長久保より
「東より急報!」
即座にもたらされた知らせは、北条破滅の序曲となりうるものだった。
「山内・扇谷両上杉が結託、古河公方を戴いて我らが領内に進軍して来ました!」
敵の第一目標となりうる河越城には、北条綱成3千が詰めている。が、それでは不足。上杉家は北関東から房総まで、あらゆる関東の大名家を扇動し、対北条一揆を起こしていた。
「軍議だ軍議!すぐに集まれ!」
今回は八郎を連れて軍議に参加した国王丸は、まずは聞きに回る。
「多少不利な条件であってもすぐさま和睦し、取って返して叩くべきでござる」
合理的な判断だ。そもそも河東は他国であり、伊豆に入って来さえしなければ取られても仕方がない部分はあった。それは国王丸とて重々承知していたが、それでもなお一案を提示した。
「ではそれがしが長久保城に入り、城を守る長綱様を引き連れて河越へ向かわれてはいかがにござろう」
氏康が期待した殿軍の役目。それを自ら名乗り出た国王丸は続ける。
「房総、特に下総がどうなるかわかりませぬ。房総の三州で駿河へ兵を動かしたのは我らのみ。たとえ他の各家に異心がなくとも、家臣が暴発いたしましょう。それゆえにそれがしの軍勢から一部を引き抜き、上総へ返しまする」
「ではそなたは死ぬと申すか?」
「籠城戦で人が多い少ないはそこまで重要ではございませぬ。兵糧の減りを抑えるためにも、これでようございましょう」
これで駿河方面は寡兵で一手に担うこととなる。河越での戦闘開始は早くとも来年。しばらく河東を引きつけておくことになりそうだった。
その週のうちに北条軍は撤退。足利軍は脇道から城に近づきつつ、撤退する本軍に気を取られた今川の隙をついて城兵と交代を完了させた。
「後は頼みますぞ」
北条長綱の手を握って頼む国王丸は、すぐさま翻って城門を閉めた。長い長い長久保籠城の開始の合図である。
一方の北条本軍はひとまず小田原に戻り、清水などの軍勢を一旦領国に返した。狐橋の損害を立て直し再建することを目的としていた。
直後に始まった攻勢を耐え抜いて、籠城によくある膠着状態に陥っている間に、敵の旗を改めて彼我の分析をした。
北条軍
足利国王丸 900
逸見八郎 600
正木時茂 600
原胤清 800
村上信濃守 800
里見太郎 300
計 4千
今川軍
今川義元 2千
太原雪斎 2千500
朝比奈泰能 1千
鵜殿長持 800
孕石元泰 600
計 6千900
絶望的な兵数不利は取っていないが、それでも結構来たなという感想が国王丸の頭に浮かんだ。この翌年に当たる北条家の河越防衛の兵力は1万強だと言われているので、それに比べれば味方もだいぶ思い切って割いた数字だが、国王丸の推進した常備軍制定と上総安房の平定が多少の余裕をもたらしていた。
一方の今川軍は単純にまだ余力がある。そこそこいい将を揃えて来たが、第二軍を編成する兵も将もあるだろう。何より思ったよりも聡明だった孕石がいるのが恐ろしかった。
「ここで死んだら冗談にもならんぞ」
そう言って気を引き締める国王丸に、常備兵の訓練をしたゆえに多くの兵を割かれた信濃守が応える。
「なれば打って出て首を取りましょうぞ。多少不利とはいえ練度は上、奇襲をかければ敵大将の首も取れましょう」
まあ待て、と手で制された信濃は不服そうだったが、続きを聞いて納得した。
「今川義元はそこまで愚かじゃない。せっかく訓練した兵を減らしたくはないぞ」
常備軍の欠点、人数あたりの訓練量だ。これはどうやっても欠かせないので、人をさらに増やす工夫が必要だろう。
11月に入り、年末も差し迫って来た頃、敵後続の援軍がやって来た。
「早めに握り潰すか?」
「兵糧を一気に使い潰すことになりましょう。短期決戦で終えることができればようございましょうが、今川義元の首を取る覚悟が必要でございましょうな」
「分かった。無理だな」
