ランバールーム
四月。朝。日本の首都の、ごくごくありふれた一日の始まり。
郊外の少し鄙びた住宅地にある、木造のアパート。その中の誰もいない一室。テーブルにテレビとソファがあるだけの質素な部屋。
テレビの電源が点いている。民放のニュース番組が流れ、むくんだ顔の女性アナウンサーが原稿を丸読みしている。
そこでは、国会が核武装を可能とする最後の法案を通したことを報せていた。先日の憲法改正の国民投票から驚くべきスピードで成立したとのことだが、日和見の日本政府も今回は隣国の能力者増産計画に肝を冷やし、幾つもの慣習を打ち破って今回の法案成立に漕ぎつけたとのこと。
髭を生やした専門家が、これで内閣府の外局として置いた特別対策室が裁量を得るようになると話していた。対策室、とは何かの災害に備えるもののように思えるが、実際は核ミサイルを利用した能力者の増産を企図する機関である。
「物騒なニュースを、さも当然のように流してるわね」
ソファに凭れた一六歳前後の女性が、言った。彼女はほんの数秒前まで、部屋に存在しない人間だった。黒髪を腰まで垂らし、赤いヘアバンドでぞんざいに纏めている。
その隣には憔悴し切った男が、同じくソファに腰掛けていた。彼も女性とは同年代で、慄くように部屋を見渡す。
「ここは……?」
「さあ。誰かの部屋」
女性は愉快そうに笑い、
「ねえ、次はどこに行きたい? 月面旅行とか、楽しそうじゃない?」
「か、勘弁してください。死んでしまいます」
「冗談よ。私だって死んでしまうわ」
女性は男の顔を覗き込む。彼は引き攣った笑みを浮かべた。
「あなた、私に気に入られようと、必死ね」
「いや、そんなことは……」
「私の好きなところを十個言って。十秒以内に」
「え? え? あ、いや、美人で、笑顔がステキで、その、足が長く……」
「はい、十秒経った。あなた、私の恋人には不適格だわ。どうして私、あなたのことを一瞬でも好きだと思ってしまったんだろう。海と山、どっちが好きかしら?」
「え、え、待ってください、その……」
「分かった。インドア派なのね。一生外に出られないところに送ってあげる」
「は? ど、どういう意味ですか、あの、弥美さん?」
弥美と呼ばれた女性は男に抱きついた。その豊満な胸を押し付け右手で頭を撫で回してくる。だが男は感触を楽しむ余裕など皆無であった。
次の瞬間、男と弥美は闇の中に落ちた。ライターを点けた弥美は、それを男に渡す。腰に手を当てながら立ち上がり、欠伸を一つする。
「弥美さん、ここは……?」
「もう使われなくなった刑務所よ。アメリカのね。沙漠の真ん中にあるから、誰も来やしないわ」
「あ、アメリカの、刑務所……?」
そのとき、男は、闇の向こうからこの世のものとは思えない叫び声を聞いた。その声は石造りの構築物の中を反響し、おぞましい旋律となって男を慄かせた。
「あら、あの人、まだ元気みたいね。三日前にここに閉じ込めたのに」
「三日前って……。弥美さん、まさかぼくをここに置いていくつもりですか」
「そうよ。だって、あなた、インドア派でしょ」
「家に帰してください! 何の恨みがあって、こんなこと」
「恨みなんかないわよ。でも、どうせ、あなたは家に帰ったら他のろくでもない女と付き合い出すんでしょ。だったらここにいたほうがいいじゃない」
「……弥美さん!」
男は色々と言いたいことがあったはずだが、全てを封じ込めて、弥美に詰め寄った。
「僕は弥美さんのことを愛しています! こんな辛気臭い場所に置いておかないで、どうかあなたと一緒に行かせてください! あなただけを生涯愛すると誓います! もしよろしければ、歌だって……」
弥美は品定めするように男を見ていたが、やがて笑い始めた。
それは、最初クスクスと息が漏れる程度の笑いだったが、次第に音量が大きくなっていき、最終的には牢獄全体と共鳴する不気味な哄笑となった。男は鳥肌が立ち、女をまじまじと見つめていた。
「女々しい男! ほんと、捨てて正解! 世の中の男って、どうしてこうも性根が腐ったようなモヤシばかりなのかしら。ああ、嫌だ、嫌だ」
