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第二話 バタフライとエフェクトと探偵の弟

探偵業法、という法律がある。


本来探偵という職業に特別な資格など必要がないのだが、近年『探偵』を騙って詐欺紛いの悪事を働く不心得者や、違法な手段を使って情報をかき集める犯罪者が増えてきたため設立された法律だ。


要は、許可なく探偵業を営んではいけません、という法律で、これを破った者には少なくない罰金、あるいは短くない懲役刑が待っていることもある。


もちろん、恋島留乃も探偵を名乗っている以上、きちんと行政の許可は取っている。が、事務所を持つ金銭的余裕はない。そのため、行政に提出した営業所の住所は自宅となっている。


探偵業をきちんと合法的に行っていることを証明する『探偵業届出証明書』も、キチンとリビングルームの壁にたてかけてあった。


「……けほっ」


世田谷区のとある坂道に建っている一軒家に入り、迷うことなくリビングのドアを開けた奈津上は顔を顰め、咳をする。


そのリビングはダイニングキッチンが備えられていて、それに背を向けるような形で設置されているソファから、煙草の煙がもくもくと上がっていた。


「朝っぱらから体に悪いことするんじゃねぇ。早死にするぞ」

「いいのよぅ」


ソファに歩み寄って、背もたれに隠れて見えなかった発生源の姿を確認する。


どうせ長すぎる髪に邪魔されて本体は見えないだろうな、と思っていたのだが、彼女の髪はほとんど背中の方へと流れていた。


横向きにソファに寝転がっている留乃は、死んだ魚のようなどんよりと曇った目を湛え、片手には紫煙をくゆらす煙草が握られている。


このままだと寝煙草をしかねないんじゃないか、と少し心配になるくらい、彼女はソファに沈みこんでいた。


「聞くまでもないが、勘違いしてたら恥ずかしいから一応訊くぞ。どうした」

「流奈の入学式の日付になったことを忘れてた。以上」

「……やっぱ訊くまでもなかったな」


今朝リビングで繰り広げられたやりとりは、大した証拠がなくとも簡単に予測が付く。


弟を愛してやまない留乃は今すぐスーツを直すと豪語し、裁縫に取りかかったものの、弟の一言でバッサリ切り捨てられてしまったのだろう。


流奈は好意的な甘い言葉にも、悪意や害意の籠った毒々しい言葉にも、思いやりや遠慮や意地などの添加物を加えない。


――姉さんも自立しなよ。いつまで弟に依存した生活を送ってるのさ。そんなんだから警察関係者に『茶色スライム』とか渾名付けられるんだよ。ていうか茶色スライムって何? 下痢便? 臭っ。


と、言った感じのことを言われたのは想像に難くない。


ちなみに奈津上の知る限り、彼女のことを茶色スライムと呼んでいるのは奈津上本人だけだ。


「どーせ、私のスーツの修繕まだ終わってないしぃ。傷を縫い合わせるのに結構時間かかるのよ、アレ。修繕が終わるころには、もう流奈は学校で友達を作っているころでしょうねぇ」


