セキムラの牛丼探訪記2
前作「牛丼屋にて」後日談。よろしければそちらもどうぞ。
一か月ほど前になるか。
僕はかの有名な牛丼チェーンのとある店舗で、微妙な思いをさせられた。それで苦情の電話をかけたりしないのは、僕が争いを好まない……いや小心者だからであり、店舗をSNSに晒して誰かの職を奪ったりしないのは、自分の社会的モラルのなさを電脳世界に流布することの愚かさを……いや、あれだ、ツイートしてもフォロワーがいないからだ。そして、他のSNSで“厳選し、かつ洗練された”友人たちに、朝から牛丼屋で起きた面白くもない事件の記事をアップして“イイね”と言われても少しも面白くない。
そんなわけで、僕は店舗を変えるという姑息的な手段に打って出ようと誓ったわけだ。
僕の通勤手段は車である。
時間に間に合ってさえいれば、どのようなルートを通っても良いという反面、様々な原因で発生する渋滞という事象に巻き込まれてしまうリスクを常に抱えている。電車通勤の場合は事故や遅れによって遅延証明書なんてものが発行されるが、幹線道路の事故渋滞に巻き込まれようと、開かずの踏切前で百人を超える歩行者に追い越されようと、車通勤の人間には証明書は発行されない。
すなわち、「朝食を新たな牛丼屋で食す」という目的を達成するのは容易極まりないが、「いつもと違うルートで通勤する」ことによっていかなる不測の事態に陥ろうと、誰も助けてはくれないということだ。
僕は朝食をしっかりと食べるということを、一日仕事をする上で大変に重要な役割をもつものだと思っている。
顧客を満足させる笑顔は、売り手の充足感なしには生まれない。
これは僕なりに考えた仕事に望む際の心構えなのだが、これは、人は「共感してほしい」生物だという考えから生まれた言葉だ。
何かで悩んでいる時、落ち込んでいる時、嬉しいとき、幸せな時、人は他人に共感を求める。
「大変だったね」
「大丈夫?」
「すごいね!」
「よかったね!」
健やかなる時も、病める時も。いつも誰かに共感してほしい。
まあ、自分がそうだから他人もそうだとは言わないし、「共感? はん。俺は独りで満足できればいいぜ!」と思っている人もいるだろうから、僕のこの考えはあまり重要視してくれなくていい。
さて長たらしく持論を述べてしまったが、要するに何が言いたいのかというと「余裕がないと共感できない」ということだ。
朝、お客さんがやってくる。僕は彼らの悩みを聞いて、どうにか解決に導く仕事をしている。そのとき、自分が空腹だったらどうだろうか。
昼休みまであと三十分、しかし相手の話があと一時間は続きそうだ。ああ、腹減ったな。
などと思っている奴が、果たしてまともに人の話を聞いていられるだろうか。
そういうわけで、僕は朝ごはんをしっかり食べる。一日一食しか食べない著名人やゴボウ茶で激ヤセした医者の意見など知ったことか。しっかり食べて、ばっちり仕事をして、きちんと運動をする。それが僕の健康を維持している。
「とはいえ……眠いな」
万が一にも遅刻することがないよう、いつもより一時間早く起床した僕は、手早く身支度を済ませて車に乗り込んだ。桜も散り始めたというのに空気は冷たく、昨晩から続く雨のおかげで体感温度はさらに低い。霧状の雨を降らせ続ける灰色の空が、何となく不安を煽る。
大丈夫。問題ない。
深呼吸をして気を落ち着かせ、エンジンをスタートさせた。
スマホをいじれば牛丼チェーン店の店舗情報などいくらでも手に入る。僕は昨晩の内に通勤路のシミュレーションを終えていた。いつも使っている広い国道の、本来ならまっすぐ通過するだけの駅前交差点を右折し、五百メートルほどいったところに目指す店舗はある。駐車場も二台あるし、近隣にはコインパーキングも豊富だ。といっても土曜の朝六時だ。通行人もまばらであるし、駐車違反取り締まりの憎いあいつらもまだ布団の中だろう。食事を済ませたあとは店舗前でスイッチターンすれば、職場までの所要時間はプラス十五分程度で済むはずだ。
出発から十分。目的地に到着した。
予想通り、人通りはほとんどない。
問題はない。
