生と光
相も変わらず紅茶好きな老人は語りかける。
語り手の行く先には何が待っているのか
私はミスターベッケラー。朝日の光が好きな老いぼれである。
先日に引き続き、生についての話をしようと思うのだがどうだろう。
あぁ…あまり苦い顔をしないで聞いてくれるとありがたいのだが。
今回は…冒頭にも関連があるように、生物や生と光についての話をしよう。
生物というのは、
生命を宿した瞬間から把握しない儘に闇というものを知り、
同様に、胎内から生まれ出た瞬間に光というものを知る。
これは、偶然でも有り必然でも在ることであり、
自己に対しての初めての感情や感性に繋がる要因の一つだと私は考えている。
だからこそ、光が暖かい、優しいと感じることが有り、
闇が冷たい、怖いと感じることが有るのではないかと思うのだ。
また、それと同様に光が怖い、闇が落ち着くという感情が生まれることもあるが、
何も可笑しい事では無いので、安心するといいだろう。
人間に点を置いて話をするとすれば、
反転する感情は感性によるものなので、
何が正解で何が不正解ということは無い。
他の者と違って当たり前であり、その逆もまた然り。
他の者と同様の色に染まることが必ずしも正しいとは言えないのだ。
だからこそ人間も含め、生物は不思議な物なのである。
朝日の光という自然性の物でさえ、感情によって左右される。
気持ちの良い朝の光は心地よいが、
気持ちの悪いときの朝の光は、煙たく思えるのがその心理である。
だが、光を認識したときの感性は生物それぞれに存在し、
万人が必ずしも同じ思考になるということではない。
夕日を見て美しいと思う者も居れば、悲しいと思うものも居る。
つまり、個々における【生】というのは、
様々な光に当てられながら、
他者や生物と触れ合うことで、
他の感情を学びながら自身の生の路を作り、
それを謳歌していく事であると言える。
此処迄で、コレまでやってきた
生というテーマを終了させるとしようか。
おっと…そろそろ紅茶の時間の来てしまったようだ。
次のテーマはまだ未定であるので気長に待ってくれると嬉しいね。
それではまた逢える日を楽しみにしているよ。
ミスターベッケラーより。