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神を喰らう少年と、神に祈る少女  作者: 朽木 良平
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神と呼ばれるもの

 イノが校舎を探し回ると、セイはすぐに見つかった。一階の談話室でダンを始め、他のクラスの友人達と、楽しそうに話していたのだ。

「セイさん」

 イノが呼びかける。

「やぁ、イノ。どうかしたんですか?」

「あの、話しがあります。えっと」

 周りを見る。

 他の人達が好奇の視線で見てきている。

 ここで、悪魔ですか? とは、さすがに尋ねることはできない。

「一緒に来てもらって良いですか?」

「ええ。良いですよ」

 セイは頷いて立ち上がり、他の人に謝りながら、談話室から出てくる。

「ごめんなさい。他の人と話している時に」

 イノが謝ると、セイは微笑んで肩を竦める。

「別に構いませんよ。ただ、馬鹿な話をして、盛り上がってただけですから」

「でも、他の人達が嫌な気分になったんじゃないですか?」

 イノの心配し過ぎな言葉にセイは笑い出す。

「はは、そんなことないですよ。むしろ、私をからかう内容ができたとでも思ってますよ」

「からかいですか?」

「そうです。イノと私が付き合っていると思っている人が結構いるんですよ。だから、今回の事を鬼の首でも取ったかのように言ってくるでしょうね」

「付き合って――」

 イノは自分の顔が赤くなるのを自覚する。

「そんなこと、断じてありません」

 イノが慌てて否定する。

「ふふ、そうですね」

 そのあまりの否定の強さに、セイは苦笑しながら頷く。

 断定したのはイノ自身とはいえ、あっさり頷かれるのも良い気分ではない。

 イノは無言で先を歩き出す。

 そんな姿に、セイは声を押し殺して笑う。

「で、イノ。どこに行くんですか?」

 そろそろ落ち着いただろうと、先を行くイノに声をかける。

「えっと、誰もいないところが良いのですが」

 イノはキョロキョロしながら歩くが、意外に廊下は人通りがある。

 だから、声が筒抜けになる教室は駄目だろう。どこに行くべきか。

「誰もいない場所なら、心当たりがあります」

 セイが手招きするので、イノはセイの後を歩き出す。

 

 セイが連れて来たのは校舎の屋根だった。

 正確には、校舎の屋根の中で一段高くなっている、時間を告げる大きな鐘が置かれている踊り場だ。

「こんなところがあったんですか」

 イノの声には感嘆の感情が入っている。

 この校舎は周りの建物よりも高いので、周囲の町並みが見渡せる。

 タイミングが良かったのだろう。周囲の建物は夕焼けの光で、温かな色に染まっている。

 見ているだけで心が温まってくるようだ。

「凄いですね」

 改めて、イノは感想を言う。

 イノにとって高い場所から見下ろすのは初めてだった。

「そうですね」

 セイも、景色に浸るように、軽く答える。

 二人はゆったりと町並みを眺め続ける。

 ただ、セイと二人でこの景色を見ている。それだけのことに、イノは幸せを感じる。できることなら、この時間が永遠に続けば良いとすら思ってしまう。

 しかし、そういうわけにはいかない。

 自分の全てを、神様に捧げようとしているイノが、そんなことを願ってはいけないのだ。

「ここは素晴らしい場所なのに、なんで他の人は来ないのでしょう?」

 この静かで優しい時間を、イノ自ら壊し、セイに質問する。

「この場所は、立ち入り禁止場所ですからね」

「なっ」

 セイの思わぬ答えに絶句する。

「だって、勝手に入り込まれて、鐘を突かれちゃ駄目じゃないですか」

 時間を告げる大鐘を軽く叩きながら言う。

「そうですけれど、ならなんで、セイさんはここに来てるんですか」

 イノは怒るが、悪戯っ子の笑顔そのものの顔をセイは浮かべている。

「景色が綺麗だから」

「もう、セイさんは」

 あまりにも我が儘で簡潔な理由に、イノは怒りを通り越して呆れて笑ってしまう。

 しかし、イノの笑いは長くは続かなかった。

「それで、イノは何の用があったんですか?」

 セイの質問に、イノの笑いが止まる。

 心の中に氷を詰め込まれたように、イノの気持ちが冷えていく。

 最初の目的を思い出したのだ。

 そして次に、悪いことを簡単にしてしまうセイは、アクシンの言う通り、本当に悪魔なのかもしれないと思えてしまったのだ。

「それは――」

 イノはガサつく喉を潤そうと唾を飲み込む。まるで、鉛を飲み込むかのように、上手くいかない。

「それは……」

 また、言葉の続きが出て来ない。

 怖いのだ。真実を知るのが。

 セイが悪魔だったら、今までの幸せが、全て騙された、偽りのものになるということだ。

「……それは」

 言えない。

 聞けない。

 できない。

 もし、本当にセイが悪魔だったのなら、今も向けてくれている優しげな微笑みが、敵意の眼差しに変わってしまうのだ。

 怖い。

 想像しただけで、心の中にぽっかりと穴が空いてしまったような気分になる。

「えっと、人形を落としてましたよ。教会に」

 イノはポケットから、セイの人形を取り出して、セイに渡す。

 誤魔化したのだ。逃げたのだ。自分の弱さが嫌になる。

「そうですか。良かった。ありがとうございます」

 セイは受け取り、素直に喜んでいる。

 それに引き換え、自分は全然素直になれていないと、イノは口を噤んでしまう。

 不自然な沈黙が流れてしまう。いつもは、二人の間に流れる沈黙も、安らかな気分になるのに、今のイノには、苦痛だった。

「明後日ですね」

 セイは押し黙るイノに言う。

 一瞬、何のことかわからず、イノは首を傾げるが、すぐに思いつく。

 セイと図書館に行く約束をしているのだ。そして、イノにとって、人間としての最後の休日でもある。

「そうですね。楽しみです」

 イノは思う。最後の休日を、いつも通りの安らかな時間でありたいと。

「ええ、私もです。なんでも、自動車という汽車を小さくした物の実験をするらしいんですよ。どんなものか今から楽しみです。汽車のようにレールを走るんでしょうね。……でも、図書館にはレールなんてありませんしね。いったい、どんな乗り物なんでしょう?」

 子供のようにはしゃぐセイに、イノは自然に微笑んでしまった。今まで強張っていた心が嘘のように。

 イノは思ってしまった。もう少しこのままでいたいと。


「で、どうだったんだ?」

 寮の部屋に戻ってきたセイに、ベッドに寝転がっていたダンが、身を起こして尋ねてくる。

「どうって、何がですか?」

「イノだよ。あれは告白するために、お前を呼び出したと見たね」

 ダンの言葉にセイは思い返す。

 今日の授業中にイノが自分のことを避けていることにセイは気付いていた。だから、もしかしたらその可能性もあるかもと、思ったりもした。

 しかし、イノが言葉を詰まらせたあの時の表情は、告白とは程遠いものだった。

 ましてや、ただ人形を渡すだけでもなかったのだろう。

 何かを恐れているように見えた。何か痛みを堪えているようにも見えた。

 まるで……。

 セイは首を振り、笑い飛ばす。

「はは、残念ながらそんなことはありませんでしたよ」

「……そうか」

 一瞬考え込んだセイを、ダンは不思議に感じはしたものの、知られたくない事だろうと、気付かなかったフリをする。

 ダンは興味をなくしたとばかりにベッドに寝転がり、本を読みだした。

「何を読んでるんですか?」

 セイは気になって尋ねる。この三ヶ月ほど一緒に暮らしてきたのだ。ダンがあまり本を読むような人間じゃないのを既に知っている。

 普段はトランプなどのゲームを周囲の部屋の友人と共にしたり、ラジオを聞いたりしているのだ。

 だから、大人しく本を読んでいる姿が気になった。

「来週、二日間学校が立ち入り禁止になるじゃん。だから、その休みを利用して、俺たちの演劇を発表するのさ」

 ダンに渡された本を見ると、中は台本だった。

 セイは思い出す。ダンが放課後、仲間達と演劇の練習をしているのを。

「ついに実行するんですか」

 セイは素直に感心する。

「まぁ、皆、まだ下手くそだし、ちゃんとした準備ができているわけでもないけどな」

 ダンは自分達の演劇を思って苦笑する。

「良いじゃないですか、下手でも。いつの日か、大舞台に立つための一歩。夢があって素晴らしいですよ」

「セイにはそういうのはないのか?」

 ダンは照れを誤魔化し、逆にセイに尋ねる。

 セイは考えてみる。自分がしてみたいことを。

「……そうですね。私はいつか機械造りの仕事をしてみたいですね」

「ああ、お前好きだもんな。良いんじゃないか。いつかなんか言わず、今すぐ行動を起こせよ」

 ダンの純粋すぎる言葉にセイは苦笑する。

 ダンの言う通り、行動できたらどんなに素晴らしいだろう。

 だが、セイにはやるべきことがある。

 それは周囲の人間からは理解されないことかもしれない。

 それでもそれは、セイにとっては何よりも優先すべきことなのだ。

「そうですね。考えてみます」

 セイは誤魔化す。考えるまでも無く、答えは出ているのだ。

「考えるから駄目なのさ。やりたいことは即行動。それが一番だぜ」

「はは、そうですね」

 セイは素直に夢に向かうダンを羨ましく思う。


 悪魔に襲われてから数日が経ち休日になる。

 あれから悪魔に襲われることはなかったが。まだまだ油断して良いものではない。

 そんな中、イノは迷っていた。

 自ら棚をひっくり返し、出した服を全部、ベッドに並べて見比べる。

「地味だね」

 シズミの言葉にイノは肩を落とす。

 今日はセイと二人で出かける日だ。

 イノは普段の服装で出かけようと思っていたのだが、シズミにデートなのだから、お洒落をするべきだと言われたのだ。

 まぁ、一理あるとイノは思い、持っていた服を全て出してみるが、しかし、修道服と対して変わらない服しか出て来ない。イノはアーデルではずっと修道服だったのだ。こちらに来てからも似たような服しか選んでいなかった。

