常総冷戦おわりはじまり
「織田は水軍を使うぞ」
孕石元泰にそんな手紙を出した天文23(1554)年の頭、知多の緒川城攻略のため築いた村木砦で今川と織田が激突した。元泰がくれた返書によると、注意していたため後方への水軍の上陸を察知し、対処して砦を守ることができた、忠告感謝する、という。ああよかった。勝てなかった戦に勝てた。
「頑張ってそのまま緒川城の水野を倒せ」
と返すことにした。
水野信元ねえ。今川方だったが織田につき、今は織田から派遣された連中と協働して尾張で有力になっている。が、しっかり織田援軍を倒せたなら、水野くらいなら滅ぼせるかもしれない。
「それで、結城はどうするんだ」
結城政勝と小山高朝が連名で北条家への従属を申し出てきた。散々戦をしたが、北条は国人衆にとって戦える相手ではなくなり、合流離散を繰り返すべき大勢力になったということだ。これからはこういう連中を離反させないことが目標になる。ああ、北条・上杉戦らしくなってきた。
「古河を落としましょう。楽になります」
そんな上奏を小耳に挟みつつ、古河公方戦なら俺は出陣しなければならないなあなどと考えていた。
俺の小弓公方就任は北関東勢にも影響を及ぼした。まずは俺が手紙を送り恭順を要求しまくった古河公方の内部がざわつき、次いでいよいよもって上野の関東管領同盟が瓦解しつつあった。
順に見ていこう。野田弘朝がなびいた。これで栗橋城がこちらの所属になり、古河は四方を囲まれた形になる。簗田領を潰せばすぐ古河城だ。
次いで上野もだいぶ旗色が良くなってきた。沼田顕泰がついに寝返り、残るは両長野家と桐生家、上杉や長尾の一族だけだ。
「深谷もとっくに制圧したぞ。深谷上杉も降ってくれればいいのに」
ここまで来たらもうどうしようもないと思っているのだろうか。桐生領もほとんど制圧したし、関東管領家にそこまで義理があるとは驚きだ。
だがそんな連中も命は惜しい。自分の命、子孫の命、主君の命と自分の信念を天秤に掛けさせる趣味の良い仕事だ。別名を恫喝合戦ともいう。戦火を交えない意味で冷戦と言えなくもないのだろうが、ここからの「冷戦」の熾烈さはまさに熱戦ともいうべきものだった。
二月の頭に沼田顕泰が寝返り、それから数日内の二月十三日、風魔から由良成繁の挙動が怪しいと上奏があった。新田金山が寝返ったら大変どころの騒ぎではないので、この月いっぱいを懐柔策に費やすことになる。
一方で十二日ごろ、深谷上杉の上杉憲賢に送った寝返り督促状の返事が来た。曰く、
「我を関東管領に任ぜよ」らしい。まあ無理な要求としてとりあえず出してきたのだろう。
「やっても宜しゅうございましょうか」
御本城様もさすがにドン引きしたのは、俺の「関東管領職を一代限りでくれてやる」という策だ。
「どうせ長くありませぬ。深谷を囲い込めるならば大きいかと」
「構わぬが」
おそらく、関東管領位をめぐる血みどろの争いを目で見て耳で聞いてきたのだろう。が、どのみち俺の望みは幕府秩序の崩壊につながる。管領職などどうでもいいのだ。
「ならばお主の家臣にするか」
悩む。
「北条直臣でよろしいのでは」
「そうか」
個人的に囲い込むつもりすらないのを見て、おそらく御本城様も俺が職に本当に頓着していないことを察したのだろう。
二月二十五日、由良成繁から異心ない旨の起請文が来た。どうだか。
本命はその三日後に届いた憲賢の書状で、明らかに混乱した筆致で待遇に関する条件をつけはじめた。ざっとまとめて深谷への旧領復帰というところだ。御本城様はまあいいかとあっさり認めたので、その日のうちに返書を出した。
三月一日、相馬直将から書状が届いた。古河公方への加担は一時の誤りであり、北条に属することを延々と書き連ねていた。高井城を返せという。仕方ないのでこれを認め、三月十六日に高井入城を果たさせた。
並行する形で四日、簗田晴助から和睦の申し入れがやって来た。御本城様は簗田の北条直臣化と足利晴氏の身柄の提供を要求した。つまり和睦する気は無いらしい。
「もう少し毟らねばならぬ」
とは御本城様の弁だ。
十二日、簗田は申し出を水海城の譲渡に引き上げる形で要件の引き下げを願って来た。そこまでするなら最初から開戦しなければいいのにとも思ったが、思い返してみれば最初の状況は向こうにしてみれば絶好の機会だったのは間違いない。これも御本城様がはねつけた。
十八日、打って変わって強硬姿勢な書状には足利義氏の花押がついていた。俺の小弓公方就任で完全に用済みになってしまったことで、本当に焦っているのが伝わってくる。今度は金子で野田弘朝の身柄の引き渡しを要求してきた。なるほどな。こんなもの受けたら庇護を求めてこちらについた国人衆の信頼を一気に失うので、下総半国と交換だと言っておいた。
二十五日、結城政勝に威嚇のための出兵を依頼した。古河公方サイドが進展しそうにない中、二十九日には上杉憲賢からついに決断したとの返書があった。明けて四月二日に出立し、五日に深谷に入城した。四月四日には俺が悪戯心で一連の書状を長野業正に流してやり、数日内に業正の怒りを込めた一筆が憲賢に届いたという。
