第二章:【1】
騎士団員が住む宿舎は質素だ。アルはまずそう思った。大きく入り口が開き、頑強な塀さえない。灰色にくすんだ建物は、とても金をかけて整備しているとは思えない。街はあんなに綺麗だったのに……。
「穢い、ですね」
正直に感想を漏らしたアルに、エレスは苦笑した。
「ずいぶん、率直に者を言うな。リノ島の金の使い道は、他の国とは違う」
入り口には少しばかり蜘蛛の巣がかかっている。背の高いエレスはそれにいち早く気がつき、払おうとした。しかし、ああと何かに納得したような声で動作を止める。
「……そうか、まだ叙任式を済ませていないから、少年は"黒い狼"ではない……。叙任式まで、私の部屋で寝泊りしろ」
それを聞いて、アルはピクリと肩を震わせた。少しばかりの、緊張が張り詰める。
「そんな事、出来ません」
「は?何で」
建物に入ろうとしていたエレスは、入り口に腕をついて怪訝そうに振り返った。
「だって、騎士団員はそのような──なんというか、不適切な生活は出来ないはずです。本に「本に書いてあったとか、か?」
呆れたように、アルの言葉を遮ると、エレスは冷めた目で宙を見た。
「いったい、いつの時代の本を読んだんだ少年は。今の騎士団はそんな堅苦しいものではない。やはりケルディアの連中に洗脳されているのか」
洗脳という単語に、アルはカッと頭に血が昇るのを感じた。価値観の違いというものは、簡単には同調できない。
「……ケルディアでは、そう教えられています。それに──宿舎に行くよりも前に、しなければならないことがあるはずです」
それを聞いて、エレスは目をぱちくりさせた。何かやらなければならないような事はあっただろうか……隣で微笑んでいる自分に瓜二つな双子の弟に目をやっても、知らないとばかりに首を横に振る。満を持して、エレスはやけに辺りを見回すアルに語りかけた。
「少年。何だ、それは?」
「エレスさん、まさかとは思いますが……この島に教会はないのですか?」
「教会?」
「神に祈りをささげる場所です」
エレスは黙り込んだ。深青の瞳が細められ、ツイとアルから顔をそらす。まるで"何か"を拒絶するかのように、それは頑な姿勢だった。
「…神など、いない」
「──」
「いるもんか!」
吐き捨てるように、らしくもない怒声を上げると、エレスはツカツカと宿舎の中へ入っていってしまった。それをただ見過ごすしかなかったアルは、何か助けを求めるようにクリフを見た。クリフは、頭上にある強い光に目を細めていた。透明な、水晶玉の様に輝く青空は鳥がゆったりと飛んでいる。リノには、和やかな空気が流れていると、アルは何故か実感していた。
ようやくアルと目線を合わせたクリフは、陽だまりのような微笑を崩さないまま、力強く言った。それはまるで──100%、抜かりのない、確証があるかのような言い方だった。
「僕も、神など居ないと思っています」
ユウヤに打ちのめされた事と、自らがあの"黒い狼"の一員になる事で、ただでさえ落ち込んでいたアルに、反論する気力はなかった。グッと、込み上げる理不尽さを飲み込む。
「神など、居ませんよ。絶対に」
背を向け、自らも宿舎の中に入ろうと入り口を見据えるクリフに、アルは精一杯叫んだ。弱っていた少年には、声を出す事が唯一の抵抗手段だったのだ。
「神はいらっしゃいます」
ユウヤは振り返りもせず、その場に佇んだ。チュンチュンという、可愛らしい小鳥の鳴き声が、嫌に響く。広い宿舎前の広場には、二人以外にも人影がある。所々に設置された、木製の長椅子に腰掛剣の手入れをする者、ひたすら本を読みふける者、楽しげに雑談を交わす者──。
「神様は、きっとオレや貴方を導いてくださる!」
砂利の感触を皮靴の裏に感じ、アルはしっかりと薄茶の大地を踏んだ。腹の底から、声を出してしまったので、周りに居た数名がハッとしたようにアルを見ていた。その表情は、全面強張っている。自らが、なんら悪い事を言っているつもりはないアルは、何故自分に視線が突き刺さっているのか理解できなかった。
クリフの金髪が、太陽光と反射して輝いている。静かな、光の粒子が集まり、一瞬だけ輝く。広い背中が、微かに震えている気がした。
ゆっくりと、こちらを振り返ったクリフの青い目には、何故か──透明な液体が溜まっていた。それを見てアルは一瞬、息が詰まった。