 一番お洒落そうなものが、制服だったという事実に涙すらでそうになる。

 そもそも、お洒落とはなんだろう? と、イノは遠い目になる。

「ったく、年頃の女の子なんだから、勝負服の一つや二つ、持ってなさいよ」

 シズミは呆れながら、自らの棚を開ける。

「なんか貸してあげるから、それでお洒落して行きなさい」

「良いんですか?」

「良いわよ」

 そう言いながら、シズミは服を取り出す。

「こんなのどうかな?」

 シズミが意地悪な笑みを浮かべ、イノにミニスカートを見せる。

「無理です。そんなの無理です。足剥き出しじゃないですか」

 ミニスカートを着た自分の姿を想像して顔を真っ赤にする。

「無理じゃないって。ここは私に任せなさい」

 シズミは自信満々にニヤリと笑う。


「すいません。待たせてしまいましたか?」

 待ち合わせ場所の校門にイノが行くと、セイは既に待っていた。

「いや、来たばかりさ」

 そう言って、セイはイノの格好をマジマジと見詰める。

 イノは恥ずかしくなってしまう。

 シズミに選んでもらったのは、淡い水色のワンピースに、白いカーディガンだ。シズミが言うには、いきなり派手な格好をしたところで、相手に引かれる可能性が高いし、こういう大人し目の格好の方が、イノの清楚な雰囲気が際立って似合うということだ。

 しかし、イノは自分に似合っているという実感が湧かない。

「ふふっ、どこのお嬢さんですかって、格好をしてますね」

 セイは笑う。

「似合って無いですよね。おかしいですよね。やっぱり、着替えてきます」

 イノは部屋に戻ろうとするが、イノの手をセイが掴んで引き止める。

「似合ってますよ。もう、どこの御令嬢だろうかってぐらいに」

「そうでしょうか?」

「そうさ。ただ、あまり見ない格好だから驚いただけですよ。どうしたんですか。その服?」

「シズミさんが貸してくれたんです。デ」

 イノが急に黙るのでセイは不思議そうに首を傾げる。

「デ、何?」

 言葉の続きをセイが聞いて来たが、まさか、デートだからお洒落をしたなんてイノには言えない。

「なんでもないです。行きましょう」

 イノは真っ赤になりながら、先を歩き出す。セイは首を傾げながらもイノの後を追った。


 図書館に着いた。

 セイは、自動車の展示を司書の人に尋ねると、どうやら午後の三時からなのだそうだ。

 時計を見ると、十一時になる少し前といったところだ。完全に早く来すぎた。

「始まるまで四時間近くですか。張り切りすぎましたかね?」

 セイは少し恥ずかしくなる。

 前もって、ちゃんと調べておけば良かったと後悔する。

「ふふ、まぁ、良いじゃないですか。その間、本でも読んでましょう」

 イノは微笑んで、本を扱っているフロアに入っていく。

 イノにとっては、自動車と言うものを見てみたいという気持ちもあるが、それより、図書館で本を読んでいる方が望ましいのだろう。

 セイもイノの後に続く。

「イノは何を読むんですか? 」

「今日は、二十年前の機械革命を扱った本を読んでみようと思います」

「ああ、機械革命ですか。確か、工神士の知識が広がったんですよね」

「ええ、そうです。良く知ってますね。一般的には、教会が教え広めたことになっているんですけれど、実際は何者かが、工神士の知識を奪い、広めた。その事件の名を、我々は、知の罪悪と呼んでいます」

「悪魔の仕業だったのでしょう?」

「ええ、そうです。隣国のクオンの送り込んだ悪魔かもしれないと言われています」

「どうしてですか? 機械が広がってから、この国は、疲弊するどころか、むしろ、裕福になってますよ」

「ええ、でも、神を信仰する者は少なくなっています」

 確かにと、セイは思う。

 この国は宗教国家だ。国民の八割は教会の教えを信じ、神を信仰している。

 それでも少しずつ、少なくなっている。

 機械が無い頃は、九割以上の人間が信仰していた。しかし機械ができ、他の国との交流も盛んになったことで、他の考え方と接する機会も増え、信仰しなくなる人が増えてきているのだ。

 それもこのような都市に住む、裕福層の中で。

 それは宗教で成り立っているこの国にとっては、由々しき事態だと言えるだろう。

「なるほど。そうなのかもしれないですね。クオンにとっては、この国の神性を無くせば、敵対する理由がなくなりますしね。もしかしたら、この前の悪魔も、クオンの差し金かもしれないですね」

 スズネは教王の影響力を強めたくないと言っていた。今の教王は主戦派なのだ。

 聖戦と称して、クオンとの戦争をしようとしている。

 それでも戦争にならないのは、周囲の保守派が止めているから、今は戦争にならずに済んでいるのだ。しかし、教王の影響力が強くなれば、戦争が起きてしまうかもしれない。

 つまり、スズネは戦争を避けたいと思っている人が送り込んできたのかもしれない。

「そういえば、アクシン神父も、知の罪悪での戦いに参加していたみたいですよ」

「へぇ~、……居たかな?」

 セイがポツリと言った言葉を、イノは聞き逃す。

「何か言いました?」

「ううん。何も」

 セイは首を横に振る。

「そうですか」

 イノは他のことを考えていた。

 自分が天使になれば、戦争を起こすことになるのでは無いかと、天使になることにさらなる不安を感じてしまっていたのだ。

 祖父の教王がどう思っていようと、イノにしてみれば、戦争なんて起こっては欲しくない。

「イノは天使になるんですか?」

 まるで、イノの不安を見透かしたようにセイが尋ねる。

「ええ、……なります」

 イノは自分の中の迷いを振り切って答える。

「……そうですか」

 その時のセイの答えには、何の感情も窺うことはできなかった。

 それが感心しているのか、祝福しているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか。イノに推し量ることはできなかった。


 午後までの時間、二人は本を読む。

 二人でいるこのゆったりとした時間はイノだけでなく、セイも好きだ。それでも、この時間は長くは続かない。

 イノの様子を見ているとそれがわかる。

 神迎えの儀式が近いのだろう。そして、おそらくそれは、突然休みになった来週の水曜か木曜のどちらか。

「な、何か、私の顔に付いてますか?」

 セイが自分の事をじっと見つめているのに気付いて、イノは顔を赤くする。

「ああ、すいません。なんだか、このゆったりとした雰囲気が、とても良いなと思っていただけです」

「ふふ、そうですね」

 セイの言葉にイノは微笑む。

 セイは思う。

 この人を守らなくてはいけないと。

 例えそれが、イノの望んだものでなくとも。


 そろそろ時間だと、セイ達は広場へとやってきていた。

 そこには、セイ達のように、自動車を見に来た多くの見物客がいる。セイはなんとか人の少ないところを探して、置かれている物を見ようとする。

 人々の視線の先には、ベッドが三つくらい並びそうな、大きな物体が置かれている。まだ、布が被さっているので、どんな形をしているのかもわからない。

 おそらくそれが自動車なのだろうとセイは思い、周りを見回す。

「レールは無いのでしょうか?」

 小型の汽車だという話しだから、走るための線路は必要だろう。だから、周りを見ていたのだが、それらしきものは無い。

「運転はしないんですかね?」

 セイの言葉に落胆が混ざる。

 自動車を見れるということだけでも、嬉しいことは嬉しいが、どうせなら、動いているところを見たいと思うのは当然だろう。

「もう、セイさん。置いてかないで下さいよ」

 セイになんとか追いついたイノに、文句を言われたことで、自分がイノを置いて行ったことに、今さら気付く。

「ごめんなさい。つい、夢中になってしまいました」

「全く、セイさんらしいですね。ふふ」

 イノは呆れ口調で言ったかと思うと、突然笑い出す。

「なんですか突然」

 セイが不思議そうに眉根を寄せる。

「セイさんって、普段は大人のように振舞っているのに、本当に子供みたいですね。ふふ」

「子供で悪かったですね」

 セイの言葉が、まるで拗ねた子供のように聞こえ、イノの笑いを更に誘う。

「悪いだなんて、そんなことないですよ。セイさんは頼りになる人だというのは、この前の教会の件でわかっていますし、それに、子供っぽいセイさんは可愛いと思います」

「可愛い、ですか」

 セイは戸惑う。

 男としては、可愛いなんて言われても、そんなに嬉しくないし、下手をすれば侮辱だ。しかし、イノは本気で褒めてくれているのだろう。

 だから、喜ぶこともできないし、怒ることもできない。

「あっ、始まるみたいですよ」

 どう答えたものかと考えているうちに、どうやら特別展示が始まる準備ができたようだ。

 イノに促され、セイも視線を向ける。

 身なりの良い初老の男が、自動車の横に立ち、皆に向かって挨拶をし始める。

「皆さん。ようこそ御出で下さいました。私はこの図書館の管理をしている司書長のスガです。これから貴方がたがご覧になる物は、おそらく将来的には、人々の生活に無くてはならない物となるものでしょう。いずれ――」

