まんなかの使徒
全15~20回予定。
少女たちは「まんなか」で眠っていた。
そこは熱く、密度の高い場所で、普通の人間ならばぺちゃんこになってしまうような、過酷な環境だった。
けれど少女の密度は「まんなか」の密度より遥かに高かった。少女たちからすれば「まんなか」を移動するのは真空の宇宙を遊泳するのと等しかった。だから気軽に寝返りを打ち、ときに遥か遠くまで響く寝言をむにゃむにゃと言うこともあった。
少女たちに課せられた使命は、眠ることだった。健やかに、すやすやと眠り続けることが、彼女らの当面の仕事だった。それで良かった。スカイダイビングの予備のパラシュートは使わないに越したことはない。防災意識が高まったときに大量に衝動買いした非常食の望ましい使い方は期限が切れたときに廃棄すること。それらと似ている。すなわち本来の役割が求められる前の彼女らは、ただ穏やかな時を過ごすばかりだった。
「私の麗しき娘、揺り籠が墓場となる宿命を負ったあなた。残念ながら目覚めのときが来た」
艶めかしい闇と突発的な光に綾取られた「まんなか」に威厳と重みのある女性の声が響く。少女たちは生まれてから一度も目覚めたことがないとは思えないほどスムーズに覚醒し、「まんなか」を見渡した。
「お呼びですか、お母様」
お母様と呼ばれた声は空間のうねりによって頷きを表現した。
「学習は済んで?」
「もちろんです、お母様。地上のことは全て把握しています」
「では、行きなさい。望ましい姿で、望ましい速度で。残された時間はそう多くないのですから」
少女たちは頷き、自ら眩い光を放ち、生まれて初めて「まんなか」から脱出した。
人間が定めた時間の感覚に躰を馴れさせ、それぞれの言語の復習を行う。一四歳相当の裸体に衣服を着せることも忘れなかった。
そして少女たちは地上に現れた。
一人は、アメリカ合衆国。メリーランド州とヴァージニア州の間。ポトマック川東部に臨むはワシントン。ペンシルヴェニア街の、ホワイトハウス前。碧眼の少女は首を傾げて警備員を困惑させた。
一人は、イングランド。テムズ川両岸に跨るはロンドン。セント・ジェームズ公園西端にある、バッキンガム宮殿。金髪白皙の少女は自分を睨む騎兵隊の軍馬に笑いかけ、たちまち手懐けてしまう。
一人は、中華人民共和国。華北平原北端、三方を山に囲まれた盆地に座するは北京。故宮博物院西側の、中南海。澄ました顔の黒髪の少女は、近くにいた男に詰問されても平然としていた。
一人は、ロシア連邦。バルダイ丘陵とカスピ海を繋ぐボルガ。その支流たるモスクワ川を跨ぐはモスクワ。政治の中心地クレムリン。凍結した川を見下ろす大人びた表情の少女は、風に吹かれても微動だにしない。
一人は、ブラジル。標高一〇〇〇mを越える高原上の計画都市、ブラジリア。整然と立ち並ぶ大統領官邸や官庁、議事堂の間に降り立った浅黒い肌をした少女は、めいいっぱいに伸びをして白い歯を零した。
一人は、エジプト。ナイル川に臨むイスラム都市カイロ。遠くにギーザのピラミッドを羨ましげに眺める少女は黒のチャドルで全身を覆っている。その赤い瞳にはより深い太陽への畏怖が秘められているかのようだ。
他にも、ヨーロッパ、北米、中南米、アフリカ、アジア、オセアニアの各都市に、少女が降り立ち、政治や宗教の要地に鋭い双眸を向けた。いずれも髪の色や瞳の色、肌の色、表情に違いはあったが、相貌はほとんど同じである。
他の少女たちから一拍遅れて、日本の皇居前に出現した少女がいた。この少女は、他の少女と、少し違った部分があった。やや背が低く、丸顔で、幼い印象があった。腰まで伸びる黒髪と、八重歯が特徴的で、近くを走る早朝ランナーにつられて、よちよちと走り始めた。サイズの合っていない白のワンピースが足首まで覆っている。
晴れた日の早朝のランニングに生き甲斐を感じている、玩具メーカー勤務の四元日向は、自分の隣を走り始めた少女に違和感を覚えた。
脚が短く、フォームも滅茶苦茶な少女が、自分の走る速度に難なくついて来れていることに納得がいかなかったのだ。四元は市民ランナーとして日本各地で催されるマラソン大会に毎月のように参加する、ランニング中毒者である。朝のちょっとした運動と言っても、半端な速度で走ってはいない。
