだ公表されていない情報だが、その土地をかなり取得している」
「どの辺りですか?」
熊野が思わず口にしたが柳田と秦野は苦笑いを浮かべている。
「失礼しました。言える訳ありませんよね」
会議室に笑い声が響いた。
「そう言う訳で、今後本件については綿密な情報連携をお願いしたい。勿論、秘密厳守でな」
一課課長がそう告げて散会した。
犬養島二日目の昼過ぎ。午前中の仕事を終えた久子は、禊の儀式準備のために神社へ戻っていった。一馬と小夜は部屋に引き籠っている。当面の仕事から解放された鈴と小八木、葉菜の三人は、小八木の部屋に集まって事件の話をしている。
「遺産相続を巡っての連続殺人ですね」
小八木が飲み掛けのコーラ缶をテーブルに置いた。
「そんな分かりやすいことをするかしら。残ったひとりが犯人だと疑われるのよ。よほど上手にアリバイトリックを使わないと」
葉菜は小八木の向かいに座っている。彼女はフルーツジュースの缶を手にした。どの部屋にもベッドと丸テーブル、椅子二脚が備わっている。丸テーブルは新品で、今回の儀式に合わせて新調したのだと久子が言っていた。
「鈴ちゃんはどう思う?」
小八木のベッドに腰掛けている鈴に葉菜が問い掛ける。
「祟りよ」
「え?」
小八木の猜疑に満ちた視線にも拘わらず鈴は真面目顔で続ける。
「この島で犠牲になった人たちの身になってみなさいよ。今の犬養家の人たちは、自分たちを虐げた憎き敵たちの子孫よ。直接の恨みはないとは言え、やはり彼らの存在は目障りで腹立たしいものでしょう。しかも、元々は鎮魂目的であったはずの儀式がいつの時代からか一族の運命を占う呪術儀式としても利用するようになっている。こんな有様だったら祟られても仕方ないでしょう。私が犠牲者の霊魂なら全員祟ってやるわ」
「鈴さんの恨みだけは買わないように気をつけないとね」
葉菜は小さく笑ってから、龍彦の事件について推理を始めた。
「龍彦さんの件が誰かの犯行だとすると、私たちと久子さん以外なら誰にでも可能ね」
「確かに。僕たちが風呂に湯を張って皆さんに声を掛けたのが16時くらいでした。最初に女風呂にやって来たのが小夜さんと波留さん。間もなく龍彦さんと一馬さんがやって来て、出るのは男たちの方が早かった」
「お二人がロビーで湯上りのビールを飲んで、龍彦さんが先に部屋へ戻ったのは16時50分くらいでした」
葉菜が少し思案すると、
「一馬さんが残りのビールを飲んでから部屋に戻ったのが17時くらいでしたね。龍彦さんが戻ってから10分後。そしてその後すぐに波留さんと小夜さんがミネラルウォーターを持って部屋に戻りました」
と小八木がフォローした。
「そんな細かいこと、よく覚えているわね。いい小姑になれるわ」
兄弟の行動など全く目に入っていなかった鈴は心底感心している。
「ここから洞窟まで徒歩で5分。龍彦さんが部屋に戻ってすぐに洞窟へ向かったとして16時55分着。他の兄妹たちの誰かが洞窟に辿り着けるのが最速でも17時5分。食事の5分前には全員が集まっていましたから、犯行時間は17時5分から17時50分の間ということになります」
「全員に犯行のチャンスがあるわね」
葉菜が小八木を見つめると、
「兄妹三人と神主の守井さん」
小八木が同調した。
「守井さんは食事には来ていないから、龍彦さんが洞窟で発見されるまでの間で犯行を行うことができるわ」
葉菜は守井を疑っているように見える。
「雄一さんも可能ですよ」
「雄一さんは何時頃に来ました?」
「食事の30分くらい前よ、17時30分くらい」
今しがたまで黙っていた鈴が即答する。
「雄一さんのことはよく覚えていますね」
「イケメンで医者よ、当然でしょう」
鈴が陰謀に満ちた表情で皮算用をしている。
「雄一さんの可能性を考えると、船着場から洞窟に寄ってからここへ来たと考えられますね」
と、葉菜。
「文美さんは?」
小八木の言葉に彼女は一瞬考えたが、
「本宅からはボートで渡らなければなりません。年配の女性には難しいでしょう」
同意を求めるように鈴を見つめる。
