決死の世界一周
墜ちていた。
空から地面に落ちている。
突然の気圧変化、頭部に受けた損傷が響いて、光莉の意識が途絶えた。その横に瞬間移動してきたのは隼人だった。彼もまた空から遥か下に見える海面へと吸い込まれていく。
だが落ちる速度が違った。より上空から落下してきた光莉と、たった今彼女の隣に現れた隼人とでは、受けた重力加速度の恩恵が違っていた。
しかしそれでも、空気抵抗によって、お互いに、最高速度にはすぐに達した。
隼人は再び光莉の隣に瞬間移動した。意識を失った光莉は口を半開きにして空気の抵抗を全身に受けている。彼女の髪が隼人の顔にかかり鼻がむず痒くなる。
光莉の躰を抱き寄せ、必死に考える。弥美が言った通り、海面に叩きつけられれば全身がばらばらになって、間違いなく死ぬだろう。
逃げ場などない。どこに移動しても、この速度を殺すことはできない。隼人は一瞬絶望した。どうあっても地面に向かって落ち続ける――
しかし雲を突き抜け、いよいよ海面が大きくなってきたとき、隼人は閃いた。成功するかどうかは分からない。だがやる他はない。
海面に叩きつけられる直前まで確信が持てなかった。非常に曖昧なイメージしか湧かない。
それでも、やるしかない。
より一層、力強く光莉を抱き締めた。
「うおおお!」
落下している最中でしっかりとした声は出せなかったはずだ。だが隼人は自分の気合いの声を聞いた。
緑色の国旗。
中央に地球が鎮座する。
青い地球。
潮の匂いが変わった。
躰は変わらず落ち続けている――だが海面からぐんぐんと離れていく。
空から伸びた見えない腕に摘まみ上げられたかのように、隼人と光莉は空に浮き上がった。
「ああああ! 成功した!」
隼人は叫んだ。光莉の意識はまだ戻らない。なので喜びを共有できなかった。彼は何度も叫んだ。成功した。成功した。そして、
「弥美の負けだ」
隼人は呟く。みるみる二人にかかる速度は減少していく。
やがて雲が細かい水滴の連なりにしか見えない程度の高さまで上がったとき、隼人は瞬間移動した。
弥美の許へ。
弥美はどこかの建物の屋上に立っていた。風に吹かれて感傷に浸っているように見える。
彼女は泣いていた。
隼人は意識のない光莉を寝かせてから、弥美に歩み寄った。
「どうして泣いているんだ?」
はっとして振り返った弥美は、まじまじと隼人を見つめた。
「どうして、あんた……。光莉まで……。コピーした能力は劣化するんじゃないの?」
「完全に劣化しているよ。二度続けて瞬間移動したから眩暈がする。立ってるのがやっとだ」
「じゃあ、どうやってここに飛んできたの。あんたはともかく、光莉は空から落ち始めて結構時間が経ってたわ。相当な加速がついていたはずよ」
「ブラジルに飛んだ」
「えっ?」
「日本の裏側にある、ブラジルだよ。重力は地球の中心に向かって働く。日本で受けた下方向の力は、ブラジルでは、上方向に働く」
弥美はきょとんとした後、ハハハと箍を外したように笑った。
「もしあたしが光莉を日本以外の海に飛ばしてたら、どうしてたの。そのまま死んでたじゃない」
「それはそうだが、他に選択肢がなかった」
実のところ、咄嗟の判断で、その可能性には思い至らなかった。隼人がそこまで考えが及ぶような聡明な男だったなら、今頃海面に叩きつけられていたかもしれない。
弥美は探るように隼人の硬い顔を観察する。
「……ふふ、まあ、いいわ。でも、これからどうするの?」
弥美はまた笑い、それから涙を拭った。
「瞬間移動の力を、あんたも使える。それは少々厄介。だけど、はっきり言って、あんたじゃあたしには勝てないわよ」
「やってみないと分からない」
「やる気? 理解できないわ。あんたの劣化した能力じゃ、あたしのスピードにはついてこれない」
「試してみるといい」
