四元日向刑務官
光莉は、道の向こうでにやにやし始めた男に手招きした。
「銃刀法違反。逮捕するからこっち来て」
「お前、警察じゃないだろう」
「知らないの。一般人でも、現行犯逮捕はできるのよ。いいから、さっさと来なさい」
「言われなくても――ひっひひ、お前を殺しに行くよ」
男はよたよたと歩み寄ってきた。光莉は構えた。相手が能力者であることは明らかだった。どんな能力であれ、一対一で負けるはずがないと思っていた。
男は更に笑みを深める。
「聞いているぞ。高桜光莉。ターゲットの一人だな。拳で着火し、対象を白い炎で燃やし尽くす。その炎は好きなタイミングで消すことができる。ふふふ、単純だが強力な能力だ」
「ありがとう、褒めてくれて。あなたの能力は?」
「今に分かる、ふふ、ひっひ……」
男が飛び掛かってきた。光莉は掌を打ち鳴らして巨大な炎を生み出した。それは目くらまし以上の意味を持たなかったが、男の動きを鈍らせることに成功した。
男の脇腹に拳を叩き込み、着火する。白い炎が男の服を燃え上がらせる。
「降参するなら、消してあげ――」
しかし男は怯むことなくナイフを振り回した。頬が切れた光莉は男を睨みつける。
「死にたいの?」
男は炎に包まれつつも、笑みを絶やさなかった。
「死ぬのはお前だよ。ふ、ふふ……」
男の服が燃え尽きる。男の肉がケロイド状に溶けて足元に垂れる。光莉は後退した。何かがおかしい。男が平然としているのもそうだが、光莉が消そうと思うか、対象を消し炭にするまで消えないはずの白い炎が、小さくなっている。
「俺の能力は、肉体の再生。簡単に言えば、不死身なのさ、俺は」
男はナイフを振り上げる。光莉はその腕を跳ね除けて腹と顔を連打した。白い炎が噴き上がるが、男は笑い声を上げていた。
「熱いな、熱い、熱い! だが、俺には勝てないんだよ!」
男は全く怯むことなく、光莉に抱きついてきた。光莉は肘打ちを喰らわせたが、男は笑うばかり。全く効いていない。
「離れろ、このっ――」
「どこを刺して欲しい。うん? この体勢だと、背中かお尻しかないよなあ。ひっひひ……」
光莉は大口を開けて笑い始めた男の口に拳を突き入れた。歯の何本かを折った感触がある。
「燃えろ!」
男の口から炎が噴き出た。そして目からも白い炎がちらつく。さすがに男は怯んだようだった。光莉はなんとか男を撥ね飛ばし、距離を取った。
「内臓が焼かれるのは初めてだなあ……、おいおい、香ばしいじゃねえか! はははは!」
狂ったように笑う男に、光莉はぞっとした。相手を殺すつもりで能力を使ったのは、実は初めてだった。それなのに男は笑って、こちらに歩み寄ってくる。
「逃げるなよ……、逃げるなよ。おっとと、躰が燃えてうまく歩けん。ふふ、逃げるんじゃねえぞ……!」
光莉は後退した。白い炎はみるみる勢いが小さくなっていく。焼けて使い物にならなくなった内臓をまるで糞便か何かのように垂れ流しながら、男は近づいてくる。
やがて男は走り出した。
「殺してやる! 俺にすぐ消えちまう炎なんか通じないんだよぉ!」
光莉は恐怖を感じた。しかし、隣に立つ隼人に気付いたとき、そんな感情は吹き飛んだ。
「死なない炎ならどうだ?」
隼人は光莉の肩に触れ、そして男の前に立った。男の胸に拳を当て、そして顎にアッパーを繰り出す。
胸の炎はすぐに消えた。光莉の繰り出す炎とはまるで火力が違った。男はにやにや笑っている。
「ひ、ひひ……。なんだ、お前も炎を使うのか。しかし話にならんほど弱いな。くくく、こんな小さな炎、すぐに消えて――」
だが、男は自分の顎から首にかけて燃え広がった炎を見下ろして、絶叫した。
「な、なんだこの炎は! ひ、広がる! 燃え広がる! 俺の再生した肉を焦がし尽くしなお広がる! う、おおお!」
男はもがき苦しみ始めた。隼人は光莉の頬にある傷に気付いた。
「大丈夫ですか、光莉さん」
「え、ええ……。あなたの能力は、本当に便利ね。敵の能力を利用するなんて」
不死身の能力と、炎の能力をかけあわせ、けして消えない炎の攻撃を生み出した。隼人は肩を竦める。
「こうでもしないと、僕の能力は中途半端ですから」
「あと一人、ビデオを回してた女がいたけど、彼女はどうなった?」
「ああ、周囲のモノを巻き込みながら進む矢を放つ能力者でしたけど、囚人が捕まえました。本部まで移送済みです」
「じゃあ、この不死身の男も――ねえ、そろそろ炎を消したほうがいいと思う。さすがに死んでしまうと思うわ」
「炎を消す? どうやってです?」
「え? だから、こうやって――どうやって説明すればいいんだろう」
