北関東堅城絵巻
「参る!」
山を登る兵士の足音だけが響く静かな戦場に、突然鬨の声が鳴りたてた。
「反攻か…!」
「軟弱者どもよく聞け!佐野修理亮が次男昌綱、只今より城の指揮をとる!唐沢山の堅城は関東一と心得よ!」
「おう!」
よく通る声に頼純は一人戦慄する。佐野昌綱が防衛側の攻城戦。厳しい戦いになりそうだ。
「修理亮が弟、中江川高綱!参る!」
前線で奮闘するのは成田隊と上田隊。
「泰季!左だ!」
「おうよ!」
険しい山のどこに伏兵がいるかわからない。大将首すら落ちかねないゲリラ戦を、成田泰季と兄・小田朝興は切り抜けていた。
「貰った!」
とその時、首級を挙げた直後の泰季に槍兵が襲いかかった。
「近寄るな!」
すわここまでかと思ったところで、脇から現れた成田家の若武者が脇差で槍を弾いた。穂先を刈った後、両者太刀を抜いての大立ち回りを演じたが、幾度もの打ち合いの末に若武者が敵を組み伏せて討ち取った。
「助かったぞ」
「まだおります。下がられねばいずれまた御首を狙われましょうぞ」
「上田殿が孤立してしまう」
「上田様はそこまで愚かではございますまい。共に後退し、多少開けた場所にて相手いたしましょう」
「なるほどな。お主、名は」
「申し遅れました。酒巻靱負助長安と申しまする。今後とも成田家のため尽力いたしますゆえ、どうかお見知り置きを」
そう言うと名乗った侍、酒巻長安は前線の足軽を指揮しようと持ち場へ戻った。
「あのような武者が当家にはいるのか」
「兄上、これは喜ばしいな」
「全くよ。退くか」
「おう。上田殿にも使いを出せ。全滅する前に後退するぞ!」
中江川隊の奇襲はある程度上手くいった。
「次だな。後ろを突くぞ」
「叔父上が行ったな」
「兄者。兄者には本陣奇襲を願いとうござる」
「本陣だと?さすがに守りが固いのではないか」
「射かけるのでござる。敵後方を徹底的に混乱させることが目的でござる」
「なるほどな。弓兵100でよいか」
「十分。健闘をお祈りします」
「おうよ」
圧倒的少数の兵力で勝つのに、兵をさらに分割している。が、それを恐ろしく素早く動かすことで、混乱のうちに敵兵を葬ろうとしていた。
後退する上田朝直の後方に柴宮行綱が現れると、城攻め部隊はとうとう混乱に陥った。
「父上、早く退かねば我らも…」
「落ち着け蔵人。焦りこそ敵よ」
上田長則。内政では手腕の片鱗を見せる朝直の嫡男だが、戦にはまだ慣れない。
「かような死地とは…佐野昌綱とやら、並の器ではないか」
「上田・成田両隊、大損害を出して撤退いたしました!清水隊後退し、両隊の傷病兵を手当てしております」
矢が飛ぶ本陣では盾持ちが周りを固めているが、時たますり抜けた矢が刺さる。恐ろしい音がする、と頼純は内心怯えていた。
「出羽守殿がいらっしゃれば、弓兵隊の掃除もできように」
風魔万能説にすがろうとした頼純だが、それも生憎ここにはない手札だ。
「弓兵、なんとか退いていきます」
補給だろうか。この間に消耗と士気を回復しなければ。
「総州殿、清水隊を下げてはいかがかな」
「駿河守様、この城はいかにして攻めるべきでございましょうか」
俺には小手先の方法では無理だ、というのが頼純の正直な感想で、早めに和に応じてほしいとだけ思っていた。
「なるほど。お手上げにござるか」
「手はございませぬか」
「あり申すぞ。戦略目標に立ち戻ってみなされ」
戦略目標。つまりはなぜこの城を攻めるのか。それは佐野の軍勢をここにとどめ、あわよくば降らせること。また、これによって第2軍の後顧の憂いを断つと同時に、下野方面軍の対小山投入を可能にするということ。
「小山攻めは起こるかわからんとして、佐野は釘付けにすればよいだけのこと、と」
「左様。これ以上の攻勢は無意味やもしれぬのう」
「誰かある!清水隊に離れて包囲するよう伝えよ!」
頼純はとっとと指示を飛ばし、自隊も動かした。
「なんだ、敵が止んだぞ」
「囲んでおけばよいと思っているのだろう。クソが、その通りだ」
こうなっては奇襲計画の意味がない。
「父上、これでは我ら何もできませぬ。北条に降るかここに籠るか、二つに一つでございます」
昌綱は国人衆に特有のパワーバランスを見極める嗅覚が非常に優れている。だからこんな提案ができる。
「ここで寝返れば、軍働きから北条はこちらを邪険に扱うことができませぬ。また、勝敗を決定づけることにもなりましょう。もらえるものも増えるかと」
この頃には、もはや北条の優勢は揺るがない。国人衆は他を出し抜くため、願える理由と確固たる地位を望んでいた。それは北条打倒を誓った佐野泰綱とて例外ではなかったが、彼にはまだ同族の桐生助綱という枷があった。
「助綱殿を見捨てるわけには参らぬな」
「心配はご無用。あの方ならばなんとかなりましょう」
昌綱としては自分の功が欲しい。助綱を信じてはいたが、それにしても拙いと自分でも思った。がしかし、泰綱はそれに乗った。
「五枚も?」
寝返りを伝える文書がいやに厚い。
「本領安堵と加増か」
「応じるほかございますまい」
長文なのかと思ったが違う。地図だ。
「…攻勢計画か」
頼純たちが退いたことによってオジャンになったこの先の戦術が、手書きの地図と事細かな文字で詳細に書かれていた。
「これを破れるか」
「…それがしには無理でございます。退いて正解だったかと」
こんなところで気づいたら死にかけていた。気付いた時にはもう遅い、とならないように注意を払って損はない。
唐沢山城の戦い
北条軍 8千 北条長綱
佐野軍 1千200 佐野泰綱
武将級討死 なし
佐野家の変節に、長野軍と共にいる桐生軍は困惑した。
「殿、いかがなさいますか」
脇に仕える里見勝広が沈痛な面持ちで尋ねる。
「お主に左様な顔をされてはタダで降るわけには行くまい」
しかし、いずれは死ぬか降るかになる公算が高いのは助綱にもわかっている。
「敵襲!」
野戦の始まりは会話を終わらせ、二人を持ち場に戻らせた。
大道寺や笠原の精強な兵たちは突撃を繰り返し、助綱や長野道賢の陣を何度も切り裂いた。
「崩れるな!ここを守りきればあと一手あるぞ!」
桐生家の柄杓山城は空だが、接収のために北条軍は必ず訪れる。長尾景虎がそれを見過ごすはずはない。
「我が隊を左へ!側面を突く」
業正の本隊が動きはじめ、北条氏尭の部隊と衝突した。隊ごとの兵数では互角、しかし業正は明らかに押していた。
しかし敵左翼には北条綱成がいる。この隊が前に出て厩橋長野隊に一当てすると、既に疲労した道賢たちは浮き足立った。
「この戦勝ったぞ!直押しに押し込め!」
綱成のよく通る声は道賢隊を恐怖させたが、桐生隊から送り込まれた里見勝広が恐慌を抑えた。
「まだ負けてはおらぬ!考えてみよ!城さえ落ちねば我らの勝利よ!」
入城だけはさせない。鉢形城は固く、北条軍の積極的攻城にもかかわらずなかなか落城しなかった。