弥美の姿が消えた。背後に立っていたと思ったら頭上におり、頭上から落ちてくると思ったら隣に立っていた。とにかく瞬間移動を立て続けに行うので目で追えない。確かに、隼人はこれほど連続で瞬間移動することは無理だと思った。強烈なイメージを頭の中に描かないと瞬間移動に至らない隼人と、呼吸をするように能力を発現する弥美とでは、技倆に違いがあり過ぎる。
能力のコピーはコピーでも、大幅に劣化している。いざ一対一で戦うとなればかなり不利な能力だ。しかも非能力者との戦闘では何の役にも立たず、能力者に接触しなければ能力をコピーできないので、その前に一方的に虐殺されてしまうかもしれない。短時間しかコピーが持続しないというのも問題だ。
だが、やらなければならない。
「姉さんには絶望する時間を与えてやったけど、あんたにそんなことをするのは賢明じゃないわね」
弥美の声が降ってくる。
「深海の中に投げ込んで内臓を潰す。地盤の中に埋め込んでも、溶岩の中に放り込んでも、宇宙空間に投げ出してもいい。あんたは一瞬で死ぬ。考える暇もなく死ぬ。改めて瞬間移動する時間なんてない。そして」
弥美が正面に立つ。隼人は腕を伸ばした。だが彼女の姿は消える。背後に気配。
「いざ接触して、より早く飛ばされてしまうのはあなた。踏んだ場数が違う。同じ瞬間移動の能力を有すれば勝てると思った? そうじゃない、あんたはどんな能力者相手にもまともに戦えない、最弱の能力者よ。残念だったわね」
自分の躰の動きがあまりにのろい。
振り返ったときには弥美の腕が伸びている。
死の世界に飛ばされるのか?
この拳を彼女のところにぶつけることはできない。
できたとしても飛ばされるのは自分。
しかし、光莉の能力があれば。
先ほどまで光莉を支えていたのでこの拳には炎の能力が宿っているはず。
隼人の拳が光り輝く。
一瞬弥美が驚愕する。
だがすぐに状況を理解し、再び自らの勝利を確信する。
そこに白い炎。
彼女の服にくすぶる煙。
「熱いっ!」
弥美の姿が消えた。
振り返ると、弥美が地面を転がっていた。白い炎が彼女を襲っている。叫びながら上着を脱ぎ、ズボンをずり落とした。
下着姿になった弥美は激しく息をつきながら隼人を睨みつけた。
「何をしたのよ……。あんたの拳はあたしまで届いていない。あんたが光莉の能力をコピーしたのは分かる、けど、こんなことは……!」
「併用しただけだ」
「併用?」
「光莉さんの白い炎を、きみの服まで瞬間移動させた。瞬間移動は確かに万能だ。けど、僕に長時間コピーさせたのは間違いだったな。光莉さんの能力と組み合わせた瞬間、もうきみに逃げ場はなくなった」
「何よ、それ……。コピーした能力を組み合わせたってこと?」
「ただし、今のが僕の全力だ。せいぜい服を燃やす程度しかできない。きみと違って、僕には人を殺すほどの力がないということだ」
弥美は胸元を隠しながら隼人を睨みつける。
「何が言いたいの?」
「きみはさっき言ったな。光莉さんに絶望する時間を与えたと。しかしそれは嘘で、手加減をしたってことじゃないのか。どうしてさっさと殺さなかった。殺したいほど憎んでいたはずなのに」
「それは……」
「きみは僕の能力をアテにしていたんじゃないのか? だからわざわざ僕に能力をコピーする猶予を与えた。光莉さんが助かる可能性を残した。違うか?」
「違う。あたしは姉さんに死んで欲しかった。いなくなって欲しかった」
「それで何が得られるんだ。そんなに光莉さんと比べられることが嫌だったのか」
「嫌に決まってるでしょ! あたしは、あたしなのに。姉さんとは違うのに」
ふと、隼人の中で感情が揺らいだ。振り返ると、光莉が起き上がっていた。
光莉が宿す感情は怒り。妹に対する怒り。自分自身に対する怒り。
険しい顔を見る弥美に宿るのは恐怖と悲哀。ここが終着点とばかりに萎れ、目を伏せた。
ここでコピー能力の期限が訪れた。二人からの感情の流入が途絶える。それでも、二人が互いにどんな感情を抱いているのか想像するのは難しくなかった。
