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近頃では、仕事にも少しだけ慣れてきた。
慣れるというのはストレスに耐える為の人間の適応能力であって、僕は仕事を充実だなんて決して言うつもりはない。あくまでも、耐性がついただけだ。
「アール。帰ろう」
「今日もお疲れ様。近頃は調子が良さそうだ」
あれから、シュウとは何度か会っている。
彼とは話がよく合う。
僕の迷いも、憂いも、全て受け入れてくれる。
美しい人だ。
容姿の事だけじゃない。
人格、寛大な心、鋭い知性。
何より、僕と同じ憂いを抱きながらも、彼は世の中を上手に生きている。
彼のお陰で僕も少しずつ大人になれてる気がする。
「アール。お前は僕の元にいて満足か?」
職場から自宅に向かう途中、歩きながら僕は尋ねた。
「私にそれを判断する事は出来ない。所有者のユキが私を所有する事に満足か否か決めるべきだ。そもそも、ここでの満足の定義が不明だ」
「やっぱクールだ」
僕は思わず笑った。なんだかんだで、僕はアールとの生活が嫌いじゃないのかもしれない。
「だが、私は契約主の変更は望まない」
「え?」
自分の耳を疑ってアールを見上げるけど、彼は口を閉ざして知らんぷりだ。
彼に望む、望まないの意思があるわけないのに、今の言葉は彼の意思を示していた。
まあ、きっと成長型人工知能が気が利く言葉をマスターしたんだろう。
夜になって、僕はアールを連れて渋谷に来た。
今までスタジオにしか用が無かった場所だけど、近頃は偶に来る。
これもシュウの影響なんだけど。
「あ、ユキ!今日は来ると思ったわ!」
「こんばんは。シュウは来てないんだね」
渋谷のクラブは今日も賑わっていた。僕を見つけると同時に寄ってきたのは、ピンク色の髪を背中まで伸ばした派手な女性だ。
「何よ!私じゃなくてシュウに会いに来たわけ?メッセージ送ればいいじゃない!」
「いや、居たらいいなと思っただけだから……エミにも会いたかったよ」
僕の取ってつけた様な台詞が気に入らなかったのか、エミはいじらしく頬を膨らませた。
「ま、いいわ。今日も踊らないの?」
「ああ、見てる方が好きなんだ」
DJがいるステージから離れた場所にあるバーカウンターの高い椅子に座る。
エミも隣に座り、アールは僕らの後ろに立った。
「ユキって変わってるって言われない?」
「僕にとったら、エミや皆んなの方が変わってるよ」
「ふぅん」
エミはカクテルグラスに入ったピンク色の液体を口に含んだ。一体何を注文したのだろうか。きっと味ではなく見た目を楽しみたくて頼んだのだろう。
「私、実家帰るの」
唐突な話題に、一瞬だけ反応が遅れてしまった。そもそも僕は彼女の出身地すら知らない事にすぐ気付いた。
「愛知よ。……ねえ、どうでも良さそうな顔しないでくれる?」
「そ、そんなつもりは……」
「ま、いいわ。ねえ、来週末空いてるわよね?」
彼女は、きっと僕とは比較にならないスピードで話したい事が浮かんでくるのだろう。だから口癖の「ま、いいわ」で様々な事を切り捨てる。サバサバした性格なんだ。
だから僕も彼女の取捨選択を見習い、瞬時に返答する。
「残念ながら来週末は……」
「じゃあ土曜のお昼ね。私、アナタに見送られたいの。良いわね」
「話聞いてた?」
僕は「残念ながら」って言ったんだ。どんな思考回路が彼女との約束を取り付けたのか、理解不能だ。しかもタチが悪いのは、僕が断る素振りを見せた途端、疑問形ではなくなった。「良いわね」なんて、僕に決定権などないじゃないか。
「ユキ、来週の土曜日は空白だ。昼にエミとの約束を入れておこう」
「あら、アールは素敵ね」
アールまで僕を陥れる。大体、どうして僕なんだ。クラブ遊び常連のエミは顔が広いのに。僕なんてエミと会ったのは三回目くらいだ。彼女が実家に帰る理由も知らないし、この外で会った事もお花見の時の一度しかない。
「アナタって考えてる事が顔に出やすいのよね。見てて飽きないわ。何故って、今考えてるでしょ?」
無言を貫く方が賢明だろう。僕の思考は彼女の自由我儘には太刀打ち出来ない。何より、僕が黙っていても彼女の話は止まらない事は間違いない。
「確かにね、今のご時世どんなに離れていても簡単に繋がれるわ。仮想現実空間で落ち合えば、こうして話すのとなんら変わらないし。でも、私はそういうの好きじゃないの。ネットで会った子を繋ぐのはネットだけ。リアルで会った子を繋ぐのは、この現実世界なのよ。それで、どうしてユキかって話だけどね、なんとなくよ」
「はぁ?」
なんてことだ。僕はなんとなくで休日に呼び出されなくてはいけないのか。
しかし、何故僕は彼女の誘いを逃れようとしているのか。確かに今までは、現代人の揶揄を歌っていたから、他人に対して敵対意識に似たものは持っていた。理解出来ないと、距離を置いていた。
でも、僕はもう歌う事をやめたんだ。
大人になって、現世を生きようと、決めたんだ。
なら彼女と普通に仲良くすれば良いじゃないか。
「ジョークよ。少しだけね。まあ、理由はいろいろあるけどね、一番はユキが空っぽじゃないから、かな」
僕はその言葉を受け入れられなかった。
最後のライブを終えてから、確かに僕の心にはポッカリと穴が空いたんだ。その後に穴を塞ぐ出来事があったから大した痛みにならなかったけど、それは確かな事実。
工事現場でも穴にセメントを流し込んだりしてるから、人の精神の防衛手段として効率的だったのかもしれない。
でも、やはり内容物は無機質で、今までそこにあったものとは違う。密度を埋めるだけの安っぽい応急処置では何も満たされない。
だから僕が空っぽではない、と言うのは不適切だろう。
そう思って口を開こうとするのだが細長い人差し指が僕の口を塞ぐ。
「否定するつもり?でもね、見て頂戴。ここにいる誰も彼もが頭の中空っぽにして踊り惚けている。自分が何故踊るのかも考えた事ない連中ばかりだわ。眺めてる連中だって、アナタみたいに人々のエネルギィを観測して楽しいなんて答える人はいないのよ。わかる?私はアナタに価値を感じたの。ユキと話をして、良い思い出でここの生活に幕を閉じたいの」
漸く話は終わったようで、エミは口を閉ざし、うるさい音楽と人々が発する雑音だけが僕の耳に入ってきて。どこか現実離れした空間で、僕は呟いた。
「エミも頭空っぽだと思ったけど、空っぽなりに色々考えてるんだな……」
「ユキ。考えてる事が顔に出やすいからって、思った事なんでも口にするのはよくないわ」
僕はエミに額を突かれて少しよろけた。エミの力が強かったんじゃなくて、僕の頭が軽かったのだ。なんだ、僕の頭も空っぽじゃないか。