最初は少女が無理をしているのだろうと思っていたのだが、ちょっと隣の様子を窺うと、けろりとしていた。
(なんだ、この子は……)
四元は少女に話しかけようかと思ったが、最近の日本には理不尽なことが多々起こっていて、中年男性が幼い女の子に「おはよう」と声をかけるだけで不審者扱いされることもあるという。
四元は自分が不審者に見られるような冴えない容姿をしているとは思っていなかったが、あどけない表情のまま息も切らさず結構なペースで走る少女に不気味さを感じて、じぃっと見入るのがやっとだった。おかげで並木道の真ん中で写真撮影していた外国人観光客にぶつかりそうになり、カタコトの英語で謝罪する羽目に陥った。その間、少女が素知らぬ顔で空なんか眺めていたので、温厚で子供好きの彼もイラっとした。
しかし文句を言えば本当に不審者扱いされて通報されるかもしれない。無視するのが一番だ。四元は走り出す。そして当然のように少女もついてくる。うんざりしたが、徹底無視を決め込んだ。ペースがぐんぐん上がる。しかしどれだけ速く走っても少女は難なく追従する。信じられない。やがて四元の息は切れ始め、もしかするとこの子はその世代では有名なランナーなのかもしれん、などと考えるようになった。
「あっ」
と、少女が言って立ち止まった。
四元は、そのまま走り去ってしまおうと思ったが、なまじ少女に注意を向けていただけに、ちらりと振り返ってしまった。
そして少女の引き締まった表情を見る。彼女は空の一点を凝視していた。
四元は少女の視線を追った。今日は快晴のはずだ。珍しい形の雲でも見つけたのだろうか。俺も子供の頃はそんなことが気になったっけな……。彼はしかし、そのいい加減な推測をすぐに忘れた。
空に浮かぶは、白熱する火球。
太陽よりも強く禍々しく輝く、おぞましき宇宙からの襲撃者。
轟音を伴うその巨大な隕石は、東京の街めがけて、迫ってくる。
周りにいた人間も、その圧倒的な光量に驚き、立ち止まって空を指差した。誰もその場を動こうとしなかった。奇妙な静けさが辺りを支配した。聞こえるのは耳鳴りのような、隕石が空気の塊を砕きながら進む音。それだけ。
四元の背筋に冷たいものが走る。隕石。あれが隕石か。あれが落ちたらどうなるのだろう? たぶん建物は壊れる。それで済めばいい。衝撃波でガラスとかが割れるかもしれない。怪我人が出るかも……、いや、間違いなく死人が出るだろう。隕石はこちらに向かっているようだ、見れば見るほど巨大に思える、案外大したことはないかもしれないが、だが落下地点の近くにいれば、タダでは済まないだろう。それにしても、この場所はまずいのではないか。こちらに向かって来るではないか?
四元は、ほんの数秒の間に様々なことを考えた。自分が震えていることにも気付かずに、ただ立ち尽くした。
少女は隕石を見据え、「小さいなあ」と呟いた後、伊藤のウィンドブレーカーの裾を引っ張った。
「ねえ、おじさん」
「え?」
四元は少女の存在を思い出し、自分を見つめる幼い瞳を見返した。彼はすっかりこの可憐な少女のことを忘れてしまっていた。
「おじさん、あの隕石、どうにかして」
「は!? い、いや、無理だよ。無理に決まってるだろ」
四元はこの場から逃げ出すべきだと思った。だがどこに逃げるべきか全く分からなかった。隕石はこちらに向かっている。中学時代、友人から野球に誘われて外野に入ったとき、レフトフライの目測を誤ってエラーを連発したことを思い出した。どうでもいいことだと彼自身分かっていたが、それでもその残像が脳裏に強烈に蘇り、動くに動けなくなった。
「ねえ、どうにかしてよ」
少女は四元の膝裏辺りをぽんぽんと叩く。彼は少女を蹴飛ばしたい思いだった、そして自分の本性を垣間見た思いがして罪悪感を抱いた。隕石はぐんぐん迫る。火の粉が近くに落ちた気がした。周囲の人間は漸く、悲鳴を上げて逃げ始めた。
「ねえ」
「うるさい、に、逃げるぞ」
四元は少女の手を引いて駆け出そうとした。
しかし、少女は巌のように、びくともしなかった。
