練兵場
「天野安芸守景貫と申しまする。こちらは孕石主水元泰でございまする」
12月に入ってすぐ、その使節は伊豆を越え姿を現した。物珍しさに小田原は湧いたが、孕石の居所を隣の屋敷にされた国王丸は気が気ではなかった。
「徳川家康との確執が隣家同士のトラブルが原因って…絶対嫌な奴だろ…」
「徳川家康」の存在からして未来の出来事なので誰にも聞かれないよう声を潜めて独りごちるが、隣家が他家である以上行いに気をつけるよう命令した。
翌日から遊びをサボって自ら練兵を見ることにした国王丸は、村上信濃守に言われて木刀を振ってみた。
「重すぎる」
「それでは戦場で動けませぬぞ」
「俺が動かねばならんようでは負けているだろう」
「屁理屈をおっしゃらずに鍛錬なされよ」
武士であるとはこういうことだ。心身ともに鍛錬を欠かさず、常に強くあらねばならない。
「キツすぎる。休憩」
「何をおっしゃる」
本気で言っているのだが、意に介さない信濃守はなおも強制する。やっと一日分のノルマを終えたところで、国王丸は地面にへたりこんだ。
「汗かいたな…冬だし風邪ひいたらどうすんだ」
「左様なことをおっしゃらず、明日もおいでくだされ」
「お使者の手前来ないわけにはいかんだろうが」
そう言いながら傾きつつある日を眺めていたが、そこに背後から足音がした。
「国王丸殿」
「長綱様…」
半ば消え入るような声量で返す体力しか残っていない国王丸は、その場で座り直すのが精一杯だった。
「かようになるまで鍛錬するとは、武士の鑑でござるな」
「体力がないだけでございます」
笑って取り合わない北条長綱は、使者たちの公式訪問の日程だけ伝えて去っていった。その脇から、今度は見慣れない若い男が現れた。
「公式ではない…お忍びということになりましょうか」
国王丸は慇懃に対処するが、目の前の男が孕石元泰であることは分かりきっているので警戒を怠らない。
「なんのことやら。それがし一介の浪人にて、練兵を見せていただければと」
目つきは悪い。厳つい体躯から出たのは存外に高い声だった。
「失礼ながら氏素性の分からぬお方に当家の秘を明かすわけには参りませぬ」
あくまで正論を通す信濃守に、元泰はその場は頷いて帰って行った。
翌日国王丸は筋肉痛で休み、翌々日から復帰したが、昨日も今日も来たという信濃の報告を聞いてこう言った。
「入れてやったらどうだ。どうせ見せることになる」
「なれどそれでは御家の評判が下がりましょう」
「そうか?そうでもないと思うがなあ」
その日も木刀を振るどころか振り回された国王丸は、困憊した体に鞭打って翌日も出向いた。
「ご立派な志」
信濃には褒められているようで煽られているような気もしたが、今度は武士の子供としてではなく主君として命じた。
「あの男が来たら通せ。威で気圧す」
「はっ」
果たしてやって来た若者はようやく門を通され、想像していたのとは違う単純な鍛錬に困惑していたようだった。
「これ…にござるか」
「数を揃えること、個の能力を高めること、本来は相反している。なれど農と兵を分離し、それぞれに鍛錬を行うことで、その両立を図れる」
なるだけ大仰に言った国王丸に、青年は食い入るように聞き入っていた。
「では戦にて大きく損耗した時、いかにして回復するのでござろう。一人当たりを戦場に出すために割く時も金も多くかかりましょう」
なるほど、と国王丸は振り返った。兵農分離のデメリットなぞは言われなくても分かっている。が、それは散々指摘されていたからこそ当たり前だと思っていたことであり、自力でたどり着いた目の前の男の慧眼には驚くことしかできなかった。
「それに鍛錬を施したとて、農家であぶれた連中を連れて来たのであれば士気が低うござろう。弱兵となるのは必至かと」
そうなのだ。職業兵が強いというのは必ずしも真ではない。食いっぱぐれた次男三男が多い戦国兵卒は基本的に士気が低いのだ。その根本的な欠陥を名指しされないよう、国王丸はあえて目をつぶって返した。
「何を申しておる。数と武勇高い兵を集めれば戦など勝てるものよ」
敵からは暗君だと思われていたほうが良い。だがこの男にはすぐに気づかれるだろう、とも彼の勘は語っていた。
果たして年が明け、天野景貫が率いる十数名が小田原の練兵場を訪れた。中には初めて見るかのように目を輝かせる孕石の姿もあった。
フィジカルな面に関して全く造詣のない国王丸は、訓練風景そのものに関しては助言を挟むことが一切できない。その代わりに机上で空論を立て、勝利を9割まで確実にするのが役目だ。
などと理由をつけてほとんど訓練をしなかった国王丸だが、この日は使節案内の末席を汚すために合法的にサボることができ、内心歓喜していた。
「我が軍としては全軍をこれに置き換えるつもりはない」
遠山綱景がそれ言っていいのかという情報をポンポンと口にする中、案外仕事がなかった少年は寂しそうに突っ立っていた。
使者が連れられて宿所に帰ったあと、国王丸は綱景に問うた。
「あのようなことを教えてよろしいのでございますか」
すると綱景は、よい、と一言切った後、国王丸の運命を決めた一言を放った。
「お主の仕事は新たな考え、仕組みを生み出すことじゃ。それができれば待遇は保たれ、それができねば誰もが見放す」
綱景にこんな厳しい言い方をされたのは初めてだったが、少年は自分なりに反芻し、はっ、と一言で答えた。
はるか先を生きた人間の務めとして、この時間の人々のために働く。それは彼にとっては重要すぎることのように思えた。




