すぐのこと
「ただいま」
彼は疲弊を顔に滲ませてドアを開けた。お帰りと言うことには抵抗があって、雪は何も言わず押し黙る。荷物を床に投げ出し、コーヒーメーカーを起動させる。カップに二つ作って、片方に角砂糖とミルクを混ぜながら雪の隣へ来た。二人でベッドに腰掛け、雪にカップを手渡し、彼は安心しきったようにする。雪はその正反対だった。身体を硬くして、何も出来ずにいる。
「今日、テストだったんだよ。疲れたなぁ」
「……そうなんだ」
何を言えばいいのか。学校で見ていた彼とは別人のようなのに。彼女はカップに口をつけることなく、顔を下げて水面を見つめるだけ。足かせは外されていない。一人きりでずっと待たされる気が狂いそうな孤独感から解放されたのは事実だったが、また別の苦しさが襲ってくる。しばらくたったあと、勇気を出して雪は切り出した。一番訊きたいこと。
「……あのさ、いつまでこんなこと続けるつもりなの? お願いだからもう帰して。2日も帰ってないんだよ。川瀬くんのこと、きらいってことじゃないけど、……みんな心配するかもしれないし、私だって……」
「ずっとだよ。これからずーっと、雪ちゃんはここにいるの。ここにいるのが正しいんだから」
「でも、……どうして? 私何もしてないよ。これ、悪いことした人にするものじゃないの?」
足かせを示してみせる。彼は、それがどうしたのかとでも言うような目で私を見る。もうベッドに繋がれているのに、彼は私の手を取り、机の上の手錠を掴む。
「イヤっ、ちょっと、川瀬くん」腕をどんなに強く引いてもなんでもないように私の動きを止めさせ、震える手で手錠をかけさせる。もう片方は、珍しく彼の左手にかけた。彼が腕を引くと私が引っ張られる形になり、これでは体格の大きい彼にされるがままだ。腕一本では何の抵抗にもならないことも、私は知っていた。
かちゃかちゃと手錠が腕に当たる感触が、トラウマに近いあの彼の姿を想起させる。
「雪ちゃん、ほら見て、手なんかこんなに小さくて……女の子だからかな? でも、すごく綺麗だ」
私の手を撫でながら、彼は恍惚として言う。離してもらいたくても、錠のせいで動かせない。手錠をかけさせたままの手を綺麗だとか言うなんて、言いたくはないけど本当に異常だ。どうしてしまったんだろう。
でも、まだ諦めたらいけない。言えばきっと、わかってくれる。諦めずに訴えれば、彼も受け入れてくれるはず。だって前は、あんなに優しい人だったのだから。心を持って行かれて、好きでたまらなくなるくらいに優しかったのだから。「ねぇ」
そっと勇気を出して、彼の手に重ねた。彼の狂気じみた笑みが凍りつく。ぐっと指に力を入れる。これが彼の、身体……ごつごつとして骨っぽくて、男の人らしい手だった。右の手の甲の、人差し指の下に、薄い赤いすり傷。こうして、きちんと人らしさがあるのに……爪が、縦に長かった。
「……お願い。私だって川瀬くんと一緒にいたいけど……でもやっぱりずっとここにいるのは、できないよ。川瀬くんが私のことを思ってくれるなら、私の好きなように……」
彼は心が無いような冷たい目で彼女を見据えていた。雪も思わず押し黙る。怯えて途切れた声。そっと彼が手を動かし、雪の手の甲を思い切り抓った。
薄い悲鳴が上がる。
歯をくいしばって耐え、必死でこの攻勢から逃れようとする。「雪ちゃんさ」川瀬は全く無表情のまま、「僕が何もしないからってあんまり調子に乗らないでね。次生意気なこと言ったら、何されるか分かるよね」そう言う。雪は痛みに耐えながらも、「お願い。私が知ってる川瀬くんは、すぐ暴力に訴えるような人じゃなかったよ」と声をあげた。彼は今度は彼女の胸倉を掴み、壁に突き放した。二人は手錠で繋がっているから強く当たることはなかったが、それでも背骨が痛む。
痛みに幼い顔を歪ませた、その無防備な首に手を伸ばす。緩く首を絞めつつ彼は言った。
「僕は君がどう思おうが関係ない。ただ君がどうしても欲しかったから、思い通りの操り人形にするために無理やり連れてきただけ。……大体、本当に君のことを考えているなら、最初からこんなことしないだろう? もう僕は外れてしまったから。抵抗したら、その分だけ痛い目を見るよ。それだけ。どんなことをしてでも、わかってくれるまで、続ける」
首を絞める手に力を込めていく。雪が女の子であることも、まだ小さな子供であることもなんの関係もなく、なんの遠慮もせず暴力を振るう。エスカレートしていく暴力。全体重をかけて雪の足を踏む。骨がバキバキと鳴る音がする。もちろん雪はひどい痛みを感じている。泣いてしまうような苦しさをおぼえている。ようやく手が離される。血混じりの咳をする。雪は床に崩れ落ち、澄んだ目をして、彼を見上げる。
「……もう、痛いこと、しないで……」
「やっとわかったのかな。でも、それは君次第だ」
顔を背ける雪。小さく呟く。
「……わからないの。どうして、変わってしまったの? 優しかった川瀬くんはどこ? なんで、私の知らない間にこんなに……なんで、こんな急に……」
「これが本当の僕だったってことだよ。今までは、必死で抑えてただけ。それが溢れ出ただけだ。今度逆らったら爪剥がしてやるから」
彼は手錠を外して、部屋を出ていった。咳のせいで赤い血がついた手を見つめる。「必死で抑えてただけ」彼は、やっぱり……私は、何をすればいいんだろうか。彼の行動は、彼の気持ちに離反しているように思う。彼自身がこうすることを嫌がっているのに、彼は私を意識的に傷つけようとする。だったら、……でも逆らったら、またさらに痛い思いをさせられる。
……怖い。背筋が震えた。今度は殺されるかもしれない。一生消えない傷をつけられるかもしれない。そうやって、思い知らされる。彼には躊躇がないということを。ただの同級生の、首まで絞めるくらいの人だ。彼は本気だ。よほどの覚悟がなければ、こんなことしないだろうから当たり前かもしれない。……だったら、黙って従っている方が、賢いんじゃないか? ひどい傷をつけられてまでここから逃げ出したところで、きっとそんな私を許してくれないだろう彼の幻影に苦しむだけと思う。
彼が怖い。人に、それも女の子に手を上げるような人じゃなかったのに。あれは、やっぱりただの仮の姿だったのかもしれない。私だけが知っていると思っていた、彼のやさしいすがたは、もう私の心の中のどこにもなくなっていた。靄にかかったように、全てを忘れてしまった。もちろん私が、彼のことをそんなに理解できるほど彼と親しかったかと聞かれてもそんなことはない。お友達として過ごしたのも半年足らずだった。
だからやっぱり、優しかった彼は私の幻想だったんだろうか。私が、初めて恋をしていた人は。