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中部屋の子  作者: 本みりん
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1年目

木の幹や川瀬なぞ白いものが、明け方の白さに浮び出した頃だった。

「『そんなら、どう。秋口の避暑地の寂しさったら、三度出戻りの女のように、ってのは』と言いながら、お雪は川原へ走り出した。」


2016年1日目


 黒みを帯びた視界がだんだんくっきりしてきた。考えようとするけれど、頭が締めつけられるような気だるさがある。慌てて立ち上がろうとすると、身体が座っている椅子から離れなかった。縄で縛られているのだ。ここはどこだ。

 部屋を見回す。無機質な灰色がかった壁と厚いカーテン。窓は彼女から見て右手にある。光が遮られ、照明のほの暗い明かりだけが部屋を照らしていた。いや、もうすでに辺りは夜の気配がした。後ろを見れば勉強机が置いてある。床はフローリングで、天井も低くほぼ立方体。それが閉塞感を増させていて、息が詰まりそうに思う。……閉じ込められている? どくどくと心臓が早鐘を打ち始め、ガチャ、と扉を開ける音がした。


「……川瀬くん?」


 思わず声があがる。入ってきたのは紛れもなくクラスメイトの男だった。今隣の席の、川瀬駿介。なぜ彼が、どうしてここにいるのかわからない。穏やかで優しい人だな、と思っていたのに。密かに恋心を抱いていた人だったのに。何が起きているのか、それにいつもの彼と様子が違う……?

 私は誘拐されたんだろうか。この人に? 何のために? そんな雰囲気なかった。状況と彼がそぐわない。彼がよりにもよって自分にそんなことするとは思えなかったが、この場にいるのは彼しかいない。少し彼を怪しく思う。

  ……もしかしたら彼も同じめにあっているんだろうか。いや、しかしそれならなぜ自分だけが縛られているんだ? それに勉強机類は彼のものとしか思えない。疑問は残るが、やはりここは彼の部屋だろう。


「雪ちゃん。起きたんだね」


 大きな黒目の、雪の目が見開かれた。彼は首が据わっていないかのように頭をふらふらさせて近づいてくる。その狂人のようなしぐさに、思わず雪は、怖くて身体がビクっと震えた。それにいつもは苗字で呼ばれているのに、「雪ちゃん」なんて呼ばれたのは初めてだった。彼女だけではない、確か全員にそうだったはずだ。

「川瀬くん? なに、するの。川瀬くん、なの?」


 雪は遠慮がちにそう問いかけた。ここがどこなのか、ましてや自分を縛りつけたのか。そんなことは怖くて訊けなかった。そんな疑いをかけたら、きっと川瀬も不快に思うだろう。それにもし、本当にこれが彼の仕業だったら。まだ、状況がよく飲み込めなかった。


「雪ちゃん。大人しくして、いい子だね……愛してる」


 川瀬は椅子の背もたれに左手で掴まり、雪の髪にそっと触れた。ぱっと顔が赤くなる。まだ無垢な雪は男とそれほど密着したことすらない。川瀬に身体を覆われ、見えるのは彼だけだった。怖かった。ただでさえ身体の大きな彼に、縛られた無力な自分が果たして敵うのか。

 顔を近づけられると思うと、何か首に触れる感触と僅かに濡れた感覚がある。ふと首を、噛まれているのに気が付く。甘噛みは甘噛みでも、尖った犬歯が彼女のきめ細かい皮膚に食い込み、痛みはある。「何するの?」声が裏返る。彼はやめない。音がしている。首の、特に耳に近い所を噛むものだから、噛んでいる部分を軽く引っ張ったり、埋め合わせるように優しくそこを舐めたりする音がよく聞こえている。

 首を噛まれるなんて初体験だ。だからこそ慣れない、背筋が凍るような不快感、いや、快感……? そのどちらも入り混じった、初めて感じた感覚。右耳だけでなくて、音の源から離れた左耳まで、発生した音を聴くために神経を集中させていた。

 そのため、ひどく鮮明に耳に音が届いてくる。ぐっと舌を押し付け、離す時の音。それに反応してビクンと身を震わせては、そんな自分を恥ずかしがるように赤くなる頬の淫らなこと。五感全てに打ち震わせてくる、未知の感じに、戸惑い続きだった。