 長々と、司書長の話しが続く、その話は、自動車が、これからどのように、役立つかということと、自分達の功績と、自慢話だ。

 そんなものを聞きたくて来たのではない。良いから早く、自動車を見せてくれと、セイは心から思う。

 見物客からも、欠伸が出始めた。それを見た司書長が、皆が退屈し始めていると気付く。(実際は、はるか前から皆退屈しているが)

 司書長は話しをまとめ、終わらせる。

「――では、長々としたお話ですいませんでした。それではご覧頂きましょう。これが自動車です」

 司書長の言葉と共に、自動車の近くに居た従業員が、白い布を勢いよく取りはらう。

 どよめきが起こる。

 そこにあったのは、汽車なんかよりよっぽどコンパクトな乗り物だ。

 座席は二つしかなく、そして、座席の前の部分には動力炉があるのだろう。割合的に不格好なほど大きくなっている。

「それでは、これより、自動車を動かそうと思います」

 司書長はそう言って、自動車へ近付いて行く。

「動かすんだ」

 セイの目は期待に、キラキラと輝き出す。


「凄かったです。本当に凄かったです」

 図書館からの帰り道、セイは興奮冷めやらぬと言った雰囲気で同じことばかり繰り返す。

 子供の様なセイに、イノは微笑む。

 確かに自動車は凄かったとは思う。

レールなど使わずに、操縦者の操作通りの方向へ動いて行く。イノにとっても、驚くべきものだった。

「確かに凄かったですね。けれど、馬の方が乗り物としては優れていませんか?」

 イノの見た自動車は駆動音は大きくうるさいし、車の横に付いた煙突から出る煙は、視界が悪くなる。

 それなのに、走る速さも馬とたいして変わらないし、小回りに至っては、馬の方が遥かに良い。

 確かにあんなに大きな鉄の塊が動くのは凄いけれど、それだけだ。

 先程の司書長の言ってたように、誰もが必要とする物になるとは思えない。

 イノの言葉にセイは考える。

「う~ん、確かにそうですね。乗り物としては、遥かに馬の方が良いでしょう。しかし、それは今の話しです。馬には限界があります。しかし、機械には限界はないんです。どんどん成長していきます。いずれは馬より優れた物になるでしょう」

「なるほど、そうなのかもしれませんね。それはいつ頃でしょうか?」

「さぁ、二十年後か、三十年後か。まだまだ先の話です」

 人は目の前のことにのみ意識が行き、先のことまで考えることをしない。

 そう、先程のイノ自身も目の前のことしか考えていなかった。

 だから、自動車を素直に称賛できず、馬の方が優れていると、ケチを付けてしまった。

 先のことを考えるセイに、イノは感心する。

 歩いていると、イノは小さな公園が目に入る。

 砂場とベンチがあるだけの小さなものだ。

 それでも、子供達は友達がいるだけで遊びを見つけられるのだろう。楽しそうな声が響いてくる。

 イノは立ち止まる。

「セイさん。公園に寄っていきませんか?」

「ん? 良いですよ」

 イノの申し出に、セイは頷いてくれた。

 二人は公園に入ると、空いているベンチに腰をかけ、遊びまわる子供達を眺める。

 イノはアーデルの修道院に居た頃、子供の面倒を見たことが幾度となくあり、子供と触れ合うことは好きだった。

 子供の様子を見ていると、当時の事を思い出し、微笑ましい気持ちになる。

 横を見ると、セイがとても穏やかな目で子供達を見ていた。

 セイは孤児院で子供たちの面倒を見ていたという。同じ気持ちになっているのかもしれない。

 二人は干渉に浸っていると、段々と、日が暮れていき、子供達が、迎えに来た親たちによって連れられて行く。

 まだ、遊び足らないのだろう。不平不満を親に言い、逆に怒られてしまう子供もいる。

 物心付いた時から、修道院に入っていたイノにとって、そう言った親子のやり取りは微笑ましくも、とても羨ましく思う。

 修道院のシスター達は優しくしてくれたけれど、教王の孫娘ということで、イノにどこか遠慮していた。

 だから、そういった遠慮のない家族関係にひどく憧れる。

 いずれは、誰かの妻となり、子を儲けて母となり、憧れの家族を手に入れることを、何度も夢見たことか。

 しかし、運命はそれを許さなかった。

 イノは天使になるのだ。

 誰かの妻となることも無く、母にもなれず、子を持てず。

 気付いたら、ほとんどの子供は帰ってしまっていた。公園には、小さな男の子が一人、砂場で遊んでいるだけだった。

 友達は全員帰ってしまったのだろう。

 その背中が寂しそうに見えたので、イノは男の子に話しかける。

「君は帰らないのですか? 他のお友達は帰ってしまったのでしょう?」

 しかし、男の子はイノに対して煩わしそうな顔をしてそっぽを向く。

「えっと、お父さんやお母さんが心配しているのではないですか?」

 再度、尋ねるが、完全に無視されてしまう。

 イノはどうしたものかと考える。

 今まで世話をした子供達の中に、こういった意地を張るような子供もいた。それでも根気よく話しかけ続ければ、何カ月という時間はかかってしまうけれど心を開いてくれる。

 だが、今はそんな時間をかけられる状況ではない。

 イノが悩んでいるのを見て、セイは行動に出る。

 セイは近くにある水場まで行き、そこに積んであるバケツを手に取り、ポンプ式の水道をガシャコ、ガシャコと動かして、水を汲む。

 セイは水を汲んだバケツを手に、砂場まで戻ってくる。

「何をするんですか?」

 イノは男の子に聞こえないように、小声で尋ねる。

「遊ぶんですよ」

「遊ぶんですか?」

「まぁ、見てて下さい」

 セイも小声でそう答えると、砂場に座り込み、砂の山を作る。そして、その砂山に水をかけて、ある程度固めると、形を作り始める。

 イノはてっきり、男の子と遊ぶのかと思ったのだが、セイは一人で作っている。

 セイの砂山は、見る見るうちに、お城へと姿を変えていく。

「凄い」

 イノは思わず呟いた。

 セイの手は繊細かつ、時に大胆に動き、砂はセイの手の動きに合わせて、見る見る形を与えていく。それはまるで、魔法みたいだと、イノは思う。

 イノはセイに見惚れていたが、男の子の事を思い出す。

 男の子もセイの技術に見惚れていた。

「ねぇ、おじさん」

 男の子が初めて話す。

「おじさんって、私のことでしょうか?」

 セイはイノに尋ねる。

「ふふ、少なくとも、私ではないですよ」

 イノの答えに、セイは苦笑し、男の子に視線を戻す。

「なんですか、少年。おじさんに何か用ですか?」

「あのさ、おじさんの砂のお城は凄いね。僕もそういう風に作れるかな?」

 男の子はキラキラと憧れるような視線をセイに向けてくる。

 その男の子の、子供らしい素直な姿に、イノは安心する。先程までの素っ気ない様子は、こちらを警戒していただけなのかもしれない。

 これならば、一人残っている事情も、すぐに聞き出すこともできるだろうと、イノは思った。

「ん~。無理ですね」

 男の子の質問に、セイは少し考えただけで、あっさり首を振る。

「ちょっと、セイさん。無理だなんて言わなくても」

 あまりにも子供に対して、夢をぶち壊すようなことを言うセイを、イノは咎める。しかし、セイは気にした風も無く、肩を竦める。

「だって、この技術は小さい頃から頑張って、頑張り抜いてやっと手にした技術なんですよ。こんな子供にあっさり作られたら、私が泣きますよ」

「それはそうかもしれませんけれど」

 イノは、頭痛でもするかのように、頭を押さえる。

 セイはそんなイノに、任せて下さいと、合図を送り、男の子に向き直る。

「やっぱり無理なのかな」

 男の子は俯いて、とても暗い顔をしている。

「ええ、無理ですね。今の君には決定的に足りない物があるのです」

「足りない物?」

 男の子はセイの言葉に顔を上げる。

「それは努力と根性。人は努力なくして、上に進むことはできない。そして、人に無理だと言われたくらいで諦めてしまうような根性では、必ず成功するという保証のない努力を、続けることなどできるわけがないのです」

