第三話 ジェイルハウスのロックなあの子
入学式が始まるまでの時間、流奈は隣の席にいる比曽に、世間話のような気軽さで訊く。
「種藤会長って、何か部活動とかに入ってる?」
「ん? んー。陸上部に入ってるっすよ。全国大会に出れるほどじゃないけど、成績は悪くない。むしろ優秀って感じだったはずっす」
「春休み中に活動とかあったりするの? 陸上部って」
「あ。追っかけする気っすか。その体躯で」
身長のことに関する話題は好きじゃない。流奈が苦虫を噛み潰したような顔になると、比曽は愉快そうに笑い声をあげる。
「ははは。悪かったっすよ。でもそうっすね。春休み中もバッチリ予定は入ってたはずっす。あ、でも種藤先輩の予定の場合はちょっと特殊っすね」
「特殊?」
「知っての通り、彼女は生徒会長っす。今年一年は全校生徒の代表にして、教師間では最も発言力のある存在っす。で、この学園の生徒会っていうのは春休みや夏休み、冬休みに至るまで活動があるんすよ」
「へえ」
それは難儀なことだ。他の学園の生徒会では、流石に長期休み中に活動をしたりはしない。そもそも生徒の代表が、生徒の集まらない長期休み中に活動できる余地がないからだ。
「活動内容はちょっとしたタスク処理……あ、修学旅行先の予定の決定やら、学園内の清掃やらとからしいんすけどぉ、中々に骨が折れるって種藤先輩は言ってたっす。当然っすよねぇ。陸上部の活動が終わった後、どうしても生徒会室に向かわなきゃいけないんだから。まさに察するに余りあるってヤツっすよ」
「ふーん。あの人なら何となく、全部そつなくこなせそうだけど」
勝手な期待だという自覚はあるが、生徒会長という役職と、年の割りに大人びた物腰のせいでどうしてもそんな錯覚を起こしてしまう。
比曽もそんな流奈に共感してまた笑った。
「あっはは。まあ誰だってそう思うっすよねぇ。アタシもそう思うっすもん。全国模試じゃあ確実にトップクラスの実力で上位に入るし、たまに体育の授業で走っている種藤先輩を見ると、流麗すぎて惚れ惚れしちゃうくらいっす。才色兼備とは彼女のためにある言葉なんだろうなって一切の淀みなく言えるっすよ」
「……」
――さっさと眼鏡を直さなきゃ。
走る美人の想像をした流奈は、心の底からそう思った。
「そうだ。生徒会の人数と、陸上部の人数はそれぞれ何人くらい?」
「はにゃ? 変な質問。まあいいや、どっちも知ってるし」
流石にこれは知らない方が自然だろうなと高を括っていたので、流奈は舌を巻いた。
「もしかしてキミも陸上部なの?」
「いんや。でも所属している部活の関係で、それぞれどちらのグループの情報にも詳しいってところはあってるっす」
「部活?」
「アタシのことは後にして、今は陸上部と生徒会の人数のことっすよね。それぞれ種藤先輩を入れて、陸上部が十八人、生徒会が四人だったはずっすよ。ちなみにどちらも男性のが多数っす。生徒会に関して言えば、種藤先輩が紅一点っすね」
「……ふーん。なるほど」
「……」
言い終えて、何かを思案する流奈を見た比曽はハッとする。
――なんでアタシは、喋らなくていいことを逐一この男に話し込んだんだ?