留乃にしては珍しく凹んでいるな、と奈津上は感心する。しかしそれと同時に、煙草の煙が耐え難くなってくる。


彼が最も嫌いなものは煙草の煙と苦い食べ物だ。特に煙草の煙は、長く吸っていると強い吐き気を催す程に嫌いだ。


「おい! それより吸うのをやめろ! 頭が痛くなってくる!」

「いやよー。今の私から煙草を取り上げたら、煙すら生産できないただのチャドクガですものー」

「お前はチャドクガでも十分魅力的だ。だからさっさと普通のチャドクガに戻ってくれ」

「……十点ねぇ。口説きのテクニック。顔の割にあんまりモテてないのかしら」

「……」

「ん? あれ。何? どうしたのそんな怖い顔して――」


奈津上は留乃の寝転がっているソファを、彼女ごと抱え上げ、今にも投げそうなフォームへと移行する。


「ごめんごめんごめん!! お願いだからそのまま投げるのはやめて! 火のついたタバコを持ったまま投げられるのはマジ危ないから!!」

「安心しろ。お前の肌に根性焼きが刻まれても、俺とお前の絆は永遠だ。さあ今の口説きテクニックはどうだった?」

「百点百点!! なんならキスもおまけしてあげたいくらい!!」

「抜かせ。お前のヤニ臭いキスなんざ御免だよ」

心行くまで懲らしめることができたのだろう。奈津上はソファをゆっくり降ろす。

「あー、もう。ヘビースモーキングで弱っている心臓にダイレクトに響いたわ」


留乃は煙草を灰皿に捻じ込む。その灰皿の中では吸い殻が今日吸った分だけで山を成していた。おそらく自棄になって短時間に吸ったんだろうな、ということが奈津上の経験則で何となくわかる。


「スーツの予備は?」

「他のヤツはあるけど、あのタイプのはないわよ。つい最近買ったばかりですもの」


弟の入学式に出るためにね、という呟きが続けて聞こえてきそうだった。奈津上は庭に直結する出入り可能なガラス戸を全開にして換気をはじめる。

新鮮な空気と一緒になって、小鳥のさえずりも部屋の中に届いてくる。今日はいい天気だ。絶好の入学式日和となるだろう。


「……おい。さっさと着替えろ茶色スライム」

「ん?」

「ん」


奈津上が親指で指した先にあったのは、紙袋だった。かなり有名なスーツ販売店のマークが描かれている。


「!!」

「流奈からスーツの詳細聞いてたからな。二週間あれば、同じの作るのは簡単だ。お前は家計に負担をかけないようにって思ってたんだろうがな」

「隆介ぇー……!!」


感極まって泣きそうになる留乃に、奈津上はぎょっとした顔を浮かべる。


「な、何だよ……」

「ありがと~。本当にありがと~。いっつも世話になる度に思うんだけど、隆介のそういう気の利くところが私は大好き」


何か都合のいい男だ、と面と向かって言われているようで、いい気がしない。留乃はそんな奈津上の心情など省みず、山が築かれた灰皿を笑顔で突き出す。


「お礼と言っちゃなんだけど、このシケモク全部隆介にあげる~」

「単なるゴミ処理だろうが」

「私と間接キッスができるという選りすぐりのヤツよ? いらない?」

「だから俺は煙草が嫌いなんだ!! そもそも選りすぐりも何も全部お前が吸ったヤツだろう!」

「わかってないなー。デカと言えばシケモクなのにー。主任もそう言って私のシケモクを何度か貰っているわよ?」


今度主任にラーメンを奢ろう。油がギットギトに絡んだ、胃にガッツリ来る不健康なヤツを。奈津上はそう誓った。

留乃は灰皿をテーブルに戻し、ソファの上で寝転がったまま伸びをする。


「じゃあ軽く化粧して、お着替えしてくるから待っててね」

「おお。あ、ところで朝ごはんとか残ってないか? 流奈特製の砂糖たっぷりクソ甘い卵焼きが食べたいんだけど。たまにダマになってる砂糖が口の中でじゃりっとするのが最高なんだ」

「今日はダシまきよ。角砂糖埋め込んでから食べれば?」

「くそ」


と言いながらも台所に、ラップもされていない状態で置かれている卵焼きを手掴みで食べる。美味い。が、やっぱり甘いのが一番だ。

――――――――――――――――――――――――

入学式が始まる前の校舎は、騒がしくはないが少し浮き浮きとした雰囲気に包まれていた。


都立宿曜学園は、東京都世田谷区にある中学、高校一貫校だ。


しかし、高等部から受験を受けて編入することも可能で、全体的な人数は中学生よりも高校生の方が多い。生徒数はマンモス校とは言えないが、平均的に見ると少し多いくらいの人数で、今日もまた、数多くの少年少女がその中に入ることになる。


