第一章 犬養島
京都四条の加茂川河原に中年男の水死体が浮かんだ。京都府警の若手刑事熊野巡査部長が秦野警部補と事件を担当する。その頃、星里鈴は小八木たちと共に犬養島へ向かう。
古代丹波国より続く犬養家が所有する無人島で鎮魂儀式のアルバイトをするためだ。このアルバイトを紹介した小八木のクラスメイト藤田葉菜は、鈴と小八木の不思議な関係疑いながらも無人島の旅へ向かう。
連日の猛暑で京都盆地が沸騰しそうな盛夏。そんな息苦しささえ感じる季節にひと息を入れる早朝。涼やかな空気に包まれた加茂の流れに暗い落とし物が浮かび上がった。
まだ人気の少ない京都四条の加茂川河原に50代と思われる男性の遺体が流れ着いていた。そしてその遺体は、昼間にはカップルが等間隔で座る加茂川の堤防に引き上げられた。遠目に見ると酔払いが眠っているだけのようにも見える。
遺体の発見時刻は早朝の5時過ぎ。夜通し遊んだ朝帰りの学生が発見した。学生が先斗町側の堤に下りた時、四条大橋の橋脚に当たって浮遊している遺体を発見した。元より加茂川の流れはゆったりとしている。
橋の横に交番があるのでその後の対応は早かった。家で熟睡していた熊野が現場に到着したのは朝8時前。鑑識の作業も半ば終わっていた。
男は半袖のランニングシャツとパンツを穿いていた。赤いジョギングシューズを履いており、河原をランニング中に何らかの事故に遭遇したのか、それとも急に体調を悪くしたのか、そんな風に観るのが自然だ。
そして身元がわかる物は何もない。スマフォも持っていなかった。ただひとつ、首から古い御守をぶら下げていた。
「最近はスマフォを持って走る人が多いのに、川に沈んでしまったのでしょうかね?」
遺体のそばに立っている秦野警部補に熊野が語り掛けた。秦野は小柄で細身だが、ややふっくらした丸顔で愛嬌のある優し気な雰囲気だ。
「スマフォを入れるようなウェストポーチもアームバンドもない。イヤホンもしていないから、今どきのジョギングスタイルとは違うようだ。まあ、年配の人だからな」
秦野は膝を曲げると、男が首から下げている御守を手にして表と裏を確認した。
「出雲大社ですよ」
熊野は既に確認している。
「だいぶ古くなっているな。ジョギング中もぶら下げているのだからよほど思い入れがある物なのだろう」
「そうですね、長年肌身離さず身に着けていたのでしょう。御守を身に着けてこんな死に方をするなんて、皮肉なものですね」
「恋愛成就の御守だからな。家内安全とか健康を祈願する御守にしておけば良かったのに」
半ば本気の様相で呟いた秦野は、ゆっくりと立上ってから夏の朝陽に輝く川面に視線を向けて眩しそうに上流の方を遠く見つめる。
「ご遺体が流れて来たと言っても加茂川にはいくつも堰があるので、この静かな流れなら堰に掛かってしまいますね」
熊野も上流を見やった。
「一番近い堰はどこだ?」
「二条橋の少し上です。しかし二条橋とその下流にある御池橋との間はかなり浅いので、ご遺体が流れることはあり得ません」
「じゃあ、御池橋と四条大橋の間で川に落ちたと言うことか」
「はい。ただ、ご遺体の状態から判断すると、長時間水に浸されていたとは考えにくいと言うことでした」
「発見されたのが朝の5時頃だから未明にジョギングをしていたと言うことか?どれだけ早く起きれば気が済むんだ」
40を過ぎたばかりの秦野は、老人は早く目が覚めると言った話を思い出して茶化した。
「逆に、仕事から帰って就寝前のジョギングかも知れませんよ、水商売なら考えられる生活リズムです。この辺りは水商売の人たちが多く住んでいますから」
「なるほど。いずれにせよ、解剖が終わってもう少し情報が出ないことには何とも判断できないな。少し河原を歩いてみよう」
秦野はそう言って、フットサルぐらいはできそうな広い河原を川上に向かって歩き始める。
「しかし、こんな広い河原を走っていて川に落ちますかね?」
「わざと川べりを走っていたのか、休憩している時に足を滑らせたのか、体調が悪くなったのか」
「むしろ対岸の遊歩道の方が狭くて落ちやすいですよね」
熊野は川端通り側の遊歩道を指さして言った。
「しかし、ご遺体が流れ着いたのはこちらの岸に近い。斜めに流れて来るなんてあり得るのか」
秦野は自問するように言った。
「まだ生きていて自力で泳いだとか?」
「わざわざ斜めにか?まあパニック状態ならあり得なくもないが」
そんな会話をしながらも、二人は無意識のうちに遺留品を捜しながら歩いていた。だが、落とし物もなく空缶などのゴミすらほとんど目に付かなかった。
「ところで、あの噂のお嬢ちゃんとは最近会っていないのか?」
「は?」
「警察庁の人事課長の娘だよ」
「ああ、鈴さんですか。事件でもない限り会う理由がありませんよ」
「そうか。可愛い娘だと言う噂だぞ。俺は会ったことはないが」
秦野が冷やかし半分で若い熊野をからかう。
「確かに顔立ちは可愛いですね。でも、あの強引さと図々しさにはついて行けません。秦野さんも会わない方が身のためですよ」
熊野は朝陽で輝く面に笑顔を浮かべた。
「へークション!ウイイ……」
鈴が大きなくしゃみをした。
「また誰か私の美貌を噂しているわ」
そう言って人差し指で鼻を摩った。
「オッサンのくしゃみで美貌も吹き飛びますよ。そんなんじゃ彼氏は無理ですね」
「ご心配なく。女はね、イケメンの前では自然とおしとやかになるものよ」