 セイは握り拳を作って、熱弁する。

「頑張れば出来るの?」

「だから、努力すれば出来ると決まっているわけではないんです。でも、努力をしなければ、できる可能性もないんですよ」

 イノはセイの言うことに感心する。

 確かに世の中そういうものだ。

 どんなに努力したところでそれが必ず報われるとは限らない。むしろ、努力が実らず、無駄になってしまうことの方が遥かに多いだろう。

 それでも、努力をしなければ、目標に辿り着くことは絶対にない。

 努力をしないということは、目標に辿り着く可能性すら捨ててしまうことになるのだ。

 イノは感心するものの、思ってしまう。

 子供に言うようなことではない。むしろ、子供には、努力すれば報われる世の中であると、思っていて欲しいと。

「僕、頑張ってみる」

 それでも、セイの熱意は伝わったのだろう。男の子は努力することにする。

「そうですか。では、私も協力しますよ」

 セイは優しい笑みを浮かべ、男の子に教え始める。

 男の子はセイに打ち解けたのか、セイに頼りながらも、仲良く二人で砂のお城を作っている。

 完全に取り残されたイノは、少し離れたベンチに座りながら、二人の様子を眺める。

 ただ眺めているだけでも、二人の様子が微笑ましく、見ていて飽きない。

 男の子に、最初は厳しいことを言っていたセイだが、教え諭し、今では優しく支えて上げている。

 それはまるで父親のようだとイノは思った。

 イノは自分の父親に会ったことはない。だから、イノの中には、自分の憧れる父親像というものがある。

 普段は厳しいことを言いながらも、それでも常に子供のことを思って、優しく支えてくれる。そんな父親を、イノは憧れていた。

 そして、男の子と一緒に遊んでいるセイに、そんな憧れの父親像が被るのだ。

 イノは妄想する。

 セイと男の子が遊ぶ姿を、親子があそんでいる姿だと。そして、その二人をゆったりと見詰めている自分はまるで‥‥‥。

 イノは自らの妄想に、顔を真っ赤にしてしまう。

 先程の妄想は、イノの人生では、決して起こらないことだ。でも、それが本当だったのなら、どんなに幸せだろうか。

 イノは祈る。

 自分の心の迷いを無くすために。

 もう、天使になることは決まっているのだと。


 日は完全に暮れて、電灯の光が付き始める。

「セイさん。そろそろ」

 もう、夜になってしまった。

 さすがにこれ以上、遊んでいるわけにはいかない。

「そうですね」

 セイは立ち上がって服に付いた泥と砂を叩き落す。

「君も帰りなさい」

 セイが男の子にそう言うと、男の子の顔は一気に曇る。

「どうしたの? 帰りたくないの?」

 イノは男の子の前にしゃがみ、男の子の目を覗き込む。

 セイとの交流のおかげか、男の子の中には突っぱねる気持ちは無くなったようだ。おずおずとだが、口を開く。

「僕には、帰る場所が無いから」

「帰る場所が無い?」

 男の子は頷き、事情を打ち明け始める。

 男の子の話では、母親と喧嘩をしたらしい。

 普通の一般家庭だ。今まで母親との軽い口喧嘩なんかは、幾度となくあったものだ。

 だが、今回は違った。

 母親との諍いはいつもとは違って激しくなり、男の子は家を逃げ出した。その時、母親は言ってしまったのだ。

 お前なんかいなければ良かったと。

 男の子はとても素直な子なのだ。

 だからこそ、母親の思わず言ってしまった心無い言葉に、男の子は真に受けてしまったのだろうと、イノは思った。

「大丈夫ですよ。子供を大切に思わない母親なんていませんよ。ね? セイさん」

 イノは男の子を安心させようと、セイに同意を求める。

 セイはどう答えようか考えるように、周りを見回す。そして、何かを見つけたのかような反応すると、イノに視線を戻して自らの考えを述べる。

「そんなことないですよ。この世には子供を売ったり、子供を虐待して殺してしまったりということは実際にあることです。それこそ、子供を捨てたいと思っている親だっていっぱいいますよ」

「セイさん」

 無駄に自信を持って言うセイを、イノは恨めしそうに見上げる。

 しかし、セイは既に、イノの方など見ずに、公園の外を見ている。

 イノはセイが何を見詰めているのか気になって、セイの目線の先を追う。

「でも、君のお母さんは、君のことを捨てようとなんて思っていないですよ」

 セイは落ち込む男の子の頭を撫で、公園の外に男の子の視線を向けさせる。

「そうじゃ無ければ、あんなに必死に、君のことを探さないでしょう?」

 公園の外には、必死の形相で、髪を振り乱し、走り回る女性がいた。

 女性がこちらに気付いて叫ぶ。

 その声はガラガラに掠れていて、何を言っているのか聞き取れない。けれどきっと、男の子の名前を叫んでいるのだろう。

「お母さん」

 男の子も自らの母親の姿に気付き、大声で叫んで、母親の下に走っていく。

 二人は抱きしめ合い、謝り合う。

 イノはそれを眩しげに見つめ、二人を無事に出会ったことに、神に感謝の祈りを捧げる。

 落ち着いた親子は、面倒を見てくれていたセイ達にお礼を言うと、仲良く手を繋いで帰って行った。

 その背中に、これからの幸せがあらんことを、イノは祈る。

「ふふ」

 イノが祈り終わると、突然笑い出した。

「どうしたんですか」

 セイが尋ねると、イノが悪戯っぽく見てくる。

「なんだか、セイさんに子供ができたら、その子は、斜に構えた子になりそうだなって、想像してしまって」

「そうですかね?」

「だって、酷いことばかり言ってたじゃないですか。努力は必ず報われるとは限らないとか、親は子供を見捨てることができるとか」

「ん~、事実です」

 セイは眉根を寄せるが、きっぱりと言う。

 セイは教会の孤児院にいたのだ。色々なところから、色々な事情で子供達がやってきていた。それこそ、親に虐待されて逃げ出した子供や、捨てられた子供もだ。

 そして、そうした子供は親がいないというだけで、努力を軽視されもする。

 セイにはそんなことはないなんて言いたくないのだろう。

「まぁ、悲しいことにそうですけれど、子供に言うことではないと思いますよ」

「でも、辛い現実は知っておくべきだと思いますよ」

「そうかもしれませんけれど、だからこそ、それに耐えうる準備も必要なんですよ。そして、セイさんはそれをあたえてないんです。だから、セイさんの子供は斜に構えた子になっちゃうんです」

「斜に構えるの決定なんですか?」

「決定です」

 イノの断定にセイは苦笑する。

「そうですか。私としては、イノに似て欲しいのですけれど」

 セイは残念そうに言うが、イノとしては聞き捨てならない言葉だった。

「……私ですか?」

「ええ」

 イノが確認すると、セイはあっさり微笑みながら頷く。

 セイの言葉の真意を想像して、イノは顔を真っ赤に染める。

 セイの言葉を正面から受け止めれば、セイの子の母親は、イノということになる。つまりそれは、セイと夫婦になるということだ。

 イノは首を振って、妄想をなんとか追い払う。

 セイのことだ。言葉通りの意味ではないだろう。

「それにしても、良くあの人が、お母さんだってわかりましたね」

 イノは話題を変えようと、先程の疑問を口にした。

 電灯に照らされてたとはいえ、公園の外の道は薄暗く、そして何より、セイはあの男の子のお母さんなんて知らないはずだ。

 セイは肩を竦める。

「今まで電灯の無い村で暮らしてましたから、多少なら夜目は利くんですよ。そして、こんな時間に必死で探しまわっている女の人がいたら、それは、あの子のお母さんぐらいしか思い浮かびませんから」

「そうかもしれませんけれど、もし違ったら、どうするつもりだったんですか?」

「さぁ、わかりません。でも、良いじゃないですか。上手くいったのだから。教会風に言えば、これぞ、神のお導きって奴ですよ」

 セイはおどけるように言う。

「……そうですね」

 なんだか、釈然としない気持ちではあったけれど、イノは頷く。そう思ったからこそ、イノもあの時、神に感謝の祈りを捧げたのだ。

「さて、私達も帰りましょう。すっかり遅くなってしまいました」

 イノが祈り終わるのを見計らって、声をかける。

「そうですね」

 イノは頷いて、歩き出すセイの後を追おうとするが、すぐに立ち止まる。

 そう帰るということは、今日のデートは終わったのだ。

 シズミは言っていた。

 このデートの間に、自分のセイに対する気持ちを確かめろと。

 イノは既に答えは出ていた。

 セイのちょっとした言葉にすぐに動揺をしてしまうというのに、一緒にいるだけで安らぎ、楽しいと感じている。

 好きなのだ。

 セイのことがどうしようもなく。

 天使になることを嫌だと思ってしまうほどに。

 イノが前を見ると、立ち止まったイノをセイが不思議そうに見ている。

「どうかしたんですか?」

 セイが尋ねるが、イノは押し黙ったままだ。

 イノが何か迷っているのだと感じとったのか、セイはイノに近付く。

「何を迷っているかはわからないけれど、案ずるより産むが易し、迷ったらとにかく行動してみなさい。何も考えずに行動することは愚かなことだけれど、迷って進めないのも愚かなことだと、私は思うよ」

