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或る男

「しばらく残られるのか」


遠山綱景が廊下ですれ違い声をかけてくる。謁見を終えて城を出ようとする道すがらのことだ。

「はっ。秋口までは」

と言っても旅程で時間を使い、あと一月ほどとなっていた。だが遠山は露骨に嫌そうな顔をした。

「今外の者がいると困るのだ」

「なにゆえにござる」

「立て込んでおる。分かっておられよう」

北条氏綱が病。正直どこから知ったんだという顔で見つめる遠山綱景に、国王丸は戦のことしか考えていないクソガキだと思われることを承知でまだ質問を浴びせた。

「ある程度の兵を集められませぬか」

「何を言っておる。我らは多忙、千葉もハレの日を控えておろうが」

千葉利胤の子か。正直俺には関係ないと言おうとした国王丸に、遠山綱景は今度は自分から質問を返した。

「何をなさるおつもりだ」

「この期に里見を潰したく」

遠山は大きなため息をつく。このガキは本当に戦のことしか考えていないとでも言いたげだが、書状を差し出されて怪訝そうに表情を変えた。

「国府台の戦、我が父が戦場の露と消えたのは全て里見の謀略。父は謀られたのでございます」

北条に異心を抱いていないというロジックをここで構築し、里見の非を糾弾した書状を手渡して既成事実化する。

「安房一国の太守とは申せ、今打撃を受けているはず。少しでもこちらが窮状だと知れば、窮鼠猫を噛む、仕掛けて参りましょう」

「…全て道具にするつもりか」

「はっ」

北条氏綱の死を待ち、仕掛けてくるであろう里見を潰す。

「下総者で構いませぬ。少数でも兵を集めること叶いませぬか」

「致し方あるまい。が、戦はお主が」

「お任せくだされ」

その日のうちに、三浦半島の三崎港から船で館山に行くという商人に北条氏綱が病に伏していると情報が流された。


六月ももう終わり、七月に入った。夏が終わり秋が来たのだ。

「今が一番暑いってのに」

「左様なことはございますまい」

新暦七月から八月は暑いという先入観が国王丸をおかしくしているのかもしれない。なんにせよ彼にとっては外に出る気はしなかった。

「甲斐の武田は躍進してるみたいだが、滅んだ武田もいるみたいだな」

「ほう、まだ武田がいるのでござるか」

ここ数日で得た知らせを寝転がりながら教える。

「安芸にな。安芸武田と言うのだが、周防の大内家に滅ぼされたんだと」

佐東銀山(さとうかなやま)城の戦いという。この知らせが入って、国王丸は西国の歴史はまだ変わっていないと安堵していた。

「眠い。寝るか」

翌日昼過ぎまで寝腐った少年は、使者の来訪を告げる八郎に叩き起こされた。

「今支度する。待て」

「急報だと」

「…分かった。すぐ行く。格好の非礼を詫びておいてくれ」


「主遠山綱景より伝言を授かりました。房総のことを頼むと」

「…はっ」

あぁ。巨星は行ってしまったのだろう。そう思いながら国王丸は天を仰いだ。

「もう夕暮れゆえ、夕食など召し上がられるか」

「いえ、まだ仕事があるゆえ失礼いたします」

「ご苦労様」


数日後には氏綱の死は公となった。城下では泣く人もあった。顔も知らない大統治者の死に思いを馳せるが、国王丸は父が帰って来なかった時ほどの感傷は覚えなかった。

「一回会ってはみたかったなぁ」

感慨に耽る国王丸だったが、八郎はそれには関心がなさそうだった。

「では行って参ります」

「…俺も行く」

葬儀は盛大に執り行われ、その後に城内で北条氏康が家督を継承した。少年たちはその場を見たわけではないが、ひしひしと雰囲気を感じ取っていた。

「大往生だな」

「北条の礎を築いたお方にございますゆえな」

しばらく駄弁ってその場を動かずにいると、国王丸は後ろから声をかけられて振り向いた。

「この間も会ったな」

見ると同年代くらいの少年がそこに立っていた。高圧的な態度だ、高貴な家柄だろう。にしてもこの間会ったとは…

「あぁ、清水の嫡男殿か」

「太郎だ。そう呼べ」

「太郎殿、清水のような高貴な家の跡取りがかように一人で出歩かれてよろしいのでござるか?」

「いいんだよ。どうせすぐ戻る」

「太郎!親父殿が呼んでるぞ!」

「それ見なされ」

なかなかに手が焼けそうな少年だ。そう思って国王丸は少し煽ってやった。

「うるさいな。孫九郎、お前もこっちに来い!」

呼ばれた孫九郎というらしい少年は、国王丸たちより一つ下だと言った。

「そなたはどこの何という家の御曹司かな?」

いかにも好々爺といった感じの、孫九郎の祖父だという男もついでに現れた。

「下総小弓公方の足利と申しまする。北条に恭順を誓い、上総にて戦っておりまする」

小弓公方という言葉を聞いて老人の顔は一瞬強張ったが、すぐに戻って笑顔を見せた。それが作っているのか本心なのか、子供の目には判別がつかなかった。

「活躍、話には聞いておるぞ。儂は大道寺(だいどうじ)駿河守(するがのかみ)と申す」

名前を聞いた少年の頬を冷や汗が伝う。

「大道寺殿にござるか、これは失敬いたしました。それがし先だって挨拶に伺いましたがお見かけすることかなわず」

「あいや、ご心配には及ばぬ」

取りとめのない会話だったが、この時足利国王丸は老人・大道寺駿河守盛昌(もりまさ)の姿をしっかり目に焼き付けた。立ち居振る舞いに現れる隙のなさ、老練さを見てただただ立ち竦んでいた。

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