巫女の神は願いを叶えない(卅と一夜の短篇第16回)
壱~咆哮~
漆黒の空に一条の光が昇ってゆく。川を狂わせ田畑を壊した雨に逆らい、白銀に揺らめく龍が天をゆく。
村人たちはみな外にくり出して、男、女、成年、童問わず全身を雨に濡らし、地に膝をつけ手を伏せ頭まで泥に染める。
空では龍が咆哮を上げた。雷の如き音と地響きが村に轟く。村人たちは耳を塞ぐことなく胸まで泥につける。その御声を拒むことは許されない。その御姿を見ることは許されない。なぜなら村人にとってあの龍は神なのだから。この大水から救ってくれる神なのだから。
白銀の龍は雷光を抱く漆黒の雲に食らいつく。肉を喰う獣のように全身を踊らせ、幾度と空を震わす。そして黒雲の涎を垂らしながら、村を襲う豪雨の根源を絶ってゆく。
雨雲は徐々に薄くなり、ついに一月ぶりの陽光が村に注がれる。村人は歓喜の声を上げ、誰彼なしに抱き合い、飛び跳ね、踊った。
「覡様のお力でようやく村は救われた。白銀の龍が長雨の災禍を祓ってくれた。今宵は宴ぞ!」
長の言葉に村人は高揚し、せっせと盃を用意する。覡を称える歌とともに早くも笛の音が村に響いた。
宴の準備が始まる中、屋敷の軒先で二人の童女が空を見ていた。一人は齢十二ほど、もう一人は七ほどだろうか。同じ紋、同じく朱の装いだ。二人はただ為す術なく、白銀の龍が静かに消えゆく様子を見送っていた。
「甘露、あの龍どう思う?」
小さい童女が、甘露に問いかけた。
「雲を貪り喰う所作は獣のものです。とても神とは思えません。姫はどう思われますか?」
姫は甘露の言葉を聞くことなく、手から若草色の灯を飛ばし蛾を集めて遊んでいる。自分から問いかけておきながら一人はしゃぎまわる姿は、齢七の子供より稚い。
たとえ姫が答えを出さなくとも、巫の甘露は確信していた。
――あの龍は鬼、いつか人を喰らう。
しかし今となっては、誰も耳を傾けることはないだろう。村を救ったのは龍を使った鬼人だ。一方、甘露は村に降りかかる災厄に対し、何も手を打てなかった。村を救えぬ巫はただの人。いや、狐憑きや葬送人のさらに地をゆく卑賤の者だ。
その処遇は二つしかない。
「銀糸様、こちらへ」
長に連れられて銀糸という名の青年が現れた。齢は十六ほどだろうか。やや色白で痩せているが聡明な顔つきをしている。おそらく誰も鬼を使う男とは思わない。この銀糸が次の村の覡らしい。
銀糸は巫覡の禄である甘露の屋敷に上がり、甘露は地に跪いた。
長の命で甘露は取り押さえられ、胸元に掛けた鏡を取り上げられた。首を吊らんとする勢いで引き外された鏡は神を留める神具、巫の証。その鏡は甘露の眼前で地に捨てられ、槍が突き立てられた。一度ではない、輝きを失うまで幾度も槍が刺さった。
青銅の鏡は壊れはしない。しかし中心に大きな傷のある鏡に神を宿す力はもはやない。ゆえに鏡を介した契りは解け、神の力を受ける巫覡もただの人となる。
しかし今もなお、甘露のそばには姫がいる。その理由は分かっている。状況を察してか、姫は蛾を集めるのを止め、地に伏す甘露を静かに見ている。これが鏡を介した契りではないことに、銀糸以外の村人は気づいていない。故に「もうこの童女に神はおりませぬ」と嘯くのだ。
傍で長が何やら囁きかけている。辺りでは農具を持った村人たちが銀糸に向かって鋭い視線を注ぐ。何も知らぬ村人に銀糸は頭を抱えている。
「銀糸様、二つに一つでございます。これも覡の務めなのです」
甘露はそっと銀糸に目を向けた。
銀糸の背後で白銀の龍が涎を垂らし、隙あらば食らおうと体を前後に揺らしている。牙の先は甘露に向いている。姫は甘露に抱きつくだけで何もしない。夏至前の暑い空気も相まって、肌から汗が染み出てくる。龍のひげを押さえる銀糸の足が唯一の救いだった。
「行きなさい」
