海沿いの那須
「安息だな」
「だな。だが束の間の安息だ」
下野をとっとと退去し、小田原まで戻るのも億劫なので江戸に入った。本庄城がもし落ちていなければゆっくり内政でもやりたかったが仕方ない。
「康英、お前ここにいていいのか」
「父上もまだここにとどまられるらしい。それよりもお前こそ家臣を待たせていいのか」
「正直半年と言わずしばらく軍事行動は起こしたくないが」
長野も他の勢力もこれにつけ込んでくるはずだ。那須領だった北下野も北条領からしてみればほぼ飛び地になっており、いつ焼かれてもおかしくなかった。結城と小山を中央突破したのが裏目に出たのか。
「今川も武田も動かないとは限らないぞ」
義弘が空気を読まずに指摘するので、両の手足を投げ出してひとしきり叫ぶ。
「うるさいな」
「お前叫ばずにいられるか」
「いられるよ」
一つ考えはある。が、成るかどうかは怪しい。
「甲斐や駿河と同盟でもあればな」
甲相駿三国同盟の締結。史実では数年後に起こるが、これだけ不利な情勢下で可能なものか。それに三家での婚姻の交換もまだ年齢的に厳しい。どんなに急いでも史実ごろにはなる。
「有利な状況を作れればいいのじゃないか」
「なるほどな。どうする」
「あと一戦だけすればいい。そこで完勝すれば、二家から譲歩を引き出せるんじゃないか」
「…なるほどな。はなから軍事衝突を含んだ案を御本城様が通すとはあんまり思えんが」
「任せろ」
そう言うので、だいたいを紙にまとめた上で康英に渡した。
数週間後、俺の思いつきを元にしたと言えるかわからないほど具体化された作戦計画案が達されてきた。俺の荒唐無稽な妄想をなんとか形にしたという感じだ。実行者欄を見ると、筆頭ではないとはいえなぜか俺の名前もある。
「俺の思いつきとして松田殿に頼んで上げてもらった」
なるほど。親頼純とは言えない松田を通すことで通りやすくしつつ、松田盛秀に借りを作ってやったか。なかなか強かだな。
まず、二家を釣り出すためにしばらく行動を起こさないことにする。常陸方面も出来る限り放置し、休戦が切れると同時に襲ってきてもおかしくない状態にしておく。その間の猶予期間でガッチガチに内政をする、という。
“ゆっくり”内政という俺の望みは全く果たされないが、十分だろう。こうなったら意地でも圧倒的発展を遂げてやろう。
まずは農業である。畑作や稲作の現状の確認から入ろう。
「田畑を増やせばいいだろう」
「まあ待て。収入を増やすにはいくつか手段があってな」
一つずつ段階を追うことにしよう。義弘や頼長らも納得する。
「一、税の種類を増やす。いろんなものに課税すればそれだけで収入は増えるが民の暮らしは苦しくなる。そこで各産業の振興が必要だ」
「さようにございますな。それゆえにこうして集まっているのでございますゆえ」
「まあこれは一つ一つやるとしようか。それで二、年貢の率を上げる。これはやりたくない」
「なにゆえ」
「時間は無限じゃないからな。農民一揆の相手はできない」
話によると九公一民やらの歩合で徴収した国もあるというから驚きだ。まあその家は直後に島原の乱を起こされて問責改易されるんだが。
「三、土地の石高そのものを上げる。このために農業改革が要るな」
「どういうことにございますか」
意味を掴みかねるらしい。
「同じ場所からの収穫を増やせば石高は上がるだろう?その他にも新田を開発するという手もある」
そのためには種々の手が要る。
「たとえば肥を改良するとかな」
「左様なことができるので?」
「分からんが、人間や動物の糞尿に頼っているうちは安定して大量に生産することはできぬだろう」
「ではどうなさいます」
実はこの先をあまり考えていない。俺は肥料の専門家でもなんでもないし、灰や糞、骨なんてものが肥料になることくらいしか知らない。
「分からんが、干鰯やら油粕はどうだ」
「聞いたことがある程度にござるな」
原胤清がこぼす。聞くに、千葉家臣だった折に風の噂で聞いたらしい。前には下総の一部で配ったこともなくはないのだが、皆忘れているだろう。
「なるほど。鰯は九十九里やら銚子やらでいくらでも採れるな」