そんな学園の廊下を、不安そうに歩く少年が一人。


胸には『祝・入学』と書かれた帯の付いた桜の花の意匠。身長は百五十八センチメートルと小柄で、顔つきにあどけなさが残るその少年は、先ほど家に姉を置いてきた恋島流奈だ。先ほどから自分の足元をやたらと気にしているように見える。


「……いたっ」


流奈は、自分より大柄な何者かにぶつかる。先生なのかも生徒なのかも判別できないが、ぶつかった質感で人間だということは何となくわかる。


「ご、ごめんなさい」


怒っていたのか、何も思っていなかったのかはわからないが、その人物は無言で流奈の傍を離れた。


――……参ったなー。やっぱり眼鏡がないと何も見えないよ。


流奈は近眼だ。眼鏡がないと家の外に出れない、出てはいけない程の重度の近眼だ。


なのに何故彼は裸眼で土地勘も何もない場所を歩いているのかと言うと、ちょっとしたトラブルが起こり、そのせいで眼鏡が壊れてしまったからだ。


――え、と。体育館は渡り廊下を渡って……。


眼を案内パンフレットに、これでもかというくらい近づける。自分のクラスに入るのは後だ。今の流奈の目的は、入学式の行われる体育館に亀の歩み同然の足取りで向かうことだった。


――今僕が歩いているここはどこだろう。さっき桜の花を付けられたのが入口

で、ついさっきトイレの臭いがしたから……えーと……。


「もし。そちらの方」

「!」


自分に向かって話しかけてきている。そう確信できるくらい近くから聞こえてくる女性の声。落ち着いていて大人びているから、スーツを着た先生のような姿を連想できる。


「……僕のことですか?」

「あなた以外に、この場に誰がいるっていうのですか」


呆れられた感じや馬鹿にされた感じはしない。ただ上品な笑顔が浮かぶような明るい声だった。


「先ほどから地図を見て微動だにしないものですから。迷子なら放っておけないと思いまして」

「迷子っていうか……」


どうしても歯切れが悪くなってしまう。道に迷っているわけではなく、道が見えないわけだから迷子とは微妙にニュアンスが違う。


「何と説明すればいいのやら……」

「あの。どっちに向かって話しをしているんですか?」

「え。目の前にいるお節介な誰かに対してですけど」

「バカにしているんですか!! 私そんなカックカクのピクトグラムみたいな見た目していませんよ!!」

「……あれ。あっ」


――女子トイレの看板に向かって話しかけていたみたいだ!!