星里鈴と小八木良太は、京都S大学の3年生。同じ歴史研究会に入っている。小八木と同じクラスの藤田葉菜からアルバイトの話を持込まれた小八木が、鈴を同じアルバイトに誘うため『BARやすらぎ』で飲んでいる。
「そもそも、小八木の女友だちは鈴しかいないんじゃないか?」
このバーでバイトをしている、同じ歴史研究会の梅木が小八木をからかったが、鈴は真面目に頷いている。
「それで、仕事の内容は?」
鈴が少し興味を示す。
「犬養家で伝統的に行っている儀式の手伝いです。犬養家が所有する京丹後沖にある無人島で行われるそうです」
「犬養家?横溝正史の小説みたい。で、その一族はそんなに伝統があるの?」
「犬養家は、あの有名な海部氏の流れを汲む一族です」
「海部氏って有名人なの?」
小八木は溜息交じりに、
「鈴さんほど有名ではないですよ」
と答えた。
「あら、私って大学の有名人?アイドル?」
鈴の戯言を無視してカウンターの中に立っている梅木が口を出す。
「宮津にある丹後一宮、籠神社は知っているだろう?」
「伊勢神宮で天照大御神にご飯を食べさせている神様の出身地でしょ?」
「豊受大神な。まあ大雑把に言えばそう言うことだな」
梅木が苦笑いを浮かべてから説明を続ける。
「元々は、現在の眞名井神社に豊受大神をお祀りしていた。崇神天皇の御代に天照大神が笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮という宮号で四年間一緒にお祀りしていた。その後天照大神は伊勢にお遷りになり、豊受大神は雄略天皇の御代に遷られた。その後、養老三年に本宮を眞名井神社の地から、現在の籠神社の地へ遷して、社名を吉佐宮から籠宮と改めた」
梅木の説明を聞き終えた鈴はポカンとした表情のままで水割りを口に運んだ。
「二柱の神様が伊勢に遷られたので、元伊勢と呼ばれています」
更に小八木が付け加える。
「元伊勢は聞いたことがあるわ」
「その籠神社の創祀から奉祀してきたのが海部氏です。籠神社には日本最古の家系図である海部氏の家系図が保存されています。そしてその海部氏の流れを汲むのが犬養氏です」
と、小八木の説明。
「流れを汲むってどう言うこと?名前が変わっているじゃない」
「理由はわかりませんが、平安時代末期に当時の海部家次男が犬養家へ養子に行ったようです」
「次男坊が養子に行っただけで流れを汲むのね。何かこじつけっぽい」
「まあ、そうですね。その後両氏の交わりはほとんどないようですから。その犬養氏は、古代より丹後地方で鉄や水銀を産する鉱業を営んでいた氏族です。戦前には大陸まで進出して鉱山開発を手掛け、一大財産を築きました」
「あら財閥?すごい」
「金持ちには食いつくんだな」
梅木が零す。
「戦争でかなりの財産を失って少しの間低迷しますが、今の会長である犬養龍之介が京都を基点に関西を主な市場として貴金属の取り扱いを始めました。戦前に得た鉱石や貴金属の世界的な人脈ネットワークを利用して瞬く間に関西随一の貴金属流通会社にのし上がりました。それが犬養商事です」
「すごいわね小八木。会社説明会みたい。いっそのこと就職したら?でも、あまり聞いたことのない社名ね」
「『宝石の都』と言えばわかるでしょう?」
「ああ、あの高そうな宝石店ね。系列のブティックもあるわ」
「鈴には似合わない高級感」
梅木がさり気なく意地悪を言う。
「オバサン好みの店よ。私たちピチピチギャルには似合わないわ」
「ピチピチギャルって……。昭和か?」
梅木が鈴のグラスに氷を足してから、
「それで、仕事の内容は?」
と、話を元に戻した。
「犬養氏は丹後地方を地盤としていたこともあって、丹後半島沖にある無人島を所有しています。10年に1回、一族がそこに集まり、太古より連綿と続く儀式を行うそうです。今年が……」
小八木がそこまで言った時、
「まさか、悪魔の儀式か何かで私が生贄にされるんじゃないでしょうね?美少女火炙りとか、美少女緊博とか」
と鈴が口を挟むと、
「いちいち美少女がつくんだな」
と梅木が鼻で笑った。
「ロープで吊るされて、やらしいことされて、挙句に火炙りだわ。可愛い少女は不幸ね」
「はいはい」
鈴の無駄口を面倒そうに聞き流した小八木が、
「今年がその10年に一度の儀式を行う年です。3日間に渡る儀式なので犬養家の方々が泊まる別荘の掃除と食事の準備をするのが仕事です」
仕事の内容を説明した。
「食事の準備って、もしかしてお料理作るの?」
心もち鈴の顔が引きつっている。
「いえ、代々儀式を仕切っている神社の方が料理を作ってくださいます。僕たちはそのお手伝いと食事の後片付け、掃除、後は犬養家の人たちの小間遣いですね」
鈴の頬が緩んだ。
「しかし、藤田さんはよくそんなレアなバイトを見つけたな」
梅木が小八木のグラスに氷を足した。
「藤田葉菜さんがアルバイトをしている北白川にあるイタリアンレストランのオーナーは、犬養家の次女です。オーナーから指示された店長が、アルバイトの中で一番頼りになる藤田さんに声を掛けたようです」
小八木は水割りを口にする。
「なるほど」
「で、いかほど頂けるのかしら?」
乗り気になった鈴が揉み手をしながら上目遣いで尋ねる。
「食事と交通費込みで一日3万円です。しかも午前中に島に着く必要があるので、前泊費用も出してもらえます」
「前泊の日のバイト代はないの?」
「欲深い女だ。前泊を入れて4日間で約10万円も稼げるんだぞ。俺なんかここに5時間立っていても……」
梅木が不平を言い掛けたがマスターの視線を感じて言葉を濁した。