銀糸から放たれた一言に甘露は走った。左手で姫の腕を引きながら森への道を疾走する。その後ろから鉈を掲げた村人が追いかける。
甘露は知っている。
――止まれば刈られる、と。
森へ向かう道を行く途中、小石が甘露の頭に当たった。投げているのは年下の子供たちだ。拳の大きさほどの石を道に沿って集め、通りがかった瞬間に投げつける。
その中には矢尻のような石も混ざっており、知らぬ間に血が滴る。
もう村にはいられない。
『行きなさい』というのはそういう意味なのだ。
もし銀糸が別の選択をしていたのなら、今頃、彼の世の者となっていたであろう。
甘露と姫は小石の道を抜けて森へ入った。鉈の村人はもう追ってはこない。だからといって少しでも戻る仕草をすれば、たちまち刈られてしまう。村人は隠れて見ているのだ。
甘露は姫の手を離すことなく、息を切らしながらただひたすら走り続けた。夕陽の射す村の入口が見えなくなるまで森を深く進んだ。
弐~蛍火~
長雨が去り、星が砂金のように散りばめられた夜だった。汗が夜風にさらされ心地よい。
甘露と姫は巨岩の間に入り、木の枝を除いて寝床を作った。とはいっても、着の身着のまま森へ逃れた二人は何も持ち合わせてはいない。手元にあるのは巫の禄として与えられた一本の小太刀と、姫がときおり遊びで飛ばす若草色の灯だけだ。毎日与えられていた禄の糧はもうない。地には姫が飛ばす灯と同じに染まった花野が広がっている。
若草の光を放つ草は甘露という。水の傍に生え、夏至が近づくと淡い光を帯びた花を咲かす。一日でしぼむ花は名に恥じぬ甘い蜜を湛え、吸えば現世にいながら常世の民のごとく不老になるという。
もちろん不老というのは迷信だ。しかし蜜も花も葉も根もすべて食糧となる。命を繋ぐには十分だ。
姫が言っていたのだから間違いない。姫は甘露という草の神なのだ。
巫の甘露は花の蜜をすすり、小太刀で葉を刈っては口に入れる。その傍らで姫は|淡い光を放つ甘露の野を駆け回る。あどけない姫の姿は契りを交わしたときと変わらない。
当時の甘露は蛍火という名であった。隙あらば森に分け入り、ぽっかり開いた陽の射す花野で遊んでいた。一人ではない。いつもある童女と遊んでいた。森の中に住む村の子だとずっと信じていた。しかし村でその子について問うと誰も知らないようだった。
ある日、花野に村の巫が現れた。村人に命じて森に分け入り、老体に鞭打って森の子の正体を暴いた。
――その娘は野の姫神。
――そなたの行いは神遊び。
――蛍火、我の跡を継げ!
年老いた巫はその三言を放った後、倒れた。
すぐさま執り行われた巫の儀で蛍火は神の甘露姫に名を捧げ、甘露の名を授かった。神を留めるという鏡を与えられたが意味はない。みなが神楽と呼ぶ戯れの中で、甘露と姫の契りが結ばれた。
ただ、隙あらば一人遊びにふける姫のことだ。幼き心に契りなどという考えはない。だから願いは聞かず、勝手に戯れ、鏡が壊されても離れることはないのだ。
「ねぇ甘露、どうしたの?」
姫が首をかしげ、甘露を見つめている。
「いえ、何でもありません」
甘露はうつむきながら答える。
「契りのこと?」
甘露は葉を重ねて岩の上に置き、長い息を吐いた。
「やはりごまかせないようですね」
どれほど隠そうと相手は神、人の心などお見通しなのだ。
「私、分かっているよ。甘露がいろいろ思うの。愚痴とか、愚痴とか、愚痴とか」
「三度も言わないでください!」
甘露はとっさに姫の口を塞ぐ。
「もっ、離せ、離ふ」
神の言葉をせき止めるのは巫にとって禁忌である。しかし姫がどんなに苦しくもがいても罰が当たるわけではない。二人はそんな関係なのだ。
だから本当の悩みはそれではない。甘露は姫の口からそっと手を離す。
「銀糸のこと?」手を離すなり姫は言った。