であればなんとか耐えなければならないが、小田原との兵站線も徐々に細くなり、不安要素ばかりが増えていた。
「まもなく年も明けましょう。ここまで粘ったことを盾に和議を結んでは如何にございます」
時茂が進言する。
冬だ。見たところ屋外で城を囲む敵兵には若干の凍死者も出ている。手打ちにしないまでも、一旦引き上げても良さそうなものだ。
「ってことは連中には勝算があるんだな」
「なんでございます」
「上杉戦線で何かしら仕掛けたのかもしれん。俺も行かないとまずいかもな」
「されば自落いたしまするか」
「…長久保は取っておきたいな」
本音が漏れる。折衷案は浮かばない。
「なれば2千でこの城を守りきりましょう」
八郎が突然声をあげる。
「何を言ってるんだ」
「それがしとあと一隊、例えば正木殿を残していただければ、河越を守り切って戻って来られるまでの間ならば粘れましょう」
正木時茂はこの危険な提案に頭を抱えていたが、それでも四半刻も討論した末乗った。
「なるほど。殿は小田原で体勢を立て直し、同時に長久保に最後の大荷駄隊を送る。荷駄隊の帰還を待たず武蔵へ進撃し、河越で一戦を交える。これなれば乗りましょう」
「分かった。その兵糧で粘ってくれるということだな?」
「はっ。必ずや」
八郎は決意のこもった眼差しで国王丸を見つめた。その目に永訣の覚悟があるような気がして、国王丸は戒めた。
「死ぬな」
二日後までに部隊を整え、国王丸、里見、村上、原の隊が打って出た。村上と原は籠城軍に半分ずつ兵力を分け、籠城と転進それぞれ2千ずつの軍勢となった。孕石勢のど真ん中を狙って突撃、抜けた後全速力で退散した。すぐさま太原雪斎隊が追って来たが、その隙に城内から八郎隊の弓矢が飛び交って攻勢は止んだ。
「不意を打てたか」
「なんとか」
原胤清は殿軍を務めようとしたが、里見隊が志願したので交代した。
「太郎、お前どうした」
「城を出るとき、八郎殿が言ってくれた」
ようやく敬語の語尾が取れたことに安堵する余裕はなかった。
「『後ろは任せよ。儂はそなたの父ゆえ、一兵たりと行かせぬ』と」
国王丸には言葉もなかった。婚儀のあとあんなに舞い上がっていた八郎がそんなことを考えていたとは思いもよらなかった。
「なれば俺も信じなければならぬと思った。あの方は義父上なれば、俺も期待に応えねばならん」
「…そうか」
「だからお前のことも信じる。もはや戦地だ。過去のことを言っている場合ではない」
「本当にそれだけか?」
「…お前は俺を信じてくれた。気づかないよう自分に言い聞かせていたが、それももう無意味なんだろう」
クスリと国王丸が笑いを漏らす。その声はもはや少年の物ではなく、変声を迎えた青年の声だった。
「期待してるぜ。里見の世嗣ぎ」
陣を出がけに、太郎は振り返って言った。
「お前も、俺のことが憎かったのか?」
驚いてさらに振り返る国王丸に、太郎は続ける。
「俺は父上がお前に敗れたことを認めたくなかっただけなのかもしれん。だから自分の気持ちにも、お前の気持ちにも蓋をしていた…んだと思う。正直に言ってくれ」
国王丸は迷ったが、あえて言い切った。
「いや。お前は何も悪くない」
目を見開く太郎に、クスリと笑って続ける。
「もしかしたら、里見刑部大輔も何も悪くなかったのかもしれぬ。今はそう思う」
「どういうことだ」
「俺だって分からんさ。戦国乱世にあって騙し騙される、討ち討たれるなど茶飯事だ。だけどその中で、生きるために誰かと手を取り合わなきゃいけない」
「…そうか」
「俺はお前を信じるぞ。お前に信じてもらうために」
太郎は強く頷いた。
「それと一つ。逸見八郎を仏だと思うな」
「なんだと?」
せっかく築いた人間関係を踏みにじるのかと怒気のこもった声が響く。しかしその返答は斜め上だった。
「いかなる人間も生きながら神仏になってはならん。あいつはまだ英雄にとどめておけ」
「…そうか。なるほどな」




