同時侵攻
「出会え！」
氏康が編成した大軍は、弱った上杉家に最後の札を切らせるに十分な一手だった。厳密には逃亡という一手を残しているが、それは命と引き換えに関東管領職を打ち捨てることになる。
上杉憲政は鉢形城から平井城に戻り、前線には長野業正が残った。東西両面からの攻撃を察知した業正は、上野国衆の兵力の割き方に苦悩していた。
「なれど、援軍がくるならばそれを当てるが吉。国衆をこちらに呼んではいかがにござる」
「なるほどな。そうしよう、触れを出せ」
長野道賢は事ここに至っては一蓮托生と、上野国衆にも呼びかけた。が、反応は明確に鈍くなっていた。
「所領にて伊勢軍を食い止める」
とは沼田顕泰の弁だ。どれだけやる気があるやら分かったものではない、と業正は不信感だけを募らせていた。
「管領様、お初にお目にかかります」
「うむ、よく来てくれた」
「兵は越後の坂戸城におります。じきに参りましょう」
越後の龍、長尾景虎を呼ぶ。上杉憲政はその手を使った。
「越後守護家はそちに任せるよう公方様に口を利いておく。働き、期待しておるぞ」
「はっ。なれども我らとてさほど多くの兵を動かせるわけではございませぬ」
「左様であろう。国人たちに動員をかけさせておる」
「…いえ、そちらはその国人に指揮を預けます。我らは我らで敵を食い止めまする」
戦術的天才長尾景虎は、少数による機動戦を試みた。そのためには練度が必要であり、士気の期待できない上野の農民よりは直属の兵を待つことにした。
越後守護の上杉家は先年没した上杉定実で断絶した。守護職は景虎が継ぐことになるが、その関係で長尾政景ら反対派との抗争に至っていた。景虎は憲政の救援要請を受け、恐ろしく甘い条件で譲歩。政景の本拠坂戸城を速攻して降らせ、ほぼ放免して上野へ走ってきた。
鉢形城の両長野は、現れた敵軍がわずかであると見て取った。
「攻める気がないのか？」
「先遣部隊であろうよ。あれは藤田家の上り藤と…」
檜扇。他でもない長野氏の紋だ。
「…五郎殿」
「やることは変わらぬ」
決意を固める業正の心中とは裏腹に、両軍は一度視界に入ったが離れていった。
「拠点の確保を頼む」
氏康の代理として康邦と吉業にそう伝えたのは頼純だった。
「拠点？鉢形城は父上の手の中だろう」
「ああ。だから新しく必要になる。防壁もいらない。ただ1万弱の兵を収容できる場所があればいい」
「にしても難しいぞ」
氏康の子息の外戚、というところで対等の康邦は、初対面の頼純に同等に接する。
「もちろん場所も建物もないことはない。高見城という城がある」
鉢形城の支城ではあるが、少し離れている上誰も使っていなかったので敵勢力圏内ではない。
「腰越、越畑、杉山、小倉、小城には事欠かない。陣を確保してほしい」
「なるほどな。そんな任務に俺たちのような外様の国人をつけていいのか？父上と陣を相対すれば寝返るぞ」
「それを俺に言った時点でお前は寝返らん。もし本当に寝返れば、もう一度ゆっくり会うことになるな」
脅しなのかも分からないほどゆったり語った頼純を見て、吉業は困惑した。
そうしてやってきたこの辺り、いくつかの隊ごとに布陣も兼ねて配置を決めていった。1万が布陣し終わった段階で、業正は攻撃を考えていた。
「参ったぞ」
桐生助綱はかろうじてやってきた。館林の赤井家は新田金山を攻めているらしい。佐野も攻められることが明白なので動けず籠城している。
「前はあの小僧にしてやられたが、今は大丈夫だ。ご両名が忙しければ俺が出て相手をしよう」
「頼む。布陣のみで構わぬ。先に出ていてくれ」
「相分かった」
上野のみで抽出できる兵力にも限りはあるが、そのほとんどがここに集中されていた。
「管領様は鬼手を取られた。儂らがここで負けたとしても、長尾が東で伊勢の連中を蹴散らそう」
兵力6千、不利な戦いが始まった。
「兄者、見えましたな」
そう言う佐野昌綱には、今一つの疑問があった。北条と戦うべきか？
「おう。奴らを蹴散らし、我らの武勇を知らしめん！」
