第二章:【2】
騎士団の宿舎は上に行くほど階級が高くなっているため、最上階である三階は幹部か団長クラスの者しか居住不可だ。窓から眺める景色は、それ相応の位の者が見納めるに相応しい。その建物の三階の一番奥に、エレス・ウィアの部屋はあった。
必要最低限の家具と色合いしか揃っていないその部屋で、クリフは釈然としない様子でエレスを見た。
「…全く、アルくんはもう少し食事の量を増やした方がいいですね。見掛け倒しの筋肉では全く意味がありません」
「全くだ、これは下手したら私よりも軽いかもしれない……」
そうため息をつく二人の眼下のベッドには、力なくぐったりとしているアル・ライトが横たえられていた。自分より痩せている少年に理不尽さを感じていたエレスだったが、アルの意識が未だに戻らない事が徐々に不安になっていた。羊毛で作った布団の上に手を置くと、薄い布を通して感じるアルの体温にホッとする。
「それでは僕は騎士団の方へ戻ります。姉さんはどうするのですか?」
姉とは対照的に、アルに情をかける素振りすら見せないクリフはそそくさと部屋のドアの方に歩みながらそう言った。
「ああ、私は──少し、書類を仕上げる」
これからアルは騎士団員になる、仲間の面倒を見るのは幹部の務めだと、エレスはそう自分を言い聞かせた。それを聞いたクリフはドアノブにかけた手を止め、一旦エレスを振り返った。そして彼女が優しい眼差しでアルを眺めているのを確認して笑みを深くした。
「…そうですか、では僕はこれで」
「ん」
クリフが出て行くと、部屋は途端に静かになった。苦しそうなアルの寝息に、エレスは椅子を引き寄せベッドの傍に座った。
「……」
氷と水を湛えた容器にタオルをつけながら、エレスは魘されるアルを見た。常につんつんと元気に跳ねている短い黒髪が、冷や汗と枕のせいで垂れて額に頬に張り付いている。悪く言えば粗雑、よく言えば男性的な眉から──スッと通った鼻筋、切れ長の涼やかな一重の目は閉ざされている。瞳が開いたときに見える、一点の曇りもない白藍色の瞳に見つめられると、胸の鼓動が早くなるというのは、エレスさえも気がついていない事だ。
「……なんで、あれぐらいで倒れるんだよ、」
ポツリと漏らしたエレスの言葉に、何故かアルが苦しそうに薄い唇を噛み締めた。額に浮いた汗の玉がつぅとこめかみを流れた。
「……」
エレスは思った。そんなに…そんなに──ケルディアから連れ去られた事は辛かっただろうか。
次に、一瞬でもそんな事を考えた自分を呪った。当たり前だ、もし自分が子供の時に誘拐されたら……そこまで考えて、また濡れタオルを絞る力を緩めた。
自分はこの少年よりもずっと子供の時でさえ、もっともっとひどい目に合っている。そう、目の前で父親を殺されるという惨劇でさえも、乗り越えてきたのだ。だからきっと、きっとアルも乗り越えてくれる。
そう信じて、エレスは濡れそぼったタオルを幼い少年の額に乗せた。
開け放たれた窓から、心地の良い風が流れ込み丸い木製テーブルの上に広げられていた数枚の羊紙皮がカサカサと音を立てた。そして、その音でアルは目が覚めた。
「……」
ふと腹の横の辺りに重みを感じ、首だけを持ち上げるとそこには自分の体を枕にして寝るエレスが居た。思わず息を呑み、しかし彼女を起こさないようにそうっと体をずらしながら上半身を起こす。ポトリ、とふわふわの羊毛の布の上にタオルが落ちた。それが自分の額に乗っていたものだとアルが気づく頃には、彼の心臓は最高潮に脈打っていた。
(ど、どうしてエレスさんが……)
絹糸の様に滑らかな金髪が、華奢な背中に無造作に散らばっている。安らかに小さな寝息を立て眠る姿は、美人というよりも愛らしい。いつもはきっちりと斜めに流されている前髪が無造作になり、後ろで一つに結んでいた髪は解かれ腰まで伸びている。普段ならきつい角度で上がっている眉は心なしか下がり気味で、金色の長い睫毛は陶器のように真っ白な頬に影を落としている。半開きになった形の良い唇を見て──さらに視線をずらすと、白いカッターシャツが第二ボタンまであけられていて、浮き出た鎖骨の下に、少しだけ谷間が覗いている。
「……」
若いアルの体は、口内に溜まっていた唾を飲み込んだ。眠れる美女を目の前にして、やましい事を考えない男は居ないだろう。しかし、アルはエレスの寝顔が余りにも無邪気だったのと、未だ頭の中がぼうっとするのを理由に、彼女に何かをする事は断念した。代わりに青い空がよく見える窓を見て、白濁した思考を働かせる。