「弥美さん……」
「触らないで! あなたは私の運命の人じゃなかったんだわ。私に相応しい人は別にいる。それを教えてくれてありがと」
弥美の姿は消えた――男はライターを翳しながら、何度も弥美の名前を呼んだ。しかしそれに誰かが応えることは、とうとうなかった。
*
日本における最初の能力者・四元日向が能力に覚醒した隕石襲来から、五年の月日が経った。
以後、地球には様々な災厄が訪れた。大津波だの、大地震だの、大噴火だの、宇宙人の襲来だの、殺人ウイルスの大流行だの……。
危機が訪れるたびに能力者が覚醒し、人類を救った。それが何度も続いたので、人類は自らが神に愛されていると確信した。
そして、事故なのか故意なのか分からないが、ロシアから発射された核ミサイルが能力者の覚醒を促したことで、国際世論は核配備容認へと一気に転換した。
以来アメリカやロシア、中国などの核開発が進んでいる国では、自国に核兵器を打ち込むことによって地球の危機を演出し、能力者の覚醒を促す行為が公然と行われていた。
〈ファースト・ミューテイション〉から五年、いよいよ日本が核兵器の自滅的活用によって、人工的に能力者を増やすときが来た。この方法が優れているのは、国家による能力者の管理が容易になる点だ。
災害大国である日本には、より多くの災厄が降りかかり、その分能力者が多く発現したらしかった。だが日本政府が把握している能力者の数は実数の半分程度と言われており、能力者が原因と思われる犯罪が全国各地で多発していた。
巨大な隕石を破壊し、津波を退け、地震を黙らせるような超能力者相手に、既存の治安維持のシステムは通用しなかった。能力者による犯罪撲滅チームの結成。この発想はそれほど奇抜なものではない。
だが、国家の治安の為に命を賭して役割に徹する人間は極めて少数であり、しかも能力者の半数が未成年であるという事情も関係して、政府に属する能力者チームはそれほど強力な組織ではなかった。この事実を憂慮した日本国民は核配備による能力者増産もやむなしと判断し、憲法改正を承認したのだった。
核由来の能力発現者〈ニューク〉の受け入れ先となるのが、能力犯罪対策室――通称〈ランバー・ルーム〉であった。
施設内の寮に住んでいる四元隼人は、欠伸混じりに朝のミーティングに参加した。室長にどやされたが自分は正しいと信じ込んでいたので、気にしなかった。リフレッシュ・ルームでコーヒーを淹れていると、高桜光莉が現れて、
「私の分も」
と注文した。
「ここのコーヒー豆って、何処産だか知ってます?」
淹れたてのコーヒーが並々と注がれたカップを手渡しながら、隼人は尋ねた。二人は長椅子に腰掛けて壁に張られた啓蒙ポスターを眺めながら、熱々のコーヒーを啜った。
「さあ。キリマンジャロとか?」
「日本らしいですよ。国産です」
「へえ。日本の何処?」
「そこまでは。すみません」
「調べが甘いわね」
「それでですね、ここのコーヒーを飲むのって、僕と光莉さんくらいじゃないですか」
「そうなの?」
「そうですよ。他の捜査官の方々は滅多に飲みません。渋味が強いとか何とか言って。それで、豆を変えようかって話が出てるみたいなんです」
「美味しいのに、勿体ない」
「そうですよね。家に豆を持ち帰って、妹に飲ませたら、美味しいって言ってました」
「へえ。家族って味の好みが似るのかもね」
「もっとここのコーヒーの信者を増やさないといけませんよね。地産地消っていうのとはちょっと違うかもしれませんが、やっぱり国産ブランドを応援したくなるじゃないですか」
「隼人くん」
「はい?」
「言いたいことは大体分かったから、その話はもういいよ」
「……はい」
二人は黙ってコーヒーを啜った。しばらくしてから光莉が溜め息混じりに言う。
「仕事の話、してもいい? というか、既に始まってた?」
「かもしれません」
「今度の誘拐事件のことなんだけど、やっぱり犯人は殺すべきだと思うの」
