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戦場は常陸へ

「戦争強いな」


毛利元就と陶晴賢の決裂、いわゆる防芸引分は、毛利元就の鮮やかな手腕によって着々と情勢が傾きつつあることが伝わってきた。

「毛利、安芸国人の毛利か。聞いたことくらいしかないのう」

わざわざ関東まで挨拶の使者を送っているあたり、大内や尼子を食うつもり満々でいることが察される。甲斐からそろそろ小田原に帰ろうとする俺には格好の土産話になる。間も無く天文24(1555)年、関東の情勢は膠着し始める。

「では西上野は我らが攻めようか」

北信をほとんど手にした晴信はそんな提案をしてきた。確かに長野業正が箕輪城で防衛線を整えているという知らせを掴んだ北条軍では、山奥に侵攻する価値があるのかという論争が起こっていた。

一方の武田側から見ても利ある提案である。現領地から西進して飛騨や美濃に勢力を広げるルートは、あまりにも山が険しすぎる。山奥の飛騨は軍事力で圧倒すれば取れるかもしれないが、越中や加賀などその先に手を広げるのは厳しいところがある。すると進行方向は北の越後に限られ、北条と組んで長尾景虎と全面戦争をするのは避けられなくなっていた。その時に越後に接する領土は持っている意味がある。国境を広げることは緊張関係においては相手を刺激する要素かもしれないが、対立関係に至ってしまっては関係ない。むしろ寡兵を好む景虎のこと、会戦では数ならばこちらの方が上なはず。侵攻路は多く用意しておき、相手を惑わせるところから戦は始まっている。


そんなわけで年明け早々、武田晴信による箕輪城遠征が行われた。北条家は同盟の規約から援軍を出すことになり、松田のもと垪和や佐野、那波、由良などが編成された。由良成繁、何をしでかすかわからないが、この情勢下で長尾に寝返ることはないだろう。

この侵攻と同時に、柄杓山奪還のための兵を桐生助綱が送り込んできた。これは御本城様が見越しており、そのために俺を柄杓山城に入れていた。

「箕輪城攻撃が一段落したら成否にかかわらず向こうは帰らざるをえん。武田北条の数万の遊兵が相手になるからな。つまり戦が終わるまで守れば勝ちだ。無理するな」

俺の訓示を聞いてか聞かずか、各所で鉄砲隊が厳重な体制を布きはじめた。そろそろ彼らにも専属の将をつけた方がいいのだろうが、なかなか人選が決まらない。蜂須賀正勝はもっと自由に使いたいし…悩みどころだ。


まず里見勝広が先陣として包囲にかかってきた。同時に桐生本隊は遊撃として各門に強攻をかけてくる。これを着実に仕留める鉄砲隊だが、伝来十年も経つと北陸経由で桐生も、というよりは長野も多少は保持しているようで、反撃を受けた。

「これで桐生助綱の首を落としましょうか」

ここに入る時に運び込んだ大きな箱を指差して伊王野資宗が問うが、俺はまだその時ではないと否定する。

「これは相手を恐慌に陥れるための兵器ゆえ、先手を打って出すものではない。それにこの戦で大勢は決まらぬ」

首を捻った周囲の見通しとは逆に、ということはつまり俺の察し通りに、箕輪城は落ちなかった。桐生隊が退かず、また連合軍も退ききっていなかったので、二十日ほどのうちに2度目の攻城が行われたが、これも失敗した。

「助綱、帰っていくな」

一息ついた柄杓山城に松田盛秀らを収容し、帰り支度を整える。

「箕輪、思ったよりもはるかに堅かったな」

「先に厩橋城から落としましょう。敵各城はそれぞれ孤立しておりますゆえ」

では、と言い置いて取って返した。


結論から言うとそのあと半年、厩橋城も箕輪城も落ちなかった。長野業正や道賢が飛び回り、大道寺や松田、笠原、玉縄北条の軍勢を次々跳ね返した。天文24(1555)年二月には、箕輪城の戦いは第三次を数えていた。

