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上総安房偃武

「土岐為頼が娘、蓮にございます。こたびは小弓公方殿の庇護を得られると聞き参りました」


我が子を守れるのなら母親というのはどんな芝居でもするのだろう。国王丸を小弓公方と呼んでまで頭を下げた蓮姫に、彼自身は慇懃に返した。

「小弓公方など、父が戯れに名乗ったこと。忘れてくだされ。それより何より、参上いただきありがたい限り。お礼申す」

八郎はまだ帰らない。一抹の不安は胸の中にあったが、まずは心を掴むことが先決だった。

年はまだ若い。離縁されたようなものだし、義堯の生死がわからない以上未亡人として扱うこともできる。いずれにせよどこかへ再嫁することになるのだろう。

部屋を出た太郎は憤った。

「あれが足利国王丸?俺と年も変わらない、どころか奴の方が年下ではないか!かようなガキに父上を追い出せるはずがあるまい!」

その怒りは国王丸へなのか、あるいは現実へなのかは分からないが、彼の母親はゆっくりとなだめた。


ともあれ最後の切り札を手に入れた国王丸は、母子を人質に正木家と土岐家に対し寝返りを要求した。正木家は北条の威光を察知しすぐに寝返り、安房を瞬く間に平らげて南方に布陣した。土岐家は北方を警戒していたが、動きはなかった。

「父は情薄き人。私が囚われたとて寝返るとは思えませぬ」

蓮はそう言うが、国王丸はまだ待つ必要があると思っていた。利に聡い人間だ。取り入って功績一番を掻っ攫っていくだろう。

「若殿!やり遂げましたぞ!」

その時に包囲をすり抜け現れたのは八郎だった。手札が揃ったことを喜ぶ以前に、国王丸は駆け寄って小さな体で抱きついた。

「なんとか…なったか…!」

「はっ。真里谷はすぐにでも追い払えましょう。外にいたゆえ情報も入りましてござる」

「分かった。ゆっくり休んでくれ。横になりながら話してほしい」

「はっ」

そこで流れて来たのは下総南部から上総北部の情勢だった。

「北条軍はまだ上総の北部におりまする。今は平定に向け、国人衆の抵抗勢力を潰している模様にございまする」

「例えば?」

酒井(さかい)氏や井田(いだ)氏、山室(やまむろ)氏といった者は北条に服属し、特に酒井氏は軍も出しているそうにございます。庁南の武田家は真里谷と関係が深いゆえに反抗し、当主庁南宗信(ちょうなんむねのぶ)と息子の庁南吉信(よしのぶ)は切腹し滅亡したと」

「庁南までもう来てるのか?」

「話が正しければ。おそらく真里谷城を落とすつもりなのでござろう」

とりあえずは安泰か。それとも…

「ということは久留里に直接援軍は来ないか。いずれにせよ連中は滅ぶだろうが、楽観主義者がいて真里谷が落とされても俺の首を取れば和睦できると考えるなら…」

八郎は凍る。

「ともかく兵糧をなんとかする。お前が元々属してた隊と繋ぎをとる」

「あれは遠山殿が雇った日銭稼ぎの連中で、富永殿が率いてこそいますがこけおどし。荷駄隊などという大層なものはございませぬ」

ここまで来て国王丸は黙りこくる。

「殿!正木家より伝令にござる」

そんな中届いたその知らせは、皮肉に満ち、しかし救いの手を差し伸べるものだった。

「我ら正木家、当主の弟・時忠の弔い合戦を行うため、真里谷信隆への戦いを挑む。ついては久留里に参るゆえ、先だって荷駄を送った」

「…ああ。ありがたい」

国王丸が彼らの旧主里見家を討とうとした理由と全く同じだ。実利を取るために服属し、過去の恨みは忘れるが、決して割り切ったわけではないのだろう。そこまで正木時茂は知り抜いているはずだ。


正木家荷駄隊の護衛のため、結局城外に部隊を出して出迎えることとなった。これを担ったのが東平安芸守だ。

「他の家臣の皆々様が働きを見せる中、それがしも功を立てとうござる」

ということで自ら志願した。霧空の中、護衛の登場後すぐさま現れた荷駄隊を早急に城内に通した後、城門を閉めるために競り合った。損害もそこそこ出たが、城内に敵を入れるような事態にはならなかった。

「飯だ!腹一杯とはいかんが、まだ戦えるぞ!」

兵の喜びの声がそこかしこで聞こえ、あと半月ほどの籠城が可能になった。その間に正木が本当に来るか、真里谷が退くかの勝負だ。

構図がわかりやすくなったところで絡み合う情勢が複雑化するのが世の常だ。下総原家が北条軍として上総に侵攻するらしい。千葉家も出陣したいようだが、無事生まれ民部卿丸(みんぶきょうまる)と名付けられたという赤ん坊の世話や、嫡男にして民部卿丸の父である利胤(としたね)が弟の臼井胤寿(うすいたねひさ)と対立しており、まとまった数を集めきれないようだ。

「有利な情勢で進んでると見ていいのか?」

「原殿がこちらへ来るとなれば、正木殿と主導権争いが起こる可能性はございますな。されど御両者とも賢いお方、さほど心配ないかと」

絶望の霧は晴れ、真里谷の本陣の向こう、南東の空から紅い日が昇ってきた。

「勝った、か」


その発言がフラグになるかとも考えた国王丸だったが、夕刻に正木時茂が到着したことで大勢は決まった。真里谷軍は進退窮まり、乾坤一擲の大博打に出たが膠着のまま幕を下ろし、四日後到着した原軍とも刃を交え、崩れながら真里谷城へ退いた。

「今までの働き、感謝する。各自城に戻り、直接の主に感状を貰っておいてくれ。それを見て後で賞そう」

国王丸は久留里の城兵を休ませ、正木・原の両軍を一つにするための神輿として八郎と共に真里谷への道中を共に進んだ。


第二次久留里戦争

北条軍 2千 正木時茂、原胤清、足利国王丸

真里谷軍 1千300 真里谷信隆

武将級討死 両軍共になし


それからすぐに届いたのが、土壇場で土岐家が再度寝返り、北条本軍より先に真里谷城を包囲したという知らせだった。

「やるな」

「先代様が頼られた二家をかくも素早く滅ぼすとは…末恐ろしゅうござる」

直球の危険球を投げる八郎を、国王丸は笑っていなす。

「実を言うとな、俺は北条氏康のすぐ下につくことしか考えてないんだよ。今の所はな」

八郎は意外そうな顔をする。

「北条を頼れば俺の生涯の目標が達成できる。そんな気がするんだ。なんとなくな」

天文11年、1542年。北条家が滅びる1590年まであと48年。それを先延ばしするのか、限られた時間の中で何かを成すのか、あるいは何も成せずに塵と消えるのかはまだ分からなかったが、直感が彼を導いていた。


「あ、そうだ八郎。お前所帯は持たないのか?筆頭家老だろ?」

「殿がそれがしに仕事を振るせいでさようなことまで手が回らぬのでござる」

「あーそうだっけ?すまん。まあなんか考えといてやるよ」

他愛のないやり取りの中で、いつのまにか「若殿」が「殿」に変わっていることに、二人ともしっかりと気づいていた。

臼井胤寿、読み方がわからない…

女性名は当然のように創作です。

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