車を寄せ、もう一度自分に言い聞かせて路上に足を付けた。
車から降りた途端、例の看板が目に飛び込んでくる。細かい雨粒に目を細めながら足早に店舗へ駆けこもうとすると、北風にたなびく幟旗に踊る文字が僕を捕らえた。
「鉄鍋ビビンバ定食……だと」
短い期間にもう新メニューを展開していたのか。お椀も味噌汁ではなくわかめスープとは、気が利いているにもほどがある。だが牛丼屋、今日の僕は牛丼ファンとしてやって来たのではない。前回は呆れた社畜店員にしてやられたが、今日何か粗相をしてみろ。徹底的にディスってやるからな! ……心の中で。
僕は右拳を握りしめ、新天地の扉を開けた。どうして店舗によって自動ドアだったり手動だったりするのだ。統一しろ、こんちくしょう! 大手とか言って、手を広げすぎなんだよ! と、本日一発目のディスリスペクトを発した。
「おはようございます」
そう言ってくれたのは店内で流れる会社オリジナルラジオのパーソナリティーだった。ただ新メニューなどを紹介するだけのナレーションよりは好感が持てる。しかし、「すっかり春らしくなってきましたね……」と続けられてげんなりした。外は雨だし寒い。桜もどんどん散っている。
まあ、いい。
僕は牛丼を食べに来たのであって、何でもかんでも文句を付けに来たわけではない。店内放送など個々の好みが分かれる部分には目をつぶろうじゃないか。
ところで、店員はどこだ。
店を開けているのだから不在ということはないだろう。僕は若干不安になりつつ、空いている――というか僕以外に客はいない――カウンター席に腰を落ち着けた。
すぐさま、店員がやって来た。
静かに置かれた麦茶のグラスには、豆粒程度になるまで角が取れた氷の粒が二つ浮いていた。それらがぶつかり合う音すら聞こえない。慌てて飛んできたのか店員の息遣いが妙に大きく聞こえる。
恐る恐る見上げた僕は、はっとした。
おお、同朋とここで相まみえるとは。
出されたグラスの様子と歓待の言葉がないことから、海を越えてやって来た異国の労働者さんの姿がリフレインしていた僕は、名札に書かれた苗字を見て思った。いや、けして異国の労働者さんたちを信用していないわけではない。僕には前回のトラウマがある。労働力の確保が難しい金曜の深夜帯勤務となれば、と思っていたので、彼が同朋であったことに驚いただけだ。
僕の目の前に、威圧感たっぷりで立ちはだかる店員――仮に田中さんとしよう。
田中さんが身体を小刻みに揺すり始めた。
店内には牛丼屋のテーマソングなのだろうか、牛丼が好きだから一緒に食べよう的な、意味不明のポップスが流れている。田中さんのリズム感覚にまで難癖をつけるつもりはないが、まったく音楽に合っていない。
僕がメニューを見るふりをして観察していると、田中さんの口の辺りから小鳥のさえずりのような音声が発せられた。せっかくこのような文章を書いているのだから、それをどうにか文字で表すことはできないだろうか。僕なりに一生懸命考察した結果を以下に記す。
「……ちっ」
これだ。口中で舌先を口蓋に密着させ、勢いよく離すことで生じる音。それは時として、言葉や表情を用いることなく、ストレートに感情を表現できるあれだ。「舌打ち」だ。
なるほど、早く注文しろということか。
この牛丼チェーン店のマニュアルは、とことん無駄を省いていることで有名だからな。そもそも「ご注文は?」と発声するためには大きく息を吸い込み、呼気に合わせて声帯を振動させる必要がある。さらには舌を絶妙なタイミングで動かし、口唇と頬の筋肉を総動員して口腔の形を適切に整えなければならないのだ。そこに極上の微笑みまで加えるとなると、顔面の表情筋が大運動会を催すことになる。ここまで考察が至れば、田中さんが無表情で不愛想なのも合点がいく。ファミリーレストランなどに入店した際に「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えられ、挙句の果てに「○○名様ですか?」などと尋ねるのはエネルギーの無駄というものだろう。百人越えの団体が来店したわけではあるまいし、一見してわかるだろうが、ということだ。彼が就職した会社はとてもとても燃費のいい労働者を育て上げている。まったくあっぱれである。