不死身の男はいまや白い炎に包まれて、その原型を留めていなかった。悶え苦しみ、今にもその悲鳴が途切れてしまいそうだ。隼人はその後、五分間にも及ぶ悪戦苦闘の末に、自分が着火した炎を消すコツを掴んだ。不死身の男は丸焦げになっていたが、さすがの能力で、やがて人間の姿に戻った。まだ完全には死んでいなかったようだ。その間に拘束具を着け、本部の独房へと瞬間移動で移送した。
*
隼人が白い炎を消火しようと奮闘している、ちょうどそのとき、四元刑務官は黒黴が乗っていると思われる車が歩道橋に向かって走ってくるのを見た。六人の囚人が揃い、臨戦態勢に入っていた。
「五番と七番で足止めしろ。九番と一九番はそれぞれ道路の左右から機を窺え。残りはここで待機だ」
囚人たちは頷き、散開した。トラッカーから通信が入る。
《黒黴の体重がみるみる増えている――そちらに気付いたようです》
「分かった。他にも気付いたことがあれば言ってくれ」
《了解》
車は速度を上げて突っ込んでくる。通行量はそれほど多くなく、事故なく停車させることができるだろう。しかし四元は胸騒ぎを覚えていた。
「どうして奴はこんな危険を冒した? 離れた場所から我々を小馬鹿にすることに飽きたのか? それとも何か考えがあるのか?」
答えは出ないまま、いよいよ交戦距離に入る。四元の合図で、七番が空気の塊を撃った。黒黴の乗っている車に直撃。宙を飛ぶ。着地すると同時に滑り、道路から外れて横転する。すかさず五番が中の様子を確認しに、接近する。
次の瞬間、五番の首が飛んだ。
九番と一九番、続いて七番が車を取り囲む。停車した車から出てきたのは痩身の男だった。首をコキコキと鳴らし、骨張った顔を愉悦に歪ませる。
そして歩道橋の上に立つ四元を見た。
「きっと勘違いしているだろうから、教えてやろう。貴様らが俺を追い詰めたのではない。俺が貴様らをおびき寄せたのだ。この犯罪者集団が」
黒黴の全身から黒い靄が噴き出した。無数の水滴。それは凄まじい勢いで発射され、三人の囚人を蜂の巣にした。
一瞬で四人の能力者を殺害した黒黴に、四元の隣に立っていた一四番が狙いを定める。道端に落ちていた石をライフル射撃にも匹敵するほどの勢いで弾き飛ばす。石は見事に黒黴の顎を撃ち抜き、貫通しながらも砕けて肉を抉った。
だが黒黴は再生する――黒い靄が彼の肉を埋める。
「俺は無敵だと言っただろう。隠れるのが得意という意味でも、絶対に捕まらないという意味でもない。俺を殺すことはできない」
黒黴は手を翳した。黒い水滴が凶悪な弾丸となって飛来する。四元に近づいてきた水滴は自動的に口に吸い込まれ、胃袋に収まった。四元には攻撃が通用しない。しかし近くに立っていた囚人二人は急所を撃ち抜かれ、絶命した。
「あっけないものだな、四元刑務官。無能な部下をあてがわれて、同情する」
「お前の仲間こそ、今頃本部で尋問を受けているぞ。このまま逃げられるとは思わないことだ」
「さすがに俺も、貴様を殺したいとは思わん。貴様がいなくなれば日本の治安はますます悪化するだろう。俺は正義を全うする」
「関係ない一般人を虐殺しておいて、正義だと。笑わせる」
「犠牲が必要なのだ。核兵器配備を是認する国民投票の結果を見て、俺は確信した。このままいけば、この国は亡びる。能力者によって、滅ぼされる。国民の目を覚まさせる為には、今回のような荒療治が必要なのだ」
「対策室のありもしない失態を演出することが、正義なのか? 貴様に正義はない」
「俺が何を憂慮し、何を恐れているかなんてことは、貴様には一生分からんだろうが、一応言っといてやる。いいか、俺は、この国が荒廃して最貧国に転落したとしても、何の感慨も抱かない。犯罪が急増して世界から物騒な国だと名指しされるようなことになったとしても、一向に構わん。俺は、文字通り、人類の行く末を案じているんだ」
「人類の、行く末?」
「俺の働きに人類の存亡が懸かっている」
黒黴の言葉に、四元は笑ってしまった。
「お前の病名が分かった。偏執病だよ。ありもしない妄想を真実だと思い込んでしまっているんだ」
「笑っているがいい。俺は俺が正しいことを知っている。この国の不義を正すことにより、世界は救われるのだ」
黒黴は道路に立った。後ろからやってきた車が急停車する。文句を言おうとした運転手を引き摺り出し、車を奪い取ってそのまま走り去った。
四元には何もできなかった。彼は攻撃の手段を持たなかった。仮に持っていたとしても、あの全身を黒い靄に変える人間をどうやって倒せと言うのか。
「トラッカー、聞いているか」
《はい》
「奴にマーカーは付けたか」
《もちろん。ですが、すぐに外れるでしょう。あの男はもはや人間ではない。水滴の集合体といったところです》
