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夜、東京を吹き抜ける風が、七月というのに
とても涼しく感じた。
きらびやかに輝く街では人々であふれている。
まるで明かりに群がる蝶のようだった。
歩道の片隅でアクセサリーの路上販売が見える。
一組のカップルが商品を覗き込んでいた。
佐々木兎志也は、ひとつのリングを手にして店主に尋ねた。
「おじさん、これサファイアじゃないの?」
兎志也の隣にしゃがんでいる女性は微笑みながら兎志也を見ていた。
先程、食事をした時、彼女を何て呼ぼうか迷っていると、
「未由でいいよ」と言ってくれた。
20歳の兎志也が初めて体験したデートという楽しい時間は、
あっという間に過ぎていく。
その帰り道、路上販売が目に入り、
何気に立ち寄ったのだった。
兎志也は引き寄せられるようにひとつのリングを手にした。
そのリングは、瑠璃色のきれいな石がはめ込んであり、
自分の誕生石と同じだった。
「このサファイア本物?」
兎志也がまた尋ねる。
店のおじさんは白髭混じりの顎を歪めてニヤッと笑った。
「よく見つけたな。その石の中を見てみな。
いくつもの気泡が入っているだろ?
宝石としては価値が下がるんだよ」
兎志也は街のネオンにリングをかざし、
その輝きと中の気泡を確かめた。
「ホントだ。いくつも浮いてるね」
「そんな粗悪品のサファイアには、
もうひとつの呼び名があるんだ」
「何て言うの?」
「それは『夢見石』と言ってな、
不思議な力の言い伝えがあるだよ。
……聞きたいか?」
妙な話に興味をそそられた兎志也は、
身を乗り出してうなずいた。
店のおじさんも身を乗り出し、
兎志也に顔を近付けてささやいた。
「買ってくれたお客さんだけに教えているんだよ」
と、また白髭混じりの顎を歪ませてニヤッと笑った。
兎志也は思った。
多分、ここにある全ての商品に妙な話が付いているな……と。
7月4日、真夜中12時。
青井夏美は誰もいなくなった公園のベンチに座っていた。
夜空を見上げ、満月が雲に飲み込まれていくのを眺めている。
同時に走って来た闇に、公園は侵食され街灯の周りだけ世界が残った。
その光の中に、夏美の姿もあった。
髪は金髪で複数のピアスや指輪をしている。
そうやって自分を飾ることで、
誰にも知られたくない臆病な自分を隠していた。
そんな夏美の体は泥だらけで、
顔や手足には何箇所ものアザがあった。
ボロボロに傷付いた16歳の心は、
楽しかった「あの夜」を思い返していった。
あの夜……、
夏美は人里離れた渓谷に立っていた。
たくさんの見物人と目の前に広がる幻想的な光景を眺めていた。
川のせせらぎを音色に、無数の小さな光の玉が宙を舞う。
それらが川の上流から下流まで光の帯となって続いていた。
橋の上から見れば、地上の天の川に見えることだろう。
夏美の肩に光の主が止まる。
淡い光を放つ小さな蛍だった。
矢部川が流れるこの一帯は、「蛍の里」と呼ばれ観光名所になっていた。
やっと歩き始めた1歳の男の子が、
ヨロヨロとはしゃぎながら蛍を追いかける。
「危ないよ!」
そう叫ぶと夏美は、その子の後を追って抱き上げた。
「ほら、捕まえた」
と、夏美が顔を近付けた時、
その子がじゃれて夏美の唇にキスをした。
その瞬間、正面からフラッシュが光る。
その子の母親がカメラを持って微笑んでいる。
「フフ。夏美ちゃん、いいのが撮れたわ」
そう言って、母親は隣にいた夫に寄り添った。
夏美は困りながらも微笑んでいた。
腕の中の男の子も屈託のない笑みを浮かべ、
夏美を見ている。
夏美はため息混じりに、
「ファーストキスだったのに……」
その記憶は、
夏美の心の中の数少ない楽しかった思い出だった……。
『夢見石は必ず未来の結婚相手を見せてくれる』
時間は少しさかのぼり、7月1日。
朝日がまぶしい。みなさん、おはよ。
なんて気持ちのいい朝だ。通勤、通学のラッシュの中、
黒木勇太はこの時間帯で一番早い乗り物で移動していた。
勇太の乗った自転車が猛スピードで交差点を曲がる。
僕が東京に来て、この夏で4年になる。
幼い頃に両親が死んで、当たり前のように親戚をたらい回しにされ、
家が変わるたびに自分は邪魔者だと感じていた。
中学1年の夏休みの夜、
荷物を持って大阪のおばちゃんの家を抜け出した。
ヒッチハイクしたトラックは東京行きだった。
どこでもよかった。
知り合いがいない所なら……。
生意気な実の息子が高校受験をひかえていたから、
僕がいなくなって大阪のおばちゃんも喜んでいることだろう。
自転車を漕ぐ勇太の目の前に中華料理『大龍軒』が見えてきた。
