静かな軍靴の音
隼人は病室で目覚めた。近くで鼻歌混じりに雑誌を読んでいるのは弥美だった。
隼人が起き上がると、彼女は嬉しそうに雑誌を放り投げ、抱きついてきた。
「ははは、姉さん、ざまあみろ。隼人くんが目覚めて初めて視界に収めた女性はあたし!」
隼人は弥美を押し退け、辺りを見回した。そしてむすっと頬を膨らませた弥美を見る。
「どれだけ僕は眠ってた?」
「半日。日幡捷三の独房で眠ってたのを見つけたのはあたしなんだからね、感謝して」
「ああ、ありがとう。……日幡?」
「不死身の肉体の。隼人くんが燃やし尽くしかけたっていう、あの」
「ああ……。あの男は日幡というのか」
月から地上へと、プリムラが帰してくれたのだろうか。いや、そもそも、自分は夢を見ていただけなのかもしれない。ぼうっとする頭では思考が定まらなかった。
プリムラの行為を止める方法は、三つある。人類の生存が価値あるものだと認めさせること、月の寂しさを紛らわせること、そしてプリムラを殺してしまうこと……。最後のは論外だとして、後の二つについて考えなければならない。
地球は、隼人に分け与えた力なら、それを達成できると考えている。ナデシコが答えを持っていたらこれほど楽なことはないのに。
もしかするとこれは地球が人類に課した試練なのかもしれない。
「ねえ、隼人くん、どうしてあんな場所に倒れてたの」
「プリムラに会いに行ってた」
「え……。そっか、それで日幡の能力を……。で、どうだったの。説得できそう?」
隼人は曖昧な態度を取った。
「どうだろうね。それより、対策室はどんな様子。各国政府との連絡はついたの」
「ああ、それがね……」
弥美が話し始めたとき、病室の扉が開き、四元刑務官が顔を出した。
「父さん」
「隼人、起きたか。早速で悪いがアメリカに飛んでくれるか」
「アメリカ……?」
「ああ。アメリカの精鋭を集めて、お前に能力を授けたいんだと。プリムラを確実に殺害する方法を考案したらしい。ナデシコのお墨付きだ」
「駄目だ。行かない」
「これは命令だ。防衛大臣からまっすぐ下りてきた、厳命」
「たとえ総理大臣の――いや神様からの命令だって、従わない」
「隼人。どうした。感情的になるなんてお前らしくない」
「プリムラは殺せない。彼女は寂しいだけだ」
「寂しいだけで人類を殺す。私たちにとっては巨大な悪だ」
「僕たち人間は地球の慈悲を受けてもなお感謝することなく、新たな支配の形を模索した。それが人間らしいと言えば人間らしいのかもしれない。けどそれがプリムラから見ていて醜いものだったのも事実」
「何が言いたい。お前、まさか、あの女に肩入れするのか」
「五年越しの再会だったもんでね。初恋の相手だし」
「はっ、はつっ……」
と、弥美がなぜだか喘いでいる。四元は片眉を持ち上げて、
「それがどうした。お前には勝算があるのか。プリムラを殺さずに解決する方法を思いついたのか」
「全く」
「なら従え。代案なき批判は歓迎しない」
「まだ時間はある」
「ない。全くない。従わないなら、力ずくで――」
「できるものなら、やってみろ!」
隼人は叫び、弥美を抱き寄せた。そして瞬間移動する。四元は咄嗟に、ベッドの上に隼人の毛髪が落ちているのを確認し、それから思わず舌打ちした。
「一瞬でも迷わせるな。親不孝者が……」
*
トラッカーは眠らない。瞼を閉じても、一キロ先で灯った電気スタントの光を感じることができる。耳栓をしても、その電気スタンドのスイッチを切り替える音が聞こえる。鼻を塞いでも、その電気スタンドに虫が集まっていないか匂いで分かる。味覚と触覚も敏感で、常に何らかの刺激に悩まされている。だから眠れない。常に覚醒している。
眠気はある。寝ようともする。だが完全に眠りに落ちることはない。もしかすると知らない内に眠っているのかもしれない。だがすっきりとした朝を迎えたことは、能力を得てから一度もなかった。
だから、見知らぬ女に後頭部を殴られ、気を失うとき、久しぶりの感覚を味わうことができた。意識が途絶え、闇の中に落ちるその甘美な世界。女の気配は全く感じなかった。
「オーケー。情報にあった索敵さんは倒した」
女は小さな声で言った。すると彼女の傍に四人の男が現れた。いや、既にそこにいたのだ。完全に気配を消していただけで。
リーダー格の黒人の男が、
「病棟に四元隼人がいる。時間をかけるな。行くぞ」
五人の軍人は足早に廊下を進み始めた。それを塞いで立ったのは四元刑務官だった。流暢な英語で話し始める。
「無駄だよ、アメリカの無作法者ども。あいつは行ってしまった」
「四元日向。そこを通してくれ。高桜弥美の瞬間移動の能力を使ったのだろう?」
「そうだ。だから、貴様らの作戦は失敗だ。隼人は攫うことはできない」
「我々はターゲットが瞬間移動した地点から、追跡することが可能だ。我がチームには優秀な猟犬がいてね」
「追いつけるはずがない」
「やらなければならない。人類の存亡がかかっている」
「たかだか半日連絡を遅らせただけで、部隊を送り込んでくるとは。強引に過ぎる」
「貴様と話している暇などない。まさかわざと四元隼人を逃がしたのではあるまいな」