 セイはイノの頭を優しく撫でる。

 まるで、自分が子供のようだと、イノは思う。

 それは少し気恥ずかしいけれど、それ以上に大きな安心感を得る。

 でも、だからこそイノは泣きだしたい気分になる。

 イノは顔を上げ、セイを見る。

 セイは戸惑う。

 顔を上げたイノの顔はとても苦しそうな顔をしていた。

 泣き叫びそうに見えるのに、それは許されないと戒めているような、まるで、自分を責めているような。

「えっと――」

「セイさん」

 セイが何かを言おうとするが、それ以上の決意を込めた声に遮られる。

「セイさん。『神に代わって問います。あなたは悪魔ですか?』」

 イノは自らの聖人としての力を使う。

 セイが好きだ。

 だからこそ、……だからこそ、知らなくてはいけない。

 真実を。

「違いますよ。悪魔なんかじゃありません」

 笑顔で言うセイに、イノの顔に喜びが浮かぶが、その顔はすぐに曇る。

 セイは確かに微笑んでいた。

 しかし、額からには脂汗が浮かび、握り締めている拳はブルブルと震えている。

 セイは痛みを堪えているのだ。

 つまり、嘘なのだ。

「悪魔……なんですね」

「な……んの……ことです……か?」

 セイの言葉は痛みを堪えるため、途切れ途切れになっている。

 それでもセイは凄いのだ。

 普通、イノの力を受けた者は、全身の痛覚を刺激され、立っていることも不可能なのだ。あるのは真実を話すか、衰弱死するまで痛みを受け続けるかのどちらかだ。

「セイさん。私に真実を話さない限り、その痛みは続きます。本当の事を言ってください」

「……認めましょう。私は悪魔です」

 セイは語った。真実を。

 耐えられる痛みなら、永遠に耐えきってみせようとも、セイは思っていたのだろうけれど、とても耐えきれるものではない。

 真実を語ったことで、体中から痛みが消え、堪えるために入っていた体中の力も抜けていく。脱力し過ぎて、腰を下ろしそうになるが、セイはなんとか堪えている。

「なんで……、なんで悪魔になんかなったんですか」

 セイだって産まれた時から悪魔だったわけではないはずだとイノは叫ぶ。

 悪魔とは、特殊な力を得た人間だ。

 言ってみれば、聖人と違いなんてない。

 聖人とは、教会の傘下にある特殊な力を持った人間を、神より力を授かったと言って、教会が神聖視させているというだけなのだ。

 隣の国のクオンには聖人や悪魔なんて呼び分けはしないで、超越者と呼んで、一括りにしている。

 つまり、セイだって、教会に敵対の意思が無ければ、聖人になれていた。

 しかし、セイは悪魔だと認めたのだ。

 教会の敵だと。

「なんで、聖人になってくれなかったんですか。そうすれば、……そうすれば」

 普通の人でなくとも、聖人でいてくれたのなら、イノはどんなに救われていただろう。

 天使になって、セイと別れるのは寂しいけれど、それでも、今までの大切な思い出を支えに、イノは天使として生きていけただろう。

 しかし、全ては偽り。

 セイがイノに近付き、優しくしてくれたのも、迷った時に導いてくれたのも、守ってくれたのも、全て、セイがイノを利用するための偽りだったのだろう。

 イノは悲しみに泣き叫びたかった。

 それでも涙を流さなかったのは、セイに対する一時の怒りだろう。

「神が嫌いなんですよ。どうしようもなく。全ての神を殺したいほどに」

 感情を露わにするイノとは逆に、セイの言葉はどこまでも冷ややかだった。

 イノは一瞬、気勢が殺がれる。

 それほどまでにセイの冷たい声と言うのに驚いた。

 今までのセイは、とても温かな人だった。それはどんな時でもだ。呆れていようと、意地悪していようと、怒っていようと、温かみのある振舞いをしていた。

 だから、今まで見たことのない、セイの冷ややかな言葉に動揺してしまったのだ。

 そして思う。

 やはり、セイの普段の姿は偽りだったのだと。

「どうして、神々を嫌うのですか?」

「どうして、神々を信じるんですか?」

 イノの問いに、セイは問いで返す。

「神々は私達人間のために、色々な恵みを与えてくれます」

「恵みですか。確かに恵みを与えてくれることもあります。しかし、それはイノが思っているほど、多くはないのですよ。さっきの親子にしてもそうです。あれは神の導きなどではなく、本当にただの偶然です。もしくは母親の強い思いでしょう。少なくとも、神なんかは介在していません」

「そんなことはありません。神様は導いてくれました。そして、例えセイさんの言う通り、神様の恵みが少なかったとしても、……それは恵みの多い、少ないではありません。神様が私達を見守ってくれている。それだけで、信じるに値します」

 イノの言葉に、セイは鼻で笑う。

「ふん。神々は見守ってくれてなんていませんよ。神々にとって人間は、遊び道具程度にしか見えてないんですよ」

 辛辣な言葉にイノは怒りで朱に染まる。

「そんなことはありません。神々は」

「神々は正しく、偉大で、皆を救ってくれる存在ですか?」

 イノの言わんとしたことを、まるで威圧するかのようにセイが先に言う。

「そ、そうです」

 イノはセイに気押されながらも頷く。

「ならば何故――」

 セイは途中で押し黙るが、狂おしいほどの憎しみが、瞳に浮かんでいる。

 イノは戸惑う。

 今まで、イノは憎しみとは無縁の環境で生きて来た。妬まれることは多少はあったが、それは仕方無いとも思っていたし、人を殺したいほど憎んだことなど、今までなかった。

 セイの憎しみはイノに向かっているわけではない。それでも、心が冷え込んでしまいそうなほどの恐怖をイノは感じてしまう。

 いったい、何があったら、セイのような憎しみを持つことになるのだろうか?

「ある少年の話をしましょう」

 セイが口を開く。

「少年の?」

「そう、三十年ほど前、実際にあった話です」


 セイは語る。

 神を信じ、神に裏切られた少年の話を。

少年は神を信じていた。神も当初は少年の信じた神の通りに行動してくれていた。

しかし、神は村を焼き、家族を殺し、愛した少女を天使に変え、操り人形にし、そして、やはり、殺したのだ。ただ、飽きたという理由で。

セイはその話を、淡々と語った。

どんな感情も見せることなく。


「嘘です。そんなの嘘です。レーシュ神が村を滅ぼしただなんて、私は信じません」

 イノはセイの話しを聞いて、激しくかぶりを振る。

 しかし、セイの口調は嘘には思えない。

「ならば、問うてみれば良いじゃないですか。君の力なら、可能でしょう?」

「――っ」

 イノは押し黙る。

 そう、できる。イノには真実を語らせることができるのだ。

 だが、怖かった。セイには偽られていたのだ。もし、今まで信仰していた神々まで偽りだとしたら……。

 まるで世界全てが偽りのように思えてしまう。

 イノが迷っていると、突然セイが飛び離れ、それと同時に、イノの前を、突風が過ぎ去っていく。

「アクシンさん」

 公園の入り口には、いつの間にか、アクシンがいた。

 セイはアクシンの放った風を避けたのだ。

「イノ。悪魔の言葉になど、耳を傾けるな」

 アクシンがイノに注意する。

「酷いですね。アクシン神父。あなたはそうやって、悪魔の言葉に耳を傾けずに殺してきたのでしょうね。この人殺しが」

 セイは肩を竦め、アクシンを蔑む。

「黙れ、悪魔」

 教会の時のように、周囲に壁があるわけではないので、単純に吹き飛ばして叩きつけるという方法はあまり使えない。

 だから、アクシンはセイの周囲に風を起こし、竜巻状に唸らせる。

 セイが周囲の風に触れると、殴り弾かれるような衝撃が手を襲う。

 風の牢獄だ。

「貴様の顔をどこかで見たと思っていたが、貴様、知の罪悪を起こした悪魔だな。どうして、年をとっていないのかは知らないが」

 アクシンは憎々しげにセイを睨みつけて言う。

「……ふむ。確かにそうですけど、それがどうかしましたか?」

 セイは捕らわれたというのに、余裕の態度を崩さない。

「貴様が起こした、あの事件の性で、私の師は死んだ」

「私は人殺しはしてないはずですが?」

 セイは思い出すように首を傾げる。

「知の罪悪を止められなかった責任を取らされたのだ」

「ああ、なるほど。でも、それは私を恨むのは、筋違いというものです。結局、殺したのは、貴方がた教会という組織じゃないですか。それに、あの事件だって、私はただ、神の技術というものを知りたかっただけで、あそこまで騒ぎを広げたのは貴方がた教会じゃないですか」

 イノには知の罪悪の事件で何があったのかはわからない。しかし、機械技術の知識を求めたがるセイが、知の罪悪を引き起こしたことを、どこか納得できてしまった。

 おそらく、セイにはまるで悪気はなかったのだろう。工神士の技術を知ろうとしただけだ。それが、思わぬ形で、広まってしまっただけ。

 今までのセイだったら、そう思えただろう。

 そう、悪魔なんかではなく、友達だったセイであれば。


 アクシンは話していても埒が明かないと考えたのか、決着を付けにかかる。

 段々と風の壁が狭まっていく。このままであれば、いずれ、セイは押し潰されるだろう。

「……セイさん」

 イノは複雑な気持ちになる。

アクシンはセイを殺すだろう。

 悪魔だから仕方ないという思いと、友達を殺さないで欲しいという思い。その二つが、せめぎ合う。

 風によって土埃が舞い、セイの姿が見えなくなる。

 普通ならば、押し潰し、運良く生きていたとしても、五体満足でいられるものではない。なのに、苦痛の声は聞こえない。

 アクシンは警戒を解かないまま、風を止める。

 土埃が納まると、そこに、セイの姿はなかった。地面に人一人が通れるような穴が空いている。おそらく、セイの何がしかの能力で掘ったのかもしれない。

「どこに行った?」

 アクシンが警戒を強める。

「ここにいますよ」

 イノは真後ろから聞こえた声に振り返ると、すぐ後ろにセイがいた。

「セイさん」

「一つ、イノに言っておくことがありましてね」

 そう言って、セイはイノの頭を優しく撫でる。

 イノは泣きたい気持ちになる。それは、今までの日常通りの優しいものだった。

 もう、戻らない日常の。

「イノ。君は全て偽りだと思っているようだけれど、それは違いますよ。全てとは言わないが、ほとんど偶然です。君ららしく言えば、神の導きですよ」

「黙れ」

 アクシンがイノを押しのけ、風を放つが、セイは軽々と避けてしまう。

「どういうことですか? 偶然って」

 アクシンの攻撃を舞うように避けるセイに、イノは尋ねる。

「私がイノと出会った時、イノが聖人であることも、教王の孫娘であることも知りませんでした。そう、私と君の出会いは打算ではなく偶然です。その後、仲良くなったのもね。それだけはわかっていてほしいです」

