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搦め手

「楽だな」


なにもしなくても良い奥というのは気楽なもので、ついつい入り浸ってしまう。晴信の弟信龍(のぶたつ)信実(のぶざね)といった、義信らに近い年頃の連中もいる。若殿や十郎様とも歳は変わらない。小田原でもこれくらい楽に過ごせるようになるのはいつか、と考えているうち、ついつい時間が経ってしまう。


横浜や小田原との文通をまとめていると、未開封の束の中に何やら重々しいものがあった。御本城様の花押が透けて見えるので心して開けようと思ったその時、後ろから声がした。

「お忙しゅうございますか」

晴信四男、四郎。数えて5歳。だが、いやに大人びている。なんとなく兄弟間で浮いているのを察していた俺は、息抜きとばかり書状を懐にしまって遊んでやることにした。

まだ邪心がないか否か判断に困る頃だ。周りの悪意にも気づいているか否か。側室、それも晴信自ら滅ぼした諏訪の姫の娘という所生で正室腹の兄を3人持つのは察するに余りある。

戦争の話ばかり聞きたがるので、あるいは言い含められているのかと邪推したが、子供相手にそんな愚かな、と色々喋ってしまった。まずは河越の話。大将が一騎打ちなんてするもんじゃない、というところから、大軍を破る時には絶対に大軍側に粗があるという話をした。この時分に話したとしてどれだけ身になるかはわからないが。

それから体を動かそうと竹刀を持ち出して打ち合いを始めた。といっても俺は受けるだけだ。いい加減いい歳なんだよな。お兄さんというより叔父さんって感じだ。でもこの寡黙気味だが努力家気質だろう少年、後の武田勝頼(かつより)の叔父ならまあ悪くないか。


日が傾くまで汗をかいたので、庭でさっと水浴びをした。その最中にようやく思い出した。書状。我を忘れて遊びふけるんじゃなかった。ここにいる限り、というかこの世界にいる限り隠居するまでは仕事中だぞ。

急いで体を雑に拭きそこらの着物を羽織って書状を手に取ると、訃報であった。


肩あたりから滴った水滴で少し滲んだ書状をたたみ直し、事実上の召還状だなあ、と思いを致した。北条新九郎氏親(うじちか)、事故死。落馬という話だ。

いやどうしようか。これは史実でも起こったから考えていなかったわけではないが、今はいいかと対応を先送りしていた。実際少し前倒しになっているのではなかろうか。外交的超重要機密を気取られてはいけないと顔を引き締め、ひとまず梅姫を連れて帰ろうと画策した。


変事が起こったらしいというところまでは晴信に気取られてしまったが、なんとか同盟話は流さずに小田原帰還の準備を整えた。これで嫡子は十郎様になるだろう。そうすれば俺の地位は上がり、出る杭は打たれる。これまで以上に身の振り方を考えねばならない。

「帰られるのだな」

「源四郎殿」

飯富昌景だ。武勇に優れた男とは気が合う気がする。

「次はどこで見えるやら」

「お言葉にござるが、それがしはこの同盟死ぬまで切るつもりはござらん」

切るつもりがあるなどと言ったら大問題だが、俺の目が真剣ゆえに昌景は面食らった。北条も武田も、今はともかく過去を振り返れば梟雄と言ってよい家だ。同盟による絆を信じてよいものか。

「左様か。頼むぞ」

「はい」


晴信に別れを告げいざ発つという段で、原虎胤に話しかけられた。

「四郎様を頼み申す」

「なにゆえに貴殿が」

側室腹で疎外されがちな四郎に味方が少ないのはわかる。が、家の外の人間に後ろ盾を頼むのか?