「もし、本気で逃がしたくないなら、弥美の見舞いは許可しなかっただろうな」
「貴様……、どういうつもりだ」
「息子を信じている。なにせ、あいつはプリムラに選ばれ、あの能力を得たんだからな。どのみち、あいつに賭けるしかないんだ」
「人類の英知を結集し、この難題を解決すべきだ。未成年の男の決断一つで左右されていいほど、地球の命は軽くはないのだぞ」
「地球自体は、今後数十億年に渡って安泰だろう。危ないのは地表に住む生命の命だ」
「地球の意志は人類を生かそうとしている。この五年間に地球を襲った災厄の数を知っているか。人為的なものを除いても三〇〇〇を超す。もし地球の助力がなければ、人類は滅ぶとまではいかなくとも、大きく衰退していただろう」
「能力者が現れた途端に、そんな数の災厄が現れる。私はときどき、これらの災厄は地球が仕組んだものなのではないかと思うことがある。我々は愛を一方的に享受するだけの価値がある生き物なのか? 力を分け与えられていると同時に、試されているのではないか」
「その種の議論は語り尽かされている。決まって結論は神への無垢なる信仰に繋がるがな。星の意志の存在が確認された現在、既存の宗教の黎明期には星の意志が関わっているという見方が大勢的だ」
「そうやって人は真実を見誤っていく。地球が人間の作り出した宗教に従うわけがないだろう」
「日本人は神を信じないのだったな」
「いや、信じるさ。だが、神はこの星。信じるからこそ、私はここに立ち、貴様らと対峙している」
「どうしても戦わなくては気が済まないか」
「貴様らが引き下がるなら話は別だがな。……そんなつもりはないんだろう?」
五人のアメリカ軍人は姿を消した。四元は動揺しなかった。アメリカには究極の迷彩を可能にする「カメレオン」と呼ばれる能力者がいると聞く。それは視覚のみならず聴覚や嗅覚など人間の感覚全てを騙し、景色に完全に融け込んでしまうという代物。トラッカーでさえも見破れなかった完璧なステルス部隊が、四元を追い詰める。
しかし四元は冷静だった。
「隼人があんな目をするなんてな。五年前、私が能力者として覚醒したときでさえ、あいつは平然と事実を受け入れていた。何事もそつなくこなすが、感情の起伏の少ない子供だった。何があいつを変えたのか……。きっかけは、プリムラとの出会いなのだろうか? だとしたらあいつがやろうとしていることは、私的なものであり、親として止めるべきことなのかもしれない」
四元は呟く。
「だが、この能力を得てから気付いたことがある。人間は地球を始めとする環境に生かされている存在に過ぎないことを。もし庇護がなければ、人類は生存どころか発生さえしていなかったことを。言葉ではなく心の奥で理解した。もし息子にプリムラとの関わりにおいて、何らかの役割を与えられているとするなら、私はそれを助けるまでだ」
何もないところから銃弾が飛来し、四元の肩を撃ち抜こうとした。
それは瞬く間に分解され、四元の口の中に治まる。ありとあらゆる傷害を捕食し無効化する四元の能力には、死角などない。
そのはずだった。
四元の肩から血が流れ、激痛が走った。片膝を落とし、呻く。
女が気配を現し、勝ち誇ったように言う。
「やはり、あなたの能力は気配を消した銃弾には無効なようね。死にたくなければそこでじっとしてなさい」
「甘く見るな」
「え?」
「私に血を流させたな。いいか、警告しておく。死にたくなければ今すぐここから消えろ」
女の表情は翳る。
「もう少し、痛い目に遭わないと懲りないようね……、でも、今は時間がない。他の四人は先に四元隼人の追跡に向かったわ。私もさっさと後を追わないと――」
しかしそこで女は自分の躰の異常に気付いた。躰が傾いている。
右足首から先がない。
自らの足首の断面から骨が突き出ている。絶叫し、痛みを感じた気もしたが、実際には全く痛くなかった。何の感覚もない。
「四元! 何をしたの!」
「私は血の中に、とある囚人の能力を飼っていてね。いや、寄生虫のような存在だから、飼うというのは正しい表現ではない気もするが。私がこの仕事を始めた頃に出会った、凶悪な犯罪者の能力だよ。他人の躰の中に潜り込み、肉を食らうという、おぞましい能力……」
四元は肩を押さえながら立ち上がった。
「その能力者は既に私に捕食されて死んでいるのだがね、能力の特性なのか、私の血肉と化した後も、確かに私の中に息衝いているのだ。攻撃の手段に乏しい私が持つ、切り札みたいなものだな」
女は絶叫する。足がみるみる削られていく。四元は笑った。
「そいつを止めて欲しかったら、手を引くことだ。足を食べ切ったら、容赦なく内臓を食べ始めるぞ。こいつは生前、人間の内臓を切り拓き、バターで焼いて食していたという狂人だ。きっと今でも趣味は変わってないだろうな」
四元は言いながら、この期に及んで仲間同士で争う人間が、プリムラの眼にどう映るだろうかと考えた。問題は争った後だ。そこから何を得て、何を教訓とするのか。
とりあえずアメリカの能力者を用いた傍若無人な振る舞いは、今回限りにして頂きたい。四元は気絶しているトラッカーの頬を軽く叩きながら思った。




