スタンス
「小田喜?」
「はい。といっても急ぐ必要はありませぬ。年が明けてからでも問題はなかろうと存じます」
小田喜城。後に徳川家康の家臣・本多忠勝が大多喜城として改築し、政庁を置く場所だ。まだそれとは比べ物にならない新しい城だが、それでも要衝だった。
「しかし、小田喜には真里谷の一族がおりましょう」
「それを潰せば大きな影響力を得られます。周囲はたちまち従いましょう」
小田喜を守るのは真里谷朝信という将で、国王丸の知る歴史ではこの5年ほど後に里見に撃破され落城している。それまでに土岐のものにしてしまおうという算段だ。
「しかしそこまでの兵を捻出するのは難しゅうございますぞ」
「兵を動かす必要などありましょうか」
ここに来て国王丸は胸の内をやっと切り出した。
「小田喜を落とせば里見とも戦えますぞ」
しばしの痛い沈黙の後、土岐為頼は真顔で切り出した。
「本気にござるか」
「なんの、それだけの力が手に入るというだけにございます」
ただ仄めかすだけだ。ここで頷けば誰に斬られるか分かったものではない。少なくともませたクソガキという印象は払拭できただろうと踏んで国王丸はその場を後にした。
しかし彼の予想以上に、土岐為頼は考え込んでいた。確かに里見に従属し続ける義理はないかもしれない。だが里見義堯の妻は為頼の娘なのだ。すでに何年か前に生まれた孫もいる。
だが里見を切って捨て、安房を平らげるという選択肢も無いわけではなかった。何より逆転の発想で、里見が自分を裏切らないという保証もないのだ。戦国的な割り切りがそこにはあった。
結局その場では戯言と切って捨てることにしたが、幾日か経っても頭に残り続けた。
兵を引き連れ一旦万喜城に帰ると、既に12月も半ばを過ぎていた。暮れの準備に追われながら、土岐為頼は未だ悩んでいた。
「八郎、それはそっち」
部屋を片付けながら国王丸も悩んでいた。北条に臣従するチャンスはこの先いくつかあるが、その最初のものですら10年近く後だったからだ。
「10年このノリで行けるとは思えないんだよなぁ」
「なんのお話にござる」
「なんでもない」
それが本音だ。まだガキだという相手の油断に頼っている部分もある。10年も経てばもうとっくに元服しているのだ。その時に自分はどうなるのか。
「あけましておめでとうございまする」
天文8(1539)年の正月はそのまま迎えられた。家臣皆が登城し、騒ぐ者もいる。
国王丸もやってきて三ヶ月ほどが経ち、そろそろ動こうかと思案していた。
「準備はできてるんだよ」
「左様にございますか」
北条に、小田喜に、真里谷に、里見に送る手紙。しかしいくら文面が出来上がっても、土岐為頼の花押がなければ出しても破り捨てられるだけだ。その意味でも彼の了承を得なければならないし、そうでなくても居候先に無断で寝返る不義理はしたくなかった。
まずはインパクトの小さそうな里見への手紙を渡した。これの内容は、
「小田喜城を攻め取る。九十九里浜側は我々に任せ、江戸湾側に出られよ」
要するに手出しするなと言うだけの手紙だ。
「小田喜を攻め取るなど算段があるのでござるか?大言壮語は禁物にござるぞ」
当然ながら為頼はこう言う。そこで小田喜に送る書状を手渡す。
「北条と共に里見を滅ぼす。ついては北条軍との連絡を取り引き入れるために、小田喜に入城させてほしい」
これを見た為頼は凍った。
「無論どちらの書状が誠のものになるかは土岐殿の御意志次第でございます」
どちらの書状も出すことになるだろう。ただ本当にどちらの味方をするか、つまり、里見に与し小田喜から真里谷を攻撃するか、北条に与し里見を討つかは、この城の主である土岐為頼が決めることだ。
為頼は筆を取り、別の書状をしたためた。しかしそれを国王丸に見せることなく、命令を下した。
「小田喜真里谷家を滅ぼすゆえ、謀略をもって本城を落とされよ」
里見と小田喜に書状を送る。里見からは相分かったと短い返事が来た。小田喜からは当然反発を受けたようで返事も来なかった。
「まあ後から効くんだよ」
「なにゆえにござる?」
「里見がそのうち天津城を落とす」
安房天津城。安房にある数少ない小田喜真里谷家の領土だ。ここが落ちれば真里谷朝信も贅沢は言っていられなくなる。
「小田喜を獲ったらすぐに西進する。それでも間に合うか分からんが」
西側には上総の江戸湾沿いの城が数多くある。
「土岐殿は何を考えておられるのでございますか?」
八郎は当然の問いをする。
「北条は強い。里見も強い。義理から自分で里見を切ることはできない。だから俺をなし崩しで切り離し、勝った方が後々もう片方を迎えに行けばいい」
両天秤をかけるということだ。そんなことは後から考えればいい。これで国王丸は北条に仕える道筋がついたことになる。
「しかし若殿様、真にそれでよろしいのでございますか」
北条のもとに下る。これは本来苦渋の決断のはずだ。国王丸の家族だけでなく、この八郎の父逸見祥仙も討たれているのだ。
「俺は北条氏綱も北条氏康も里見義堯も、どんな人間か全く知らない。だから仕えてみたいんだ。この乱世を一人で生き抜ける気もしないしな」
ここのところ、彼はまだこの時代の人間になったわけではない。読み漁った資料、舐めるようにして見耽った説明看板で幾度となく見たその名前の持ち主を、一目でいいから見たかったのだ。
「左様なことにございますか」
「悪いな、我儘かもしれない。だが俺は言ったことには責任を持つ。俺もお前も畳の上で死ぬ」
転生というチーティングをしてなお、彼は天下を取ろうなどといった大それた望みは持たなかった。知識程度のアドバンテージではどうにもならない化け物が、この時代にはいくらでもいることをよく分かっていたからだ。
初陣だった中滝城攻めも、本来ならまともに歴史に残ることもなかったはずだ。あれくらいの小さな戦いの全てが記録として残っているわけではないから、自分がいなかったらどうなっていたか判断する術はない。だが、これからやることは明らかな歴史改変だ。
この小さな身が動くことでどれほどの大事が起きるかは、誰にも、彼にも分からなかった。