「仕方ないわね。小八木の顔を立ててあげるかな」
「別に無理しなくても……」
そう言った小八木の言葉を遮って、
「無人島で事件が起きたりしたら、まるで『金田一耕助』か『トリック』の世界ね。まさか電話がつながらないとか、船が来ないとか、そんなベタなシチュエーションじゃないわよね」
と軽く笑った。
「そのベタですよ。神聖な儀式ですから携帯の持ち込みは全員禁止です」
「マジ?」
鈴は小八木を見つめたまま絶句した。
男性の水死体が四条大橋で発見された夕方には遺体の解剖調査が完了し、死因が特定された。死因は大量の水が肺に入っていたことから溺死には違いがない。だが肺から検出されたのは地下水だった。水道水のように塩素分はなく、川の水に繁殖するような雑菌はなく、ミネラル分の多い水。自然の湧水か井戸水の類であろうと言うことだった。
「どこかの風呂桶にでも顔を突っ込まれて殺されたのだろう」
秦野が検死結果を聞いて口走った。
「地下水を汲んだ風呂なんてありますか?」
「ここは京都だぞ。古い家には井戸もあるし、そもそも京都は地下水の宝庫だ」
「そんな話を聞いたことがあります」
熊野は少し考えた後、
「と言うことは、ご遺体はどこかから運ばれて加茂川に放り込まれたと言うことになりますね」
と推理した。
「ご遺体の流れ着いた位置から考えて、御池橋と四条大橋の間で放り込まれたのだろう」
秦野と熊野は今朝確認した川の流れを思い浮かべた。川の水量から考えて、広く見積もってもその区間で放り込まれたと考えるのが妥当だ。
死亡推定時刻は23時から午前3時頃。0時前後なら祇園や木屋町、先斗町で遊んでいた酔払いが現場付近をふらついている可能性はある。また、もう少し遅い時間になると水商売の人間が帰宅する時間でもある。
捜査員たちは、当日の目撃情報を得るために聞き込み調査を行った。歓楽街の飲食店に協力を仰いで、従業員たちからも情報を収集したが有益な情報は得られなかった。
タクシー会社にも協力を要請し、不審な車の目撃情報を集めたり川端通りを走行したタクシーのドライブレコーダーを探ってみたりしたが、有力な目撃情報は得られなかった。
「金品目当ての犯行ではなさそうだな」
警察署の自席で秦野が呟いた。机には冷めた茶が湯呑に残っている。
「そうですね。どこを走っていたにしてもジョギング中ですからね。大金を持っていたとは思えません。怨恨による犯行でしょうか?」
熊野が隣の席で応える。
「どこかへ拉致されて殺された。しかし、拉致されたにしてはご遺体の傷が少ない。殴打の跡など手荒に扱われた痕跡はない」
「顔見知りに拉致されたと言うことですか?」
熊野の問いは秦野には届いていないのか彼の視線は遠くを見つめている。
「それに怨恨だとしたら、一発くらい殴った跡があっても不思議はないだろう」
秦野は自問自答しているようにも見える。熊野も頭を整理するつもりで疑問を口にした。
「しかし、二条や三条、四条辺りの賑やかな場所にご遺体を放り投げた割には目撃者のひとりも出て来ません。素人の犯行とも考えにくいですね」
ほんのしばらく、二人の脳裏に関係者たちの顔が浮かぶ。
「プロの犯行だと?」
秦野もしばらく考え込んでいたが、
「もしもプロなら、山奥に埋めるとか、海深く沈めるとか、ご遺体が発見されないように始末するものだろう。あんな所に流したら見つけてくれと言わんばかりじゃないか」
と言って、残りの茶を飲み干した。
「見つけてくれ、ですか」、
熊野がそう言って見つめた秦野の瞳も、何かに揺り動かされたように熱く輝いていた。
鈴は真青に晴れ渡った青空を見上げている。昼を少し過ぎた頃なので、真夏の陽射しはどんどん厳しくなってゆく。小八木がバーやすらぎで鈴をアルバイトに誘ってから3日後、星里鈴、小八木良太、藤田葉菜の三人は、京都府丹後にある籠神社を訪れていた。
明日から若狭に浮かぶ無人島で犬養家のお手伝いをするために、宮津の地に前日入りをしている。前泊の費用まで出してもらえると言うことで、三人は普通電車を乗り継ぎ3時間以上を掛けて丹後半島の籠神社にやって来た。
折角の前泊だから観光をしようと言うことになった。正直鈴はどこでも良かったが、小八木がどうしても籠神社を参拝したいと言って聞かなかった。
「小八木みたいな人がこんなにたくさんいるの?」
鈴が、大型バスから続々と降りて来るチャイニーズの観光客たちを見て溜息を吐いた。
「この神社の歴史的価値を理解しているのかしら?」
葉菜も、いささか興覚めた語気で団体客の行動を見つめている。
「私もあまり理解していないけどね」
鈴が面目なさそうに吐露する。
「鈴ちゃんも歴史研究会の部員でしょう?」
葉菜が素直な疑問を面に浮かべる。
「部員であることは確かですが、未だに稲作が大陸から伝わったと言う説を信じている人です」
「え?違うの?」
小八木は葉菜の言葉に嘆息したが、
「まあ、続きは今夜にしてとりあえず参拝しましょう」
と、鈴が手水舎に歩を進めた。鈴は手慣れた手つきで両手と口を漱ぐ。
「さすが歴史研究会ね、慣れている」
葉菜も鈴と小八木の所作を真似て手を清めた。
「お決まりのワンちゃんがお迎えね」
鈴がそう言って片側の狛犬に近づく。狛犬は千木の施された祠の中に鎮座していた。説明書きの札を鈴と小八木が熱心に読んでいる。
「へえ、いたずら好きのワンちゃんだったのね」
鈴の笑顔に釣られて葉菜も説明文を読んでみると、そこにはこの狛犬の伝承が記されていた。