 腕で動きを制しようとして、縛られていて手が動かせなくて、正気に戻る。拘束されたまま、首を噛まれている……奇妙な状況だった。仕方が無いから、「やめて!」と声を上げる。それでも耳に息を吹きかけられ、ひぅっ、と声が出た。

 川瀬は面白がっているような顔をしていた。少し口角が上がって、にやりと含み笑いをする。彼の思い通りにできるから、全能感があるのかもしれない。

 いや、彼はそんなどうでもいいこと、考えてない。ただひたすら、嫌がる顔をしつつも感じてしまっている彼女が可愛いだけだ。嫌がる、という気持ちがもちろん大部分を占めている。次に、気持ち悪くて恐ろしいど。そして、混乱してよくわからなくなっている。状況が判断できないのだった。それに、心の域を超えた気持ちよさ。

 目覚めたら突然拘束されて友人の部屋に拉致されていて、怖がっていると首を噛まれて、気持ちよくなった。そんな風に感じられるくらい、彼女は都合よくできていなかった。快感なんて恐怖でほとんど掻き消えていた。

 始めは痛めつけていただけだけど、自制心の届かないところまで及んでくる快楽に溺れる彼女がもっと見たくなった。今度はちゃんとよがらせてあげたい。たくさん気持ちよくさせて……理性の届かないところまで及んでくる悪い気持ちに飲み込まれそうになる。やっとのことで顔を離し、「愛してる」とつぶやくと頭をまた撫でた。


「愛してる、って……川瀬くん、これ、外してくれる? この、縄」

「可愛いね、雪ちゃん……いつかこうして話してもらうのが夢だったんだ」


 何を言っても彼の耳には届いていないようだった。お化けのように、得体の知れない何かとは違った恐ろしさだった。話が通じない。いくら声を上げようが、それに気づきもしない。彼はどこも見ていない。何も聞いていない。頭を撫でられる。彼と目を合わせられない。下を向いて涙をこぼしそうになりながら、ふるふると頭を振った。

 恐怖に加えて彼が変わってしまったことが、悲しくてしょうがなかった。信じたくはないけれど、もはや自分をここに閉じ込めたのは彼で間違いないだろう。


「川瀬、くん、なんで……? お願い、この縄、外して。川瀬くん」

「だめだよ。外したら逃げられちゃうから」




 逃げる。




 彼女を人間とも思っていないような口調だった。ペットか何かのように感じているのだろうか。ようやく言葉が通じても、これでは駄目だ。今まで学校で見ていた彼とはまるで別人だった。こっちが本当の姿だとでも言うのか。


「お願い、川瀬くん、もう遅いでしょ、帰らなきゃ。外して。ここから出して」


 懇願するように言う。本当の気持ちだった。これ以上、こんなところに居たくない。きっと恐怖で頭がおかしくなってしまうだろう。これはだめだ。愛してるとか言っているから、彼も多分私のことが好きなんだ。でもそれで好きが高じすぎて、こんなことをしたんじゃないか。彼の認識が、大人しく物腰の柔らかい人から変わりつつあった。しかし雪はまだ、本質的なところでは彼を疑えていない。彼は優しい人だと希望を捨てていない。そう純粋に信じている。だから、苦しむ。怯えの色を目に浮かべつつも、一生懸命に、愚直にそう言ってみせる彼女を見て、川瀬は困ったようにほほ笑む。


「僕は君の期待に応えられるような人間じゃないから。……世界は不平等だよ。

 早く楽になってよ。僕の言うことに従って……、僕に従うことに幸せを感じられるようになれば、大丈夫だから。僕なら君を幸せにしてあげられる」


 雪には彼の言うことなどわからなかった。その目はまだ、輝いている。川瀬にしてみれば、その輝きが失われてしまうのが一番見るに堪えないことなのだ。それなら、自分の色に染めて、二人だけの世界で守ってやりたい。そのためなら何でもする。けれどそれは皮肉にも、雪とは相反する考え方だった。


「……よく分かんないけど、私はいつも幸せだよ。みんなが一緒で……、それが私の幸せだから、大丈夫だよ?」


 雪の健気な言葉がずきりと刺さる。彼女はその中には辛いことも当然あるはずなのに、それら全てを引っくるめて幸せと言ってのける。強いてつくられる笑顔が痛々しかった。彼女は顔を逸らした。


