潔癖
手から手へ、命を繋ぐ、愛が。
人はみな、親から寵愛を注がれて愛を知る。雪もそうだった。大好きな両親から愛することを教えられ、彼女もまた彼らを愛した。しかし、全ての人がそううまくいくわけではなかった。望まれずに生まれ落ちた彼は、誰からも愛されずに育った。彼がもともと持っていたものは、歪んだ愛だけだった。13年間、人に好かれることも人を好くこともなく、生きてきた。二人が出会った時、彼女は彼を変えた。彼女は他の人と違った。初めて、彼を認めてくれる人だった。今まで、自分に興味を持ってくれる子だっていなかった。初めて出会ったあの時握手をした、手を握った感触は今でも憶えている。「よろしくね」目を合わせてそう言われたとき、心をぎゅっと掴まれて、胸が高鳴った。知らなかった感情。何かに憐憫を感じて、ほんの少し切なくなるあの感じ。大切なものがここにあると知った彼は不器用ながら、雪を愛していた。何よりも、雪が、そう大切だった。
雪は足枷をつけられて、あの部屋にいた。本来なら西日が傾くあの部屋に。分厚い遮光カーテンに遮られ、光の届かないあの部屋に。世界から、唯一隔離されたあの部屋に。東京の端の、誰も知らない空間で。雪は見つかっていなかった。懸命な捜査は、依然続いているものの。雪は人望もあるいい子で人懐こく、顔も広かった。だから父親や警察だけでなく、古い友人や学校関係者も、色々な関係のあった知り合いも皆、雪のことを悲しみ、必死で探していた。とうの雪は、学校から数分のアパートの一室にいるというのに。誰もの心からあの大事な雪がいなくなって、皆は心の奥底の、優しい痛みに襲われた。雪も始めはみんなのことに思いを馳せて、悲しくなっていた。いつか救い出される日を願っていた。でも今は、何かを呟きながら、壊れてしまったかのように時間の経過を待つだけだった。長時間でもない長期間の間監禁されるというだけで、幼い心には深い傷だった。彼の帰りを静かに待つ。下を向いていると涙がぼろぼろ溢れてきて、頬を伝い落ちていき、床を濡らした。もう限界だと雪は思って、考えようもない何かに向かって叫んだ。
「誰かーーーーー」
喉を破るほど声を張り上げる。ただ、声は思うように出てくれず、また誰の耳にも届いていないようだった。それでも雪は叫び続ける。
「誰か、誰か、助けて! 助けて! 私は違う、お願い、助けて! 誰か!」
雪の助けを求める声は、誰にも届くことがない。誰にも届かない。雪は、叫び続ける。聖女の祈りのような清らかさを失い、報われることはないのに、それでも悲痛な叫びは続く。
玄関の鍵を開ける音がした。
顔を上げる。誰、きっと彼だろう。心が軽くなる感覚がある。最低限の人との触れ合いさえなく、お日様の光とも数日間無縁なままでいさせられ続けたのだ。ようやく、やっと、人に会える。それが孤独にさせられた彼女には、ほんとうの救いだった。もう、彼が嫌とか気持ち悪いとかだなんて思わないくらいにさせられていた。ただ、そばにいてくれるだけでうれしい。きっとドアが開く。彼に、人に会える。言葉を交わせる。
「川瀬くん」
冷静に、自分の声を聞ける。自分ってこんな声をしていたっけ、と思う。「ただいま」彼がドアを開けてくるので、足枷の鎖の伸びる限界まで彼の近くに擦り寄った。人の形をしている。温かさをもつものがある。触れる。動く。自分で、規則的なパターンのない自由な動きをとることができるものが、自分以外にある。表情が変わる。心の中を映す顔つきがある。指で確かめる。彼の左胸に、ちゃんと鼓動がある。生きている、自分に反応をくれるものが存在している。そこにいい人悪い人の概念も無かった。関係なかった。そんな、生のあるものにすがりつく。そこに屈辱もためらいもない。生きているから、他の生を感じ取りたいから、触れ合う。もう、この心の痛みを少しでも消してくれるなら、誰だってよかった。