光莉は何でもないような口調で言う。隼人は咄嗟に何も言えなかった。
「連続アイドル誘拐事件。既に被害者は七人にも及ぶ。この事実が報道機関に漏れていないはずがない。協定でも結んだのかなあ。私、この事件から完全にシャットアウトされてるから、全く知らないけど」
「合ってます。報道協定が敷かれてます」
「そうよね。でも、今ってネットの時代でしょう。いつまでも秘密にはしておけないし、被害者の処罰感情ってものも、あるでしょう」
「だからって犯人を殺すというのは、どうかと」
「そうかしら。だって、七件よ。それも毎日テレビに顔を出しているような人気アイドルを攫ってる。完全に対策室を小馬鹿にしているし、これ以上野放しにするのは危険だわ」
「ですけど、今回の犯人の能力は非常に有用である、って刑務官も言ってました。生け捕りにするべきでしょう」
「その甘い方針が、七人の被害者を生んだのよ。全員無事に帰ってきたとはいえ、七人目の被害者は酷く衰弱してたって、隼人くん教えてくれたじゃない。犯行がこれからエスカレートして、殺人に発展するかもしれない。ううん、それでなくとも誘拐は重罪よ」
「ですね。でも、犯人を殺すのは最後の手段です」
「その最後の手段を使うべきタイミングは今だって言ってるの」
「いいえ。殺す前に、説得を試みるべきです」
「説得なんて、これまでに何度もやってきたでしょうに」
「光莉さんが説得をするんですよ。だって、これまで一度もやってきていないでしょう」
光莉は無表情になった。そして隼人を見つめる。
いや、睨んでいると言ったほうがいいかもしれない。彼女は自身の中で煮え滾る感情を必死に抑え込もうと努力している。きっと彼女が感情に正直になったら、隼人を張り倒していたに違いない。
「私が? 説得? 駄目よ」
「どうしてです?」
「許可が下りない」
「今はそうですけど、やるべきだと思うんです。僕は今朝もそうするべきだって進言したんですけど」
「ああ、だから室長に怒鳴られてたのね」
光莉は笑う。隼人は、少し躊躇したが、思い切って尋ねた。
「そんなにおかしいことでしょうか」
「え?」
「光莉さんは対策室の捜査官であり、弥美は凶悪な誘拐事件を引き起こしました。確かに立場はまるっきり違う。でも実の姉妹なんですから――」
「隼人くん」
「はい」
「それは言わない約束でしょう。あまり恥をかかせないで」
「恥ですか。妹さんが誘拐事件を起こしたら、恥ですか」
「当たり前でしょう。私は真面目に政府に仕え、能力犯罪の撲滅に日夜邁進している。でもあの子は――弥美は瞬間移動という汎用性の高い能力を犯罪に利用している。それも、アイドル誘拐という下劣な犯罪。恥以外の何だと言うの」
「そうですか。これ、絶対に光莉さんには言うなって、室長が厳命してたんですけど」
「何よ」
「今朝のミーティングで決まったことです」
「だから、何」
「高桜弥美が八件目の犯行を起こす前に殺害する。そういう方針が打ち出されました。瞬間移動の能力は犯罪捜査に大いに役立つ。けれどもこれ以上被害を拡大させるわけにはいかない。捕獲は不可能、説得も徒労に終わった、となればもう殺すしかない」
「……そう」
「それでいいんですか?」
「何が言いたいの」
「僕にも妹がいます。愛良っていいます。もし彼女が罪を犯したとしても、僕は彼女の味方でいたいと思ってます。誰にも殺させやしない」
「そう。でも、私は能力者犯罪を取り締まる者として、妹を心の底から軽蔑している。死んだって構わないと思ってるわ」
「それは本心ですか」
「そうよ」
「ありがとうございます」
「……は?」
「普通、本心って、他人に簡単に話せないものじゃないですか。それをあっさり僕に打ち明けたってことは、僕を信頼してくれているってことですよね?」
「何を言ってるの?」
「僕は自分の本心を簡単には他人に話せない。どうして対策室に入ったのか、と聞かれたら、そりゃあ一応犯罪を憎んでるからです、とか答えますけど、でもそれは本心じゃない」