「貸しを返してもらうまで」

ああ。虎胤が言う理由はわかった。父上の過去を水に流したから、武田に縛られろということだ。

「導け、ということにござるか」

「左様」

つまりむしろ逆で、お家騒動の原因にならないように外から見守っていろ、ということらしい。この歴史でも四郎が当主になるようなことがあるのだろうか。


のちに甲州街道と呼ばれるであろう道筋を八王子まで辿り、ひとまず滝山城に入った。大石定久は前年に亡くなり、御本城様の三男・藤菊丸様改め大石氏照(うじてる)が入っていたがまだ幼い。定久の遺児である定仲(さだなか)も俺より年下だが、なんとか城を回しているようだ。

「小田原に上られますか」

回らぬ舌でそう言う氏照。形式的には臣下になったからか、準一門かつ年上の俺に敬語だ。

「はい。参られますか」

「下総守殿をお待ちしておりました。共に参りましょう」

なるほど。俺一人で小田原に行かせるのは危険と踏んだか。氏照や定仲はそんなことを考えられる歳じゃないだろうし、中央からの指示か。


新九郎様が亡くなって嫡男になるのは十郎様、というか新九郎は北条宗家の当主代々の仮名なのでそのうち新九郎様になるのだろう。聞いていないだけでもうなっているかもしれん。そうなるとその外戚である俺が仕組んだと見ることができなくもないかもしれない。案の定小田原で出会った大人たちの一部は疑いの目を向けてきた。

面会した御本城様は、当然といえば当然だが憔悴していた。それでも新たな嫡男を支えるよう俺に命じ、また武田との婚儀の処理の話を出した。

「儂とて子を亡くしてすぐ左様な話をしたくはないのだがな」

「ご愁傷様にございます。されどもそれがしがすることは変わりませぬ」

無意味に言葉を並べることはしない。正式に新九郎と改めたらしい嫡男、北条氏政(うじまさ)を支えるとだけ述べた。

「娘御は連れて参ったか」

「無論にございます。まさか反故にはできますまい、いかになさいますか」

「有力一門と結ばせるほかないであろう」

俺がいる場所で話を出した時点で察してはいたが、竹と氏政様が離縁されるルートだけは避けられたようだ。

「されど左様な方がいらっしゃいましょうか」

年齢的にダメなのだ。初代の早雲の長男の長男の長男である氏政様が同世代で最年長なのは当然として、御本城様の従兄弟にあたる長綱様の子息もまだ年端も行かない。

「藤田の弥八郎は幼く、足利の下総守か大石の播磨守に絞られるな」

おっと?俺か大石定仲と言い出した。大石があくまで国人衆で、氏照がいる以上継嗣ではないのを考えると…

「つまりは」

「儂から一筆書いておく。やむをえぬ事情であるゆえ分かってもらえるはずよ」

えぇ。自分で作った三国同盟の中核に組み込まれてしまった。北条武田両家にどデカい枷をはめられた格好だ。まあいいか。そろそろ身を固めなければならないのはそうだ。

いや待てよ。俺は天文元年生まれ。梅姫は12年生まれだ。


11個違うじゃねえか。

残念俺に少女趣味はない。後継ぎうんぬんは待てばいいとして、その時には俺はおっさんだろうし、妻として見ることができるやら。そもそも俺が精神的に幼すぎて不安だとか色々ある。

が、断れないという事情の下にその色々は一刀両断された。


「よろしくお願いいたします」

「よろしく頼む」

武田晴信もさすがに娘を他家で一人にし続けるのはしのびなかったと見え、すぐに返書をよこして了承した。史実でも娘の安産を願ったり、親バカな感じはあるなとは思っていた。その割に自分の父親は追放してるのだが…

今川へ向かう春姫も出立し、婚儀が済み、宴もほどほどにさせ、二人きりになっていた。

「ここにいても暇だろう。領地を回ってみるか」

「はい!」


「殿」

「八郎か」

「家臣一同安堵しておりますぞ」

久々に見た気がする逸見頼長も皮肉交じりに言う。

「まだ早いだろうよ」

「なんの。我らも心機一転の心持ちで参りますぞ」

それなら働いてもらうとしよう。

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