「そうかなあ、あのオバサンなら泳いででも来そうだけど」
「ボートは一艘しかありませんから、文美さんが犯行を行うには雄一さんが本島を出発する前に洞窟の扉を閉めて本島に戻り、雄一さんに見つからないように本宅へ戻らなければなりません。雄一さんの話によると、ボートで海を渡るには舫いの脱着を含めて約10分。雄一さんが17時30分にここへ到着するには、17時15分くらいには本島を出る必要があります。となると、仮に文美さんが洞窟そばで待ち伏せし、龍彦さんが16時55分に洞窟へ来たとしても、洞窟から船着場まで5分。本島に戻るのに10分掛かるから到着は17時10分。そんなギリギリの計画は現実的に無理ですね」
小八木が細かい計算をしたが、
「そもそも雄一さんが何時に出発するかなんて事前にわからないのだから計画するのは無理じゃないかしら」
と葉菜が正論でまとめた。
「じゃあ、オバサンは一旦除外ね」
「動機を考えずに被疑者を絞ると、一馬さん、波留さん、小夜さん、雄一さん、守井さんの五人ですね」
小八木が考えをまとめる。
「ぜんぜん絞れてませんぜ、旦那……」
鈴がジュースを飲み干した。
16:50 55 17:00 17:05 17:25 30 17:50 17:55
龍彦 〇 〇 洞窟滞在
波瑠・小夜 〇 ● 犯行可能時間 ● 〇食堂集合
雄一 ●犯行可能時間● 食堂
まるで死に装束のような白い薄衣をまとった小夜が、久子に連れられて神社の裏庭にある小さな泉の前に立った。岩風呂のようにも見えるが風呂よりはずいぶん深そうだ。
「冷たそうな水ね」
「サウナにある水風呂程度の水温ですから大丈夫です。この暑さだから気持ちいいと思いますよ」
「深くないの?溺れるの嫌よ」
冗談の積りが妙に顔が強張っている。さすがに兄妹が連続して亡くなっているだけに、漠然とした不安に包まれているようだ。
「足は着きますよ。私の肩くらいの水位ですから小夜さんも大丈夫です」
久子は笑顔を作って小夜を促した。
「冷たい」
足先を少しつけた小夜は一瞬躊躇ったが、ゆっくりと足を入れ身体を沈めていった。
「頭までつかるの?」
「いえ、肩までで結構です」
社殿から神主の守井が神主の白い衣冠単衣に身を包んでやって来ると、しばらくの間霊験あらたかな雰囲気で祝詞を唱え続けた。そして最後に手にした幣を何度か振ってから深く頭を下げると、
「お疲れ様でした」
と守井がにこりと笑った。
「あら、もう終わりなの?滝にでも打たれるのかと思っていたわ」
小夜が冗談を言いながら、清められた身体を真名井の聖水からゆっくりと運び出した。白い装束から水が滴り落ちる。
「こちらへどうぞ」
バスタオルを手渡した久子が小夜を浴室の方へと案内していった。その後姿に深くお辞儀をした守井はなぜか深い溜息を吐いた。
「波留さんの件についてはどう?」
三人の推理会は続いている。
「祟りよ。天女の祟りだわ」
「鈴さん、熱でもあるのですか?」
小八木が丸い目をして鈴を見つめる。
「だって密室よ。しかもロープとかじゃなくて、天女の羽衣を連想させるスカーフで首を吊るなんて。絶対祟りよ」
「言っていることが良く分からないけど、ロープがなかったからスカーフを使っただけじゃないかしら?」
葉菜も鈴の本意を見定めるように見つめている。
「そんなことはないでしょう。みんな風呂上りには浴衣を着ていたのよ」
波留も小夜も食事の際には部屋着に着替えていたが、風呂上りには浴衣を着ていた。
「確かにそうですね。浴衣の帯の方が長くて扱いやすいです。スカーフだと、梁に近いところまで頭を持って行かないと梁に首を吊るせません。実際、ご遺体を下ろす時には梁に頭が当たりそうでした」
小八木が深い瞳で鈴と葉菜を交互に見つめた。
「もしかして、他殺だと考えているの?」
葉菜も瞳を澄ませながら他殺に考えを傾けたが、
「他殺は無理よ。密室なのよ。スカーフを使ってわざわざ手間の掛かる死に方を選んだのだから、やはり祟りよ。きっと怨霊に憑かれてコントロールされたのよ」
鈴が虚空を見つめて、見えない誰かに話し掛けている。