曰く。天正の頃、この狛犬が突然、天橋立の松林に現れて、元伊勢詣での参拝者や通行人を脅かした。たまたま親の仇討ちのために潜んでいた岩見重太郎が鎮霊を決意して、夜に待ち伏せし刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現が途切れたという。以来、この神社に遷座して魔除けの霊験が聞こえたらしい。
「どうして人を脅かしていたのかしら?良くわからないわね」
葉菜が真面目に考えている。
「さあ、オスだからね。元気が有り余って、夜な夜な松林に隠れてゴソゴソしていたんでしょう」
「ゴソゴソ?」
「とにかく、心を清めてお参りしましょう」
苦笑しながら小八木が先をゆく。いくつかの団体客の間をすり抜けて拝殿前に辿り着くと、浄財を箱に入れてから厳かに参拝した。
(どうか、災いから日本をお護りください)
鈴は、神社で参拝する時の決まり文句を心の中で唱えた。葉菜は三人の中で最も長く頭を垂れて祈っていた。そこへ、何やら大声で討論でもしているような話し方のチャイナ団体が押し寄せて来る。
「眞名井神社へ行きましょう。きっと静かですよ」
鈴の苛立ちを察したのか小八木が提案した。女子二人は軽く頷いて小八木の後に続く。
参道の両側には田畑が広がり、眞名井神社に向かって緩やかな上り坂が続いている。右手には海の風景が広がっていた。
「わあ、綺麗」
葉菜が海を見渡して感嘆する。住宅の屋根が少し邪魔だが若狭湾を見渡すことができる。天橋立の松林北端が目の前に見える。しばらく歩くと石造の鳥居が現れて『外宮大元宮吉佐宮』と記された石標が立っていた。
鳥居を潜り、竹林の中を通る細い参道を進むとすぐに岩石で作られた手水所が現れた。
「これが天の眞名井の御霊水ね、冷たくて美味しそう」
「なんて罰当たりなことを。このご霊水は、籠神社海部家三代目の天村雲命が、神々が使われる『天の眞名井の水』を黄金の鉢に入れ、天上より持ち降った御神水です。天村雲命は、初めに日向の高千穂の井戸に御神水を遷し、次に眞名井原の地にある井戸に遷し、その後、倭姫命によって伊勢神宮外宮にある上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています」
小八木が鈴に説明したが彼女はもう歩き始めている。
「歴史に詳しいのね」
葉菜が感心して彼を見つめる。
「過去よりも前を見なさい」
前をゆく鈴が淡々とした語気で言った。
「前を見るために過去を見るんです」
葉菜に向かって決めセリフを吐いた小八木は、歩き出すなりぬかるみに足を取られてよろめいた。
「だから前を見なさいって言ってあげたのに」
鈴はさっさと石段を上りきり、質素な本殿に拍手を打って参拝した。その本殿の後ろに磐座がある。
「ここがパワースポットね」
鈴が両手を広げてパワーを感じ取る。
「すごい威圧感だわ」
葉菜も大きく深呼吸をした。
「それもそのはず。ここには天照大御神、イザナギのミコト・イザナミのミコトをお祀りし、奥の磐座には豊受大御神を祀っているのですから、とても神聖な場所です」
「オールスター戦でもやってたの?」
鈴の言葉は流される。
「この辺りから縄文時代の土器が出ていることから、古代から信仰の場所だったと言われています。まだ社殿がなかった時代の人々は大きな木や岩石などに神々が籠もると考えて、これらの磐座に神祀りを行っていたそうです」
「なるほどね」
お茶らけた割には急に神妙な表情に戻って、鈴は丁寧に二礼二拍手を行って参拝を済ませた。三人とも心を洗われたような神聖な気分に浸された。
男の水死体が発見されてから3日目、男の身元が判明した。名前は桧山修二。犬養商事の常務取締役。桧山が会社に出社しなかったため女性秘書が連絡を取ったが、スマフォを職場に置き忘れていたようで連絡がつかなかった。
桧山は独身だった。近親者に連絡を取ってみたが居所がつかめず、2日目になって秘書が桧山のマンションを訪れてみた。部屋はロックされていたため管理人を呼んで解除したが部屋は空だった。
部屋で倒れていると言う最悪の事態は避けられた。上司にも相談してもう1日だけ待つことにし、3日目に警察へ届け出た。秘書が驚くほど結果はすぐに出た。そして、彼女とその上司は京都府警本署に出向いて桧山の遺体を確認した。
その報を受けて熊野たち捜査本部が動き始める。桧山のマンションに捜索が入り、桧山の水死体が発見される前後数日間の防犯ビデオデータが解析された。
会社役員の住むマンションは豪華な高層マンションだった。3LDKの部屋には豪華な革張り応接セットや高級家具が並んでいる。
部屋全体を見ると荒らされた様子はないが、窓際にあるデスクの周囲にはパソコンの周辺機器が散乱しており、引き出しの中もかき乱された跡があった。
そして肝心のパソコン本体が見当たらなかった。また、パソコン周囲には必ずひとつや二つはありそうなUSBメモリやDVDと言った記憶媒体が一切見当たらない。
「何らかのデータが盗まれたようですね」
「ドアロックにピッキングされた跡はない。マンションのエントランスを通るにも鍵が必要だから犯人は鍵を持っていたと思われる」
「桧山を拉致して鍵を奪ったのでしょう」
熊野はそう言ってからデスクの引き出しを探ってみる。事務用品や書物、書類などが綺麗に収まっている。犯人は記憶媒体がなさそうな所には手を付けていないようだ。
「古い写真ですね」
クリアファイルに入った一枚の色あせた写真を熊野が取り出した。
「若い頃の桧山か。イケメンだな」