「そうでございます」
姫の手から若草の光が放たれ、甘露の顔を照らす。その神意は分からない。
「あの者は鬼と契りを交わしました。鬼は代価を払えばいかなる願いも叶え、使う者に至上の快楽を与えるといいます。あの黒雲を払うために幾人を捧げたのか分かりません。しかし村人を欺き、偽りの覡として力を振るう限り、これからも村の犠牲は避けられないでしょう」
姫は大きく首をかしげた。
「ねぇ、銀糸と村は甘露のこと追い出したんだよ。そんなことを気にしてどうするの?」
「確かに。私を棄てた者のことを庇うのはおかしなことです。そのような者に手を差しのべることは驕りともいえるでしょう」
甘露は天を見た。空は雲で隔たれることなく澄んでいる。
「しかし銀糸は人喰いを繰り返す悲しみの連鎖にいます。私はただ彼の国のように鬼に囚われ、村が血に染まる光景を見たくはないのです」
甘露は姫の腕をつかんだ。手の震えは姫の全身を伝い大きく揺れた。いや、肩をつかみ全身で揺らした。
「姫、銀糸と村を救う方法はあるのでしょうか」
甘露の問いかけに姫はうつむいた。
姫が放った若草色の光は徐々に消え、辺りを飛び交っていた蛾は離れてゆく。
暗がりの中、一瞬訪れた静寂で姫は一言放った。
「誰か来る」
甘露は突如、灯に照らされた。
「そこにおったか!」
声の方を向くと鉈を持った村人が集まっている。向けられた刃は松明の光を受け、炎を纏っている。
背後の花野からも、甘露の草を踏み潰しながら村人が迫ってくる。辺りに逃げ場はない。小太刀もこの人数には敵わない。
「来い! 銀糸様のご命令だ。来なければ刈るぞ」
甘露は村人の為すがままに手を縛られ、姫とともに鬼人の支配する村へ連れられた。
参~鬼人~
村に着くと甘露は覡の屋敷に連れられた。障子越しにある祭壇の間から、灯に照らされた影が見える。しかしその姿は異様に小さい。
「甘露、入りなさい」
聞き覚えのある声。『行きなさい』と命じた銀糸のものだ。
酒で顔を赤らめた長が静かに障子を開ける。その先には祭壇のもとで床に伏した銀糸の姿があった。
甘露と姫は障子をくぐると銀糸の頭のそばに正座した。
「長もです」
背後から「ひっ」という声が上がる。長は甘露の背に隠れながら震える手で障子を閉めた。
その音を聞き届けると、銀糸は口を開いた。
「長、まず初めに伝えよう」
「何でしょう?」
長は冗談を聞くような笑みを浮かべ、商人のごとく手を結んでいる。その仕草を諫めるが如く、一拍の静寂が祭壇に流れた。
そして銀糸は言った。
「私は鬼人。卑劣なる外道に堕ちた者だ」と。
「いやいやいや、銀糸様がそのような下劣なことに及ぶわけありません。ご冗談を言わないでください」
そのとき銀糸の視線が長を射貫いた。
「もう薄らと気づいているだろう! 手の震えが風となって伝ってくる」
長の息が荒くなる。言葉は出ない、出せるわけがない。甘露の背に隠れ、体が障子に触れてがたがたと音が鳴る。姫も甘露の腕を強く強く抱きしめている。ただ一人の巫だけが銀糸を正視していた。
「甘露は知っているだろう。鬼と契れば、供物を対価にいかなる願いも叶うと。隣国はそうして発展した。神と結ばれる力を持たぬ鬼人を集め、鬼と契らせる。大勢の卑賤の者を贄に捧げ、敵対する国に災禍を撒く。墜ちた国は新たな領土となり、その領民は新たな人柱となる……」
「仰る通り此度の大水は、その人柱を欲する隣国の攻めであると重々承知しております。しかし私は村を襲う黒雲を払えなかった。力が及ばなかったのです」
「そうだ。私はそれが許せなかった! あなたのような無能な巫女のせいで隣国の手に墜ちることが許せなかった!」
「故に鬼と契ったのですね」
「そうだ。敵国は鬼の力で攻めている。それなら鬼の力で守ることができる。そう信じていた」