相手が自分より頭身の高い人物だということはわかる。が、方向がいまいちパッとしない。


「ごめんなさい。いやぁ。よく見てみればこっちの方が数千倍別嬪さんだなぁ」

「それは壁の染みィ!! 何なんですの! 親切に話しかけてあげているのにこの仕打ち!」

「んー。あ。本当だ。よく見てみれば……いや、何か凄く綺麗な顔に見える染みだなぁ。これ『超クオリティの高いウォールアートレベル』ですよ?」


ぺたり、と触ってみる。まるで綺麗な花弁のような、柔らかくて心地いい手触りの壁だ。


「……ふんっ」

「ウボァーーーッ!!」


ただでさえぼやけている視界が急にチカチカしはじめ、頬に鋭い痛みが走る。どうやらビンタされたようだ。


「なっ、何だ!! この壁、めざましビンタのような攻撃を放ってきたぞ!! ねむり状態なら即死だった!!」

「いい加減にしないと、そろそろ口の中にスコップぶちこんで、私専用のプランターにしてさしあげますよ?」


やっと本体と向き合うことができたらしい。今一瞬だけ至近距離で見た顔は、間違いなく相手の顔だ。


その雰囲気だけで判断するなら、結構な美人だなと思った。流奈より背が高いその人物は、言葉遣いや声の通りやっぱり女性のようだった。


「うう。ごめんなさい。壁なんて言って。よく見てみれば確かに壁なんかじゃありませんでした。至近距離で見てみれば、ちゃんと丘もありますね」

「口じゃなくって頭頂部にプランターを作ってあげましょうか。脳みそくり抜けば、まあオキザリスくらいは育てることができるでしょう」

「ウェイウェイウェイ!! テイクイットイージー!! 何も好きでこんな茶番を演じてるわけじゃないんですって!! ただ単純に目が見えないだけなんですって!!」


その一言で、得体の知れない恐怖の塊がピタリと止まった気配がする。どんな危機に陥っていたのか知りたくもないが、どうやら命拾いしたようだ。


「……目?」

「……ここに来る途中で眼鏡が壊れてしまって。僕って凄いド近眼ですから。もうどれが人でどれがピクトグラムでどれが染みなのかわからないんです」

「あの。もうちょっと上に向かって話しかけてくれませんか。あなたが話しかけているそこ、私の胸です」

「あなたが屈めば済む話じゃないですか?」

「優しい顔して凄い厚顔ですね。まあいいですけど」


少し顔が近づいた気がする。しかし顔が接触しかねないくらい近づかないと、やっぱり細部は認識できない。


また事故が起こってくれれば万々歳なのだが、もうあんなことは起こらないしできないだろう。下手したら本当に、明日はこの人のシャレコウベプランターになっているかもしれないという恐怖が漠然とある。


「厚顔ついでに、できれば僕を体育館まで案内してはくれませんか。手を何かで引っ張るとかして、段差があったりしたら教えてくれればいいんです。特にお礼ができませんから、するもしないも自由ですけど」

「……ふふっ。何を言っているのです」

「ははっ。まあ、ここまでバカにしておいて虫のいい話ですよねぇ。困っているのは本当なんですけど」

「誰が助けない、と言ったのですか」

「……ん?」


自嘲気味な笑いが凝り固まった。手が何か冷たいものに包まれる。


「あと、その敬語やめてくださいな。私のは素ですが、あなたのはそうじゃないでしょう?」

「……うん?」


よくわからない。自分の手を掴んでいる、この冷たいものは一体何だろう。疑問が湧いてくるが、その間にも流奈はそれに引っ張られていく。困惑して、相手の顔と思わしき方に顔を向けると、やっぱり笑われた。


「言ったでしょう。困っているなら見逃せないと」


息が詰まる程に率直で愚直で素直な善意を感じる。手を引っ張られている状況も相まって、こころなしか顔が熱くなった。


「……いい人だなぁ」

「生徒会長として当然の責務です!」

「えっ。先生じゃなかったの!?」

「何故そこで驚くのか三時間弱問い詰めたいところですが、今はやめておきます。後で覚えてろよクソガキ」

「怖ァーーーッ!!」


柔らかい声色が一瞬にして、般若の面を思わせるような憤怒と憎悪とちょっとの悲しみに彩られる。面食らった流奈は手を引かれたまま、少しへっぴり腰になって、慌てはじめた。


「ちがっ。そんなつもりで言ったわけじゃなくって……!! 対応が大人びているなって!!」

「冗談です。そんな他人の言ったことの裏に潜む悪意を一々穿り返すような、意地悪な女じゃありませんよ。私は」


くすり、と笑う息遣いが聞こえる。見えないけど、きっと綺麗な笑顔なんだろうなと予感できた。


「……にしてはドスと凄味が効いてたな」

「あなたは違うようですね」


鋭い切り替えしをされたので、思わず笑ってしまう。


「僕は意地悪じゃないよ。ちょっと間抜けなだけさ」

「自分でそう言うのはどうかと思うのですが……あ、そうだ。あなた、名前は?」

「えーと……流奈」


できれば苗字の方は口にしたくなかった。


彼の容姿はかなり姉に似ているから、苗字が発覚した時点で日本最高峰の探偵『恋島留乃』の弟だとバレてしまう。入学早々、しかも入学式も澄ませていない内に、そのことで誰かにもて囃されるのは御免だった。


