ギャップ
彼女が僕の目の前に幽霊として現れてから一週間経った。とりあえず死んだはずの彼女との奇妙な共同生活にも慣れつつある。彼女の現れる時は朝に僕を起こしてくれる時以外は不定期で、普段は見えることはないのだが、ほんのふとした瞬間に現れては僕を脅かせる。さらに触れると消えてしまう。ちなみに彼女は僕以外に見えない。
「そもそも恵は成仏したんじゃないのかよ」
「うーんなんでかな」なんでだろうねと小首を傾げる恵。
「で、話を戻すけど」
「ん?」
「僕はなにをすればいいの? ていうか君の願いってなんだよ」
「……」
少し間が空く。
「それは、秘密」そういうと彼女はニコっと笑った。
本当になんだよ。もうまともに考えるのがバカらしくなってきた。
彼女が現れてもう二週間になる。最初のころは彼女の存在そのものが信じられなかったが、今では違和感なく生活をこなしてしまっている自分がいて怖い。いつの間にかこの異常事態になれてしまった。仕事から来るストレスがこの幻覚を見せるのかそれとも心の深い、いわゆる深層心理で僕は彼女のことを引きずっているからついに夢と現実に区別がつかなくなったのか。どちらにせよ不思議体験、そうそうこんな奇妙な人生を送れる人間はいないだろう。
そんなことを考えながら僕は給湯室でコーヒーカップを洗っていた。自分で飲んだカップは自分で洗うのが鉄則だ。雑用をこなすのが案外好きだ。なんだか落ち着く。
「五十嵐さん」
「ひゃい!」そんな時に後ろから不意に名前を呼ばれて少し驚き変な声が出る。振り向くとさやなさんがいた。
「これ、頼まれていた資料」彼女はそんな僕も気を知ってか知らずか相変わらず落ち着き払って様子で資料を渡してくる。
「ありがと――」
「それとこれ。頼まれてはなかったんだけど、関連した資料まとめておいたから」
「うわ、本当に?」受け取った資料をパラパラっと軽く目を通す。
「ありがとう、助かります」
「うん、頑張ってね」そういってさやなさんは踵を返す。「あ、そうそう」
「ん?」
「冬馬君さ、出張から帰ってきたらヒマ?」
「え、予定はないけど」
「そうなんだ、じゃあさ、飲みに行かない?」
「え、いいですけど」
「んじゃ、決まりねー。なんか適当にいいとこ取っておいてよ」さやなさんはニコッと笑うとその場を後にした。
彼女は橘さやなさん、僕とは同期。口数少ないし見た目もキツそうだが、たまたま入社式で隣だったこともあって今でも少しは話する仲であった。それでも正直、ビックリした。まさかサシで飲みに誘われるなんて思わなかった。それにしれっと冬馬君って呼んだような……まぁいいや。
「あの人、カッコいいよね」
「うわ」不意に後ろから恵の声がして思わず仰け反る。「急に出てくるなよ……ビックリするだろ」
「てへ、そんなことよりあの人カッコイイなぁ。なんていうかキャリアウーマン?」舌をペロッと出しておどける恵。
「キャリアウーマン……だろうね。企画部若手のエースらしいし」
「はぁ、カッコイイねぇ、憧れちゃうな私も」
「柄じゃないでしょ」と突っ込むも彼女の耳には入っていないのか反応なくただ彼女は宙を見ていた。その目はキラキラと輝いている。本当に恵はなんにでも影響されやすい、生前から精神年齢は幼いとは思っていたが死んでも相変わらずのようだ。とりあえず傍から見ていると僕が延々と一人漫才を繰り広げいてるように見られるのが嫌なので彼女を消すことにした。
「分かったから、今は引っ込んでて」恵の肩に手を伸ばす。
「あ、冬馬くん、ズルい――」
恵がなにか言いたげだったが、そんなことをお構いなしに消した。本当に神出鬼没で困る。
あれから一週間の出張を終えて、今は待ち合わせ場所の喫茶店でいる。正直、出張を終えて自宅に戻ってゆっくりする間もなく身支度をして出てきたのでなんだか眠たくなってきた。きっと疲れが出ているんだろう。しかし営業部は出張の次の日は代休となっているので、今日は多少無理しても大丈夫だ。悪酔い防止用のウコンのエキスドリンクは既にのであって準備もバッチリである。もっとも会社の同僚と、まして女性とサシで飲みに行くのだから無理も何もないのだけれど。
