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駿遠の太守

「これで少しは楽になるか」


ようやく甲斐に帰り着いた武田晴信は板垣信方を上原城城代として残し、本拠の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館でくつろいだ。

「どうせ明日になれば仕事が舞い込むのだ。今日くらいいいだろう」

「御屋形様がそれでは、下々の士気に関わるのではございませぬか」

「いいのよ。どうせ皆帰ったばかりで疲れて寝ておろう」

そう言いながらも晴信に膝枕をしてやるのは、彼の正妻である三条(さんじょう)の方だ。公家である三条家の出で堅苦しいところはあるが、晴信の面倒をよく見てくれている。

「次はいつ戦に行かれるのですか」

「そうさな。まだ分からんが、南信の連中が不満を爆発させれば行かねばならん」

「やはりすぐ行くと顔に書いてあります」

珍しく露骨にため息をつく妻に返す言葉のない晴信は、起き上がって抱きしめてやった。


武田と北条といえば、いずれにも深く関わる家が上杉と今川である。今川家当主たる今川義元もまた、この年に大勝負を挑んでいた。

「あれが岡崎か」

「主戦場はここになりましょう」

三河中に散らばる松平家の中でも安祥(あんじょう)松平家は強力だった。先代当主の松平清康(まつだいらきよやす)は三河を統一し、尾張の織田家と駿河遠江の今川家の間で勢力を保っていたが、家臣の阿部正豊(あべまさとよ)に暗殺される。後を継いだ松平広忠(ひろただ)は両家に圧迫され、ここに三河を巡って織田・今川間で合戦が勃発した。

「雪斎。頼むぞ」

今川義元も武田晴信同様、真っ当に家督を継承したわけではない。父今川氏親(うじちか)、長兄氏輝(うじてる)の死後、家督を巡って実兄の玄広恵探(げんこうえたん)と争って奪い取って今がある。その家督継承に大きな役割を果たした僧形の名将、太原雪斎(たいげんせっさい)は絶大な信頼を寄せられていた。

「ここは何という地ぞ」

小豆坂(あずきざか)と呼ばれておりまする」

西三河の覇権を争った両家だったがしかし、今川家は敗れた。織田信光(おだのぶみつ)佐々政次(さっさまさつぐ)孫介(まごすけ)の兄弟、下方貞清(しもかたさだきよ)など、のちに小豆坂七本槍と呼ばれる武士が奮戦し、織田家はひとまず西三河の安寧を手に入れた。

「駄目か」

不機嫌そうな顔を浮かべる義元に、雪斎はうなだれながらも戦訓を述べた。

「もうよい」

「はっ」

第一次小豆坂の戦い

織田軍 4千 織田信秀(おだのぶひで)

今川軍 4千 今川義元

武将級討死 両軍共になし


後の世には「静岡」と呼ばれる駿河の首府である駿府(すんぷ)の今川館に帰り着くと、義元は同盟国武田の動向を手に入れた。

「南信に進むか」

「駿河まで来ましょうか」

問いかけるのは朝比奈泰能(あさひなやすよし)。雪斎に次ぐ義元の相談役だ。

「あり得ぬ話ではない。だがなにゆえここまで思い切ったか」

武田信虎が追放されてまだ日も浅い。武田家中もまだ落ち着いてはいないだろう。

「北条が支援したようにて」

その武田信虎は今駿府、義元のすぐそばにいる。武田を追われて今川で養われていたのだ。

「氏康か」

「甲斐は貧国ながら金は採れるゆえ、金をもって兵糧に代えると」

「なるほど。後方は安泰と踏んで諏訪を屠ったか」

「北条も安房を抑えて日が浅いのでございましょう。しばらく北条の抑える河東は捨て置くべきかと」

「そうか」

義元は泰能、雪斎、信虎の意見を聞きながら、入ってきた四人目の重臣を見下ろした。

「来たか、元政」

「他の者も呼んで参りました」

「よし」

庵原元政(いはらもとまさ)がそう言うと、その通りすぐに何人かが入って来た。天野景貫(あまのかげつら)鵜殿長持(うどのながもち)岡部元信(おかべもとのぶ)だ。

「これだけいれば始めてよかろう。相模のことよ」

ただの相談役であり家臣ではない信虎が下座に下がる慌ただしい中、義元は口火を切った。

「あれの軍政はどうなっておるか、見る必要がある」

「人をやるのでございますな」

「そうだ。誰か適任はおらぬか」

孕石(はらみいし)などどうでございましょう。若いゆえ飲み込みもいいかと」

「なるほど。だがそれが正使では若すぎて侮られよう」

「副使にして正使に重臣を据えるのでございますな」

「それがしが参りましょうか」

「天野か。頼む」

天野景貫と孕石元泰(もとやす)の二人は年末に発ち、半年過ごして帰ることにした。それを記した手紙と飛脚が北条へ走った。


「おい、ガキども」

いつものように群れる北条家臣団の少年たちは、出し抜けに現れた清水吉政に恐縮した。

「なにを改まってるんだ」

そう言われて元に戻る少年たちがしていた遊びは、各家の様相を如実に表していた。

孫九郎と里見は仲良く竹刀で打ち合っている。まごうことなきインドア派である国王丸はそれを横目で見ながら清水と将棋を指している。棋力は清水の方が上だ。国王丸はまともに将棋を習ったことがない。

清水は孫九郎を時折見遣って声をかけ、孫九郎もそれに応えるが、国王丸が真似してみても里見は返さない。困ったもんだと内心思いつつ、自らの責任だと肩を落とす。そんな楽しくも息苦しい時間に少しでも変化が訪れるなら、それはありがたいことだった。

「年末からしばらくの間、今川より使節が来るそうだ。くれぐれも粗相のないようにな」

「俺のせいか」

国王丸は言い、清水が爆笑する。

「確かにお前のせいかもしれん。長綱様も時折見に行っているというが」

軍制のことだ。

「正式に言われればまとめて提出いたしますものを」

「周りの家臣がどう思うか考えてみよ。ここにいる連中はともかく、松田殿や笠原殿がどう思うか」

ぐうの音も出ない正論に黙り込む国王丸。そこに里見が横槍を挟む。

「して、お使者とはどなたがいらっしゃるのでございましょう。名のある方でございましょうか」

「ああ。天野安芸守殿と孕石主水(もんど)殿という方だそうだ」

メンバーを聞いた国王丸は一瞬言葉が出なかった。なんというか、天野景貫は武功はあるがのちに武田と今川が対立した時に寝返るし、孕石元泰は駿府人質時代の徳川家康と仲が悪く、根に持っていた家康にのちに腹を切らされたとかいうエピソードも残っている。微妙だ、と正直思ってしまった。

「なるほど。懇切丁寧にまとめておきまする」

「頼むぞ、マセガキ」

「傷つきました」

いつのまにかかなり馴れ馴れしくなった清水吉政に、どこか安心する国王丸だった。

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