ひとりごと
「こんなもんかなぁ」
一目で趣味か仕事かとわかる、いずれにせよ高そうなカメラを手にした少年がシャッターを切る手を止めてその場を立ち去ろうとする。スマホを取り出して見ながら辺りを見回すが、他に目当てになりそうなものは何もないようだ。
通行人は皆彼の奇行とも言えるような振る舞いを遠巻きに眺めながら足早に立ち去る。何せここは彼とは何の縁故もないとある大学なのだ。
校門を出たところで少年は硬直する。
「あれ…筒井さん、この近くだったっけ」
「…ここ女子大だよ?」
「あ」
訪れるに当たってさほど重要視していなかった情報だが、こうやって指摘されるとおかしさを覚える。しかもそれを言ったのが同級生の女子…しかもそれが想いを寄せているとなれば恥ずかしさもひとしおだろう。
「何やってんの?」
真顔で聞かれた少年はドン引きされていたらどうしようかと心配しつつ、顔に無理やり苦笑を貼り付けながら答える。
「城址なんだ。写真撮ってた」
八幡慎司は重度の歴史オタクだ。毎週のように週末を潰して出かけては戦史の跡を写真に収めている。最近は自分でまとめた資料を学校にまで持って行きクラスメートからも引かれている。もっとも、授業中に注意された際には皆笑ってくれるくらいの級友意識は持ってもらえているみたいだが。もちろん本人も自覚はしているのだが、趣味にハマりすぎて後戻りができなくなっている。
「あんまりやりすぎると不審者扱いされるよ」
「それもそうだなぁ。んで、そっちこそ何してるの?」
「うーん…散歩?」
とりとめのない答えに面食らいつつも、成り行きで二人はしばらく話を続けた。
「この辺に歴史なんてないと思ってた。教科書にも出て来ないし、由緒ある話なんかも聞かないし」
「そんなことないよ。ここら一帯は戦国中期関東の代表的な合戦の一つの舞台なんだから」
「そうなの?」
「第一次国府台合戦ってやつだ。相模の北条家と安房の里見家が戦って北条が勝ったって所なんだけど」
「だけど?」
「詳しく話すと長くなるんだけどね。さっき僕がいたあたりがその合戦で陣地になったと言われてるんだ」
少年はいつもの癖で喋りすぎたことを悔い、これがオタク特有の早口という奴かと自分で辟易していた。それゆえ、少女が向ける興味深げな眼差しにはついぞ気づくことはなかった。
そしてこの時少年が詳しく話さなかったこの合戦が、少年の人生を狂わせていく。それが本人にとって幸福なのかは、しばらくは誰にも決めることはできなかった。
少年の記憶は、この後5日ほどで途切れている。まるで死に際の走馬灯のような、記憶の断片が勢いよく流れて脳の奥底へと沈んでいく。
「お前またやってんのか」
「サンプルが増えたら統計ってやり直しなんだよ」
「こんな城どこにあるんだよ」
「埋まってるんだ、とっくのとうに」
「八幡!授業中にボケっとするな!」
「すみません」
「そんな物持ってくるから集中できなくなるんだ!」
「八幡!これ答えてみろ!」
「ごめんなさい、聞いてませんでした」
「1582年に起こった出来事だ。これなら分かるだろ?」
「いっぱいありすぎてどれだか分かりません」
「これだからこいつは…何か言ってみろ」
「天目山の戦い」
「付き合ってください!」
「へ?」
「駄目…ですか?」
「僕でよければ…是非!」
確かにこんなこと言ったなぁ。そんな記憶はあった。でもとりとめのない、区切れ目もわからないような声たちは右から左に流れ、頭には入ってこなかった。
「…俺が、何したってんだよ」
大して勉強した訳でも知ってる訳でもないが、仏教で輪廻転生というのは業がある故に起こることだとされているというのは聞いたことがある。何か心当たりがある訳でもなかった。
「業かぁ」
まともな犯罪は一つも犯したことがない。交通ルールあたりまで含めると怪しいかもしれないが。