「ずっと、眠れなかった」
前髪を払った光莉は言う。
「ずっとあなたのことを考えてた。どうしてこんなことになったんだろう。どうしたら弥美はこんな馬鹿げたことをやめるのだろう。弥美を死なせない方法はないのだろうか。ずっと、ずっと、考えてた」
弥美が視線を持ち上げる。実姉を訝るような目になる。
「ずっと……、考えてた?」
当然のことだ。実の妹が犯罪に走れば、誰だって気に掛ける。光莉が能力者犯罪に立ち向かう捜査官であれば、なおのこと。
それなのに、弥美には光莉の言葉が信じられないようだった。
光莉は苦笑する。
「あなたは私を何だと思ってるの?」
「……三つ離れた姉」
「それだけ? 別に、それだけでも十分だけど」
光莉はにこりと笑った。弥美は怯えた様子で、上目づかいになる。そして首を横に振った。
「もう、あたしのことは軽蔑したでしょ。もう許してはくれないんでしょ。もう、あたしなんか……」
「そうね。犯罪に走った人間を褒め称えることは逆立ちしたって無理ね。でも、あなたは私の妹なの。それだけで、大事に思う理由には足りる」
「怒ってないの?」
弥美の問いかけに、光莉は答えなかった。ただ、両腕を軽く前に出した。
弥美は光莉の白い腕をまじまじと見つめた。ほっそりとした掌も。
おそるおそる踏み出した弥美を見て、光莉も一歩、歩み寄る。
弥美は涙を流した。
「姉さん、あたし、ずっと寂しかったんだ――」
弥美は姉に向かって駆け出した。
光莉は再びにっこりと笑み、突き出した腕を一旦引いた。
鋭角的に曲がった彼女の肘を見た隼人は我が目を疑った。
次の瞬間、光莉の拳が弥美の頬を貫いていた。
首が奇妙な方向に曲がった弥美は白目を剥いて、そのまま卒倒した。
後ろに倒れかかった妹を素早く支えた光莉は、ゆっくりと彼女を寝かせた後、自嘲気味に笑った。
「笑っちゃうくらい不器用でしょ、私……。抱き締めてやればよかったかな」
隼人は肩を竦めた。
「いえ。光莉さんらしいですよ。でも、これで終わりますかね?」
「さてね。彼女が目覚めた後、逃げ出すとも限らないし……。そうなったら、もう四元刑務官に任せるしかない」
光莉は疲れたように盛大に溜め息をつき、弥美の隣に寝転がった。
「あー、なんかすっきりした。ずっとこの子を一発ぶん殴ってやろうと思ってたのよ」
「犯罪者には実の妹相手でも厳しいですね」
「ううん、違うの。この子が誘拐事件なんか起こす前から、ずっと思ってたの。弥美の目を覚まさせたくて、一発殴ったらいいんじゃないかなって」
光莉はほっとしたような笑みを浮かべた。
「この子は私に敵わないって思ってたみたいだけど、私なんかよりずっと可愛いし、集中力だってあるし、機転だって働く。私が弥美に嫉妬したことがあるって言ったら、この子信じてくれるかな?」
「信じないでしょうね」
「そうよね。弥美は気付いてないだけ。自分の良さに。自分の素晴らしさに。だからずっと悔しかった。眠れなくなるほど悔しかった。今夜からは、ぐっすり眠れるかもしれない……」
そんなことを言いながら、光莉は瞼を閉じた。間もなく寝息が聞こえてくる。
隼人は寄り添い合うように眠る姉妹を見比べた。一人は頭から血を流し、一人は頬を腫らしていたが、何とも幸せそうな顔だった。
*
アイドル誘拐事件はこうして終息に向かった。弥美は男性アイドルを監禁している間、特に暴行などを加えたわけではなかったけれども、狭く暗い部屋に閉じ込めていた為、彼らの精神的なダメージは大きかった。
しかしさすがに神経が図太くなければこの業界はやっていけないものなのか、誘拐事件というショッキングな出来事があったにも関わらず、被害者のほとんどが簡単なメンタルケアを受けた後、仕事に復帰した。誘拐されていた間の不在は病欠と偽られ、特に大きな仕事の穴が開いたわけではなかった。