「じゃあ、自殺なのね」
葉菜が鈴の本心を確認する。
「自殺?それはないでしょう。葉菜ちゃんに起こしに来るように頼んだ上に、毎朝5時30分にテレビが起動するようにタイマーセットしてあったのよ。起きる気満々じゃない。自分で永眠したりしないわよ」
「じゃあ他殺?」
「だから祟りだって言っているじゃないの。自殺する気もなかったのに首をくくらされたのよ」
鈴は再び天井を見上げて手を合わせている。
「鈴さんこそ、何かに憑かれていますよ。いつもなら密室トリックを暴こうとするのに」
いつもと違う鈴を小八木が少し心配そうに見つめる。
「本当に鍵は掛かっていました」
葉菜が訴えるように小八木を見た。もしかして鈴は、密室自体を疑っているのではないかと不安を抱いたようだ。
「勿論、葉菜さんの言うことに嘘はないと思います。自殺の可能性もありますが、仮に他殺だとしてもきっと何らかのトリックで密室状態を作ったのですよ」
「まず他殺だと言う前提で、動機と密室トリックは無視して、時間的に犯行可能な人物を絞ってみたら?」
ベッドに腰掛けていた鈴が仰向けに寝そべった。
「なぜに他人事のような口調?」
「私は祟り説だからね。小八木が他殺の推理を進めてよ」
「祟り説なんて聞いたことがないですけど」
葉菜が当惑している。
「まず、波留さんの死亡推定時刻ですけど、雄一さんの観立てによると午前0時前後の数時間だと言うことです」
鈴のマイペースに慣れている小八木が、彼女を放置したまま推理を進める。それに葉菜が続いて慎重に記憶を辿る。
「昨夜は、一馬さんと一緒に小夜さんも波留さんも同時に部屋へ戻ったわよね。確か22時30分頃。私たち三人と雄一さん、久子さんがダイニングで話していたのはそれから2時間くらい。その間、誰も席を立たなかった。解散して部屋に戻ったのは0時30分頃で、私はそれから1時間くらい起きていたけど、特に大きな物音は聞こえなかったわ」
「仮に僕たちが部屋に戻る0時30分までの犯行だとすると、被疑者は一馬さんか小夜さん、そして守井さんとなります。0時30分以降の犯行だとすると、雄一さん、久子さん、守井さんには無理です」
「言い切るのね」
鈴は仰向いたままで聞いている。
「雄一さんと久子さんが建物から出た後にすぐ施錠してセキュリティをセットしましたから。今朝もそうでしたけど、外から開錠してドアを開けると、セキュリティ解除をするまでの十数秒間警報が鳴り続けます。僕はすぐに目覚めましたよ。だから外部の人間には無理です」
「いずれにしても、雄一さん、久子さんは除外ね。一馬さん、小夜さん、守井さんの誰かが、22時30分頃から2時間ほどの間に波留さんを殺害して、自分の部屋、又は神社に戻った」
葉菜が満足そうに微笑んだ。
「一馬さんは兄妹だから良いとして、守井さんが部屋を訪ねて来て波留さんは中へ入れるかしら?」
葉菜は鈴の問いに詰まった。確かに、顔見知りとは言え男を部屋に入れるのは抵抗がある。
「例の占いの話をネタにすれば入れると思いますよ、占い方を教えるとか言えば……」
「へえ、今日はいつもの小八木じゃないみたい」
鈴が上体を起こして感心して見せる。
「でも、小夜さんの力で波留さんをあんな風に持ち上げて首つり自殺に見せ掛けるのは無理じゃないかしら」
葉菜が部屋の梁を見上げる。
「性格がきつそうだから、根性で引き上げたのよ」
「あら、鈴さんは祟り説でしょう」
葉菜がクスッと笑う。
「性格はともかく、小夜さんの方が波留さんより体格は大きいし、波留さんは小柄で細身ですから長いロープを使えば可能です」
「ロープで?」
小八木が自信ありげに説明を始める。
「はい。まずスカーフで絞殺した後、ロープを胴体に巻き付けて身体を吊り上げておいて、首にスカーフの細工をしてからロープを外せばあのような状況を作ることはできます。梁は丸太で表面もツルツルですから、滑車代わりになるかも知れません」
小八木は天井の梁を指さした。
「犯人はロープを準備していたの?」
「はい。恐らくスカーフも。鈴さんが言ったように真夏にスカーフを持ち歩くのは不自然ですから。因みに、物置にもテント用のロープがあります」
