第一章:【3】
太陽が七回昇った日、遂に、この世界で一番恐れられているはずの島が見えてきた。"リノ島"──思わず唾を飲み込む。別に空は突き抜けるような透明度だったし、船の上は至って和やかな空気が流れていたのだけれど、やっぱり体は緊張していく。
「エ、エレスさ」
「何?」
オレが話しかけるを待っていたかのように、金髪の美女は微笑んだ。クリフは長い足を組んで、黙々と本を読んでいる。
「リノ島、見えてきたんですけど……」
「え?うそ」
白々しく驚くエレスさんに少しばかりの苛立ちを覚えながら、また目線を進行方向へと向ける。ずっと先に、たくさんの帆船が留まっている場所が見えた。目を細めて、帆船の近くに見える人影を見る。見たところ普通の──一般人のようだ。たくさんの荷物を流れ作業で下ろしている。
「……」
隣でエレスさんはリノ島の方をじっと見ていた。強い突風が吹いて、長い金髪がなびいて、一瞬──キラキラとその横顔が輝くのが見えた。
「遂に、リノに着いたね」
落下防止の手すりを握って、エレスさんは身を乗り出した。危ない、という前に甲高い音が響き渡った。空気が高い音域で震えながら、辺りに広がる。エレスさんの指笛が聞こえたのか、ずっと遠くに居るはずの先程の人影がこちらに向かって手を振った。冷涼な風が船上を吹き抜ける。
「アルくん」
「はい?」
いつの間にか隣にいたクリフに返事する。帆船はどこまでもゆったりと、波を掻き分けながら進む。
「リノに着いたら、まずティア嬢か団長に会ってください。もし騎士団員になるようなことがあれば、貴方の処分は主君が決めます」
ずっとのんびりしていたせいか、急な出来事に対処できない。なかなか呂律の回らない舌を動かす。
「騎士団員になるって、どういう、」
クリフは少し驚いて、またいつもの笑顔で答えた。
「騎士団員、リノでの騎士団は一つしかありませんよ?ほら"黒い──」
「違う!」
思わず、叫んでいた。冗談ではない──。
「…何が、違うの?」
そう言い放ったのはエレスさんだった。焦燥、動揺していく心とは裏腹に、俺の口はスラスラと動いた。
「騎士団は、"白の羊"だけです」
目の前のクリフの表情が曇った。明らかに眉を寄せ不快を表している。いつもは透ける様な青色の瞳が、深海のように暗くなる。どうして口がそう動いたのか、そう思うより前に、乾いた唇は音を紡いだ。
「──どうして貴方達がそんな事を決める?!早く、ケルディアに帰してください!オレがなりたいのは、"白の羊"だけです!あなたたちのような、殺人鬼集団じゃない……っ」
今まで溜め込んでいた、黒への拒絶反応が一気に吹き出た。ギュッと、固く目を瞑る。喉が引きつる。一歩も動けない。暗い脳裏に、白い騎士団の連中が一瞬で切り裂かれた光景が脳裏にフラッシュバックした。
オレは間違ってなんか、いない。
すると……静かに、押し殺したような声で誰かが呟いた。
「……"黒い狼"は、殺人鬼集団なんかじゃない」
本気で怒っているのがヒシヒシと伝わって、手が震え始めた。かつてないほどの殺気を感じる。静かに瞼を上げると、憎しみの篭った目でこちらを睨むクリフが見えた。あまりの怒りで、言葉が出ないらしい。閉口しながら、握りつぶされた拳が震えている。
「……もう、いい」
エレスさんは深いため息をついた。着々と進んでいた帆船はやがて港へ着いた。水面は相変わらず、静かに揺れていた。
港着くとそこには黒い馬が二頭の黒い馬車がすでに到着していた。馬車馬には太い首筋、大きく筋肉の張った尻、いかにも良質な馬の風格が漂っていた。無言のままエレスさんに馬車に乗り込むよう指示され、乗った。中は三人が乗るには十分な広さで、体が密着し気まずいこともなかった。オレはずっと外の風景を眺めていた。二人と会わせる顔がないからだ。
『…もう、いい』
整備された道は上下振動が少なく心地よい。どうやらリノ島の町外れはケルディアのそれより環境が良いみたいだ。カラカラという、車輪の回る音を聞きながら、ずっと船上でのやりとりが頭の中をリピートしていた。
『黒い狼は、殺人鬼集団なんかじゃない』
青々しい緑の葉が目線の高さまで成長している。ずっと緑色ばかりを目で追いながら──少しだけ隣のエレスさん見る。
困ったような、よくわからない表情だった。眉間に少しだけ皺が寄って、青い瞳は心細げに揺れている。すぐ視線を外したから、読み取れたのは微かな不安だった。悶々とした車内で、今度は斜め向かいに座っているクリフを見た。さして、気にしていないようにも見えたが……腕を組んで、やはり外の景色を傍観している。読み取れない、クリフの感情は、読み取れない。ふと、外の景色があまりに美しいので、こんな考えが頭をよぎった。
……もし、仮に、本当に"黒い狼"が"白の羊"のように格好よい連中だったのなら?
それならば、オレはとても失礼なことをしたのだと思う。しかし、黒と白は──あまりに違いすぎるのだ。それも、生まれたときから、母親や周りの連中が貶していたモノの評価を、一週間やそこらで見直せという方が無理に等しい。
……"黒"と"白"は、どちらが正しいのだろう。よく、分からない。
ずっとそんなことばかり頭の中を巡っていて、気づくと馬車にはオレだけしか乗っていなかった。何やら外が騒がしい。
一足先に外に出たらしいエレスさんが早く降りろと言っている。どうやら考えているうちにもう目的地についたらしい。
馬車から出るとそこには──見たこともないほど、活気づいた街があった。
ずっと先に見える巨大な黒い城を見て暫し呆然とする。足元の、赤茶色のレンガを見ると、びっちりと敷き詰められ延々とレンガ道が続いている。確りとしたそれには欠けている場所がない──整備され具合が凄いのだろう。次に、頭上にあるアーチ状の巨大な木の看板を見る。
"Welcome! To Reno island(ようこそ リノ島へ!)"
先先に歩いていってしまうエレスさん一行を追いかけるようにして、自らも看板の下を通り、街へ踏み入る。リノ島は故郷と全く違っていた。オレの村では、一戸一戸の家の間隔が比較的離れていて、買出し等は遠出しなくてはならなかったのが、リノでは城の周辺に民が住む街が広がっていてその中にさまざまな店が混在している、だいたいそんな様子だった。島と大陸の違い、そう思って──ケルディアより街中が活気付いている事に戸惑いを覚えた。どうして……"悪魔の巣窟"は随分明るい雰囲気に包まれている。今まで自分が見聞きした、確固たる"常識"が、音を立てて崩れていく。新たな知識となるのは、"リノはとても明るい"こと。街の奥に、大きく飛沫を上げる噴水が見えた。