「……ならば」
それは、掠れたような低い声だった。ジンとした低音で響いた声は、アルの鼓膜を叩いた。
「ならば──どうして神は、僕の父親を助けなかった?」
ビクン、とアルの指が引き攣るように跳ねた。じっとりと、生ぬるい汗がこめかみから顎に伝わって、零れた。
「どうして、神は父を見殺しにした!!」
……しん、と辺りが静まり返った。金槌で頭を殴られたように、アルはひたすら目を見開き、白藍色の瞳を揺らしていた。瑞々しい若草が風で擦れ、宿舎前の広場は神妙な雰囲気になっていた。誰一人として、口を開こうとしない。その代わりに、二人を食い入るように見つめていた。
「……ああ、違う、今のは──違う」
フッと目線を落として、クリフは自嘲するように笑った。
「まったく……アルくんと話していると、どうも感情的になってしまいます」
「……」
「先程の言葉は、忘れてくださって結構です」
灰色の宿舎の扉の影で、先程憤怒して居なくなったはずのエレスが壁にもたれてかかっていた。内外ともにかなり気温は高いのだが、肌寒いのだろうか、腕を抱えている。何か嫌なことでも思い出したのであろうか、苦しげに眉を寄せている。
拳を握り締め、アルは暫く何かを言おうとしてはそれを飲み干す。その行為を繰り返していたが、ようやく無難な言葉を見つけたのだろうか、口を開いた。
「……オレは…」
ク、と歯を食い縛り、アルは何か忌々しいものを鎮める様に言った。
「神様は…いらっしゃると…思います……」
「まだ言うのか!」
穏やかな目つきに戻りつつあったクリフが、再び怒りに打ち震え始める。激怒するクリフの目を見て、何故かアルは遠い昔の記憶を呼び戻されていた。ずっと、ずっと昔の……過去。
『アル、今日から貴方も毎日祈るのです』
そう言うと、アルの母親、サーシャ・ライトは光に照らされ浮かび上がる神に姿に目を細めた。まだ年端も行かない幼子だったアルも、毎朝の祈りの時間にはここに連れてこられていた。村人のほぼ全員が、教会の最奥にある礼拝所に向かって、胸の前で両腕を交差させて頭を垂れている。ちょうど南向きに設置された巨大な擦り硝子は、光が差し込むと赤・青・緑の三色で描かれた絵が浮かび上がる仕組みになっていた。
光が差し込み、浮き上がった絵にアルは、瞬間的に目を細めた。全ての、ありとあらゆる邪悪な気持ちを消しさるような──柔らかな笑みを浮かべる知らない人がそこに居た。
(…あれが…神様…?)
神を見て、幼いアルが抱いた感情は一つだった。
──どうして、周りの大人は"ただの人の絵"に跪くのか。
母親に聞いても、まぁと何かを恐れた様な表情をするばかりで、一向に真相を教えてくれない。代わりに、言う事を聞かない小さな頭を絵の前で擡げさせる事など、大人の力では造作もないことだった。
(…嫌では、ないのか……。自分の…頭を下げるなんて…!)
「何を…考えているのです?」
恐らく腹が煮えくり返っているクリフにかなり低い声でそう問われて、アルはハッとした。今まで神を信じながらも、どこかもやもやとしたものが胸に渦巻いていた。それの理由を、14歳になってようやく手にしたアルの思考は、もうそれ以外考えられなくなっていた。
暫しぼうっとしていたアルの表情がまた元に戻ったのを確認すると、クリフは空を見上げながらゆっくり深呼吸をした。そして感情を押し殺すようにしてアルに問うた。
「……もう一度、聞きます。神の有無は、"黒い狼"の精神性に大きく関わります。これは重要な問題なのです。神は、居ると思いますか?」
アルはこの一週間にあったさまざまな記憶が交錯したのだろう、頭を抱えた。そしてその場に膝をつき、苦悶の表情を浮かべた。それもそうだろう…今まで自分が信じていた大勢ものが、リノ島へ来て崩れ去ったのだから。悪魔に取り付かれたように、その額にはびっしりと冷や汗の玉が浮いている。
「オレは…オレは…」
「アル」
凛々しい声に、毛を逆立てた猫のように神経質になっていたアルはハッとした。声の方を向くと、エレスが宿舎の入り口である扉にもたれ掛りながらアルをじっと見ていた。
「だいじょうぶ…少年が、自分で決めるんだ」
「……っ」
やんわりと抱きとめるようなエレスの声に、安堵したアルはプツリと糸が切れたかのように、その場に倒れこんでしまった。