目の前の少年は間違いなく、比曽とは初対面のはずだ。だが何かが引っかかる。ここで会う前から、比曽は流奈を知っている気がする。いや、一方的に比曽は流奈のことをどこかで見ているような気がしてならない。
「……そういえば流奈っち。御手前の苗字は?」
我ながら何故こんな質問をしたのかわからないが、口を突いて出てきたのはそんな質問だった。『どこかで会ったことがないか』とかの方がわかり易いだろうに。
しかし、その質問をぶつけられた流奈は大きく肩を震わせ、目を泳がせ始める。
「……そ、その質問はちょっと答えかねるというか何と言うか……」
「は?」
「ど、どうでもいいじゃん、そんなこと!! どうせ明日にわかるって!」
「……」
――余程変な苗字なのかー。
そういうことで比曽は納得した。
流奈の方はというと、必死に話題をどの方向に変えるかということに、脳細胞を総動員させていた。そして、一つだけ思い当たる。まだ聞いていないことも聞けて一石二鳥なので、流奈は比曽に向き直った。
「あの。比曽さん。ペンとか持ってない?」
「ペン? サインペンなら常備してるっすよ」
「ちょっと貸してくれないかな」
「ほい」
何の疑問も持たずに、比曽はサインペンを流奈に貸す。流奈はそれを手に取って、ペンを出し、案内用パンフレットにある図を描き始めた。
目が見えないというのに実に器用にすらすら書くものだと見惚れていると、図面は明らかに未完成だと認識できるようなところでペンが止まった。
「できた。ねえ。この図面に見覚えはない?」
「……何すか、コレ」
そこに描かれていたのは、ミミズが集まって形成したミステリーサークルのような不可解な形の妙な図だ。
「靴跡なんだ。僕の眼鏡を踏んだ人が履いてた靴の」
「ああ。なるほど。部分的にしか書かれていないから何事かと」
靴跡だと思って見てみると、確かにそれは靴跡にしか見えなくなった。
だが、世の中に靴なんていくらでもある。その中の図の一つが誰かの脳に残っていることなどありえないだろうな、と比曽は思いつつも図面を凝視する。
「……?」
何か妙だ、というのが、しばらく見て出た感想だった。
「……あれ。何だろう。おかしいな。この靴跡、どこかで見たことがあるような」
「わかった。ありがとう」
それだけ聞いた流奈は笑顔でパンフレットを閉じた。
「え? それだけ?」
「うん。それだけ」
「……んー?」
一体今の質問にどれだけの意味があったのだろうと比曽は頭を捻る。
「……そういえば、アタシがエスカレーター式にこの学園に来た人だってこと、自然に察してるっすよね。直接的に言った覚えはないんすけど」
「うん。この学園に来たばかりなら、生徒会長の噂や評判なんてわからないじゃない。だから、何となくね。仮に学園の外に噂が漏れるような美人でも、比曽さん頭が良さそうだし、確定した情報でない限りは無闇やたらと人に話さないだろうなって」
「ふむ」
本当に喋りすぎたかもしれないと、比曽は心の中で自分を戒めた。
「……そうだ。最後にもう一つ」
「何すか?」
「僕の上履き、汚れてない?」
「へ」
そんなことまで言わなければわからないのか、と比曽は唖然とする。だが訊かれた以上は答えないわけにはいくまい。
「いや。特に汚れてないっすよ。流奈っち新入生っすよね。この学園での必需品は、制服から何から何まで新品同然じゃないっすか」
「……そう」
と、目を伏せて逡巡したあと、流奈は立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ行こう。誘導よろしくお願い」
「まだ入学式、始まってすらいないんすけど」
「入学式の、生徒会長の挨拶は聞くよ。体育館の傍でね。そのために上級生の彼女はこの学校にいるんでしょう?」
「……あの人が上級生って言ったっけな」
「先輩って呼んでた」
無意識とはげに恐ろしきものなり、なんて言葉が比曽の頭をよぎる。
口は災いの元、という言葉と仲良しこよしと手を繋ぎながら。
―――――――――――――――――
体育館の外、教員にも生徒たちにも見つからない目立たない場所で、生徒会長のスピーチを聞いてから、二人は行動を開始する。