秦野も写真を手に取ってみる。どこかのバーかレストランで3人の若者が並んで写っている。真中に女性がいて、向かって左側に桧山、右側にも男性がいる。3人とも20歳前後かと思われる。
「普通、アルバムに保管しますよね」
「昔から引き出しにしまっていたのか、アルバムから取り出したのか、それとも最近誰かからもらったのか」
その後、写真のアルバムを調査したが、同じメンバーで撮った写真も同じ店で撮った写真もなかった。しかし、写真を剥がした跡がアルバムにあった。
「そんな写真が気になるんですか?」
熊野は秦野がこの写真に拘っていることが不思議だったが、刑事の勘が働いているのだろうと思った。
桧山の部屋を家宅捜査した後、秦野と熊野は犬養商事の本社を訪れた。もう夕方になっている。受付に要件を伝えた二人は応接室に通された。
桧山の女性秘書とその上司である総務部長、そして人事部長の三人が二人の相手をした。
「お忙しい時に申し訳ありません。常務が亡くなられたとなると、いろいろ大変でしょう」
「ええ、このような事件は初めてですから、何をどうすれば良いのか途方に暮れています」
総務部長は疲れた表情に苦笑いを浮かべる。
「お察しします」
秦野は深く頭を下げてから早速本題に入る。女性秘書からは、桧山常務が出勤しなくなってからの経緯を確認したが、報告書に書いてあるとおりだった。
「最近変わった様子はありませんでしたか?誰かに脅かされているとか、後をつけられているとか、そう言ったことは仰っていませんでしたか?」
「いえ、特には」
秘書は少し考え込むような仕草をしてから答えた。
「桧山さんのパソコンはありますか?」
「はい、常務の役員室にデスクトップパソコンが置いてあります」
「本体をお借りすることは可能ですか?」
秦野が秘書と総務部長の方を見て確認する。
「どうぞ、構いません」
「ありがとうございます。ところで、桧山さんはご自宅にパソコンをお持ちでしたか?」
「はい、持っていたと思います。時々、自宅で仕事をすると言ってデータを持ち帰っていましたから」
秘書が静かに答える。
「どんな型のパソコンですか?」
「さあ、詳しくは存じませんが最新のノートパソコンだったと思います。常務はIT関係に興味を持っていまして、よく新しい機種に買い替えては自慢げに話しておりました」
「情報システム部の管掌役員でもあります」
人事部長が補足した。今度は熊野が出雲大社の御守の写真を取り出して3人に見せた。
「これを桧山さんが身に着けているところをご覧になったことはありませんか?」
3人は写真を見つめたまま黙している。
「首に下げていたとか、上着のポケットに入れていたとか」
熊野は秘書の目を見る。
「いえ、記憶にありません。常務はいつもネクタイをしていましたから、首に掛けていたらわかりません。上着から出したり、机の上に置いてあったりすれば記憶に残っていると思いますが。全く見覚えがありません」
熊野は総務部長と人事部長の方を見て、
「ゴルフなどで風呂に入ったりされますよね?その時に見たようなことはありませんか?」
と視線を光らせる。
「何度かゴルフをしたことはありますが、男が服を脱ぐところをじろじろ見たりしないですからね」
そう言って人事部長が軽く笑った。
「そうですか」
熊野が少し落胆すると、今度は秦野が例の写真のコピーを持ち出した。
「この2人に見覚えはありませんか?恐らく30年以上前の物なので、人物の老化を想像して見て頂く必要がありますが」
秦野が女性ともうひとりの男性を指さしている。3人はしばらく写真を凝視していたが、自然と首を捻って、
「見覚えはないですね」
と困惑した風に答えた。
「そうですか。では桧山さんが入社されてから今までの経歴をざっと話して頂けますか?」
秦野が人事部長に依頼すると、一瞬、人事部長の表情が曇ったように思えた。
「どうかされましたか?」
秦野の目が静かに輝く。
「手元に資料がないので、詳しい年月がわからないと思いまして」
「資料は後で見せて頂くとして、記憶の限りで結構ですのでお話しください」
「わかりました」
人事部長がちらりと秘書の方を見ると、
「では、私は常務のパソコンをお貸しできるように準備をしておきます」
と言って部屋を出て行った。
「桧山常務は中途入社です。確か20年ほど前に入社したのですが、前職は自営業をやっていて、会長からの指示で入社手続きを行いました。正直なところ、あまり仕事ができる方ではなかったのですが入社してからは順調に昇進して、10年ほど前に管理職になった後、5年前には常務取締役に就任しています」
「何かご不満そうですね。メモは取りませんよ、世間話程度に聞きますから何でも話してください」
秦野が柔らかい笑顔を浮かべて空気を和ませる。熊野は彼の誘導の上手さに心服した。
「いえ、不満と言う訳ではありません。当社はオーナー企業ですから上からの指示で人事が決まることは日常茶飯時です」
人事部長はそこでひと息吐いたが、総務部長が後に続く。
「しかし、犬養家以外の者が役員になったのは桧山が初めてですからね。当時は、オーナーである会長が桧山に弱みを握られているとか、桧山を後押ししているのは会長ではなく会長夫人ではないかと言った、根も葉もない噂をよく耳にしました」
「何か会長に弱みがあるのですか?」
「いえ、何も存じませんよ。しかし、会長の犬養龍之介がこの会社をここまで大きくしましたからね、人に逆恨みされるようなことがあっても不思議ではないでしょう」