 セイはイノに微笑みかける。

「……偶然」

 イノは思い出す。

 そう、最初の出会いは、イノから声をかけたのだ。

 そこに、セイの意思などなかった。全てが偽りだったわけではなかったのだ。

「それではイノ。残念ですけれど、これでお別れです。さすがに悪魔だと知られては、学校には居れないでしょうからね」

「当たり前だ」

 アクシンが叫び、広範囲に風圧を打ち下ろす。一撃の威力は落ちるが、足止めするには最適だ。

だが、アクシンが風の力を放った瞬間、セイは凄まじい速さで飛びずさり、避けてしまう。

「身体能力の強化か?」

 アクシンはセイの能力を推測する。

 聖人や悪魔の身体能力は確かに普通の人の動きを超えている。しかし、先程のセイの行動は、今までアクシンが見て来た聖人や、悪魔の動きをも、遥かに凌駕していた。

 だから、そんな動きができる理由は、アクシンが風を操るように、セイは身体能力を強化できるのだろうと考えたのだ。

 しかし、そうすると、竜巻から逃れた時の地面の穴をどうやって掘ったのかがわからない。

「まぁ、正確には違うけど、似たようなものですよ」

 セイは軽口を叩きながら、既に、公園の入り口にいた。

「くそ、逃すか」

 アクシンが風を放つけれど、もう、セイを捉えることはできなかった。

「……セイさん」

 イノは呟く。

 セイの言うことが本当の事ならば、とても嬉しい。けれど、それを嬉しいとは思ってはいけないのだ。

イノの立場では。


「はは、ばれたんだ」

 スズネは、ローチカの端にある小屋にて、戻ってきたセイを笑う。

 魔獣の主で、スズネを助けてくれたのも、アクシンの読み通り、セイだったのだ。

「で、どうするの? これから」

 スズネの問いにセイは肩を竦める。

「決まってますよ。計画は変えません」

 スズネを助けた後、セイはスズネにある交渉をした。

 セイが、兼ねてより準備していた計画の、手伝いをして欲しいと頼んだのだ。

 セイの計画は、スズネの目的と通じるところがあった。

 スズネは、図書館でセイが言ってたように、クオンから送られて来た悪魔だ。

 その目的は現教王の発言力をあげないこと。だからその為に、イノが天使になる前に殺そうとした。

 そして、セイの語った計画は、イノを殺さないで、天使にもさせない方法だ。

 スズネは迷った。

 セイの語った計画は、成功する可能性なんてないように思える。それならば、イノを殺したほうが確実だ。

 しかし、スズネとしても、楽しくてイノを殺そうとしているわけではない。できれば、人殺しなんてものはしたくはないのだ。

 結局、スズネはセイの提案に乗ることにした。

 セイの計画は無茶なものではあったけれど、それはとても面白そうだと思うし、成功したら、とんでもない事をしでかした一人に自分はなるのだ。

 このまま燻った一生なんかより、断然魅力的に思えた。

「しかし、愛しのイノちゃんには嫌われちゃうわね」

 スズネがからかうような笑みを浮かべる。

「愛し? 違いますよ。そんな関係じゃありません」

セイは首を傾げ、首を振る。

「あら、イノのことが大切だって言ってたじゃない」

「ああ、言ってましたけれど、それは大切な友達だってことじゃありませんでしたか?」

「まぁ、そうだったけど、少しはそういう気持ちはあったんじゃないの?」

 スズネはセイの真意を探るように、目を覗き込んでくる。

「ん~? そうですね。娘みたいで可愛いとは思ってはいたけれど、女性として意識するなら、後五、六年ですかね?」

「何言ってんの、マセガキ。娘って、あんた、年なんてそうは変わらないでしょうが」

スズネが呆れて言うが、セイは苦笑する。

「そう思われるかもしれませんけれど、これでも四十半ばですよ」

「……はぁ?」

 セイの言ったことを理解するとともに、スズネは驚きに目を剥く。

そんなスズネの様子が面白くて、セイは笑う。

「はは、本当のことです。あまり信じてはくれませんけれどね」

「本当なの?」

「ええ」

「てことは、私より年上ってことじゃない」

「そうなりますね」

 スズネがセイをマジマジと見詰める。どう見たって十代半ばにしか見えない。

 スズネは興味深そうに、セイに手を伸ばす。

「あに、ふるんでふか?」

 いきなりスズネが頬を引っ張ってきたので、セイは抗議の声を上げる。

「いやさ。なんか、化粧かなんかで若作りしているのかと思ってね」

 ムニムニと、スズネが頬を引っ張り続ける。セイの頬から伝わる感触は、何かを塗っている感じはしないし、肌の艶や張りは十代そのものだ。

「離して下さい」

セイが、スズネの手を払う。

「ごめんごめん。しかし、気になってね。……それで、若さの秘訣は?」

 朗らかな顔から一転して、真剣な表情で尋ねてくるスズネに、セイはため息を吐く。

 やはり、それが目的か、と。

「スズネは十分に若いと思いますよ」

 棒読みともとれる抑揚でセイが言うが、スズネは嫌味として受け止め、顔を顰める。

「年相応だから、そりゃ若いに決まってるわよ。でも、もう二十六よ。君みたいに若いままではいられない」

 悪魔や聖人は確かに人間を超えた能力を持っているが、普通に年を取る。

つまり、年を取っていないセイは、ただそれだけで異常なのだとも言える。

「確かに私は年を取りません。でも、これはスズネができることではありません」

「その若さは、あんたの能力が原因なの?」

「……ええ、まあ」

 セイは曖昧に答える

「ふ~ん。……それで君の能力は何?」

 人が悪魔や聖人になると、色々な力を手に入れるが、それでも、アクシンの風の力や、スズネの念動力、イノの嘘を自白させる力のような、それぞれが持つ強力な能力は、一つだけだ。

 能力は一つだけ、故に、能力を知られないようにする。

 それが、悪魔や聖人の基本だ。

 今までも、スズネはセイに能力を何度か尋ねたが、教えてくれたことはない。

 さもなければ、イノのように対処法を考えられてしまうからだ。

「凄い能力です」

 セイはニッコリと笑って言う。

「……」

 スズネは胡散臭い者を見る目をする。

 今まではここまでで止まっていた。しかし、スズネはもう一歩踏み込もうと考える。

 計画の決行日は近付いているのだ。

「えっとさ。イノを殺さないですむように、あんたの無謀とも言える計画に協力しようって言ってんだからさ。私としては、少しは信頼して欲しいんだけど」

 セイは迷っている。

 協力してもらうというのに、教えないというのは、確かに不誠実だとはセイは思うが、そこまで、スズネを信じ切れていないというのもあるのだ。

 もし万が一、自分の能力が相手に知られてしまえば、能力を発動する隙を与えてくれなくなってしまう。

 それでもやはり、計画を成功させるには、スズネの協力が、喉から手が出るほど欲しい。

「……そうですね。……わかりました。お話しましょう。神を殺す力を」


 休み明けは普通に授業が始まっている。

 セイがいなくなったことに戸惑っている者もいたけれど、学校の中では大きな影響はない。

 教生達からは何の説明も無く、授業は進められる。

 休み時間、ダンがイノに話しかけてくる。

「なぁ、イノ。昨日、セイと一緒だったんだろう? 帰ってきてないんだよ。なんか知らないか? 教生はいなくて当然と言わんばかりの態度だしさ。なんかおかしいよな」

 ダンは首を傾げる。

「……言えません」

 イノの答えは素っ気ないものだった。

 ダンが少し苛立って、再度尋ねようとするが、イノの表情を見て、ダンは思わず言葉を止めてしまっていた。

 イノの表情は暗く、何か、とても傷ついているように見える。

 ダンが困って後ろを見ると、イノを心配そうに見ているシズミの顔が目に入る。ダンはシズミに近付き尋ねる。

「なぁ、あれはどうしたんだ?」

 ダンは顎でイノを指し示す。

「昨日からあんな感じなのよ。聞いても話してくれないし。きっと、何かあったんでしょうね。全く、セイめ。いったい、何をしでかしたんだか」

「セイが悪役決定かよ」

 ダンは呆れたように言うが、シズミは当然とばかりに頷く。

「イノが悪いことするわけないでしょ」

 ダンはイノが悪事を働くところを、試しに想像してみようとするけれど、イノが悪さをしているところなんて、全く想像できない。

「まぁ、確かに清廉潔白が服着ているような奴だからな」

「でも、教生までセイがいないことを納得しているっていうのが気になるわね」

「そうだな」


 ダンとシズミの話しはイノの耳にも届いていた。

 二人は軽口を叩きながらもセイのことをとても心配しているのはわかる。

 イノはできれば二人にセイのことを話したかったが、教会と学校は、セイが悪魔であることは秘密にすることに決めたのだ。

 生徒の中に悪魔がいたという事実で生徒達が恐慌を起こすかもしれない。だから、無駄な混乱を避けるという名目で、セイのことは教生達にしか知らされていないのだ。

 実際は、教会の学校に、悪魔がいたという不名誉を隠すためだったのかもしれないけれど、どちらにしろ、イノは口止めをさせられている。

 だから、イノは二人に喋れず、黙り込むことしかできない。

 セイはいなくとも正常に行われる授業。

 イノにはそれが辛かった。

 今までの学校生活は、イノにとって、とても色鮮やかに輝いていた。しかし、セイがいなくなった途端、色褪せてしまっていた。

 自分の中で、どれだけセイが大切な存在だったのかを知り、イノは愕然としてしまう。

 イノは願う。

 一刻も早く、天使になりたいと。

 天使になれば、この悲しみも迷いも、そして、痛みも含めた全てから、解放されることだろう。

 

