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忍軍

「武田が兵を集めているようでござる」


どこからともなくもたらされたその報せは、いつしか国王丸の館にも舞い込んだ。

「早いな」

「来ましょうか」

「ないだろう。十中八九信濃行きだ」

そう言った後、ふと情報というものに行き当たった。

「誰がそんなこと調べ上げたんだろうな」

「それは…」

八郎が本気で考え込む。

「行ってみるか。何かできるかもな」

「お待ちあれ」

突如として姿を現したのはいつかの忍びだった。

「我らが主は御城にござる。いずれまみえることになるでございましょう。どうか我らが郷を荒らさないでいただきたく」

猪助の悲痛な訴えに国王丸は考え直して座り直した。

「御本城様にどう思われているかね」

独り言のように漏らす。北条と俺、どちらの味方か。測れるかと思ったが、忍びというものは甘くはなかった。

「じきに分かりましょう」


「敵の動きなしと」

所変わって甲信でも忍びの動きは絶えなかった。諜報は大名の基本である。

「あとは名目だけか」

「お人が悪うござる。山内上杉が信濃に攻め込んでいること、すでにご存知でございましょうに」

笑いが上がる。それほどまでに余裕なこの家中は、甲信最強の戦集団だ。

「向こうは気づいてはいるのではござるまいか?妹君様が釈明状を出すやもしれませぬ」

そう言うのは武田家の忍びをまとめる将の一人、小山田信有(おやまだのぶあり)。父も長男も信有という名前であり非常に紛らわしい。

「禰々は…」

言葉に詰まるのは彼らの主、武田晴信。彼の妹禰々は今から攻めようとしている諏訪家に嫁いでおり、そこに若干の躊躇いが生まれた。

「何をおっしゃる。武田の行く末を決めるのは御屋形様にござる」

そう言うのは晴信を幼い時から補佐し、家督継承にも関わった板垣信方(いたがきのぶかた)だ。

「なるほど。お前も人が悪い」

苦笑しながら晴信は家臣に告げる。

「上杉との単独講和を理由に諏訪に攻め込む。小山田をはじめ忍びを持つ将は高遠(たかとお)金刺(かなさし)らの諏訪家分家を調略せよ。夏にも攻め込む」

「はっ」

満座が頭を下げ、場が一気に引き締まった。若くして甲斐一国の領主になったこの男にとって、初の大規模外征となるこの戦は負けるわけにはいかなかった。

「諏訪を滅ぼしてどうなさるのでござる」

質問をあげたのは甘利虎泰(あまりとらやす)。古株で武勇の士だ。

「諏訪郡を手に入れる。そのために高遠も金刺も藤沢(ふじさわ)も利用させてもらおう」

「されど民が従いましょうか」

「儂が諏訪の娘を嫁に迎えればよかろう。ある程度までの反発なら力で潰せばいい」

滅ぼす家の娘を嫁にとる。子が生まれたらどうするのか、何を考えているのか家臣たちにはわからなかったが、まだ誰もこの勢いのある若当主に反論する術をもたなかった。

「三条の方も心待ちにしていよう。叩き潰すぞ」

「はっ」

晴信にとっての晴れ舞台を、妊娠中の正室に見せつけなければならなかった。

「御屋形様、この場で申し上げるべきか分かりませぬが、風魔(ふうま)がそれがしの手の者に接触して来たと」

次の話の口火を切ったのは教来石景政(きょうらいしかげまさ)。剛勇で知られ、晴信と非常に仲がいい一人でもある。

「用件はなんだ?」

景政はそれを耳打ちして伝えた。

「なるほど。北条も代替わりしてどうなるかと思ったが、安泰のようだな」

「御屋形様も同じことを言われておりましょう」

景政の軽口に、座は笑いに包まれた。


「そうか、ありがたい」

年相応、まだ三十にならない青年らしく目の前の書類を面倒くさがりながら、北条氏康は側近の清水吉政(しみずよしまさ)を下がらせようとした。

「ああ、そうだ。待ってくれ。甥っ子があれと仲がいいんだったな」

「左様でございます」

「この事、伝えておいてくれ」

「はっ」

清水吉政はその足で兄の綱吉の屋敷に向かい、狙い通りに清水太郎と国王丸を見つけ出した。

「叔父上!会いとうございました」

「大きくなったな。それ」

片腕で太郎を抱え上げ高く持ち上げる。吉政は怪力の士としても知られている。

「もう左様なことで喜ぶ年ではございませぬ」

「そうかそうか。悪かったな」

不服そうな甥を受け流すと、国王丸の方へと向き直る。

「そなたが足利の坊殿か」

「はっ。ご武勇、聞き及んでござる」

そう国王丸が答えると、吉政は用事を忘れて自らの武勇伝を語りはじめた。氏康の初陣だった小沢原(おざわはら)の戦いでの話で、いかに敵を蹴散らし御本城様を守ったかと言う話を延々続けた。国王丸は自分で思っていたよりもこの手の話が好きなようで引き込まれて聞いていたが、やがて我に返って用事を聞き出した。

「そうであった。御本城様より伝言を受けておってな」

秘密協定として武田家と米と金の売買を決定したという。

「家老のお歴々が妙案だと採ったという話だ」

「ありがとうございまする」

これで一安心した国王丸は、しばらくサボっても許されるだろうくらいにしか考えていなかった。


が、それからすぐに歴史は動き出した。

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