「会長夫人は会社の役員でもされているのですか?」
「いえいえ、全く仕事には関わりはありませんし会社に顔を出されたこともありません」
「そうですか。どこの組織も人事は難しいですな」
秦野はニコリと笑い、目の前に出されていたお茶を啜った。
コバルトブルーの海面を跳ねるように進むクルーザーが、白い軌跡を残しながら青空に向かって突き進んでゆく。後ろを振り返ると天橋立の松林が遠く霞んで見える。丹後半島の低い山の背景には白い雲が帯を連ねている。
「小八木、ビールはないの?」
「まだ朝の八時ですよ」
「あら、お酒飲むのに時間を気にする男がいるのね?」
鈴はクルーザーの後部デッキに固定されたチェアにもたれ掛かって、正面に座っている小八木を可愛く見つめた。
「気にしない女もいるんですね」
小八木が何気に視線を落とすとミニスカートから鈴の白い脚が伸びている。
「昨夜あれだけ飲んだのに、もう飲みたいの?」
鈴の隣のチェアに座っている葉菜が呆れ顔で零す。籠神社参拝と天橋立観光から戻った3人は宮津温泉で大いに飲み食いをした。安い宿だったが学生には十分贅沢な宿だった。
「しかも、これから仕事ですからね」
「そんな固いこと言わないでよ。到着までまだ時間があるでしょう?こんなに良い天気で爽快な気分なのに、ビールの一杯も飲まなかったら神様に叱られる。罰が当たるわよ」
「そんな神様、聞いたことがない」
「会ってみる?」
ニヤリとした鈴は、白地に花柄模様が入ったノースリーブミニワンピの、ややタイトなスカートの裾を少し持ち上げてパタパタと軽く扇いで見せた。そして思わず視線を向けた小八木に向かって、
「見えたでしょ?神様」
と、からかった。
「何の神様?」
「彼女もいない男にとっては神様に見えるでしょう?」
鈴の戯れにふっと笑いを零した小八木は、
「神様なら白装束のはずじゃ?」
と言って海に視線を向けた。
「神様だって水色気分の日もあるわ」
「いったい、何の話をしているの?」
葉菜がポカンとして二人を見つめる。
「勝手に私の神様を見た罰よ、免罪符としてビールを持って来て」
葉菜には構わず鈴が続ける。
「見せられたこと自体が罰ゲームなんですけど」
小八木は呆れながら席を立った。
「もしかして、二人はつき合っているの?」
葉菜が小声で尋ねる。
「まさか」
「何か、とても仲が良さそうだから。すべてわかり合っているような」
「わかりやすい男だからね」
そこへ小八木がビールを片手に戻って来た。
「自分の分も持って来てるじゃない」
「どうせ、ひとりで飲むのはつまらないとか言い出すに決まっていますから」
小八木は再び鈴の前に腰を下ろす。
「やっぱり、つき合っているとしか思えないわ」
葉菜が小八木を見つめながら蒸し返す。
「この男はサイバー空間で生きているの。だから生身の女には全く興味がないのよ」
「全くと言うことはないですよ」
オタク扱いされそうで弁解を始めようとした彼を遮った葉菜は、
「まあ、好みは人それぞれだから……」
と、少し引き気味に不器用な笑顔を作った。そして、まだ二人の仲を疑うような視線で鈴と小八木を見つめてから、さわさわと流れる海の風景に視線を移した。
この豪華なクルーザーは、犬養家が用意してくれたもので3人を宮津から運んでいる。彼らを運んだ後、犬養家の人々もこれに乗ってやって来るようだ。
ビール缶も空になって久しく、海の景色にも飽きて来た頃、
「あれが犬養島?」
海上にポツリと浮かんだ緑の小島を指さして、鈴が半信半疑で小八木を見つめた。
「時間的にはそろそろ到着時刻ですからね。あれがきっと目的の島なのでしょう」
2時間近く青い海を疾走したクルーザーは、次第に速度を落としながら島の東側を回り、島の北側に作られた、小型ボートがやっと停泊できる程度の小さな桟橋に係留した。クルーザーの後部三分の一ほどしか桟橋に掛からず、3人はそこから下船した。
桟橋に近づいてわかったことだが、島の北側にもうひとつ小島があり親子のように仲良く並んでいる。泳いででも渡れそうな距離だ。北側の島は小さく、鈴たちが上陸した島の五分の一ほどの大きさしかない。
そして両島の海峡には多くの岩が頭を出している。岩礁が広がり、クルーザーは通れそうになかった。
鈴と葉菜が先に進んだ後、小八木はクルーザーの船長とともに食料等をまとめた、エレベスト登山並みのバゲージを背負って階段を上る。階段と言っても、岩場の地形を利用して所々を斫って作られた簡易な階段だ。割と急な勾配で、海面から10メートルほどの高さがある崖の上へと続いている。
岩場の階段を登りきるとしばらく低木の原野が続き、数分歩いた辺りでわずかな平原が広がり、木造平屋建ての建物が目に入って来た。白い塗装でオシャレなペンション風の建屋だ。
「ご苦労様、裏庭に回って荷物を置いてちょうだい」
40歳くらいの、愛想の良さそうな女性が小八木と船長に指示をする。結局、鈴たちがロビーでひと休みしているうちに、船長と小八木は3往復して荷物の運搬を終えた。
「もう1回、荷物を積んで来るからよろしくな」
そう言い残して船長は波止場を離れて行った。恐らく、犬養家の人たちと一緒に荷物を運んで来るのだろう。十数人が3日間滞在するのだからかなりの食材が必要なことは想像できる。
小八木が別荘に戻ると、鈴と葉菜がさっきの女性に建物内の案内をしてもらうところだった。
「ああ、久子さん。この華奢な男が小八木です。サイバー空間で生きています。小八木、こちらは宮津の白山神社で神官をされている守井久子さんよ」