「流奈? それ名前ですよね。苗字は?」

「い、いいでしょ!! とにかく僕の名前は流奈!! よろしくお願いしますぅ!!」

「そ、そんな変な苗字なのですか……」


必死に話題を打ち切ると、変なふうに誤解されてしまう。いちいち訂正したくもないが、もっとうまい誤魔化し方があったかもしれないと後悔する。


「さ、着きましたよ。そこに座って」

「え。速っ」


そういえば、周りに赤い色彩が増えたような気がする。話し込んでいたから気付かなかったのか、先ほどよりもざわめきが近く大きくなっている。


「私が見つけた時点で、結構進んでいましたから」

「おお! 捨てたものじゃないな。僕の記憶力も」

「記憶力……なのでしょうか?」


あまりそれは関係ない気がする、といった感じの苦笑と失笑が混じっているような声だった。

だが実際、彼がここまでたどり着けたのは記憶の力によるものが大きい。姉の留乃程ではないが、彼は平均よりは記憶力がいいため、一部分しか読めない地図でも、頭の中でパズルのように組み上げることができる。だから、この学園の地理は一応、図面でだけは完全に覚えている。


しかし細かい段差や石段の位置などは地図に書かれていないので、思わぬところで躓いて頭をぶつけそうになったりということが何度かあった。やっぱりまだ、一人でこの学園を歩くには危険すぎることに変わりはない。


「それじゃあ、私はもう行きますね。先生には事情を説明しておきますから、今度は帰りは先生に手を引かれて教室に行ってくださいね」

「あ」


手の中から、冷たい手がすり抜ける。正直、少しだけ名残惜しかった。


「どうかしましたか?」

「……いえ。別に。ここまでありがとうね、生徒会長さん」

「あー……どうせわかることですけど、今言っておきましょうか」

「?」

「私の名前。自慢の記憶力で覚えておいてくださいな」


悪戯っぽい笑顔が脳裏に浮かぶ。実際そういう表情をしているかどうかは、当然わからないが、何故かどうしても浮かんでしまう。


種藤(しゅどう)種藤涼美(しゅどうすずみ)

「言いにくい。ちょっと間違えると涼美じゃなくってシジミとか呼びそう」

「いや結構言いやすい部類だと思いますが。あと今度シジミとか言ったら顔中に穴をあけて生け花を植えますよ」

「キミの提案するおしおきがことごとくスプラッタチックなんだけど。本当に冗談なのかな」

「本気にしたいんですか?」

「滅相もない」


できるだけ必死に首を横に振っておく。しばらくすると、生徒会長種藤涼美の気配は消えた。


「……ん?」


しかし何故だろう。視線を感じる。しかも一つや二つじゃなく、十とか二十とかを余裕で越す単位の。


――気のせいかな?


首を傾げながら腰を落とすと、確かにそこには椅子がある。


体育館にありがちな、安っぽいパイプ椅子だ。だがずっと緊張していた体を休めるには丁度いい。背もたれに精一杯よりかかると、隣の席にいる誰かが肩を叩く。


「誰?」

「誰? とはまあ変な反応っすねぇ」


実に軽薄そうな声と口調。悪く言えば馴れ馴れしく、良く言えば人懐っこい印象を受ける少女が隣に座っているようだ。同じようなパイプ椅子に座っているということは、流奈と同じ高校一年の新入生、あるいは進級生だろうか。