(…ああ、倒れたのか、オレ)
少しして、転寝をしていたエレスは目を開けた。そして自らの肩に服がかかっているのに気がつき、ゆっくりと頭を起こした。窓際に座っているアルを見て、微笑む。恐らくアルが服をかけてくれたのだろうと推測したエレスはしめしめとばかりに、物音一つ立てず椅子から立つとそのまま窓際のアルの方まで近づいていった。空の方を見ているアルは、背後にエレスが迫っている事など一切気がつかない。
「わっ!!」
「うわぁ!」
がたんと、驚いたアルの体がバランスを崩し──窓際にかかっていた右足がずるりと宙に落ちた。しまった、と思いエレスは一瞬でアルの胴体に手を伸ばした。
「──っ」
間一髪、アルは宿舎の3階から落下することから免れた。窓枠を必死に掴み、上半身が窓から突き出たような格好になったアルを支えるため、無我夢中に彼の胸板に頬を押し付けていたエレスは、ハッとした。あまりの恥ずかしさに脳が沸騰しそうになり目を固く瞑る。しかし、今回した腕を放すとアルは間違いなく落下する。仕方がなくそのままなんとか足の踏ん張りを利かせアルを部屋の内部へ引っ張り込む。
「…はぁ…はぁ…びっくりした…」
腰が抜けたのかへたり込むアルを見て、エレスはこんな事をしなければ良かったと思った。目の前の少年の優しさに何を考えていたのか。自分ともあろうものが、"じゃれる"等と。戒めるように、乱れた自分の髪を手ぐしでなんとかまともにすると、エレスはくるりとアルに背を向けた。
「エレスさん、」
「……」
何か暖かいものを感じる呼びかけに、エレスは自然に振り返った。するとアルはこれまで見た事のない優しい笑みを浮かべていた。
「オレを、看護しててくれたんでしょう?」
「…!」
耳まで真っ赤になったエレスは、不意打ちだ、と呟いた。それを聞いたアルはきょとんとし、次に自分も恥ずかしくなったのか俯いた。暫しの沈黙の後、先に口を開いたのはエレスだった。
「服を、かけてくれたのは少年か?」
勢いよく顔を上げたアルはエレスと確り目が合い、再び恥ずかしそうに伏せ目加減で言った。
「え、ぁ──…まぁ、そう…ですけど」
「そうか、ありがとう。嬉しかった」
それだけ告げると、エレスはそっぽを向き、次に何か思い出したかのようにアルに尋ねた。
「少年、気分はどうだ?」
倒れたのだから、それもそうだろう。アルは少し見栄を張った。本当はまだ少し、頭がクラクラしていたにも関わらずグッと力瘤を作って見せる。
「大丈夫です。もう全快ですよ」
それを聞いたエレスは目を細め、「そう」と呟いた。信じているからこそ、あえて何も口出ししないのだ。
「少年、叙任式は3日後だ。リノの街は治安もいいし、皆陽気な人たちばかりだ。適当に街を観察するのもいいだろう。それか少年は見習い騎士になるのだから、騎士団の連中と親睦を深めてみてもいい、宿舎に住んでいる連中の部屋は一番下の入り口に居る係りに聞けば分かる」
どうやらアルの空元気はエレスに見破られていたらしい。
「──あの」
「……神の有無は、叙任式の時に再びティア嬢に問われるはずだ。そのときに、な」
聞きたい事は、皆エレスが先回りして言ってしまう。その頭の回転の差にアルは少し寂しくなった。何か安心できる場所にと自然に足は向かい、ベッドに移動し腰掛ると、アルは重い口調で言葉を紡いだ。
「……分かりました」
何を落ち込んでいるのか、エレスはそう思ったが、恐らく倒れた理由と関連するのだろうと察しをつけドアノブに手をかけた。
「じゃあ、しっかり休んでね」
ぱたん、と静かにドアが閉まると、アルは途端に不安になった。"寂しい"とか、"怖い"とかいう感情が津波のように押し寄せてくる。
肌寒さを感じたアルは全開だった窓をきっちり閉め再びシーツの中に潜り込んだ。何か頼りになるものが欲しくて、なるべく壁側にくっついておく。我ながら女々しいと思うが、仕方ないのだ、知らない人ばかりの土地に一人残されて、心の平静は保てなくなっていた。ふと、アルはいい匂いがすることに気がついた。そうだ、今自分が寝ているベットは"あの"エレスが寝ていたベッドなのだ。先程の転寝をしているエレスの顔が思い出せれ、自然と頬が緩む。少しだけ、不安が弱まった気がした。
(……とりあえず、寝るか。明日の事は明日考えればいい)
3日は猶予がある、そう思うとアルは深い眠りへ落ちていった……。