再緊張
「神奈川か」
港町神奈川。江戸期を通じて東海道と海運の交差点として栄えることになる町だ。ここまで何をしにきたかというと、下見である。
「港と直結したいのだがな」
農具も肥料も工業も、技術革新無くしては始まらない。俺とて後世何が作られたかは知っているが、その作り方を網羅できている訳ではないし、設備も全く足りない。それを統括して研究施設をと考えたのだ。
「港の商船の船着場が減ってはなりませぬ」
「だよなぁ」
御本城様に打診したところ、橘樹郡あたりにでも作ればいいと言われた。近くもなく遠くもない立地だ。港町といえばここか、と思い勇んで来たが、何の根回しもしていない。仕方がないので引き上げようとするが、やはり手ぶらで帰るわけにはいかない。
「…あれは?」
ふと気になったのは湾の対岸、海辺の寒村だ。港を作って建物を建てる。悪くない。そう思って聞いてみた。
「あそこにござるか?お好きになされよ」
どうも橘樹郡を外れるらしい。仕方ないので南隣の久良岐郡に侵入し、目的の村に向かう。
うん、悪くない。商船を入れる必要もないし、神奈川と同じく小田原へもその気になれば繋げる。港としても悪くない。ここにしよう。軽い気持ちで決めた。
「ここらの土地は何というんだ」
半農なのだろう漁民をつかまえて聞いてみた。
「横浜と申します」
将来の300万都市の原型を見つつ、その脇あたりに縄張りを引いた。翌月には工事が始まり、小田原への街道までをつなぐ脇街道も整備された。足利家の蔵の中身が石組みや木、漆喰に化けてものすごい速さで積み上げられていった。
完成はまだ遠いが、ひとまず手はつけられた事で安心し、通貨制度をもう少し練っていると、あと半月で停戦が切れてしまうことに気づいた。
「延長せよ」
御本城様のお達しはそうだった。その間に軍備を整えろということなのか、あるいはまだ休戦状態を保持しておきたいということか。いずれにせよ俺たちはやるべきことをやるだけで、物はだいぶ集まって来た。問題は人だが、プロパガンダが上手くいったか常備軍志願者は常に一定数いる。農商家の次男以降なんて、余程の才覚でもなければまともに活躍できないだろうからな。北関東でかなり消耗したが、補充はほとんど済んでいる。
切実なのは武田今川で、特に今川国境は小田原までさほど遠くない。以前の長久保籠城をまたやるのかと考えると頭が痛い。それと武田も相手にはしたくないな。教来石景政から改め馬場信房もついに歴史の舞台に姿を現した。いや名前を変えただけだが、なんというかこう圧が違うのだ。板垣信方も甘利虎泰ももういないが、2人減ったくらいで揺るぐ武田でもない。
ただ救いもある。武田にしろ今川にしろ、西方から進撃してくるので、戦場は必ず西武蔵、北西相模、伊豆のいずれかになる。どれも山がちで、大軍が活きる地形ではない。
長野業正との交渉は成功した。休戦継続ならせめて新田金山城を、との内部の声が漏れ聞こえたが、うまく抑え込んだらしい。さすがとしか言いようがない。
時はもはや天文19年初夏、武田晴信は史実より数ヶ月早く、神速の攻めで信濃国林城に攻め寄せ、信濃守護職だった小笠原長時を北信へ追った。信濃の半ばを制圧した晴信は、北条から金と引き換えに毟り取った米を使い、即座に甲斐で軍を編成した。今川義元はそれに呼応、1万弱の兵を率いて自ら駿河の吉原城に入った。上野では由良成繁からの文が途絶えがちになり、下総では結城政勝が筑波を睨んでいた。
「結城を向こうの同盟から外したせいで、停戦の効力も及ばなくなったか…」
失策に思い至ったが、事ここに至れば些事。佐竹義昭の影すら取り沙汰される中、御本城様こと北条氏康は河越以来の内線作戦を強いられていた。
「伊豆も厳しいな」
康英がわざわざ屋敷までやってくる。
「そうか、清水家の地盤は伊豆か」
「本気で来たとしたら、城下は一度は焼かれるだろう。何のための戦か、虚しくなるな」
珍しい発言にため息を一つ。
「長久保城代は誰なんだ」
「最近変わった。長綱様らしい」
最前線城主に便利使いか。河越でも綱成殿と同じく籠っていたし、俺でもそうするな。
「駿豆国境での控えに綱成殿、伊豆の守りに清水。武蔵は他の譜代家老に任せ、御一門衆は甲相国境まで上がると。下野衆やらは使わん」
「なるほど。お前は聞いていて俺は聞いていないということは、留守居かな」
「本当か?…御本城様が何をなさりたいかは分からんが、何かしらあるんだろうよ」
「だろうな。だが俺ばかりが留守居でもないだろう」
本音を言えばありがたい。活躍したいのは山々だが、周囲の目を考えれば恩賞を受け取りたくはない。後衛に回ることで戦線を俯瞰できるし、今やっている作業を中断せずに済む。
さて、北条上層部の繁忙に乗じて好き勝手やってしまおう。化学肥料の導入はまだ無理があるとして、次は工業でもやるとしよう。まだ手工業だ。千歯扱きやら唐箕やら作るか。どちらも備中鍬と並んで歴史の江戸時代で習う農具の筆頭だ。繊維業はどうしよう。
あとはどうだろう。手軽に取り掛かれる産業は思ったより少ない。いっそぶっ飛んで蒸気機関にでも手をつけてしまおうか。一応古代ギリシャの時代から原型はあるんだ。
流石にどうなんだという感情を抱いて選択肢から外し思案に耽る。
そんな折に御本城様から、御嫡男の西堂丸様と次男の松千代様の元服を来年行うから準備しろと下命された。元服ついでに嫁も探すと。
非常に悩むのだが、正直、というか我が儘を言うと竹を輿入れさせたい。時代的に言えば適齢期だ。遠征中はずっと城内で遊ばせていたし、選択肢としてないでもないだろう。ただまあ、嫡男への輿入れはないな。足利の家格で最初の嫁だと間違いなく正室になるので、角が立ちすぎる。次男か。
じゃあ筋合いから言って長男の嫁はどうするか。
「選択肢を作るか」
まずは北条にも縁深い公家の飛鳥井、あとは戦後の講和のための今川や武田、有力家臣の娘といった考えを箇条書きにまとめる。
幾度か御本城様にそれとなく話を振ってみた。公家を嫁に取る、ない話ではない。武田晴信もそうだ。しかし今話しても進展が得られそうにはなかったので、ひとまず脇に置くしかなさそうだ。
高城領の小金から小田まで荷駄が往復するようになった頃、甲駿連合軍は連携を取りながら移動を開始した。武田勢が武蔵に入った時点で、大戦がまた一つ幕を開けた。