僕は入店する際の意気を根こそぎ失い、牛丼屋ディスリスペクターとなりかけていた自分を恥じた。
こうなったらもう、田中さんが二度目の舌打ちをしたことなど意に介している場合ではない、急いで注文あるのみだ。寒い朝だったし、新メニューの石焼なんちゃらや、すき鍋定食といきたいところだが、他に客もいないのに急いでいるらしい田中さんに配慮して、注文を決めた。
「牛丼の中盛り、健康セットで」
「…………」
無言。色っぽくない。
省エネ無表情の田中さんは端末をポチポチやりながら厨房へ向かった。まさか……その手にはめたままのビニール手袋で調理する気じゃあるまいな。
兵法には陣を敷く前の下調べが大事だと書かれているそうだ。僕は自分が厨房の内部を観察できる位置に座らなかったことを激しく後悔した。これでは、田中さんがビニール手袋をはめたまま、操作し終えた端末を紺色のズボンの尻ポケットに突っ込み、その後どうするのかを見届けることができない。
そうか、あの端末は個人用ということはあるまい。店員の皆さんで使いまわしているに決まっている。田中さんはきっと、潔癖症なんだ。何を触るにしても手袋をはめていないと、不潔に思えて仕方がない。そんな心の病を患っている人がいると、テレビ番組で見た覚えがある。
なるほどなあ。
僕は田中さんがこの会社を選んだ理由が分かってしまった。
飲食店を経営する人が、何より気を付けるべきなのは衛生管理だ。どんなに味が良かろうと、食中毒を出してしまったらその店が被るダメージは計り知れない。ただでさえブラック企業なんて呼び声の高いここなら猶更だろう。田中さんもきっと、この会社の徹底した衛生管理体制に惚れ込んで就職したに違いない。何しろそういうところでは、手袋は使い捨てが当たり前。何枚使っても怒られることなどないだろうからな。ないよな?
「お待たせしました」
ほどなくして、注文通りの品が運ばれてきた。
待ってない。
全然待ってないよ、田中さん! 僕の様な勘違い野郎のために、あなたの咽頭、喉頭周囲の筋肉を動かして発声してくれてありがとう! もしそこに料金が発生するなら喜んで払うよ! その手袋、取り替えたやつだよね? そうだよね?
「…………」
歓喜に震える僕の眼差しを背中で受け止めて、田中さんは厨房の方へ姿を消した。歓喜と言えば、僕はさっきまで関東上空に流れ込んできた寒気に震えていた。そうか、氷がほぼ溶けてぬるくなった麦茶ですら、彼の提供するサービスの一環だったのだ。曇っているのは空ではなく、僕の目の方だった。
とりあえず、手袋が触れた可能性のある冷奴の上のネギとショウガを避けた。丼と汁椀には、口を付けないで食べればいい。卵を混ぜてしまうと牛丼は飲み物と化してしまう。余計なオプションを付けなかったことが幸いした。だがまあ、万全を期すために、ここはスプーンを――目の前のスプーン立てには、大量に入っているはずのスプーンが一本もなかった。まあ、隣から取ればいい話だ。この程度のハプニングは早朝の牛丼屋ではよくあること。田中さんは忙しいのだ。
牛丼屋での食事時間は短い。
刹那の時間に感じられた、企業魂と店員の抱えるドラマに感動を禁じ得ない。多忙を極める彼に迷惑をかけたくない一心で、実はスプーンだと食べにくい牛丼を異に流し込んだ。
「ごちそうさまでした」
静かに席を立ち、すでにレジ前で待機していた田中さんに伝票を差し出した。
びしょびしょの手でお釣りを渡してくる田中さんと目を合わせないようにして、僕は踵を返した。
出口の扉を開けようとしたとき、そこに初老の男性が立っていることに気づいた。寒空の下に立つ彼をいち早く入店させるために扉を開いて場所を空けた。男性が黙礼して入店し、僕が店を後にしようとしたその時だった。
「いらっしゃーい! 今日は早いっすね!」
「たまにはねぇ。じゃ、いつものやつで」
「はーい! 少々お待ちください!」
今度から、松か吉に行こう。
いつの間にか、雨は上がっていた。