第三章:【2】
城から一同が出る頃には、空は赤く染まり雨は止んでいた。宿舎への道をなぞるように生えている樹木の葉の表面に溜まった水滴のうち、一滴が真下に落下した。赤茶色の煉瓦道の凹凸部位に水溜りが出来ている。
アルはずっと俯いていた。後一ヵ月後に自分の母国との戦争が迫っている。知らないほうが良い事を知ってしまったのだ。
「……」
頭がくらくらし始めたが、先程からエレスが心配そうに自分の方を見ているのに気づいていたので、なるべく平静を装う。
「アル」
急に、前方を歩いていたベルナが振り返った。紅い長髪は山の向こうに沈んでいく夕陽と同化し、顔の左半分が影で真っ暗になっている。しかし残りの右半分でも、その紅い瞳は魔力を盛ったかのようにアルを射抜いた。
「……なぜ、か。分かるか?」
「……」
残りの幹部にはそのまま行くようベルナは指示し、ユウヤ・クリフ・エレスは一足先に宿舎へ入っていった。この時間帯になると町のヒトも騎士も全員寝床に帰るので、宿舎の前の広場は誰も居なかった。
ベルナが何について話しているのか理解できないアルは、ただ目を伏せるだけだった。いや、今の彼には何を言っても頭には入らないだろう。それほどまでに……アルは落ち込んでいた。
「なぜ、ティア嬢があの場に君も留まらせ、"あの話"を聞かせたのか、分かるか?」
返事をしないアルに苛苛する風でもなく、ベルナは丁寧に尋ねた。それを聞いたアルは、ようやく顔を上げ、接着剤が付いたかのように重い口を開いた。
「……分かりません……オレは……」
一面に生えた若草色の芝生が、通り風で波打つ。木の枝に止まっていた小鳥がそれにあわせて飛び立ち、茜色に染まった空に消えていった。
「オレは、あんな話聞きたくなかったです」
それを聞いたベルナは鍛えられた鋼のような腕をがっしりと組み、背丈の低いアルを見下げた。その紅い瞳は軽蔑よりも怒りよりも、興味を示している。
「何故だ?どちらにせよ、知ることになる話だったんだよ。ならば早い方が、心の準備が出来るだろう?」
「ベルナ団長は」
まだまだ角ばっていない、未発達なその肩が、微かに震えているのにベルナはようやく気がついた。アルは切れ長の瞳に涙を浮かべ、尊敬しているはずのベルナを凄まじい形相で睨んだ。
「オレが、"黒い狼"の団員になることを前提に話していらっしゃる」
それを聞いたベルナは、少しだけこめかみが痛むのを感じた。そして何も分かっていない目の前の少年に、悲しくなった。
「……アル。答えを言おう。君はティア嬢に選ばれた、恐らく──アゼルへの旅の団員にもなるだろう。でなければ、あの場から直に追い出していたはずだ」
それを聞いたアルは、今度こそ耐えられないと顔を伏せた。しかしベルナは、さらにアルの心を追い詰めるように続けた。
「君は知らない。あまりに真実を知らなすぎる──……人は誰でも、自分の信じるものが崩れるときに恐怖の念を抱く。今の君の感情は、至極当然なことだ」
震えが大きくなったアルの肩に、その大きな手を乗せると、ベルナは強引にアルを揺さぶり起こした。アルはその白藍色の清んだ瞳に涙の色を浮かべていた。顔は恐怖に歪んでいる。恐らく、これからやってくる衝撃の事実を、本能的に察知しているのだろう。
「……これから言う事を、しっかり聞くんだ。全て、真実なんだよ」
「嘘だ!!貴方は、そういってオレを騙そうとしているんだ!"黒い狼"の奴らなんか、信用できるものか!」
自分でも驚くほどの声で、アルは必死で否定した。しかしベルナは表情一つ変えず、ひたすら紅い瞳でアルを見据えた。
「嘘じゃない。ちゃんと聞くんだ……ケルディアの国民であった君には信じがたい話だろうが──14年程前、前ケルディア国王・クリストファー・ラウル王様は、現・国王ルドルフ・シュバイツァーに暗殺された」
「……っ」
アルは目を見開き、その瞬間目尻に溜まっていた透明な液体が頬を伝い零れ落ちた。驚きすぎて、声さえも発せられないのだろう。
「国王のみならず、その血脈を告ぐ者、親族、国王に関係する全ての者が殺されたんだ」
うそだ、とアルは呟いたつもりであったが、それは音になることはなかった。人の気配がしない宿舎前の広場には、幾重にも濃縮された様な、険悪な空気が漂っている。
「黒を持つ人種も、意味の無い殺戮の被害となった。何故か分かるか?クリストファー王が黒髪で、かつ黒を好んだからだ」