「……雪ちゃん、嘘つきだからね。ほら、こっち見てくれないでしょう? 一生このままだっていいの。雪ちゃんだってきっと、僕と一緒に二人だけで生きたいって思ってるはずだから」

「そんなこと思ってない! ……違う、私も、川瀬くんのこと好きだけど……二人だけなんて、そんなのだめだよ。こんなやり方で……こんなに無理やりやったことが、幸せなんてことない」


 川瀬は眉をぴくりと引きつらせる。雪はそのわずかな変化に絶望感を覚える。やってしまった、と思った。怒らせてしまった。雪の頭の上に置いた手を、ぎゅっと握って彼は声を荒らげる。心臓を掴まれた気分だった。



「つけあがりやがって……お前、立場わかってんのか? おい、聞いてんの?」


 ごめんなさい、ごめんなさいと雪は繰り返す。柄の悪いやくざのような粗悪な物言い。川瀬に目を覗き込まれ、涙が溢れないよう必死だった。泣いているのがわかったら、殺されてしまうような気がした。いや、もうとっくに気付いているだろうけど。涙に声も揺れる。


「聞いてるならさ。口答えして、そんな口のきき方して許されると思った? こっちは雪ちゃんのこと思ってやってんのに。反抗したらお仕置きされるのは当然だよね? ね」


 雪は首を折るようにしてうなづく。ここで同意してもしなくても何も変わらない、歯向かえばもっとひどい未来が待っているだけだ。さながら処刑方法を選ばされる死刑囚のような気分だった。選択の余地があるだけマシということか。人としての権利もないのが当たり前、逃げ出せなければずっとこうなのか。そんなことを考え始めていた。

 でもこのとき、雪は知らなかった。この先彼女が思うよりもずっと長く、監禁生活は続くということ。せいぜいあと1日やそこらで、もしくは朝になったら帰してくれるものと思っていた。だってそんなに長いことこんな生活をするなんて、想像出来なかったから。私が帰らないから、騒ぎになっているだろうなあとは予想がついたけど。


「……素直で可愛いね、偉いよ、雪ちゃん。うん、僕も君のこと大好きだし、今日のところは何もしないであげる。そうそう、大人しくしてれば怖いことないからね。僕の言いなりになって、従順で、いい子だよ」


 雪はほっと息をついた。脱力感がある。再び大きな手で頭を覆うように撫でられる。言いなり、という表現もどうでもよくなっていた。何もされなかった。それが一番嬉しかった。

津波がすぐそこまで来ていて、いつ押し寄せてくるかわからない。そんな気持ちだった。

 しかし、雪はハッと気付く。こうやって感情をコントロールされているということは、もうすでに心を支配されてしまっているのだ、ということ。彼の機嫌に合わせて一喜一憂して、ずっと怯えたまま、やがては精神が崩壊する。当たり前だ。一触即発の爆弾を手のひらに載せているような状況で、そう長時間耐えられるわけがない。そうした時、幸せになれると彼は言う。本当にそうなんだろうか。自我を保ったまま、辛い社会を乗り越えていくのと。狂った思考回路をコントロールされながら、二人きりで生きていくのと。どっちが、より辛いのだろう。分かってる。おかしくなるくらい恐怖を加えられるなんて、嫌に決まってる。でも。


「分かった? 雪ちゃん。僕に反抗しても、何もいいことないんだよ。大人しくしてれば怖いこともないし、僕は雪ちゃんに幸せになってほしいだけなんだ」

「……はい」

「うん、やっと素直になってくれたね。それじゃあもう遅いし、寝ようか。一緒に」

「はい」


 その夜雪は川瀬に抱きしめられながら眠った。お互い眠れなんてしてないことはわかっていて、そんな夜が6時間近く続いた。手錠も何もかけられていなかったけれど、逃げ出す事なんてできなかった。そんな気も起こらず、ただ無気力な夜を過ごした。彼女にとっては地獄、川瀬にとっては天国のような時間だった。いや、幸せでない彼女と時をともにするのは、川瀬にも苦痛だったのかもしれない。彼の、彼女の気を紛らわすためなのか、しばしば髪をもてあそばれた。後ろから伝わる彼の息遣いが時々、そっと耳にかかるのを感じた。静かな夜だった。

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