「やめにしよう」

というムードも漂う小田原城下、ついに長尾から色部勝長(いろべかつなが)がはるばる訪ねてきた。

「これにて上野の戦を手仕舞いとし、両家の国境を確定させましょう」

ということで、長尾は西方への領土拡大が本望であるということだ。

「山内上杉の復興が目的なのではないか」

御本城様がもっともな疑問を述べると、勝長は、

「そちらが管領様に無体を働くことはないと信じますゆえ」

と答えた。

「しばし待たれよ」


甲斐に人をやって義父上から得た返答は、「当家も合わせ三者での和約ならば構わない」というものだった。こうして箕輪城の戦いの膠着をきっかけに甲相越一和が結ばれたが、これも所詮かつての対北条大同盟との和約同様一時的なものであることは明らかだった。

これで北条家の主敵は佐竹に絞られたが、ほぼ同時に戦端は開かれていた。噂で聞いたところだと、せめてもの義理と長野から佐竹に使者が走って和約を伝えたらしい。その真偽はともかく、佐竹義昭は江戸忠通(えどただみち)大掾貞国(だいじょうさだくに)を脅し、こちらについた鹿島治時(かしまはるとき)らを攻めさせた。千葉胤富はこれを察知し、鹿島氏を含む行方・鹿島の南方三十三館と呼ばれる国人衆たちを恫喝、多くの起請文を提出させていた。

千葉胤富が有能すぎて唸りつつ、彼を当主にしたのは正しかったと思ったが、そんなことよりも大事なのはどこに誰が軍を展開するのかだ。千葉と高城はやる気を出しているようだが、問題となる地方はもっと東側で、結局俺が海上郡に兵を集めなければならない。


港と橋の整備を進めつつ、主だった敵がいない神栖方面を制圧した。後方には川、大規模反攻を受けたらひとたまりもないので、ひとまず息栖神社に本陣を置く。ここは東国三社の一つに数えられる由緒ある神社で、これで要地を取ったも同然だ。

「まだ戦争する気はないんだ。国人衆を従わせればそれでいい」

と語る俺をよそに、正木時茂は首を捻った。

「佐竹の様子が聞こえてきませぬな」

「あー…」

何をしているのかわからないのが一番困る。奇襲などされてみろ、その場で戦いが始まる。

「鹿島へ進みますか」

「攻勢に出なくていいんだよな」

逡巡する俺たちのもとに、中央からいくらかの人材と兵が派遣されてきた。吉良頼康に白井胤治、初陣らしい松田康郷(やすさと)である。康郷は憲秀の一族だ。

「やあやあ武衛(兵衛の唐名、つまり俺)殿、吉良左衛門佐と申しまする」

吉良氏は足利氏の一族で、北条家中でも別格扱いされている。今まで宴会くらいでしか見たことがなかったが、世田谷に居を構える名家だけあってどこか上品な感じを漂わせた。


さてその吉良頼康は進軍を主張した。俺としては進軍の是非よりも負けないことが大事なので、頼康の顔を立てるためにも進軍に同意した。おそらく彼としては、名家として特別扱いされているとはいえいずれ北条家臣に組み込まれるだろう吉良家の安泰のために武功が欲しいのだろう。

白井胤治のほうは挨拶のあとずっと黙っている。河越の折に下総で名前を耳にして以来、ずっと会いたいと思っていたが果たせなかった。


「行方郡には四家が割拠しております。宗家の小高、分家の島崎、麻生、玉造」

「この四家は未だ帰趨を明らかにしておりませぬ」

俺の代わりに左右の頼長と頼康が喋る。

「威を示すか」

「島崎が一番強力。戦うのならば、これを潰せば十分力を示せるかと」

吉良頼康自身が喋り始めたので、俺も応える。

「ならばそちらを攻められよ。我らは他の三家を攻める」

そう来るか。まあありか、と思い正木時茂を向くと、小さく首を傾げていた。

「本陣はどうなさる」

「なに、鹿島がこちらについているのでござろう。安泰ゆえ捨て置いてもよろしい」

雲行きが怪しくなってきた。

「我が隊には軍配者の白井殿がおる。心配はご無用」

まあそうかと思い、その場を切り上げた。どうなるか。

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