「よろしくお願いします」
小八木が丁寧に挨拶をする。
「よろしく。可愛い坊やね。じゃあ、こちらから案内しましょうか」
この建物は長方形の造りで、玄関を入るとすぐにロビーがあり、革張りの応接ソファとガラステーブルが東側の窓際に置いてある。窓からは群青色の海景色を望むことができる。
「これがセキュリティ装置よ。夜は施錠してセキュリティをセットします。このランプが点灯している時はセット中だから、絶対に扉を開けてはだめよ。警備会社と携帯電話でつながっているから、警報が鳴ったら警備会社の人がスピーカーで確認の呼び掛けをしてくるの。とても大きな音なのでびっくりするわよ」
「侵入者を驚かす意図もあるのでしょう。でも、どの道警備員はすぐには来られないでしょうね」
「泥棒さんも島から逃げられないわよ」
鈴たちの会話に笑みを浮かべた久子は続ける。
「装置を設定、解除するカードは私しか持っていないので、どうしても夜中に外へ出たい時は窓から出てね。ああ、私の寝場所は島にある神社なの。この別荘には泊まらないので」
「へえ、無人島なのに神社まであるのね」
「宮津の白山神社から分祀しているのよ」
「へえ、わざわざ。すごい」
久子の応えに鈴がひとり感心しているが、感心している振りだけで内心全く興味をもっていないことを小八木は見抜いている。
「勝手口にもセキュリティが?」
葉菜が確認すると、当然と言いたげに久子が大きく頷いた。
玄関を入って左手すぐに物置があり、建物の西側には7つの寝室が奥まで並んでいる。右手、東側にある応接セットの奥には広いダイニングルームがあり、その手前に男女の浴室と数人用の洗面台に男女兼用のトイレがある。
ダイニングルームの東側には窓が広がり海の風景が絶景だ。ダイニングルームの左手、浴室の裏側にキッチンがあり、勝手口から裏庭に出ることができる。小八木たちはそこから荷物を搬入した。
「ここがあなたたちの部屋よ」
玄関横の物置に近い方から小八木、鈴、葉菜の名前がドアに貼ってあった。部屋の広さはホテルのツインルーム並と言ったところだ。部屋には天井がなく、梁が剥き出しになったロッジ風の造りでトイレにだけ天井が乗っている。
家具はベッドと木製の丸テーブル、椅子が2脚。テーブルと椅子はまだ新しい。
「今回の儀式のために、全部屋のテーブルと椅子を新調したのよ。前のテーブルは30年近く使っていたから」
久子が自慢げに言った。
「でも、10年に1回しか使わないのでしょう?勿体ないわ」
葉菜が家具を見渡す。
「いえ、犬養家の方全員が集まるのは10年に1度だけど、個別には良く遊びに来られます。夏は海遊び、冬は蟹料理が堪能できますからね。特に次男の一馬さんは釣りがお好きなので、ひとりでも良く来られます」
「家族で来たら、お子さんが喜ぶでしょうね」
小八木が嬉しそうに言った。
「皆さん、四人ともお子さんがいないのよ」
久子が急に小声になった。
「じゃあ、夫婦で遊びに来られるのですか?」
「そう言う時もあるわよ」
「そう言う時も……。もしかして、ほとんどは愛人と?」
鈴が嬉しそうに言ったが、久子は笑って誤魔化した。
「ところで、テレビはないのですか?」
小八木が確認する。
「ごめんなさいね、あなたたちの部屋にはないの。兄妹たちの部屋にはあるんだけど。もし見たい番組があるなら、ロビーにあるのを見てちょうだい」
「わかりました」
「それから、部屋は全てオートロックだから鍵を閉じ込めないように気をつけてね」
久子がそう言ってドアを締めた。
「久子さんはずっとこの島に住んでいらっしゃるのですか?」
小八木の質問を耳にしながらも、鈴は部屋にテレビがないことに不満なのか、少し不機嫌な顔をしている。
「まさか。月に1度、神社の掃除とお参りをする時、年に数回のお祭りを行う時、それから犬養家の方が遊びに来られる時にだけこの島に渡ります」
「なかなか大変ですね。片道2時間もの船旅でしょう」
葉菜はあまり船が得意ではなさそうだ。
「もう慣れたわ。私たち地方の人間からすれば、毎日満員電車に乗って通う都会の人たちの方が大変だと思いますよ」
久子が笑った時、玄関で男の声がするとすぐに足音が近づいて来た。
「久子さん、龍之介さんたちの昼食を頂きに来ました」
清々しい容姿の若い男性が、廊下に立っている鈴たちに向かって話し掛けて来た。
「あら、イケメン」
不機嫌だった鈴に輝く笑顔が戻る。葉菜は興味なさそうだ。
「吹田雄一さん。お医者さんよ」
久子が紹介する。
「お医者さん!」
「鈴さん、獲物を狙うオオカミの目になっていますよ」
小八木が鈴の興奮を抑えた。
「初めまして、吹田です。犬養家当主の犬養龍之介さんの掛かりつけ医をしています。龍之介さんはほとんど寝たきりなのですが、どうしても今回の儀式に参加されると言うのでお供しています」
雄一はそう言って軽く会釈した。鈴たちもそれぞれが簡単に自己紹介を済ませたところへ、久子がキッチンからクーラーボックスを運んで来た。
「これからやって来る四兄妹のご両親である龍之介さんと文美さんは昨日から来られているの」
「どの部屋にいらっしゃるのですか?」
小八木が久子に尋ねた。
「船着場から隣の島が見えたでしょ?あちらが本島で、犬養家の本宅があります。お二人は本宅にいらっしゃいます。雄一さんも一緒にね」
「小さい方の島が本島ですか。不思議ですね」
「まあ、歴史的な事情があってね」
歴史的な事情と聞いて小八木のテンションが上がり掛けたが、