主の広川源三さんが自営でやっている小さなお店だ。
勇太は裏口に自転車を置き、急いで中に入り挨拶をした。
仕込みをしていた源三さんは勇太に「おう」と、返事をする。
4年前、東京に着いた僕は、
仕事を見つけるためいろんな店に飛び込んで頭を下げた。
当然、断られ続けた。
10件目に入ったこの店でも源三さんに里へ帰れと叱られた。
しかし、もう帰る場所なんかなかった。
「失礼しました……」
僕は、か細い声を絞り出し、頭を下げて店を出た。
外はもう暗くなっていた。
そして、僕はこの先の不安と悔しさで泣いていた。
その時、ガラッと店の扉が開き、源三さんが僕を中へ呼んだ。
カウンターに一杯のラーメンが置いてあった。
そして、源三さんは僕に低い声で言った。
「それ食ったら、皿洗いから手伝え!」
住み込みで雇ってくれた。
泣いていなければ、塩辛くなかったはずだ。
でも、あの味は今でも忘れない。
世の中の冷たさと厳しさと……やさしさを知った日だった。
僕は全ての出会いは奇跡だと思っている。
あの不思議な石を知るまでは……。
商店街の脇道から細い路地へ入ると、
古いアパートが見えて来る。
その2階の一番奥が勇太の部屋だった。
長い梅雨も明けた。勇太は布団を抱え窓枠に干し、
部屋の掃除をしていた。
去年、源三さんの条件付きで念願の一人暮らしを始めた。
部屋の片隅には両親の位牌が飾ってある。
勇太は押入れから洋菓子の古い箱を取り出し、
テーブルに置いた。
中には両親と一緒に撮った写真が数枚。
その他は、母親の指輪と青い石の付いたネックレスだけ。
遺品はそれだけだった。
何度も見た写真をまた手にする。
写真の中の勇太はまだ1歳。
かすかな思い出しか残ってない。
そしてまた、あの写真で手が止まる。
両親と勇太と……、もう一人。
その人だけボヤけていて誰なのか分からなかった。
その人が勇太を抱えている写真もある。
やはりその人だけボヤけていてよく分からない。
なんとなく女の人のように思える。
その写真は四人で蛍を見に行った時のものだと、
あとで親戚の人から聞いていた。
勇太は青い石のネックレスを取り出す。
それは写真の中で父親がしていた物だった。
涙の形をしたその石を日差しにかざすと、
4つの小さな気泡が閉じ込められていた。
突然、勇太の携帯が鳴る。
表示されている名前を見て、
勇太は面倒臭そうに電話に出た。
「なんだよ。え、昼?
……いや、まだ食べてない。
……暇で悪かったなぁ。
……わかった、じゃ後でな、夏美」
喫茶店『チェリオット』の看板。
サービスランチ「ハンバーグ定食」と書かれたボードの前を
勇太が横切って店に入って行く。
同時に店内へ鈴の音が響く。
奥の席で派手な服を着た青井夏美が、
一人でメニューを見ていた。
夏美は近寄る人影に振り向くと笑顔になった。
「昼飯くらい、一人で食えるだろ?」
と言って、勇太は夏美の向かいの席へ座った。
「何言ってんの?
ご飯は賑やかに食べるものよ……って、お母さんが言ってた」
ウエイトレスが水を持って来る。
「なら、家族と食えよ。えーと、ハンバーグ定食ね」
夏美は、ピンクの爪に指輪を何個もはめた指でメニューをめくりながら、
「平日の昼間にいるわけないじゃん。
共働きなんだから。……私、タラスパとサラダ」
「はい、かしこまりました」
と、ウエイトレスはメニューを下げて戻って行く。
「ね、勇太はお盆休みどうすんの?」
「決めてないよ」
「私、お婆ちゃんの所へ行くからいないよ。
これでも色々と忙しいのよ」
と、上半身だけで盆踊りのような動きをした。
「夏祭りのバイトでもするのか?」
「違うよ。祭りに出てくださいって頼まれるの!
こう見えても田舎では有名人なんだから」
源三さんの出した条件というのは、
僕が定時制の学校に通うことだった。
すでに働いて生活しているのに、
なぜ今更勉強なんかと思ったが、
条件だったから仕方がなかった。
その学校の同級生が目の前に座っている青井夏美、16歳だ。
ひとつ年下のくせに、僕にはやけに馴れ馴れしい。
断っておくけど、僕たち付き合っていませんから。
「お前、またピアス開けたのか?」
「偉い!よく気付いたね、そういうの大事だぞ。
昨日、早苗と開けたんだ。どう、似合う?」
「イヤリングやピアスを一緒にするなんて、よく分かんねぇよ」
「勇太はアクセサリーとか付けないの?」
「興味ないね」
「そうか、生活が苦しくて買う金がないのかぁ」
「そんなこと一言も言ってないだろ!」
ウエイトレスが料理を運んで来る。
「お待たせしました。ハンバーグ定食のお客様は?」
勇太が軽く手を上げた。