「左様にございましょうか…名産などという話はあまり聞きませぬが」
胤清自身も首を捻る。いわし漁のイメージは江戸期以降だったか。まあ、仮に今までが違っても、今から大規模漁業を始めればいい。
「干鰯は良質な肥料だ。何より人の多くない山中でも使えるからな」
他の肥料が調達できなくても、物流がしっかりしていれば届く。
「つかぬ事を伺いますが、殿」
「どうした」
声をあげたのは秋元義政だった。
「作った肥はいかにして農民に渡すのでございましょう」
鋭い。
「そうだな。そのためにも銭を普及させる必要がある」
「銭を?」
「甲斐に米を垂れ流しているおかげである程度の金は用意できた。銅銭と合わせてしっかり制度化し、価値を定めて領内どこでも使えるようにしたい」
「…壮大でございますな」
「やれるかどうかは分からんし先の話だ。金が無駄になるのも恐ろしいしな。ゆえにもう少し別の手も考えてはいるが、まだまとまっておらぬ」
他でもない兌換紙幣の導入なのだが、普及には途方もない時間がかかりそうだ。まず兌換というもの自体を民衆に理解させる必要があるしな。要するに各大名家ごとにバラバラの証文をきっちり制度化して一元化しようという目論見だ。北条家が大きくなると北条の通貨が通じる範囲が広がり、商圏が広がる。利益を求める商人は商圏拡大のために北条を支援する。そんなよいサイクルを思い描いている。
「他に耕地の整理もしたい。が、農民同士の争いを増やしたくはないな」
「これはまた何故にござる」
分からないことが多すぎる、と言わんばかりの頼長だ。
「農具が進歩し大型になった時、効率的に耕すためだ。正直まだまだ先でも問題ないな。だが農具の発展はすぐにでもやらないといかん」
「農具にござるか」
大きい家出身の里見や正木、逸見が首を捻り、小豪族出身の秋元たちが興味深そうに聞き入る対比を面白く思いながら、いくつか案を出してみた。
「股鍬を使うとかな。土を返しても土がつきにくい」
「それは土によりましょう。物にも使いどきがござるゆえ」
「そうだな。他にも脱穀や籾殻の選別も楽にできればいいんだが」
「…やけに農民に肩入れするな」
義弘が呟く。
「確かにな。ただ農業が発展しなければ人は飯を食えんし、他の産業が発達することもない」
ほうと納得した義弘に代わり、今度は頼長が呟いた。
「新しく物を作る場所でもあれば便利にございますな」
その一言で閃いた俺は、一言労うとその場をお開きにして退室した。
さて、九十九里の新領主は誰だったかと調べても何故やら出てこない。遠山綱景に聞くに、どうやらまだ誰に渡すか決まっていないようだ。
「那須の誰かではダメなのでございましょうか」
「皆もっと取るべき場所があると思っておるようでな」
「ふむ」
下総は一面平地だ。灌漑をきちんとすれば、浜寄りの土地なんて取らなくても年貢収入がっぽりだと思っているのだろう。その治水と灌漑が大変なんだよなぁ…とは口に出さない。西下総は大半が高城と千葉の領地なのだから、東部はもっと欲しがられるかと思ったが。
「砂浜は港に向かぬなどと」
「海沿いを取っても意味がないという事にござるな」
ひとまず納得した上で、領地問題を早めに片付けることにする。
「九十九里を取った領主にはそれがしが話をつけたいとお伝えくだされ」
「バラまくつもりか」
「そろそろ貯めるばかりでは睨まれましょうて」
有り余る銭は使わなければ意味がない。
「バラまいても睨まれるぞ」
という戒めは聞かないことにした。
すぐに那須家が手を挙げ、大田原や大関を差し置いて直轄とした。新領主の移封はこれで片がついたか。
「こうして顔を合わせるのは初めてにござるな」
「左様。して、話とは」
那須高資。騙し合った事などとうに忘れたようなそぶりを見せている。
「浜にていわしを獲っていただきたく」
「ほう」
地引網漁を行うという話を聞いた時、すぐに聞き入ってきた。これはいけるという確信のもと、ひとまず干鰯の大量仕入れが約束された。那須の財政は助かるだろうが、それは干鰯を売る俺も同じ。十分潤っている現状と合わせて考えると、この銭もまた献上して恩を売るべきだ。
捗るな。次は技術の打開策でも考えるか。