兄の豊綱はこう言うが、防戦できたとして追い返せるほどの力は自分たちにはない。自分なら防戦をやりおおせる自信はあるが、その先はどうしようもない。越後から何かしら来ると言っていたが、何にどれだけ期待すればいいやら。
「小太郎」
「父上」
豊綱が呼ばれていった。父泰綱はどれだけの勝算を見出しているのだろうか。こんな戦やめにして、北条と一緒に長尾を追い返せばよいではないか。そもそも古河公方の家臣からせっかく独立したのに、その使い走りの関東管領に顎で使われては本末転倒ではないか。
「父上」
「どうした」
「一戦交えねばなりませぬか」
「当たり前であろう。約定ぞ」
その折、伝令が駆け込んできた。
「申し上げます！北条軍先鋒、裏手より城に取り付き挑発しております！」
「旗は」
「上田朝直、成田泰季、清水吉政で、兵数は2千500にございます」
その時、昌綱の中で何かが弾けた。
「父上。俺に腹案があります」
「どうした」
「指揮を取らせていただけますまいか。唐沢山城の真価、奴らに刻み込みましょう」
「…そこまで言うならばよかろう。功を挙げてみよ」
「はっ。叔父上方、俺の指揮通りに動いていただきたく」
「おうよ」
真っ先に応じたのは久賀利綱。柴宮行綱、中江川高綱の4兄弟全員が合力を誓った。
「兄上、頼みますぞ」
「おうよ」
上田朝直は国人。成田泰季も国人で、しかも成田長泰の弟で家督を継いでいるわけでもない。清水吉政は北条の重臣だが、見たところ外にはまだ足利頼純と北条一族が控えている。舐めやがって。
新田金山城で重い腰を上げたのは由良成繁。ようやく動き出し、赤井照康が籠る館林城を逆に攻撃した。策を講じ、北条の軍が来る頃には那波領を奪還しきっていた。
「那波殿、お久しぶりにござる。旧領復帰おめでとうござる」
「いやはやありがたきこと。これで安心して寝られるというもの」
そのやりとりを苦々しく見つめるのが松田・遠山。那波に一度居城を捨てさせた借りを返す格好の機会を失ってしまった。
「赤井は強敵。兵を消耗した故、それがしは一度城にて回復いたす。それでは」
そう言ったきり由良成繁は姿を消した。不安だが、ここから寝返るような真似はすまい。松田盛秀は成繁を危険人物と認定しつつも、ひとまず赤井攻めに集中した。
「左衛門佐」
「はっ」
息子の憲秀ももう大人。武功を積んでもらわなければならない。
「あの口を抜いてみよ」
「やってみます」
「由良信濃守は強敵などと抜かしていたが、かの城は築城中で陣もいいところ。ここで功を立て、御本城様に報告するのだ」
「はっ！」
有力な武将を寄せ集め、雪崩のように攻め込ませればどこかで戦果を挙げられる。そんなコンセプトの東部方面軍第2軍に求められている仕事はこういうことだ、という理解のもと、盛秀は開始された愛児の館林攻めを眺めた。
「尾州殿、我らは先に桐生領を切り取りに参るぞ」
「左様か。御健闘を祈るぞ」
遠山綱景、垪和康忠らが離れ、桐生攻めに赴いた。
この3万超の大軍を率いる北条氏康は、未だ、というよりこの戦役を通して南武蔵にとどまることが決まっていた。目的は青梅一帯に根を張り上杉に呼応した三田綱秀を叩くこと。新たに嫡男となった氏政の初陣である。
「動きは」
「特段移動はございませぬ。勝沼、辛垣両城は峻険ゆえご注意を」
「よし」
横に控えるのは大藤金石斎。諱は信基というが出家済みの老人だ。息子の秀信が郎党と共に一手を率いている。
「藤橋城より、勝沼城の兵と衝突したと」
「大石だけでは不安もあろう。参るか」
「はっ」
今いる今井城から少し先、最前線基地の藤橋城と勝沼城の間はわずか。大石定仲率いる先鋒が崩れる前に本隊が到着しておきたいところだ。
「動けそうか」
「いえ。小山が動きませぬ」
最後の衝突点、下野。小山氏に後背を突かれぬよう派遣された多目元忠は、小山の動きのなさに釘付けにされていた。
「上杉を救う気があるやら」
「下野を潰されれば次は北下総・常陸。結城のために一手くらいは打っても不思議ではござらぬ」
唐沢山城では攻城が始まったという。佐野が降ればひとまずこちらも動けるのだ。
しかしその目論見はすぐに外れた。
「唐沢山城にて動き！」