だが、たった一人、七人目の被害者である八田秀一だけは、その精神的苦痛から脱却することができなかった。後遺症として激しい抑鬱に見舞われた。夢の中で何度も女に誘拐された。包丁を研ぐ音が闇の中から聞こえてきて、青白い顔をした女が奇声を上げながら襲いかかってきたところで目覚める。そんな最悪の朝を何度も経験した。
彼は心的外傷後ストレス障害と診断され、仕事の復帰は未定となった。それまでも特別人気のグループに属していたわけでも、グループ内での花形だったわけでもない。それでも彼には大手芸能事務所に所属する、れっきとした歌手であるという自負があり、今回の誘拐事件が公にされず、うやむやにされつつあることに怒りを抱いた。
しかし事務所の社長も、マネージャーも、他に誘拐されたというアイドルも、誰も彼の味方をしてくれなかった。政府から圧力がかかって今回の一件を漏らすなと口止めされているという。
口止めする理由は、何だ。能力者とはいえ、犯罪者だろう。まさか国が犯罪者を庇護するのか。
怒りが収まり切れず、マスコミ各社に匿名のメールを送り付けた。能力者の犯罪を隠匿する政府の汚い所業を指弾した。彼はテレビでスクープが報じられることを今か今かと待ち望んだ。その間、抑鬱の症状は少し軽減した。
結局、今回の事件は公にされなかった。八田秀一の家に黒い服を着た男が数人乗り込んできて、札束の入った封筒を無理矢理握らせた。
「次はない」
男は感情の篭らない口調と眼差しで八田に言った。
「もう忘れろ。我々はきみがアイドルとして復帰する日を待ち望んでいる。影ながら応援している」
まるで気持ちが籠っていない。八田秀一は一人になり、札束を壁に投げつけた。
彼はリビングの真ん中で蹲り、悔し涙を流した。その涙はいつまでも涸れることがなかった。怒りは哀しみと絶望に変わり、自分のアイドルとしての人生が終わりを迎えたことをはっきりと悟った。
八田秀一が所属するアイドルグループの担当をしている女性マネージャーは、彼が心配になり、彼が借りているマンションの部屋を頻繁に訪れていた。
何度呼び鈴を鳴らしても出ないので、マネージャーは諦めて帰路に就こうとした。
しかし、マンションの廊下の向こうに、奇妙なものがあることに気付いた。
黒い影。
靄のような、すなわち不定形ではあるが実体はあるように感じられる、黒い何か。
マネージャーは恐怖を感じつつも、ちょっとした好奇心から、その黒い影に近付こうとした。
するとその影は急速に纏まり、まるで人間の形のように収束し、ゆっくりとマネージャーのほうへと歩み出した。空を歩いているかのような、不自然な足取り。
幽霊だと直感したマネージャーは悲鳴を上げて廊下を走り出し、エレベーターに乗り込んだ。涙目になりながらボタンを連打し、下の階へと逃げる。
黒い影は女マネージャーを追うことはなかった。八田秀一の家の前に立ち止まり、しばらくその場に揺らめいていた。
やがてドアの隙間からその黒い影を滑り込ませ、彼の部屋の中に侵入した。
翌日、知り合いを二人引き連れて八田秀一の家を訪れたマネージャーは、彼が笑顔で玄関のドアを開けてくれたことに驚いた。
「大分気が楽になったよ。心配かけてごめん」
マネージャーはほっと胸を撫で下ろした。だが、八田秀一の背後に不気味な影が蠢いていることには気付かなかった。彼がけして家に上がらせないことに多少の不安を覚えつつも、マネージャーはそのまま帰った。
ドアを閉めた八田は足元の影を睨みつけた。彼の表情は豹変し、顔色は怒りと害意でどす黒く変化していた。
「俺を攫った女の名前は何といった」
八田は言った。影は男か女かも分からない、電子音じみた不明瞭な声で、
《高桜弥美》
と答えた。
「高桜弥美を殺す」
八田は呪文を唱えるように抑揚を消して言った。
「殺す。絶対に殺す。高桜弥美を殺す。殺す。殺す。殺す……」