――妙にアタシの気を引く、この男は一体何者なのだろう。
比曽の関心ごとは基本それだけだったが、この近視の少年と行動を共にする理由はそれだけで十分だった。
そもそも彼女は高校に入るときに一切の努力をしていない。故に入学式が別段、特別な行事というわけではないのだ。
「……ねえ。生徒会長と仲良しなの?」
「!」
とある場所に向かう途中、ブレザーの裾を引っ張って歩く流奈は、唐突にそんなことを言い出した。比曽は心情を悟られないよう、できる限り平坦な声で聞き返す。
「……はい?」
「だってさ。生徒会長が僕をわざわざ女の子の傍に座らせるなんて。普通なら気を利かせて男の子の隣に座らせるんじゃないかな」
「……」
何をどう言って誤魔化そう、という考えを打ち切るように流奈は続ける。
「たとえば比曽さんが種藤会長の信用を買っているのなら、僕がキミの隣に座らせられたのにも納得がいくんだけど」
「……」
ついさっき生徒会長を褒めちぎった手前『先輩は結構無神経な部分があるから』なんて言い訳を使うのは得策じゃない。ここはこれ以上の不信を得る前に、あえて肯定した方がよさそうだと判断する。
「実はそうなんすよー。種藤先輩には昔から目をかけてもらっててー。ほら、その、なんだ。アタシって実は結構先生とかに睨まれたりする問題を起こしたりするものだから、あの……」
「ああ。典型的な不良娘と生徒会長のカップリングか。多いけど、それって王道ってことの裏返しだよね。僕も好きだよ」
「物申す!! よりにもよってそんな勘違いしないでよ!!」
比曽と種藤の関係の中に友情はあっても恋情はない。流奈が比曽のことを男性だと勘違いしているのなら今の世迷言も見逃せたが、実のところ比曽も種藤も女性だ。そのことを流奈自身も間違いなく認識していた上での発言なのだから見逃せるはずがない。
「え。何? 百合趣味? 百合趣味なの? 可愛い顔してめくるめくリリィスワールドがお好きなの?」
「特にそんなことはないと思うけど」
「あ、ああ。そう。本当にやめてよね。あの人に恋愛感情持ってるって噂が立ったらアタシ、この学園で生きていけないっすから」
「……ちょっと言い過ぎじゃあ」
「いいや! 生きていけないっす! 種藤先輩はいいんだけど、他の生徒会メンバーは私を目の敵にしてるっすから!!」
――彼女は一体何をしたんだろう……。
掴んでいる裾から流奈の手へ、わずかな振動が伝わってくる。想像するだけで寒気がするくらい、彼女は生徒会が苦手らしい。
「……さて。着いたっすけど……」
目的地に着いた比曽の声色は晴れないものだった。いくら種藤の頼みだったとはいえ、やっぱりここまで彼に世話を焼くことはなかったかもしれないと今更ながら後悔する。
「……どうして陸上部の部室に? しかも女子の」
校舎の外れ。グラウンドの近くにポツンと建っている運動部棟。
そこには陸上部だけでなく、柔道部、ラクロス部、サッカー部などなど、様々な部室がある。
二人が立っているのは、その中の部室の一つである女子陸上部部室の前だ。
「ちょっと調べたいことがあってさ。先輩たちってまだ教室移動は終わってないよね?」
「教室移動?」
彼が言っているのが、進級に伴う教室移動だとしばらくわからなかった。
確かに一年の生徒は二年の教室へ、二年の生徒は三年の教室へと移る。だけどそれを、目の前の新入生が何故気にしているのかがわからなかった。
「……?」
「終わってないんだよね?」
「え? あ。はい。まあ旧一年生は、一年の教室から完全に撤退しているはずっすけど、二年の教室にはまだ入ってないはずっすね。旧二年も同様っす」
「じゃあここでしかありえないな」
「……!!」
その一言で全てを察した。
「……まさか。盗まれた自分の財布がここにあるって?」
「ザッツライ。やっぱ察しがいいね」
当然のように鍵のかかった部室のドアに手をかけ、ガタガタと音を立てているバカな新入生を睨み、比曽は溜息を吐く。
「……いいっすか。一つだけ」
「どうぞ」
「あのね。時系列を整理していいっすか?」
「時系列?」