 閉鎖休み、学校の中では、神迎えの儀式の準備が行われている。

 それをセイとスズネは周りの家の屋根の上から眺める。

「神迎えは今夜、月が教会の真上を通る時ですね」

「へぇ、そんな情報、どこから掴んでくるのよ。クオンの諜報部でも掴んでないよ」

 スズネが訝しげに言うのを見て、セイは苦笑する。

「そうでしょうね。僕の情報収集は少し卑怯ですから」

「卑怯?」

「ええ、伝神士から情報を引き出してたんですよ。伝神士とは情報を伝える神士だと言われていますが、それだけじゃなく、情報を溜めこんでいるんですよ。普通の聖人や悪魔では伝神士から情報を引き出すことはできませんから、神は伝神士に情報を結構残したままにしているんですよ」

 だからこそ、セイは伝神士に触れることで、神に付いて多くのことを知った。

 人は神に関してあまり知らない。それは神にとって、真実を知られることは大きなマイナスでしかないからだ。

 遥か昔、人の世界はとても発展していた。その時代は空に都市を浮かばせ、星の海すら人は渡ったそうだ。

 その時代の中で、特殊な力を持った存在、聖人や悪魔のような超越者が現れた。

 人々は、超越者を人類の進化の形だと崇め、超越者達はその中で、自分達を特別な存在だと思うようになる。

 思いあがった超越者達。彼らは人々を支配しようする。人はそれに抗い、そして、その戦いは世界全てを巻き込む戦争へとなった。

 超越者の力は強力ではあるけれど、人が歯向かえないほどではない。

 圧倒的な数の差の前に超越者達は追い込まれ、今では天界と呼ばれる異世界を創り出し、そこに逃げ込んだ。

この戦いで人間達は勝ったとはいえ、大きな疲弊を強いられた。

 そして、超越者達は人々の争いをやめたわけではなかった。

 超越者達は天界の中で自らの力を更に進化させて、今の神としての力を手に入れ、人々に再度戦いを挑んで来たのだ。

その二度の戦いで、人々の文明は滅んでしまった。

 つまり、神は元々、セイ達と同じ超越者という存在でしかなく、人の敵でもあったのだ。

「……伝神士にそんな力がね」

 スズネは考え込んでいる。

「……じゃあ、神迎えで来る神が誰かわかるの?」

「わかってますよ。相手は月の神ルナス。確か神話では、全てを弾き返す、月の鏡を持っているって話です」

「神話ね。そんなの信じられるの?」

 スズネは胡散臭いと思ったようだ。

 神話なんて、どこまで信じられるかわかったものではない。

 途中で、教会が自分達の教義に合わせて、何度も話しを変えているのだ。

「少なくとも、変革の神レーシュの浄化の鞭は本物でしたよ。全てを浄化、すなわち消し去ってしまう力。まぁ、鞭って言うより、帯でしたけれど」

「へぇ、レーシュ神に会ったことあるんだ?」

「ええ、昔にちょっと」

 セイの瞳には明らかな感情の色が浮かんでいる。その感情が何なのかは、付き合いの短いスズネにはわからなかったようだが、あまり聞いて欲しくないのだということだけは理解してくれた。

「さて、儀式まで時間もありますし、私は出かけて来ますね」

 セイはそう言って、屋根から飛び降りる。

「ちょっと、どこに行くの?」

 スズネは屋根の上から身を乗り出し尋ねてくる。

「色々あるんですよ。まぁ、時間までには戻ります」

 しかし、セイは曖昧な答えを返して、すぐに走り出した。


 セイはこの町で最も大きな公園にやってきていた。

 ダンにこの町を案内してもらった時は隣の運動場だったので、セイはここに来るのは初めてだ。

 緑に囲まれた散歩道を歩いていると、途中にはいくつもの広場が見て取れる。広場には色々なアスレチックが置かれていて、子供達が遊んでいる。

 楽しそうではあったけれど、セイの目的はそれではない。

 どんどん進んで行くと、大道芸人達が、色々な芸を見せている。

 凄い芸もあれば、下手くそな芸もある。それでも誰もが真剣に頑張っている。

人々を楽しませようと。

 セイの目的のものはこの近くにあった。

 そこには小さな舞台と客席が置かれていた。

 劇をやるのだろう。皆忙しそうに準備をしている。

 その中に、セイは目的の人物がいた。

「やぁ、ダン。頑張っていますね」

 舞台の小道具を運んでいるダンに、セイは声をかける。

「セイじゃないか。お前、今まで何してたんだよ」

 ダンは驚きながらも嬉しそうに顔を綻ばす。

「いや、実は追い出されちゃいまして」

「何したんだよ。イノの様子も変だったし」

 ダンが尋ねるが、セイは曖昧に笑うだけだった。理由を聞かれたくないのだろうとダンは解釈する。

「それで、俺達の劇は見ていけるのか?」

「ええ、そのつもりです」

「そうか、そりゃ良かった。シズミは明日来てくれるって言うけれど、シズミのことだから来てくれるかわかったものじゃないし、イノは来れないって言うからな。セイが来てくれて嬉しいよ。まぁ、俺らの劇団立ち上げ一発目だ。下手くそだが、是非見て行ってくれ」

 ダンは肩を竦めながらも、少しは自信のようなものがその目には浮かんでいる。

「楽しみにしてます」

 セイは心からそう思う。

「はは、プレッシャーをかけんなよ」

 文句を言いながらも、ダンの顔は嬉しそうだった。


 ダン達の演劇が始まった。

 見物客は少なく、席はまばらに空いている。

 それでも皆は一生懸命演じている。

 ダン達の演劇は傍から見ていて、お世辞にも素晴らしいと言えるものではなかった。

 物語をちゃんと進めようとするあまり、演技が硬くなっている。良い意味での余裕がない。そして、緊張のために台詞を一瞬忘れる人もいた。

 それでもセイは思う。

 ダン達は素晴らしいと。

 皆が皆、演劇に夢を持ち、真剣に取り組んでいることが伝わってくる。

 確かに、まだ演劇だけを見れば、まだまだとしか言えないけれど、いずれは、誰が見ても素晴らしいものになってくれるだろう。セイにはそう感じられた。


「御苦労さま」

 演劇が終わってから、セイはダンに声をかける。

「マジで緊張した。本当に下手くそだっただろう?」

「全くです」

 セイはおどけながら、同意する。聞きようによっては、酷いことを言われたと思ってもしまうような言葉だが、ダンは嫌な顔をするどころか、笑い出す。

「はは、はっきり言うな。でも、やって良かった。楽しかったよ。早く次がやりたいくらいだ」

 ダンの顔は本当に嬉しそうだった。セイはそんなダンを羨ましく思うが、それ以上に頑張ってもらいたいという気持ちが強くある。

「次は明日?」

「まぁな」

 ダンは早く明日にならないかと思っているようだ。

「じゃあ、明日はイノを連れて来ますよ」

「ん? イノは来れないって話だぞ」

「ええ、でも、来れるようにしますから、……絶対に」

 セイの言葉にダンはただならぬものを感じる。

「セイ。お前、本当に何をしようとしているんだ?」

 ダンが本気で心配したように尋ねて来るので、答えたものかとセイは悩む。そして、セイの中にはダンに知っていてもらいたいという気持ちが確かにあった。

「……イノは天使になろうとしているんです」

「天使に? なんか、前もそんな話しを聞いた気もしたな」

「神迎えの儀式です」

 初めてイノと出会った日に、セイが食堂で言っていたのを、ダンは思い出す。

「ああ、あれって本当だったんだ」

「ええ」

「それで、セイは神迎えの儀式で何をするんだ?」

「イノが天使になるのを止めるんですよ」

「何故さ。天使になることは良いことじゃないのか?」

「私は天使を見たことがあります。あれは人の意思なんてないんです。道具でしかない」

「道具?」

「ええ、天使には感情がありません。考えることもしません。神の完全なる操り人形です。イノには、そんなものには、なって欲しくない」

「まるで、神批判だな」

 ダンは眉根を寄せる。

 やはり、ダンも宗教国家で育ったのだ。ダン自身、神への信仰心はほとんどないと言っていても、神とは善であるということを刷り込まれているのだ。

 納得はしていても、やはりショックだった。

 ダンならば、神を庇うような発言はしないのではないかという、勝手な期待を心のどこかでしていたのだろう。

「……あはは、私は悪魔だから、神を批判することもしますよ」

 セイは笑いながら、自らの正体を明かす。

 ただ、自棄になっていただけなのかもしれない。

 それとも、自らが悪魔だということを知らせることで、相手から決別をしてもらい、自らの中にある甘い期待をぶち壊したかったのかもしれない。

 セイにもどちらかわからなかった。

 ただ、一つ言えることは、大切な友人に、隠し事をするのに疲れたのだ。

「……マジかよ。……お前、悪魔だったのか」

 ダンの顔は強張っていた。

「まぁ、そういうわけだから、イノの天使化を妨害してきますよ」

 ダンに声をかけて、セイは歩き出す。

 まるで、ちょっとそこまで買い物に、というくらいに気軽な口調だったが、セイの中では、ダンへの決別の思いがあった。

 そして、その思いはダンにも伝わっていた。

「なぁ、セイ」

 ダンはセイの背中に呼びかける。

 セイは振り返らないが、それでも立ち止まる。

「俺は神なんて見たことないし、たいして知っているわけでもない。だがな、お前のことは、一緒に暮らして来て、良く知っている。……俺は、お前がイノを不幸にするなんて欠片も思っちゃいない。だから、頑張って来い」

