My rainy season
書き足しました
同じ日の話です。
ちょっと仕様がわからなくて変な投稿順になってしまったんですけど
1話2話より前の話です。
「ゆき。ちょっとあたしの分まで掃除やっといてくれない?」
「あ……わかった。いいよ」
雪はそう言ったが、気が進む様子ではなかった。だってもう、今週で3度目なのだから。1回目2回目は用事なんだろうと快諾したが、さすがにそうでないのはわかっている。それに班の女子全員がいなくなるのだから、確実だ。
「あ、じゃあ、私もー。ごめんね? ゆき。いっつもやらせちゃって〜。ね、もしかして、嫌がってる?」
「……ううん、別に、嫌じゃないよ」
雪はどうも顔に出やすい性分なのだ。箒を受け取りながら、意地悪い笑顔に、露骨な疑いで返してしまう。言葉も落ちていくように暗いトーンになる。無理になれない笑顔を作る。もしかすると本当に用事なのかもしれないが、そうだとして、こんなに誠意のない頼み方ってあるだろうか。まあ、別にいいんだけど……そう考えると、どうも彼女たちに好感は抱けないのだった。
かしましい声をあげながら去る彼女らに、比較的気の小さい残りの一人もおどおどと、追うように逃げていく。心の中でため息をついた。女子どころか男子まで、いつの間にかいなくなってる。窓を打つまばらな雨。白い線。授業中指名されて、立ち上がろうとした瞬間に足を引っ掛けて転ばせ、笑いものにしたり。
本当に陰湿だ。私のどこが、そんなに気に入らないんだろう。
……美術室は広いから、一人じゃ絶対に掃除は終わらない。集中してやらなきゃ。偶然嫌な人が、班に集まっていただけ。好意的に接してくれる人もいるし、むしろそっちの方が多いのだから、気にすることない。
それにあの子も責めちゃダメだ。あの二人には逆らいづらいだろう。私に加担するメリットもないんだ。ただ逃げただけだ。仕方ないんだ。怖かったんだろう。私に責める権利もないし。黒板を消しながら思った。
時計を見ようと廊下に出る。美術室の前の廊下は無機質な灰白色だった。何人かの生徒が床にひざをついて雑巾掛けをしている。てらてらと濡れた床が、天井の蛍光灯の光を反射する。バケツに雑巾を絞って、また拭く。彼らの流れるような作業が、一人ぼっちの私には目に眩しい。
あと掃除時間は5分しかない。適当に机を拭いて、床を掃くくらいしかできないだろう。ここの電気はもう古いのか、点滅を繰り返す。明るく、暗く、さらに暗く、私の視界の明暗を操る。湿度の高い空間で湿った床に足を取られる。転びかける。
今は酩酊気味で気分も悪かった。手前勝手に仕事を投げ出され、さらにそれを押し付けられた自分へのいらだち。
雪は聖人でもない、根の優しい普通の女の子だ。人並みに腹が立つこともある。何もかも許せるわけでもない。何も言わずに引き受けた自分のこれは、弱さなんだろうか。じゃあ、どうすればよかったんだ? はねのけたところで陰口を叩かれるだけじゃないか。
正しい行動と、賢い判断が解離するなんてよくあることだ。
''「あの子性格悪そうだよね。友達いなさそうだし。関わりたくないわ、すぐ転ぶとか天然ぶってる」''
''「絶対性格悪いでしょ。いい噂聞いたことないもん。いっつも男子の方ばっか見てるし頭悪いし運動できないし。数学だけはできるみたいだけど、必死だよね。笑っちゃう。ほんと使えない」''
頭の中をぐるぐると廻る。ああ嫌だなあ、と思う。気にすることないのに、頭を侵食して、駆けめぐる。容赦ないことばで、止めることもできない勢いで、私を否定する。一度あの二人が言ったのを聞いただけなのに。耐えられない。
涙がにじむ。世界が回るように思う。立っていられない。すこし悪口を言われたくらいで、私はこんなに弱かったんだろうか? 頭痛。心なしか胃も痛む。
嫌なことだ。こんなときに思い出すのは決まって彼の顔だった。彼に寄りかかって、すべて忘れてしまいたい。それでも誰かに、彼に頼ることは、私自身が許さない。
このことを言ったら、彼はなんて言うだろう。想像してみる。それはひどいことだなあとか、そんな人と関わったらだめだとか。言ってくれるんだろうか。甘い妄想を打ち消すチャイムが鳴る。結局掃除も満足に終わらなかった。また、放課後に来よう。憂鬱な梅雨。
雪は電車に揺られている。車内はひどく混んでいて、雪は吊革を掴んでいる。150cmに満たない雪は、ピンと腕を伸ばさないと吊革を掴めない。腕も疲れる。うんざりした顔。熱気溢れる電車の中で、重い頭を腕に預ける。
気だるい日だった。帰ったところで雪は一人ぼっち。慰めてくれる人も、寄り添ってくれる存在も彼女にはいなかった。母はいない。唯一頼れる父はほとんど帰ってこない。どこにいてもいつどんなときでも、雪が安心していられることはない。心を落ち着けていられて、思わず身悶えしてしまうような喜びを、雪はしばらく忘れていた。
昔は明るかった雪も、悪意のこもった嫌がらせをされ続け、心は傷つき、すっかり元の人格を失っていた。見下されたり嘲笑されたりすることは、雪を確実に蝕んだ。心が下を向き、笑うことも、彼の前以外ではなくなっていた。
長かった時間。雪を乗せた電車はようやく、彼女の目的地へ到着する。ここは多く人が降りる駅だった。
すみません、と言いながら道を開けてもらい、電車を出る。ホームをしばらく行く。そこで押され、雪は躓いてしまう。「キャッ」身体の大きな男の人にぶつかってしまう。40代くらいのサラリーマンか、彼は雪を睨んで、何か言った。
「……ごめんなさい」
彼は舌打ちをして、どこかに行ってしまう。「……ごめんなさい」雪はしゃがみ込み、もう一度呟く。何に対してそう言ったのかもわからずに。その心ない言葉と舌打ちは、雪をさらに追い込んだ。
ああ、自分はいらない存在なんだ、と思う。雪が駅のホームで青い顔をしてうずくまっているのに、助けてくれる人はいなかった。みんな通り過ぎていく。邪魔だと言わんばかりに蔑んだ顔をする人もいた。ああ。雪は納得する。
雪が邪魔だから。ぶつかってしまうほどに、邪魔だから。嫌いだから、迫害されていたんだ。迷惑だから。自分は、嫌われていたんだ。みんなに。雪はそう思うとどうしようもなくて、人がいなくなるまでそのままにしていた。これから家に帰って、明日もまた学校に行かなければならない彼女の心の拠り所は一人の男だけだった。
川瀬くん。