第三章:【3】
アルは薄暗い部屋で息を潜めていた。当の昔にエレスは寝てしまい、未だ従士ですらないアルはベッドで寝る身分でないと言われ仕方がなく床に何枚か毛布を敷いて寝ている。不意に窓の方を見やると、四角枠の向こうは紺碧の空が広がり、弓形の月がおぼろげに光っている。その細い体にはうっすらともやがかかり、見上げてるアルを穏やかに見下ろしていた。
「……ふぅ」
毛布にくるまりながら、アルは怯えていた。ベルナが言うには、自分はアゼル大陸の"粗雑な馬鹿共"の元へ派遣される──しかし、またどうして未熟な自分を?
いくら考えても、結論は出ない。確かではないが、団長が言うのだからそうなのだろう。ここ一週間で様々な事があり過ぎて、脳が体がついていかない……。
目元を手で隠し、ため息をつこうとするとベッドからエレスの寝息が聞こえた。ごそごそと何度も寝返りをうっている。アルが耳を欹てていると、どうやらエレスは魘されてるようだった。
「……う、ん」
──火が見える。逃げ惑う人々に、興奮する馬の嘶き。
黒い影がゆらめき、柱の影にうずくまって震える二人の子供の背後に迫る。男の子と女の子はつぶらな瞳に多量の涙を溜め、ひたすら恐怖に打ち震えている。
「……さぁ、そこに居るんだろう?出ておいで──」
蟇蛙の様に濁ったどす黒い声で、男はその手にナイフを握り言った。
『…こわいよ…こわい…クリフ…!』
『しずかに──!』
煌くブロンド髪が特徴的な、人形の様に美しい幼女が体を縮こませながら言った。その幼女をしっかりと抱きとめ、同じく凛々しく端整な顔立ちなブロンド髪の子供が、必死に幼女の口を押さえている。
ゆらゆらと燃え盛る炎に浮かび上がる、今にも消えそうな程小さい二つの影と、悪魔のような卑劣さを映す巨大な影。すっかり荒らされた部屋の中央には二人の男女が倒れている。恐らくそれらは、この家の主人とその妻だろう。石釜や、鍛えられた剣がずらりと並ぶ風景からここは鍛冶屋なのだろう。
「クク……ぞくぞくするぜ…子供を殺すのはよ…」
血の付いたナイフを舌なめずりしながら、素早く柱の後ろに回りこんだ男は、驚愕した。一秒前までその場に居たはずの子供の姿が、消えていたのだ。
「どこだ!?」
すっかり油断していた男は、背後に剣を握った小さな子供が居る事に気がつかなかった。轟々と燃え盛る炎の音は、男の断末魔でさえもかき消してしまった……。
剣から滴り落ちる赤い液体を見ながら、子供の顔は見る見る間に真っ青になっていった。その後ろには、布で目隠しをされ震えている幼女が居た。何がおきたのか分からないのか、必死で子供名前を叫んでいる。
「…クリフ!クリフ……ッどうしたの……!」
「ちがう…」
カタカタと、刃に血がこびりついた剣を見ながら、子供──クリフはぶつぶつと否定し続けた。小さな体は傷だらけだったが、何よりも傷ついているのはその"清らかな心"だった。
「ちがう…ちがう…!僕がやったんじゃない!!」
勢いよく剣を床に落とすと、クリフは頭をむしり掻くように抱えた。水晶な様に輝いていた瞳孔は開き、唇からヒュウヒュウと乾いた呼吸音が出ている。
「クリフ…?」
目隠しされているエレスは首を傾げるばかりで、クリフが発狂寸前である事には気がついていない。そこでようやく、目を覆う布をずり下げ、クリフの様子がおかしい事に気がついた。そして、近くに赤い液体が付着した剣が転がっているのにも。
「──」
「……うぅ…」
その場に丸くなりながら、クリフはひたすら嗚咽を漏らし続けた。幼いエレスは、目の前の状況が理解できずに、ただ困惑していた。
「いやぁ…」
エレスのつぶらな瞳からは、堰を切ったかのように涙がこぼれだした。表情は引き攣り、倒れた男からじわりと血が流れ出すのを目撃し、震えはさらに大きくなった。
「いやぁーーーーー!!!」
「さん……エレスさん!」
「!!」
急に思考の糸が途切れたように、エレスは目を覚ました。嫌な汗が背中や額にびっしりと浮き出ている。息も心なしか荒い。
「大丈夫ですか?すごく魘されていましたよ」
心配そうに発せられた声の方を向くと、そこにはぼんやりとした輪郭と共に、アルの顔が現れた。それを見てようやく肩の力を抜いたエレスは、気だるそうに上半身を起こし、汗をぬぐった。
「……なんでもない──少し、嫌な夢を見ただけ」
そんなはずがない、心の中でアルはそう思った。あの魘されようは尋常ではなかった。何度も寝返りを打ち、悲鳴とも取れる声で呻いていた。しかし……。
目の前のエレスを見ながら、相当疲れているのだろう、ぼんやりとした眼差しでピクリとも動かない。真夜中であるのに加え、本人がこのような状態では、話すよりも寝てもらったほうがお互いいいだろう。頷くと、アルはエレスの華奢な肩に自分の手を載せ囁くように言った。
「……ひとりで、眠れますか?」
それを聞くと、エレスの肩がピクリと跳ねた。そして、先程の放心状態などなかったかのようにきつくアルを睨みつけた。
「私を馬鹿にしているのか?!」
思いも寄らない返答が返ってきたことにびっくりしたアルは、苦笑いを浮かべながら慌ててその手を下ろした。エレスが過剰なまでに怒るので、困惑してしまう。
「い、いえ……」
「そうか──なら、私のことなど気にしないで寝ろ……私はもう、誰にも」
そこで一旦言葉を区切ったエレスは、苦しそうにアルを見据えた。月明かりでしか視界が確保されない中で、アルはエレスの瞳が不安そうに揺れるのをはっきりと見た。意味深で、どこか哀愁漂うその瞳に、思わずドキリとする。
「……心配などかけさせはしない」
もう心配かけさせてるよな…とアルは思ったが、そのまま無言で毛布の中に滑り込んだ。それを見届けたエレスは、荒々しく横たわった。再び静かになる部屋には、先程までとは明らかに違う緊張感があった。
アルは今まで見た事のない、エレスの哀しみの一部を垣間見た気がして、その晩はぐっすりとは眠りに付く事が出来なかった。
エレスの過去…です。最初の方を覚えてくださってる方が居れば分かるかと思いますが、盗賊に襲われて死んだのは父親のみで、母親は"黒の住処"で細々と生きています。