「部下を全員死なせた。これからは安易に奴に近付けないな。今の戦いを見ていたのだろう?」
《ええ。俺は目が良いですから。率直に言って、俺もあいつを止める方法が思いつきません。弥美の能力で溶岩の中にでも放り込みますか》
「その前に、奴と接触できるかどうかだな。躰が水滴で出来ているというのなら、まともに触れることもできないかもしれない」
《刑務官が食べるという手もあります》
「今、食べただろう。黒黴は何ともなかった。私の気分が悪くなっただけだ」
《……対策は戻ってから考えましょう。奴の仲間から聞き出せることに攻略のヒントがあるかもしれません》
「どうかな」
四元は通信を切り、囚人たちの死体を見回した。
もし、最強の編成でここに来ていたとしても、黒黴には太刀打ちできなかっただろう。
どうやって捕まえるか、ではなく、無力化するか、だ。もっと言えば、殺すことが不可能だという前提の元に考えるべきだ。どうやって奴の凶行を止めるか。どこかに閉じ込める、深海や宇宙に吹き飛ばす、説得する……、あるいは神頼み。
四元は自分の思考に笑いかけたが、あの少女は、どんな気持ちで黒黴に能力を授けたのだろうと思った。彼はいったいどんな災厄を食い止め、あれほどまでに狂ってしまったのだろう。
*
対策室を完全に撒いたと思えたのは、県境に到達してからだった。いつの間にか後部座席には銀髪の少女が座って、物憂げに外の景色を眺めていた。小雨が降り始めていた。ワイパーを動かすまでもない程度の、細かい水。
「自分を試したかった」
黒黴は自分から話し始めた。
「対策室にはとんでもない奴がいるんじゃないかと思っていた。対面したときに自分がどこまでやれるのか、試したかったんだ。だが、今日分かった。絶対に対策室は俺を捕まえることができない。殺すこともできない。どこかに閉じ込めることもできない。俺は目的を達成できるだろう。あんたも見ていたよな」
「見ていた。貴方が罪のない人々を虐殺しているところを」
少女の声には何の感情も込められていなかった。黒黴は少し慄きながらも、
「だが、あんたがやろうとしていることは、まさに人類を滅ぼすことなんだろ? 俺を責められるのか」
「それが目的というわけじゃない。結果的に、人類は生存できないだろう、というだけ」
「同じことだ。結果が同じなんだから、俺たちからしてみたら、あんたは悪魔だよ。これまで地球を襲ったどんな災厄よりも恐ろしい……」
黒黴は言った。少女は僅かに笑み、
「そうかもしれない。でも貴方は人間。私が人間を殺すのとは違う」
「同じさ……。俺はあんたという存在を知ってしまったんだから。で、どうなんだ」
「何が」
「俺の働きだよ。希望が持てたんじゃないか」
「どうして」
「どうしてって……。上手くいきそうじゃないか。対策室は犯罪者を持て余している。犯罪者はそれがたとえ能力者であっても優遇せず、適正な処罰を加えるべき。そういう論調が生まれれば、日本における能力者犯罪は減るだろう」
少女は無反応だった。黒黴はムキになった。
「日本の能力者犯罪が多いのは、どうせ罪を重ねても対策室に拾われて最終的には許されるという能力者側の打算があるからだ。政府の足元を見ているんだ。俺はそれを正すことによってあんたの言う『地球の意思』を尊重しようとしている。そうだろ?」
「そうは思わない」
「……どういう意味だよ、おい」
「人類存続の為に、この星は人間に不相応なまでに強力な力を与えた。この星は人類のことを気に入っているんだ。それが分かってなお人は人を殺す。貴方のように、理不尽な理由で」
「理不尽だって? おいおい、俺はあんたの要求に応えているつもりだぜ」
「最後にチャンスをあげる。貴方の正義を見せて。私を貴方に惚れさせてくれ」
少女は消えた。黒黴はしばらく運転に集中していたが、やがて、
「クソが! 何が気に食わないってんだ! 人間を殺すな、ってことか? 無茶言うな!」
この社会は膿がギチギチに詰まっている。何かを変えようとすれば膿と共に血が出る。死人が出る。苦しむ人が出る。傷つく人が出る。
だが、社会にもあるべき姿がある。今の姿とそれがかけ離れていた場合、多少の血を流してでも膿を出す必要があるだろう。全ての膿を出せとは言わない、ただ少し形を変える為の、必要最低限の膿を出せと言っている。
数人殺したくらいが、何だ。世界を見回してみて、これほどまでに能力者の犯罪が横行している国は他にない。将来の犯罪者が日本国民を苦しめることを考えれば、今の内に変革を促さなければ手遅れになる。
ああ、そうだ。正義の為に戦うのだ、俺は。黒黴はアクセルを踏み込んだ。