「どうして一緒に過ごさないの?」
と、鈴が水を差した。鈴はいつもよりも微妙に可愛い声を出している。
「龍之介さんは83歳でご病気ですから、騒がしい人たちとは一緒に居られないのでしょう。それに、どこの家庭にも事情はあるものよ」
久子が意味ありげな笑みを浮かべた。
「どんな事情?」
「鈴さん、失礼ですよ」
小八木が抑えに掛かる。だが、久子は若干声を小さくして、
「文美さんは後妻なの。子供たちは皆前妻の子供だし、文美さんの歳はまだ56歳だから、長男の龍彦さんとは10歳も違わない。昔から色々あったみたいよ」
とオバサン口調で説明した。
「何となくサスペンスの香りが漂って来るわね」
鈴が嬉しそうに笑ったが小八木は呆れている。
「雄一さん、急いだ方が……」
葉菜の言葉に頷いた雄一は、クーラーボックスを肩に担ぐと、
「バーベキューには僕も参加しますので、よろしく」
と言って別荘を出て行った。
「隣の島へはどうやって行くのですか?」
小八木が久子に確認する。
「ゴムボートよ。操船できる人もいないし、隣の島とは目と鼻の先だから手漕ぎのボートで十分」
確かに両島の間は狭く、泳いででも渡れそうだ。小八木は得心した表情になったが、鈴はなぜか先ほどから怪訝な表情で虚空を見つめている。
「あっ、それから台所に内線電話があって本宅とつながっているの。もし呼び鈴が鳴ったら出てね。掛けて来るのは文美さんか雄一さんだから」
三人が小さく頷いたのを確認した久子は、
「では、そろそろバーベキューの準備をしましょうか。誰が料理を手伝ってくれる?」
と言って3人の顔を見渡した。
「勿論、葉菜ちゃんです」
すかさず鈴が答える。
「じゃあ、小八木君と鈴ちゃんは表の庭でテントの設営をお願いね。道具は物置にあるから」
そう言い残して久子と葉菜はキッチンへと進んで行った。
「ちゃんと手伝ってくださいよ」
小八木が無駄だと思いながらも釘を刺す。
「あら、か弱い女に力仕事をさせるなんて、ひどい殿方ですこと」
戯言を放っている鈴を放置して、小八木はひとり物置の扉を開けた。
【本章の整理】
・籠神社奉祀の海部氏…………犬養家(現在は貴金属を扱う犬養財閥)犬養商事
・犬養龍之介 83歳(犬養商事会長)
|
前妻 ⇒ 龍彦 48歳
文美 56歳 後妻 次男
長女
次女 小夜 38歳レストランオーナ
| バイト
藤田葉菜 20歳(学生)
| クラスメイト
小八木良太 21歳(学生)
|歴史研究会
星里鈴 21歳(学生)
・守井久子 39歳(宮津白山神社神職 犬養島別荘の管理人)
・吹田雄一 30歳(犬養龍之介の掛かりつけ医師 鈴のお気に入りイケメン)
・桧山修二 53歳(被害者 犬養商事常務取締役)
・熊野刑事 29歳(京都府警一課巡査部長 鈴と腐れ縁)
波止場
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扉
〇〇〇〇〇●●●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇 ●警報装置 〇 ダイニングルーム〇崖
〇 〇 ●● 〇
〇 キッチン ●● 〇
〇 〇 鈴たちのテーブル〇
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇
〇 〇 〇 〇 〇 ●● 〇海の景色
窓● 龍彦 ●扉 〇 〇 〇 ●● 〇
〇 〇 〇 〇 〇 ●● 〇
〇〇〇〇〇〇〇 〇女風呂〇男風呂〇 ●● 〇
〇 〇 〇 〇 〇 ●● 〇
● 一馬 ● 〇 〇 〇 ●● 〇
〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇 〇 〇 〇 兄弟たちのテーブル〇
〇
〇〇〇〇〇〇〇 〇 〇 〇
〇 〇
〇 〇 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇
〇
● 小夜 ● 〇 〇
〇洗面台
〇 〇 〇 〇
〇
〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇 〇〇〇〇〇 〇
〇 〇 〇 〇 〇崖
● 波留 ● 〇 共同お手洗い〇 〇
〇 〇 〇 〇 〇
〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇
〇 〇 〇
● 葉菜 ● 〇
〇 〇 〇
〇〇〇〇〇〇〇 ●●●● 〇
〇 〇 ●●●● 〇海の景色
● 鈴 ● ソファ 〇
〇 〇 ロビー 〇
〇〇〇〇〇〇〇 ●●●● 〇
〇 〇 ●●●● 〇
● 小八木 ● ソファ 〇
〇 〇 〇
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇
〇 〇 〇
〇 物置 〇 土間 〇 テレビ〇
〇 ●警報装置 〇
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇●●●●〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
扉 〇
〇崖
〇
〇
〇
← 白山神社 〇海の景色
BBQができる庭 〇
〇
〇
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇犬養家は創造上のものです。実在した海部家とは一切関係ありません。