「待った?」喫茶店の落ち着いたジャズのBGMと回りの話し声が混ざって意識からだんだん遠のき始めた時、さやなさん店に入ってくるのが見えた。今日は平日で彼女も仕事だったはずなのに、一度家に帰ったのかスーツではなくオシャレ着に身を包んでいた。それに普段は眼鏡をかけて理知的な感じを出しているのに、それすら外して、スッとした端正な顔立ちをさらけ出している。その姿に僕は少し動揺した、眠気などどこかに吹っ飛んで行ってしまった。そして綺麗だと思った。
「いや、さっき来たとこだよ」僕は動揺を隠すように立ち上がって少し伸びをする。
「なら良かった、出張お疲れ様」
「ありがとう」
「さっそくだけど、行っちゃう? 私、お腹減ってるんだよね」
僕たちは喫茶店を後して居酒屋に向かう。この居酒屋は巌に教えてもらった居酒屋で、隠れ家的な雰囲気の店内が女の子に受けが良いらしい。
道中の談笑を交わす中で「大したことない場所だから、期待しないでね」と予防線を張っておいたのだが、むしろそれは逆効果だったみたいで「なんか、そんなこと言われると逆に期待しちゃうな」なんてさやなさんは頬を緩ませいた。
例の居酒屋についてからの彼女は「へぇー」とか「うんうん」とか居酒屋を見渡して楽しんでいるようだった。とりあえず雰囲気は合格なようだ。
食べ物はサラダから始まって揚げ物中心に頼んだ。道中、「いっぱい飲むぞ!」と豪語していた彼女に対するリスペクトだ、お酒が進むようなモノを中心に頼んだ。先に運ばれてきた中ジョッキに入った生ビールをもって乾杯する。「じゃ、改めて……出張お疲れ様!」
「お疲れさまー」彼女の音頭に合わせてジョッキがぶつかり合い音を鳴らす。はたから見ると色気の全く感じさせない二人っきりの飲み会が始まった。
時計を見ると十一時を指していた、つまり二時間以上この店でいたことになる。本当に二人でよく飲んだ。会社の愚痴、趣味の話に恋愛話、本当に下らない話を肴に酒がグイグイと進んだ。
普段は理性的で理知的、キャリアウーマンというかデキル女という雰囲気を醸し出している彼女だったが、いざ飲んでみると生ビールを片手にフランクに話をしてくれた。そのギャップに驚かされた。本当に人とは分からないものだ。
というよりそろそろ酔いが回っている。さっきトイレへ立ったときはふらついたし、そもそもいま視界がグルグル回っている気がする。頭を上げるのがしんどいので、彼女の話すことをふんふん頷きながらずっと首を垂れている。
「――でさーって、冬馬君? 大丈夫?」
「うい、だいじょうぶッス」大丈夫じゃない。
「あーゴメンね。私、昔っから飲み始めたら自分のことばっかだから……外出よっか」
さやなさんはそういうと僕の肩をポンポンと軽く叩く。それに呼応するように僕も立ち上がったが、足がふらつき思わず転びそうになる。そんな僕を見かねてか彼女は僕の腕を自分の肩にかけ、レジカウンターまで向かう。我ながら情けない。
会計を済ませて街へ出る。ちょっと酔いがさめてきて、なんとか自分の足で立てるようになった。上を見ると光るネオンにかき消されて、星の見えない夜空が見える。
「冬馬君さ」じっと彼女がこっちを見つめる。
ん?
「好きだよ、良かったら付き合ってみない?」
「……え」突然の告白に僕はビックリする。赤らんだ頬を緩ませ、スッと切れ長の瞳を潤ませながらじっとこちらを見続けるさやなさん。鼓動が早くなる。頭に血が上り、顔が熱くなるのが分かる。酒との相乗効果でなんだか目の前がボゥっとしてきた。
二人の間に数秒ほど沈黙が広がる。するとさやなさんはなんだか堪えきれないといった感じに吹き出す。「ン、フ、フフフ……ビックリした?」
「え、えぇ!?」ビ、ビックリした? どうゆうことだ??
「私さ、こう見えて悪戯好きなんだよね」機嫌よくニコニコと笑っている。
「い、悪戯!?」にしては趣味の悪い悪戯だ。
「そう! ビックリした?」彼女の笑みが妙に幼くて可愛い。赤く染まった頬がさらにそうさせる。
「も、もちろん」
「なら、成功ね」控えめにスッと顔の前でピースを作る。「ね、今日は楽しかった?」
「なんか今日はさやなさんの意外な姿が見えて楽しかった」
「本当? そんなこと言われると嬉しいな」
「じゃまた、冬馬君。次は仕事場で」そういうと彼女は手を振りながら去って行った。