四元は逆に少女に手首を掴まれて、元いた場所に引き戻された。唖然とする四元に、少女は笑顔で命じる。
「ねえ、なんとかして」
「で、できるわけないだろうが、俺に! 隕石なんて!」
四元は絶叫し、そして、数秒後に自分に直撃するであろう隕石を見上げた。蒼穹によく映えやがる、と彼は呟き、しばしその豪壮で華麗な光景に見惚れた。
隕石に見舞われていたのは、日本の皇居付近ばかりでもない。先ほど少女たちが現れた全ての場所に、巨大な隕石が一斉に飛来していた。
そして、四元のように、少女たちに隕石をどうにかしろと迫られる老若男女が存在した。
彼らは困惑したが、じきに自分にそれを可能とする力があることを自覚した。
ある者は隕石をキャッチし、宇宙に投げ返した。
ある者は巨大な衝撃波を放って隕石を粉々に解体した。
ある者は隕石の軌道を変えて海まで運び、穏やかに着水させた。
ある者は隕石を圧縮しポケットの中に入れた。
ある者は隕石を跡形もなく消し飛ばしてしまった。
ある者は隕石を綺麗に包装して巨大な箱に収めた。
そして、四元は、絶叫しながら隕石と激突した。
彼は巨大な衝撃と熱が全身を襲うのを感じ、死んだのだと確信した。
不思議なことに痛みは全くなかった。不快感もない。光に包まれ、言いようのない高揚が精神を支配する。
やがて高揚は引き、四元は自分が地面に寝そべっていることに気付いた。
慌てて起き上がり、辺りを見回す。
隕石が降ってきた痕跡は一切なかった。いつもの街並み。ざわめきが遠くに感じられる。四元は唖然とし、近くに立っている少女を見上げた。
「い、隕石は?」
四元は言いながら、吐きそうになった。胸がむかむかする。口を押さえて、衝動を堪えた。
「おじさんが消したんだよ」
「俺が? いや、そうじゃなくて、隕石が、今……」
四元は立ち上がった。少女を見下ろす。彼女はにこにこと笑み、握手を求めてきた。何のことだか分からずに応じる。
「ありがとう」
「あ、どうも……。いや、何が?」
「おじさんが地球を救ったんだよ」
「は?」
世界中を襲った隕石群と、それに対処した謎の超能力者たちの活躍については、その後すぐにありとあらゆるメディアが取り上げることとなった。その中でも、日本のウェブニュースに取り上げられたとある衝撃的な写真が、話題を呼んだ。
その写真とは、大口を開けた四元が、巨大な隕石を飲み込む場面を激写したものであった。
奇妙に捻じれ、彼の口に収まるように変形した隕石の圧倒的な迫力は、見るものをぞっとさせたが、それと同じくらい、四元の白目を剥いた不気味な顔がクローズアップされた。外国のメディアではこの写真がきっかけで、今回の隕石の襲来が宇宙人の仕業であるという論調が一定の幅を利かせることになった。
そして、当然、写真の真偽が盛んに議論されたが、その論争は長く続かなかった。
なぜなら、人間の能力を大きく超えた超能力者たちがその後も世界各地で次々と出没し、十分過ぎるほどの証拠が出揃い、ありとあらゆる反論抗論を捻じ伏せたからである。
四元日向は世界各地に出現した〈ファースト・ミューテイション〉三五名の内の一人となり、マスメディアからの激烈な取材攻勢を食らった。その後、政府の接触を受け、表舞台から姿を消した。
奇妙なことに、四元を始めとする超人たちに力を授けた少女たちのことは、全く話題に上らなかった。
もちろん、四元の頭の中には少女の顔、声、仕草などが記憶として残っていた。
だが、彼はそれを他人に話してはいけないことと考えた。なぜそう思うのかは彼も分からない。ただ、他の超能力者たちが少女の存在を話していないことは、何となく察したので、自分の直感は間違っていないと結論するに至った。
そして、三五名の英雄たちは、もう一つ、直感を共有していた。突如として人類を襲った隕石群は、これから訪れる地球の危難の幕開けを告げるものに過ぎないことを。
国家、ひいては人類の救世主として祭り上げられた彼らが、カメラの前で一様に憂いの表情を浮かべていたのは、そういう理由だったのだ。
――浮かれるのはまだ早い。我々が試されるのはこれからだ。