銀糸の目は闇をはらんだ揺らめく炎を湛えている。祭壇の灯と同じ色だ。若人の勢いはない。
「しかし私の考えは甘かった。一年は安泰が続くものと淡い期待を抱いていた。まさか一夜の夢とは思いもしなかった」
銀糸は右腕で布団を開けた。甘露の後ろで長は目を塞ぎ、言葉にならぬ声を上げた。甘露は姫を抱きながらその体に触れた。
銀糸の体には両脚がない。左腕も失われていた。左胸には痛々しい刃の痕が幾重にも残っている。
「甘露、長。これが鬼と契った証だ。私はもはや鬼の契りを誘う、取り次ぎ役でしかない」
甘露は残された右手を握り、頭を垂れた。
「どうして? どうして、ここまで身を捧げたのですか?」
銀糸の儚き眼光は白銀の龍に豹変した。その眼差しは甘露の憐憫を断ち切るとともに、阻むことを許さない決意が溢れ出ていた。
「長、甘露を再び巫の身に就かせよ。これは終を迎える覡の命令だ」
「で、ですが、銀糸様。甘露は村を救えなかったのですぞ」
長の言葉に、銀糸は殴りかからん勢いで床から飛び出した。
「長は見ていなかったのか! 鉈を持ち甘露を村から追い出す男の顔を、大量の石を集め投げつける子の姿を。みな目が爛々と輝いておったではないか? あれは大水で衰弱した者の顔ではない。生気に溢れた者の姿だ」
「た、た、確かにそうですが……」
「長、この身になって気づいたのだ。『村人が生きている』それだけで立派なご神徳なのだと。甘露はそれを叶えていたのだと」
「しかし、銀糸様……」
「真の神は願いなど叶えぬ! 力はただ曙の如く与えられるのだ。人の欲を叶えるのは鬼の業ぞ」
その言葉を吐ききった後、銀糸は意識を失い、倒れた。
代わりに咆哮が屋敷に木霊する。空から黒雲を払った白銀の龍が舞い降りて、銀糸の腹に座した。
「よくぞ来た、甘露よ」
甘露に龍の視線が突き刺さる。
長は障子の傍で呆然と空を向いている。おそらく見えていないのだろう。姫は甘露の後ろに隠れ、胴を固く握りながら龍を覗いている。
「銀糸から聞いたぞ。そなたが真の巫、姫神使いだと」
龍は甘露の周りを這い徐々に距離を詰めてくる。その戦法は蛇に似ている。
「真の巫の肉はうまいと聞く。下賤の民や偽の神としか結ばれぬ銀糸のような者と違い、天上の味がするという」
銀糸はもう龍の眼中にない。目に映るのは甘露と背後の姫だけだ。
「幼い姫神ぞ、何を怯えておる? 我が怖いのか? 神の分際で怖いのか?」
龍は笑った。屋敷が裂けそうなほどの声で笑った。長は訳も分からず耳を押さえている。甘露は動じない。
「甘露、そなたはまことに不幸よ。力なき神と結ばれ、巫の重い責を背負い、民の願いを叶えられず村を追われた」
甘露は牙からわずかに引き下がる。しかし眼は龍から離れることはない。
「どうだ、我と取引しないか」
龍の顔が一気に甘露の目前に迫った。熱い息が甘露の髪を揺らす。
「そなたは幼き姫神を我に渡す、さすればそなたの命は奪わない。我は神の精気を受け取り、真の神となる。銀糸は蘇り、村を永劫に守ることができる。そしてそなたは力ある神の巫女として村の務めを果たし崇められる……。どうだ? 悪くはないであろう」
甘露は大きなため息をついた。甘露が鬼へ向ける眼差し。それは悲哀に満ちている。
「あなたは神を謳いながら、知性は人にも及ばぬようですね」
「何と?」
鬼は顔を近づける。熱い涎が甘露の身にかかる。
「あなたは銀糸のはるか地をゆく鬼です。神になどなれません」
鬼はさらに迫ってくる。
「人の身で調子にのりよって……我が自らの身を差し出すしか能のない小童より下だと?」
甘露は引き下がらない。
「そうです。あなたは銀糸の思いを知らない。火の如く喰らうことしかできぬただのモノです。その牙は端に転がる刃にも劣るでしょう」
「貴様!」