流奈は手探りで鍵穴の位置を確認し、後ろに控えている比曽に一瞥もくれない。だが耳だけは傾けていた。比曽は指を一つずつ降りながら丁寧に、事件を振り返る。
「駅を出て、後ろからドンッと突き飛ばされた。このときに流奈っちの眼鏡が外れる。で、次に財布をすられた。次にべきり、という音がした。このときに眼鏡が壊れたんでしょ?」
「うん。概ねあってる。てか全部あってる」
「で。このときに眼鏡が外れてなくって、財布をすった人物がバッチリ見えていて、その人が宿曜の制服を着ていたのならまだわかるっす。すげーよくわかるっす。でも実際はそうじゃないっしょ? 流奈っちの視力が全くないっていうのを信じるなら、このとき御手前は犯人の姿がまったく見えなかったはずっす」
「……」
鍵穴に顔を近づけている流奈は何も言わない。だから何? と背中で語っているように見える。
「つまり、この時点で犯人はあらゆる意味で限定されていない。サラリーマンかもしれないし、性格の悪い主婦かもしれないし、子供か大人か、女か男かすらも判然としていない。その状況で、何でよりにもよって陸上部の人間を疑うんすか? いや、ていうかこの場合、流奈っちが疑っているのはどう考えても……」
「うん。種藤会長だね」
「……はーあ。バカみたいっす。よりにもよって、何でこんなバカに種藤先輩が付き纏われなきゃいけないんだろう」
露骨に、流奈にもわかるくらい落胆した声で比曽は牽制する。だが流奈はそれでも慌てたり、怒ったりはしなかった。
「靴跡」
「ん?」
「さっき見せたよね。靴跡」
「……ああ、あれ? でも、あれだって犯人が踏んだものかどうか」
「確かに確証はない。でもさ。どう考えても、あの場には絶対存在しない靴跡だったんだもの。どうしても疑っちゃうんだよね」
「……?」
「自分の靴の裏、見てみなよ」
「……」
しばらく目を丸くしていた比曽は、その言葉の意味を考える。そしてすぐに、とある記憶に思い至った。流奈が見せたあの靴跡の正体。自分たちが頻繁的に見ているような靴。
「あっ!! 宿曜学園の上履き!!」
「正解。そして実に奇妙だ。僕が財布をすられたのは、屋外どころか学外。そんな場所を上履きで歩く人間って時点で、その人物の正体はある程度限定されてる」
「この学園にいる誰か? いや、靴跡を調べてサイズを比べれば、もっと被疑者を限定できるはず」
「ん。んー。でも今日中に事件を解決したいからなぁ。それと、僕が言いたいことはそうじゃないんだよね」
「は?」
含蓄のある言い方。今度こそ流奈の言いたいことがわからない比曽は追及する。
「……どういうことっすか?」
「上履きで外を歩く人間がどんな人間なのか。ちょっと考えればわかるんじゃない?」
「……はて?」
「うーん……あんまりピンと来ない、か。比曽さん明るいからなぁ」
困ったように流奈は頭を掻く。鍵穴を覗くのを中断し、流奈は立ち上がって、比曽の顔の方を見る。
「靴を隠されたいじめられっ子」
「!」
「しかも人のモノを盗むくらい追い詰められている、かなり重度のね」
「!!」
比曽は驚きすぎて窒息しそうになった。次に目の奥に鈍い痛みが走る。
脳裏に浮かぶのは、この学園のみんなから尊敬されている眉目秀麗の生徒会長の笑顔。
「ちょ、ちょ、ちょ……何!? 何言ってんすか!! まさか種藤先輩が、そんな!!」
「それを確認しに来たんだよ。まあ違ったら違ったらでいいんだって」
ガラリ、と流奈は女子陸上部のドアを開けた。
「さ。入ろうか」
「いや待てって言ってるでしょうがァ!!」
話が進み過ぎて付いて行けなくなった比曽はついに叫び声をあげる。
「ええっ!? 陸上部の部室、さっきまで鍵閉まってなかったっけ!?」
「え? そうだった? いや最初から閉まってなかったよ」
カチャリ。
しらばっくれる流奈の袖から落ちたのは、ガタガタに折れ曲がった針金のような何かだった。
「あ」
目の見えない流奈はしゃがみこみ、蠅が止まるような遅い動作で針金を探し始める。しばらくして針金を見つけると、彼は比曽の目など意に介せず、それをまた袖にしまった。
「……入ろう?」
その様を呆然と見ていた比曽は心の中でシャウトする。
――こっ、コイツやりおったーーーッ!!