「葉菜ちゃんの前だと冴えているわね」
「後は窓の戸締りを確認してカーテンを閉め部屋を出ればオートロックですから密室の完成です。ああ、それから一馬さんと小夜さんなら0時30分以降の犯行も可能です」
「やっぱり葉菜ちゃん効果ね」
鈴が小八木をからかうと玄関で男の声が響いた。一馬だ。鈴たちが集まっている小八木の部屋は玄関のそばだから声がよく聞こえる。
「葉菜ちゃん、釣竿を出してくれ」
一馬がひと際大きな声で叫んだ。
「釣り?」
三人は不思議そうに顔を見合わせる。
「こんな時によく釣りなんてする気になるわね」
鈴が時間を確認する。15時を少し過ぎていた。
「僕が行きますよ。釣り竿は物置にありましたから」
小八木が立ち上がりながら葉菜を制して機敏な動きで出て行った。
「珍しくリアル女子に優しいわ」
鈴の言葉に葉菜も微笑んだ。
一馬が釣りに出掛けてから小1時間経つと、久子が夕食の準備をするために別荘へ戻って来た。
「小夜さんはまだ神社ですか?」
三人が集まっている小八木の部屋に久子が顔を覗かせた時、葉菜がさりげなく尋ねた。
「いえ、もうとっくに神社を出ましたよ。まだ戻ってないの?」
「はい」
瞬く間に部屋は不安な空気に包まれる。
「小夜さんは何時頃に神社を出たの?」
再び小八木のベッドに寝そべっていた鈴がさっと上体を起こした。
「15時過ぎかな。禊の儀式が終わって、シャワーを浴びてからひと休みして出て行かれたわ」
もう16時だ。神社から別荘までどんなにゆっくり歩いたとしても10分程度で到着する。
「まさか」
鈴たち三人は同時に嫌な想像をした。洞窟に天女の羽衣、伝説を辿ると次は恋人岬か狛犬。
「え?」
久子は三人の緊張に唖然としている。
「まさか、恋人……」
言い掛けた葉菜が途中で止めてしまった。恐ろしくて口に出せない風だ。狛犬は神社にあるから、今の状況では誰の頭にも自然と恋人岬が思い浮かぶ。
「恋人岬だわ」
鈴が叫ぶと三人は部屋を飛び出て玄関に向かった。久子も小夜の身に何か起きたことを予感して三人に同行しようとする。
「久子さん、雄一さんに恋人岬に来るよう内線で伝えてください」
鈴が後ろを振り向いて指示しながら先を急いだ。久子は強張った表情で、
「恋人岬ね」
と、その意味するところの恐ろしさを振り切るように叫んだ。
【島の地図イメージ】
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇 〇
〇 本宅(離れ小島) 〇
〇 船着場 〇
〇〇〇〇〇〇〇〇〇●●●●●●
海
海
洞窟 船着場 崖
●●●●低い岩場●●●●●●●●●●●●●●〇〇〇
● 岩場に下りる階段 〇
●釣り場 〇
● 〇
● 〇
海 〇 別荘 〇
崖〇 〇
〇 所々低木が茂る原野 〇崖 海
〇 庭 BBQ 〇
〇 〇
〇 白山神社 〇
〇 〇
〇 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇 〇 〇崖
海 〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 密林 〇
〇 〇 〇
〇 〇 進入不可 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 〇 〇崖
〇 密林〇〇〇〇〇〇〇〇
〇 〇
〇 祠 〇 入江(旧船着場)
〇 〇
崖〇 恋人岬 〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇
海
洞窟 船着場
↑2分 ↑2分
-----------------↑
分岐点----3分------------別荘
白山神社----5分------------------
↓
↓5分
↓
恋人岬
籠神社をご参拝の際は、ぜひ、眞名井神社まで足をお運びください。十分歩ける距離です。とても静かでパワーを感じる場所です(あくまでも個人の感想ですが)