閨閥の予感
「なるほど、呑むしかないな」
唐突な終戦交渉に、北条氏康は敵の打算を理解した。要件は単純。駿河の北条領の今川家への割譲だけだ。武田は得るものこそないが、恩を売ったというのは大きい。
「この時のために守り抜いたみたいなところはあったからな。仕方ない」
独りごちる頼純は、氏康帰城の報を聞いて速攻で武装解除し兵を帰した。
「そろそろ帰るぞ。戦は終わったようだからな」
「分かりました、兄上!」
「どうなったのでございましょう?」
「なんとも言えぬようでございます。勝ったやら負けたやら…」
西堂丸はふむ、と頷き、松千代は首を傾げた。
「御本城様もじきにお戻りになられるゆえ、失礼いたします。それでは」
期間としてはそこまで長くなかった。が、氏康が家臣の前で述べた一言をきっかけに、頼純は打算が崩れ去ることを恐れ始めた。
「武田今川と同盟か…先手を打たないとまずいな」
「どうなさいました?」
竹は最近頼純によく話しかける。6つも離れているのだ、かつては家にもいないし話しかけづらい男という印象だったのだろうが、一つ屋根の下落ち着いてみればそうでもなかったということなのだろう。
「これはまだ外には出せぬ話だ。悪いな。八郎いるか?」
「ここに」
頼純は頼長に耳打ちする。竹と松千代の縁談、そのための西堂丸の縁談の話だ。
「左様なことを…」
「狂人を見るような目で見るな。酔狂な自覚はあるんだよ」
「これはまだどなたにも申されておらぬのでございましょうな」
不安げな目で問うてくる。
「勿論。だが甲相駿で盟約を結ぶとなると怪しくなってくる」
そこで頼純は策を変更する。松千代に竹を嫁がせられればいいのなら、西堂丸の嫁に武田か今川の娘を持ってくればいいのだ。
「左様にございましょうが…一歩間違えれば斬られますぞ」
出しゃばりすぎると打たれる。そんな杭だからしょうがない。そう思いつつ頼純は、縁談がまるでパズルだ、などとしょうもないことを考えていた。
「自由恋愛なぞ夢のまた夢よなあ」
誰にも聞かれぬよう呟いて立ち上がると、頼純はすぐに計画を立て始めた。傍の竹は何が何やらという様子で首を傾げていた。
「…なるほど」
北条綱成は短く呟く。最初に相談すると縋るように頼んで来ると思えばそれか、という顔だ。
「確かに取り込みたい国衆の娘を貰うのは一理あろう。しかしお主は…十分ではないのか」
「それがしの忠誠を示したく。大きくおなりあそばせた暁には大石や藤田といった国衆の娘を受け入れるという話は聞き申したが、有り体に言えば連中よりも下に扱われるのは我慢がなりませぬ」
綱成は元々北条の血縁ではなく福島氏の一族だ。しかし先代の氏綱に気に入られ、娘と北条姓をもらった過去がある。
「逆ではならぬのか。お主も未婚であろう」
「…考えたこともございませなんだ」
自分の嫁、という慣れない響きに直面した頼純は、少し考えても一切のビジョンを呼び出せなかった。
「いずれにせよ、足利の娘に見合う家はそうありますまい。それがしなどよりも妹を早く片付けて安堵したく」
包み隠さぬ本心である。さらに付け加えるとすれば、自分の分は気恥ずかしいので先送りしたい、というところか。
「それで、ここに来た訳は?」
「お力添えをお願いいたしたく」
ほう、と一息ついた綱成は、机と筆、墨をその場に持って来させた。頼純はすかさず懐から一通の書状を差し出した。
「周到なことよ。花押を押すだけとはな」
半ば呆れつつも綱成が乗ったのは、北条の安定と発展のためだった。足利頼純がいなければ河越の折の房総と長久保はどうなっていたか分からない。小田と組んでの結城との合戦、下野への侵攻もほぼ頼純の働きによる。まだ数えで19歳の彼が、例えば先代様と同じだけでも生きたら。その一生を繋ぎ止める枷を向こうから提示しているのなら、いいだろう、乗ってやろう。そう思った。