徐々に、アルはつかまれた二の腕が悲鳴を上げ始めるのを感じた。ベルナが凄まじい握力で彼の二の腕を掴んでいたからだ。
「君も黒を持つ者だ。全く無関係な訳ではない、"君の親族"──だって、被害を受けているはずだ」
それを聞いて、アルは脳裏に村の人からひどい言葉を投げかけられていた母の姿を思い出していた。アルに思い当たる節があるのを見たベルナは、ここぞとばかりにまくしたてた。
「さらに卑劣な事実が公衆の面前に晒されることを恐れたルドルフは、前国王は国民から預かった金を無駄遣いしていて、それがばれる事を恐れ国外に逃亡、一族も逃亡という、前国王の誇りを傷つける上に真っ赤な嘘の事実を国内外に発信した。奴は騙された国民を手玉に取り、この事実を知る者は側近だろうか、一切の遠慮をせず共謀犯だと極刑にした。こうして14年前のクーデタは、誰一人として疑うことなく記憶から忘れ去られた」
最後まで言い終えると、ベルナは心底悔しそうに奥歯を噛み閉めた。眉をぎゅっと寄せ、紅い瞳は自分が告げた事を恨むように怒りの色に満ちていた。
「君は、今までそんな"白の羊"に入りたいと思っていたんだ」
アルは放心状態で、痛む胃を押さえつけた。キリキリと、今まで自分の言動全てを責めるように体中が痛んだ。ベルナが嘘を言っているはずがなかった、アルはその事を理解した。
──エレスにクリフに、"黒い狼"は殺人集団だと。
目を固く瞑って、その度に涙は溢れ出した。ベルナはアルの睫毛についた水滴を見ながら、彼の柔らかな黒髪の上に手をポンと乗っけた。
「──"黒い狼"は、そのクーデタから命辛々生き延びたクリストファー家の末裔であるティア嬢と、黒の人々で組織された騎士団だ。もちろん、ティア嬢からその話を聞いて"黒い狼"に入団した者もいる。私やエレス達のようにな」
それを聞いて、アルの喉からくぐもったような声が発せられた。エレスが言っていた言葉の真意を聞かされ、その言葉の重みが分かる。
「──オレ……」
ベルナの分厚い手の平で髪をかきまぜられながら、アルは涙を手の甲で強引に拭った。そしてどうしても出てくる涙を嫌悪するように眉をきつく寄せ、極力声が震えない様に区切りながら言った。
「オレ、そんな事しらずに、エレスさん、とか。クリフとかに、いろんな事言いました……!それに、何で──皆がティアベルという少女の事を敬うのか……黒の狼と白の羊が何故こんなにも敵対しているのか、黒い狼に悪い人なんか居ないのに──どうしても、拒絶してしまったり、分からない事だらけで、」
頷きながら、ベルナは穏やかに微笑んだ。その目はまるで、子供を見守る父のようなぬくもりがあった。
「……ああ。私だって、始めはそうだったさ」
それを聞いて、アルは流れ出る涙をもう拭わずにベルナを見上げた。
「ベルナ、団長も、ですか?」
「ああ。当たり前だろ?12歳やそこらの一般の少女の話を、立派な成人男性の私が信じられると思うか?」
ベルナが悪戯っぽく返すと、アルは一瞬息を詰まらせ躊躇する仕草を見せたが、次の時には驚嘆の声を上げた。
「──じゃあ、どうやって信じたのですか?どう考えても、ケルディアの方が信じられる……」
ベルナは手を離しそのまま腕組みをすると、神妙な面持ちで押し黙った。それを見て、アルはまた自分が何かへまをしでかしたのかと心配になった。
「12歳の少女が話す事にしては──悲しすぎたんだ」
ベルナは細長の目を光らせながら、何故かアルを威嚇するように言った。まるでこの話題にはこれ以上触れるなとでも言うような威圧感だ。それを感じたアルが思わず息を呑んだのを、ベルナは噴出した。何が何だか分からないといった様子できょとんとしているアルに、腹を抱えながら、ベルナは握り拳でアルの肩を押した。
「──あまり気にするな、そのときが来れば、ティア嬢からお話になるだろう。お、ほら。もう夕陽も落ちる……宿舎に入って夕食を食べるぞ」
よろめきながら、アルは宿舎の入り口に向かって歩き出したベルナの広い背中を見た。とても力強くて、頼りがいもある。
……いつの日か、自分もあのように素晴らしい男になれるのだろうか。
すると不意にベルナが振り返った。
「そうだ、後もう一つ。君、すぐ泣くのはやめた方がいいよ。今の年だからかろうじで許されるけど、"黒い狼"は敵の面前で泣く事を何よりも嫌うからね。じゃあ」
羞恥で顔が真っ赤になったアルは、思わず俯いた。
……そろそろ感想が欲しいかも、です…笑"