「あのね、隼人くん、屁理屈はどうでもいいの。私は心の底から弥美が死んでも構わないって思ってるの」
「そんなに姉妹の仲が悪かったんですか?」
「……別に、悪くはなかったわよ」
「だったら、少しくらい妹さんを助けたいと思うのが普通なんじゃないですか」
「私は捜査官よ? 私情を挟むわけにはいかない。それが犯人の利になりかねないのなら、なおさら」
「でも、誘拐事件の捜査から外されてますよね。言ってみれば部外者にも等しい。だったら、ちょっとくらい感情を出しても良さそうですけど」
「また、屁理屈を」
「屁理屈ですかねえ」
隼人はコーヒーを飲み干した。
「ああ、美味しい。このコーヒー、なくなっちゃうのは寂しいなあ」
そう言いながら隼人は退室した。一人残された光莉は、飲みかけのカップを置き、長椅子に凭れた。
染み一つない白い天井を見上げて、沈思する。対策室の現在の最大の関心事は連続アイドル誘拐事件であり、ミーティングに自分だけ締め出されることが多かった。義憤を労働意欲に転化して働いている光莉にとって、消化不良の日々が続いていた。
この感情は何だろう。胸の奥に詰まっているのは魚の骨のようなゴツゴツした異物。拭おうと思っても手が届かない。もどかしくて、落ち着かなくて、苦しい。
悔しい、のだろうか。
弥美の能力は、瞬間移動。それを知ったときの光莉は、妹に嫉妬した。そんな便利な能力があるのなら、優秀な捜査官になれるに違いない。
今の日本では、能力者は政府の庇護下に入り、能力者犯罪の撲滅に協力する選択肢しか与えられていない。だから弥美も当然そうするのだと思っていた。
けれど弥美は罪を犯した。つまらない事件。悪行を働く人間を黙って見ているわけにはいかない。瞬間移動という能力が備わっている弥美を捕まえることは事実上不可能である。ゆえに説得できなければ、最終的には殺すしかない。
殺すしかない。
殺すしか……。
光莉は呻き声を上げた。彼女は思い出していた。自分が高校に上がったとき、自分のお古の中学校の制服を妹に譲ったときのこと。彼女は嫌がるどころか、満面の笑顔で言った、これで私もお姉ちゃんみたいになれるかな?
子供の頃はいつも一緒に遊んでいた。弥美は友達の少ない子供だった。光莉が小学五年生のとき、弥美が学校では苛められているのではないかと疑い、二年生の教室に乗り込んだことがあった。今にして思うと軽率な行動だったが、それまで暗い顔で教室の隅に佇んでいた弥美が嬉しそうに手を振って姉を出迎えた。この子は自分がいないと駄目なんだ。苛められているのではなく、自分から壁を作り、姉との空間だけが自分の居場所だと思い込んでいるのだ。
食べ物の好き嫌いが多かった弥美に、母はこう言って嫌いなものを食べさせていた。
「ちゃんと食べないとお姉ちゃんみたいになれないよ」
そう言うと、食べ物のみならず、普段怠け癖が目に付く彼女が懸命になって物事に取り組んだ。だから母はこの定型文をよく用いていた。ちゃんと勉強しないとお姉ちゃんみたいになれないよ。早寝早起きしないとお姉ちゃんみたいになれないよ。お姉ちゃんみたいに行儀良くしなさい。言うことを聞きなさい。お姉ちゃんを見習いなさい。
昔は、光莉を見る弥美の瞳はきらきら輝いていた。けれど、一月前に会ったとき、弥美は光莉を汚物でも見るかのように、蔑んでいた。
いつからだろう。いつから弥美は姉を軽蔑するようになったのだろう。いつから二人は間違ったのだろう?
「いつから……、か。三年も会ってなかったから……、分からないよ」
光莉が能力を発現して三年が経つ。当時一八歳で、政府からの要請を受け、捜査官としての活動を開始した。
それからは家族ともほとんど会っていない。激務と言っていい。会う暇なんかなかった。だから弥美がいつから光莉や世間を憎むようになり、犯罪に走るようになったのか分からない。そもそも、弥美が能力を発現した時期も詳しくは分かっていなかった。
「ああ、もう……」
光莉は頭を無茶苦茶に掻いた。
自信がなかった。
弥美を殺した同僚たちを恨まない、自信が。