放たれた唾とともに龍が飛びかかった。どろりと涎を垂らした牙が甘露に向けられる。
姫は甘露の腰に抱きついたまま離れない。姫はただ一言だけ叫んだ。
「甘露、小太刀!」
甘露は小太刀を抜いた。その刀身は花の甘露と同じ蛍火を纏っている。おそらく甘露を食んだときの汁だ。決して天上の霊刀ではない。
しかし今、甘露の背には草の神がいる。神の力は草の汁を介して刃に伝い、全身から若草色の光を放つ。
もはやただの刀ではない。神が宿る加護ある刀だ。
巫に白銀の龍の牙が迫る。端に転がる刃に劣ると罵ったが、いくら加護を受けようともその重圧を受けるのは甘露だ。その理に変わりはない。
全身から冷や汗が流れる。ひどく不快だ。しかし逃れることは許されない。
重心を下ろし足に力を加えた。そして龍の芯を全身で受け止めた。
龍の咆哮が耳を裂いた。
全身に鬼の肉が流れ込む。
その圧に押され、甘露は倒れた。
気がつけば目の前に龍の姿はなかった。
小太刀の光ももうない。蛍火の代わりに焼け焦げた煙を上げている。
「銀糸様の腕と脚ぞ!」
障子の向こうで叫びが聞こえた。急いで駆け下りると、そこには二つに切り開かれた白銀の龍が残っていた。外見の白銀からは想像することはできないほど、その腑は黒かった。
村人は銀糸の腕を握ったまま失神した。
甘露は龍の体内を探る。出てきたのは村人が取り出した銀糸の左腕と両脚、あとは一人分の臓腑。それだけだった。
祭壇を振り返ると、銀糸の元で長はうなだれていた。龍の体を突き焦がして遊んでいる姫の横を通り過ぎ、甘露は長の横に正座した。
銀糸の死体は異形のそれを思わせるほど、あらゆる部位が欠落していた。甘露は銀糸の体に触れ、長とともに涙を流し、神を宿すはずだった黒く焼けた鏡を握り、祈った。
「甘露様、不老の霊術で銀糸様を蘇らせることはできぬであろうか? 刀を光に染めたその力で」
長はむせびながら、祈るように訴える。
甘露は長に向き合い、合掌する長の手を下ろした。
「長、銀糸の言っていたことをお忘れですか。彼の言葉が全てです」
甘露は涙を拭いながら祭壇を走り去った。その後ろで長は慟哭とともに崩れた。
肆〜長雨~
甘露と姫は屋敷の軒先で空を眺めていた。
空は黒く滝のような雨が降り、ときおり雷が落ちる。
あまりにも日常的な天候がゆえ、村人たちは今日も全身を濡らしながら収穫に励んでいる。
今は甘露の季節だ。巫の甘露が雨に強い食糧として栽培を命じたのだ。おかげで長雨のなかでも村は飢饉に見舞われることなく、毎年のように子も生まれている。
雨天での農作業は不快であるし冬場は凍える危険もあるが、隣国から攻められている割には被害は少なかった。
「籠城戦だね」姫が不意に言った。
「そうですね。相手は兵糧攻めのつもりなのでしょう」
村を狙ったかのような雷撃で空は青白く輝いた。しかしもう誰も動じることはない。
「鬼を使うばかりの国は、力に溺れ、民を失い、兵站が衰えるといいます。さすれば長雨を維持する力も失われるでしょう。姫はどう思われますか」
姫は知らない間に手から若草色の光を作っていた。そっぽを向き、また蛾と戯れている。
「う~ん。分かんない!」
その答えに真剣さはみられない。姫が神として幼すぎるのか、それとも全ては神の戯れなのか。だが姫のおかげで村が生き延びていることは確かだ。
「姫、此度のご神徳、何を捧げればよろしいでしょうか」
姫は吹き出し、大層笑った。
「甘露は知っているでしょ。私が言わなくても」
甘露も大層笑った。
「ははは、そうでしたね」
空は相変わらず黒雲で満たされている。
しかし決して常夜ではない。雲の上には太陽が輝き、昼と夜を生んでいる。鬼の力は陽には及ばない。ゆえにいつか空は明ける。
真の神の力は、ただ曙の如く与えられる。
贄など必要ない。