「罪ってそういうことじゃないんだろうな、きっと」
そんなことは初めから分かりきっていた。思えばやりたいことは大体やってきた人生だった。満たされること。
「…それも業、か」
かもしれない。分からない。そもそもこんな風に考えること自体、格好つけた自惚れなのかもしれない。
「やり残し、沢山あるなぁ」
満たされてなお、巡りきれない遺跡がある。遺跡に限らない。何だってそうだ。それこそ業が深い、人間の救われない所以といえる。
「でも、あの人は」
想い人は、そんな人生の最後に飛びきりの青春をさせてくれた。
「まあ、幸福だったかな」
そう呟いた彼は布団から起き上がった。厳密にはもう彼と死などという言葉はあと数十年縁遠い。死ぬなどということは、彼にとってはとっくに完了したことなのだ。
「あと太陽暦で64年か」
彼の寿命は、正しい歴史ではあとそれだけ。
この世界に来てしまった以上、何かしなければ後悔する。前世で学んだ最も大きな教訓だし、自分の罪を数えて懺悔するなどということですら今の彼には逃げに見えた。
「ま、歴史の歯車なんて簡単に狂うだろうしな」
そんな物は、元々の彼から見ても遥かに小さくなった今の彼でも動かせる。例えば最も碌でもない想定として、彼が今この屋敷で父と兄と心中すれば、あと500年の歴史に多少の齟齬が出るだろう。
「国王丸様、お起きになられましたか。お早うございます。我々を呼んでくださればよろしいものを。ささ、朝餉の支度が済んでおりませぬ故、今しばしお待ちを」
「ありがとう」
廊下を走っていく人の良さそうな老いた小間使いを見やりながら、数えで6つの少年は馬鹿げた妄想を投げ捨て、あともう幾度も味わえぬだろう、在りし日のその城の朝の春風を受けていた。
前世でどうやって死んだのかなど知らない。もしかしたらとんでもない死に方をしたのかも知れない。だが今となっては思い出せもせぬ今際の苦しみなど気にかける方が阿呆だった。どうせ何十年かしたら勝手にもう一度死ぬのだ。
転生のお約束ってやつも知らない。よくあるテンプレみたいなお話はそこそこ読んでいる方だったが、そこに出てくるような物には一切出食わさなかった。神様に会うなど以ての外だった。
「それっぽいのならあるか」
たった一つ彼の確信は、ある人…有り体に言えば、彼女がこの世界にやってくるという事だ。告白こそされたがそこまで親しい間柄になれたわけではないし、まだ違和感が舌に残る言い方だが。やってくるというのがどういう意味なのかは自分でもわかっていない。世界線を越えてくるなどという面白おかしい話か、それともまだ生まれていないという事なのか。いずれにしろその確信は虫の知らせのようなものだった。まだ6つで気にしても仕方のないことではある。
この世界に来て2週間。体、感覚、前の世界の記憶、そして総身を襲うある種の諦観からここを夢ではないと断定して1週間。もし醒めるなら醒めてしまえという心持ちになって5日ほど。
「やるしかないんだよなぁ」
「国王丸様、朝餉でございます。ささ、どうぞ」
「いただきます」
障子を開け放つと、広大な庭のそこそこ遠くの方で乗馬しながら弓を引く父と兄が目に入る。ああいうラフなのは果たして流鏑馬と言うのだろうか、不勉強にして彼は知らない。
「国王!起きたか」
遠くから兄が手を振る。手を振り返して、厳しくも暖かい家庭だなとしみじみ思う。ドライになりきれるか?そんなものはじめから無理だろう。
今日も彼は硯に向かう。読み書きは出来ないと話にならないのだ。古文書に出てくるあの繋げ字をとっととマスターせねばならない。決意を胸に、空の膳を置いて部屋へと向かった。
彼は今、ここにいる。彼が貪り読んだ書物に書かれる、その文脈の中に。
末法の世、戦国乱世のただ中に。