六日、里見勝広と里見義堯が文通しているらしいことが風魔の報告で露見した。そりゃそうかという感じもある。常備軍そのものの再建ができていないので身動きが取れないのが悔やまれるが、農繁期に拵えた兵で古河公方は追い出せるはずだ。
八日、返書が来ないので古河公方家に催促を送った。この返書も来ないので十二日にもう一度送ったが、十八日に届いた書からは再び義氏の花押が消えていた。内容は和平の決裂だった。
じゃあ遠慮なく、と調略にかかる。が、そもそもここまで凋落してしまうと調略に応じうる連中はとっくに寝返り、忠誠心篤い連中しか残っていないのだ。四月いっぱい使っても何の進展もなかった。
五月二日、結城軍が出兵した。関宿城や古河城を少し囲んで十日には撤退したらしい。謝礼を出しておいた。これを受けて十三日から簗田晴助と書状のやりとりを再開したが、進展はない。結局二十日ごろから汚名返上とばかりにある程度の数を揃えた高城家が常陸川岸に軍を展開した。冷戦も終わりかと思われたが、六月に入っても衝突は起きなかった。
五月二十五日、常陸の鹿島氏から従属の申し出があった。棚ぼたかと思ったが、どうも千葉胤富が裏で動いていたらしく褒美をもらっていた。さらに大掾氏や江戸氏も揺さぶりをかけられているらしく、古河公方や佐竹氏は南常陸の安定に忙殺されるようになる。
六月四日、俺は家中の者を引き連れて小弓に移り、翌五日には氏政様を迎えた。勝ち確定かつ古河公方撃破という大きな戦いで経験を積ませたいという。
「義兄上、よろしくお願いいたします」
「それがしはあくまで家臣。左様な礼をなさいますな」
いずれ関八州の太守となろう人間としてその辺をなんとかしてほしい。色々やってきたとはいえ、いくらなんでもタメ口きいたら重臣連中に叩き斬られるだろう。
六月八日から動員を開始し、ちょうど一月の七月八日に動員を完了した。その動きは察知されないように風魔が動いたらしく、古河公方家は未だ御本城様と文のやりとりをしていた。
「竹、元気にしてたか」
「はい、おかげさまで」
俺の数え年は非常にわかりやすい。天文元年生まれなので、ぴったり元号と同じだけだ。…もう23か。早いな。まあそれは置いておいて、竹と氏政様は同い年で俺の6つ下なので…17歳。若い。竹も立派な美少女に成長して兄としては感涙ものである。夫婦仲は良さそうで何よりだ。
「俺もお前も生まれる前からの戦争、今年でようやく終わるぞ」
「実感が湧きません」
「父上の小弓入城が永正14(1517)年だか15年だか。15年とすれば、実に36年だ」
そもそも竹は父上の顔など覚えているはずもない。第一次国府台合戦の時、本当に生まれてすぐだったからな。
「まあ関東管領と北条との戦は終わらんさ」
「あれは永正2年のことですね」
氏政が言う。
「それは宗瑞公と両上杉のどちらもが敵対した時でございましょう。山内だけなら長享の乱に参戦した時まで遡れるのではございますまいか」
そうなるとゆうに半世紀を越す。本当に果てしない。
「まあ悠久の時の流れに身を任せるのもいいが、今はこいつらをどうするかだよ」
江戸忠通と大掾貞国、常陸の有力豪族だ。
「では若様に情勢を説明いたします。周りの面々もよく聞いておくように」
「それでは下がりますね」
竹が梅と共に下がろうとするのを押し留める。
「まあ聞けって。女だろうと何だろうと、あらゆることは知っておいて損はないぞ」
かつて小田、大掾、江戸は、北方の佐竹を尻目に争いあっていた。この構図は今も変わらないが、小田には北条がついているという違いがある。
「江戸氏は北関東の多くの武家と同じく藤原秀郷流。大掾氏は常陸平氏の嫡流という超名門。小田氏は宇都宮氏から割と早くに分かれた分家で、元を辿れば関白藤原道兼に行き着くが、今の当主は血筋としては堀越公方足利政知の子孫だ」
「いずれ劣らぬ名族ですな」
段々と俺の言葉遣いが砕けつつあるのに、氏政様の方が全然砕けてくれない。危機感を抱いて頼むと、
「ならば義兄としての礼を尽くします」
「いや、主君として振る舞っていただかねばなりませぬ」
などと押し問答の末、全く話が進まないのでひとまずどちらも敬語を外すことにした。落とし所のつけかたがヤバいだろと思わなくもないのだが、また押し問答になるので口に出さない。
「なれば師として教えをください」
「ならば主として命をくだされ」
ということらしい。そんならそうとしごいてやるよ。
閑話休題。
「小田氏が河越城の戦いのあと成り行きで北条の影響下に収まったので、勢力均衡が崩れたわけだ。今大掾氏も江戸氏も大きな勢力を持てていない。さらに北からは佐竹がやってきた」
「佐竹か」
「佐竹の先代義篤は若かったので多くの謀反を起こされたが、弟の宇留野義元や一族の高久義貞、宇留野長昌らの反乱を鎮圧し、西の那須氏のお家争いに介入、北では陸奥南部の白河結城家と戦って勢力を伸ばした。江戸氏は今では佐竹の影響下にあるし、大掾も佐竹寄りだ」
「つまり、北常陸だけでなく南常陸進出自体が佐竹との対立の火種になると」
「左様。それを十分理解した上で、常陸川を渡河・南常陸を通っての古河城攻撃を上奏する」
氏政様が目を丸くする。まあ説明するから。