あくまで噂、という名目で、綱成が書状を出す前から話は広がった。綱成の妻大頂院、その兄弟姉妹の氏康や氏尭と、本命に届くのもすぐだった。
「ならばお主で盟をまとめよ、と伝えよ」
それが北条氏康の返答だった。武田今川との盟をまとめ、長男の嫁を確保する。こちらは娘たちがまだ数年幼いので、内定という範囲にとどまるだろうが、ひとまずそれを行えば西堂丸、松千代の元服に伴って婚儀も行う、という流れを作ることはできた。
「八郎。それとなく広めておけ。帰ってきたら俺の口からも言おう」
「兄上、また行かれてしまうのでございますか」
「戦ではないから長くはないさ。内容も単純だし、時間的にはすぐ終わるだろうよ」
ただ、それは物凄く濃密な時間になるだろうが。
「左様にございますか。すぐお戻りくださいね」
「おう。行ってくる」
逃げるように向かった先は、駿河善徳寺城だった。
「いつ発つ」
「今宵には発ちまする」
「遅れるなよ」
「それがしを何だと心得ておられるのでござる」
皆がどっと笑う。長兄の晴信からは11個下のこの弟、武田信廉を、まだみな子供だと思っている節があるのだろう。次兄の信繁も乗っかって笑っている。
「お茶でございますよ」
先日再び娘を産んだばかりの三条の方がやって来て三人に茶を出す。
「真理は大丈夫なのか」
「ご心配なさらずともすぐ戻りますよ」
「先刻まで身重だった奥方の心配が先でござろうが」
苦笑しながら礼を言い、茶を口に運ぶ信繁と、きまり悪そうに労う晴信を見て、信廉はまた笑った。
「さて、如何すればよろしゅうございましょう」
「聞かんと分からぬか?」
「答え合わせがしたいのでございます。兄上の考えることは時たまよく分かりませぬ」
「時たまではなく常にであろう」
そう茶化す信繁も信廉も、晴信を誰よりよく分かっている二人であることは言うまでもないが。
「梅だな。そうでもせねば時間がかかって仕方ない」
晴信はまだ幼い長女の名前を述べた。まだ数えで8つ、早くても4年は待ちたいところだ。
「あの姫君は少し変わっておられるがな。その分賢いゆえ何とでもなるであろう」
「全くよ」
晴信も同意する。やけに賢いが抜けているところも多い。この間は晴信や三条の方の血筋について話して聞かせたところだ。
「ここ二年ほどで急に大人びた感があるな」
「ひとまずその辺になさってくだされ。話が進みませぬ」
晴信と信繁の楽しいトークは遮られ、今度は受け入れる息子の話になる。
「まあ、こちらは太郎以外いまい」
嫡男太郎は氏康の次男松千代と同い年、西堂丸より1つ下だ。同年代でないと婚姻は何かと支障が出る。皆このくらいの娘を出してくるだろうという読みであった。
「異議ござらぬ」
「ではもう参りますぞ。駒井を呼ばねばなりませぬ」
「そのうち来ようが。ゆっくりして参れ」
「兄上方ほど図太くはのうございます」
軽口を叩きながら、同行する近臣駒井政武を呼びに消えた信廉の一言に、信繁は笑い、晴信はしょぼくれていた。
どんなに徒歩でゆっくりしても1週間かかったら心配される、それくらいの道中をやってくる三人の姿を視界に捉えたのは、この会談を企図した今川家参謀の太原雪斎。自ら会談にあたるとあって、両家の若衆を確かめたいという思いもあった。
「どうせそれがしは老い先短いゆえ」
「…それは困るのう」
主とのそんなやりとりを思い返す。この二家は盟を結ぶに足る相手か。
雪斎が死ねば冗談は抜きにして今川は多かれ少なかれ揺らぐ。義元は困りながらも人材育成に励んでいたが、この場合は単に雪斎が有能すぎるのだ。
「さて、引っ込むか」
雪斎も庭先から腰を上げ、城門を押し開けてそのまま本堂に入った。この時代よくある、寺と一体化した城である。
ここでの会談が、幾人の人生を変えるのだろう。