「ドアの向こうの誰かがノックをしたなら自然っすけど、隣に座っている美少女に肩を叩かれて『誰?』はないでしょうよ。目が見えていないのなら別っすけどぉ」

「む」


バカっぽい言動とは裏腹に、意外に勘の鋭い発言をしてくる。逆に相手を称えたくなる程に核心をついている。


「実際見えないんだ。眼鏡を道中で壊しちゃって」

「へぇー。それで生徒会長様に手を引かれてたんっすかー。羨ましー。あの人、男子人気もそうだけど、女子人気もすげぇんすよー?」

「ふーん……人柄だけで考えるなら確かに、そうかも」


さっきまで握られていた手に目を落とす。見えないけど確かにそこにあって、さっき優しい人に握られていた自分の手を。


「ふふっ。眼鏡を壊したことは、少しだけラッキーだったのかも。現実計算だとプラマイゼロかもしれないけど」

「ところで、どうして眼鏡を壊したんすか?」

「踏みつけられた」

「誰に? 入学早々イジメっすか。マジパネェっすね」

「眼鏡を落としたからわからないけど、まあ盗人かな」


一拍、言葉の意味を考えるような間が置かれる。


「盗人?」

「来る途中で後ろから財布を掻っ攫われた」

「は?」

「僕、定期ICカードを財布に入れてたんだけどさ。駅から出てすぐ、財布をしまう前に後ろからぶつかられて眼鏡が落ちたんだ。で、財布を掻っ攫われた」

「……マジバナ?」

「マジバナ」


あまりの不幸さ加減に目を丸くされている気がする。少なくとも声の方は、嘘か本当か探りを入れるような慎重さがある。


「その直後にベキリって音がしてさ。眼鏡を拾ってみたら案の定。レンズが粉々になってた。傑作だったなぁ。笑いすぎてちょっと泣けたもの」

「そ、それ実は普通に泣いてたんだと思うっすよ。だって今の御手前、凄く悲しそうな顔しるっすもん」

「そう? でもまあ、いいんだ」

「いいの?」

「だって、ちゃんと返してもらうつもりだもの」

「……ん?」


聞き間違えだと思われたのだろう。隣の誰かは、それ以上追及することはなかった。

――眼鏡に残っていた靴跡。レンズは持ち上げたときに粉々になったけど、一個一個にどんな模様が刻まれていたかは凝視したから覚えている。あとはそれを頭の中で組み上げるだけ。


流奈の頭の中で構築された靴跡は、どこかで見た覚えがあるものだった。しかも極々最近に。


「……ねぇ。入学式が終わった後はどういう予定だった?」

「へ? えーと、組み分けが発表されて、それぞれ先生に連れられて教室に入り、点呼だったはずっすよ。それが?」


軽薄そうな口調とは裏腹に、覚えるべきことはしっかり覚えている。頭の回転が速いのだろう。

実にすらすらと答えられた、その発言に流奈は満足する。


「そのくらいならサボってもいいかなぁ」

「え。サボるんすか」

「まあね。ちょっとやることがあるんだ。できれば付き合ってくれないかな。一人じゃ歩けないし」

「イヤっすよ!! 何ナチュラルに不良行為に誘ってんすか!!」


当然の反応。だが予測はしていた。だから流奈は、わざと芝居がかったふうに表情を変え、語る。


「キミが来なければ一人でサボるさ。あー、でもなー。目が見えないんだよなー。道中で派手に転んだりしたら誰のせいになるのかなー。いや個人的にはキミのせいじゃないと思うけど、世間一般、学園の噂的にはどうなのかなー?」

「最悪だ!! ちょっと話しかけただけなのに凄い後悔した!!」

「で? もう一回、駄目元で訊いてみるけど。一緒に来ない? 入学式が終わる前にコソッと外に連れ出してくれると助かるんだけど。それが無理なら一人で腹痛を訴えて保健室まで行って、そこから忍び出るだけだよ」

「……わ、わかったっすよ。やればいいんでしょ、やれば」


渋々、と言った感じに少女は承諾する。声のする方に満面の笑みを向け、流奈は自己紹介する。


「ありがとう。僕の名前は流奈」

「……比曽。比曽アリカ」

「この学園で三年、よろしくね比曽さん」

「何か高校生活開始早々鬱々とするっすわー」


足と目を確保。恋島流奈、高校初めての事件が幕を上げる。

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