 ダンの言葉がセイには泣きたくなるほど嬉しかった。

 それでも涙を堪え、振り向かずに片手を上げる。

「明日、必ず二人で見に来るよ」

 セイはそう言って、決意を新たに、その場を立ち去る。


 もうそろそろ、月が頂上へと昇る。

 教会では、神迎えの儀式が進んでいた。

 教会の中には多くの人々がいる。

 教会の本部からからやってきた、儀式の参列者だ。この彼らにとって崇高な儀式の、協力者や見届け人。

 教会の中では、二組に分かれていた。

 一組は、教会の入り口、つまり、祭壇と対称的な位置に集まった参列者。そして、もう一組は、祭壇の前にいるイノだ。

 参列者が祭壇の近くにいないのは、神の降臨する祭壇の近くにいるのが恐れ多いという意思と、今回の天使候補がイノであると、明確に神に理解してもらうためだ。

 アクシン神父を中心として、集まった参列者たちが讃美歌を謳う。

 その歌声は美しく、朗々と教会の中を響き渡る。それはとても厳かで、周囲を神秘的な雰囲気で彩る。

 そして、その中でただ一人、イノは祭壇の前で跪き、祈る。

神が来るその時まで。

 月が天頂へと昇った瞬間、天から光が降り注ぐ。その光は教会の屋根を通り抜け、教会の中は光に包まれた。

 人々は突然の光に、目が眩み、讃美歌を止めてしまう。

 光が治まり、人々が視界を取り戻した時、祭壇に人影があった。

 人々はそれを神だと一目で理解する。

 これは理屈ではないのだろう。

 見ただけで、そのものが絶対的上位者であるという、屈服にも似た思いを感じてしまうのだ。

「おお、神が御出でになられた」

 喜びの声が参列者からざわめき上がる。

 アクシンが一歩前に出て、神に話しかける。

「御出でいただきありがとうございます。そして、この娘が、この度の天使候補です」

 イノが指し示される。

 神が最も近くにいるイノに視線を向ける。

 イノの体は強張ってしまう。

 神の向ける顔には優しい笑みが浮かんでいた。

 救いの存在と言われる理由を納得できるほどに、それは優しい笑みだった。

 だが同時に、イノは、神が村を滅ぼした話を思い出してしまった。

 セイは言っていた。

 人を殺しながらも、神は微笑みを浮かべていたと。

 ……馬鹿ですか、私は。

 イノは内心で自分を罵倒する。

 ここまで来て、今さら神を疑うような自分が、とても情けなく思える。

 神が近付いてくる。

 イノはまだ候補なのだ。

 いくら自分達が天使にしてくれと言ったところで、神が気に入らなければ天使にはなれない。

「名は何と言う?」

 神が初めて口を開いた。

 その声は美しく、誰もが心地よいものだと思うだろう。

「イノと申します」

「そうか。イノ。お前の事を調べさせてもらおう。身を委ねると良い」

 そう言って、神がイノの頭に手を置く。

 その瞬間、イノに怖気が奔る。まるで、頭の中に手を突っ込まれたような気持ち悪さだ。

 実際、神は手を頭の中に入れているわけではないけれど、限りなく近いことをしている。

 イノの記憶を神の力で読み取ろうと、探っているのだ。

 イノは気持ち悪さを必死で耐える。これは試練なのだと自分に言い聞かせ、耐えるのだが、急に神はイノから飛び離れる。

 皆がいったい何事かと思った直後、先程まで神のいたところに、光が降ってきた。そして、光の触れた地面に、ぽっかりと穴を残して消える。

「これは浄化の光。レーシュか?」

 神は戸惑い、光の放たれた屋根を見るが、イノには誰だかわかった。

 セイが来たのだと。

 公園での地面の穴と、今、光で出来た穴は、まるで同じものだ。

 竜巻から逃げる時に、セイは同じ様に光で地面に穴をあけ、移動したのだろう。

「残念ながら、レーシュ神ではないですよ」

 声と共に、セイが天井から飛び降りてくる。

 三階の建物よりも高い位置からの飛び降りだというのに、セイは軽々と着地を決める。

「何者だ?」

 神が尋ねる。

「悪魔ですよ。あなたを殺すね」

「ふははは、高々悪魔ごときが、我を殺すか。ふふん、面白い冗談だ」

 セイの言葉を、神は笑い飛ばす。


 二人のやり取りとは別に、その様子を見ていた周りの人間は状況の変化に付いて行けず、茫然としていた。

だが、その中でアクシンが、真っ先に動き出す。

「神の邪魔をするな。悪魔め」

 アクシンが叫び、背後から風を放とうとするが、その直前、屋根が破壊され、瓦礫が降ってきた。

 放とうとしていた風を、瓦礫に放って、なんとか防ぐ。

 周りの参列者も、アクシンの風のおかげで、負傷者は出たものの、瓦礫に完全に巻き込まれて命を落とした者はいないようだ。

 しかし、瓦礫が完全に祭壇までの道を塞いでしまった。

 アクシンが瓦礫の山を見上げると、そこには狼の魔獣とスズネの姿が見て取れる。

「あの時の悪魔と魔獣か」

 アクシンは憎々しげに言う。

「ふふ、そういうこと。祭壇に行くなら、私らをなんとかすることだね」

 スズネは傲然と笑う。


 イノは瓦礫が落ちて来た瞬間、目を瞑っていた。イノは聖人だが、戦いの訓練をしたことがあるわけではない。

 恐怖を感じた人間の行動は決まっている。目を瞑り、頭を押さえて蹲るのがやっとだ。

 しばらく経つが、周りに瓦礫の落ちる轟音はするものの、イノに対しての衝撃は一向に現れない。

イノは恐る恐る目を開ける。

 目の前に見えるのはセイの後ろ姿だった。

 そして、まわりにはセイとイノを避けたように瓦礫が落ちていた。

 間違いなく、セイがイノを助けたのだろう。

「セイさん。何故助けたのですか?」

 イノは信じられないものでも見るかのように尋ねる。

「何故って、前に言いましたよ。イノを守ると」

「……でも、セイさんは悪魔です」

「そうですね。でも、私が悪魔なのと、私が友達を守ることは関係ないじゃないですか」

 セイは肩を竦めながら、軽く答える。

「……友達」

 まだ、セイはイノの事を友達だと思ってくれている。

 イノは戸惑う。

 自分の立場から言えば喜んではいけないのだ。でも、身の内からはどうしても喜びが湧きあがる。

「そう、私がイノを敵視する理由なんて何一つない。私が悪魔になった目的は、神を殺すためなんですから」

 浮ついていたイノの心は、続くセイの言葉に急速に冷める。

 優しげに語っているように見えるのに、セイの言葉には狂おしいほどの憎しみが籠っていた。公園で神のことを話していた時、セイの瞳に浮かんでいた憎しみの光。

 イノには背中しか見えないが、今も浮かんでいるのだろう。

 セイはイノから離れる。

「セイさん。何故神様を殺そうとなんて」

 イノはセイを止めようと声をかける。

「言ったはずです。神が嫌いなのだと。この目の前にいるルナス神が、本当に善き神だったとしても、そんなのはどうでもいいんです。目の前に神がいる。ならば殺す。それが私の生きる目的なのだから」


 セイは、ルナス神と対峙する。

「我を殺すか。冗談にしても、何度も聞いているとつまらなくなるな」

「ふん。お前の楽しそうな顔なんて、見たくないのさ」

 セイは言い捨てて、光弾を放つ。しかし、ルナス神は軽々と避け、セイの光弾は、壁に穴をあけるのみだった。

「なるほど、本当に浄化の光のようだな。レーシュの力をどのように手に入れたかは知らないが、悪魔が持つには少々危険過ぎる」

 神は一瞬でセイの懐に潜り込んで、殴りかかってきた。

 ただの拳だ。しかし、その一撃が、必殺の威力を持っていることをセイは知っている。

 転がるように避けるが、セイはその一撃で理解する。

 避け続けるのは不可能だと。

 今のを避けたのだって、ほとんど奇跡のようなものだった。ルナス神の身体能力はセイの遥かに上を行く。

 起き上ると、浄化の光を棒状に出して、掴む。

 光の発現者以外、全てを消滅させる浄化の光だ。いうなれば最強の剣とすら言える。

 わざわざ素手で戦う必要なんてないのだ。武器さえ持てば、身体能力の差をカバーできるだろう。

 ルナス神は浄化の光の力を知っている。だから念のためだろう。鏡を空中へ発現させてきた。

「月の鏡か」

「ほぉ、知っているのか」 

「まぁな。全てを消滅させる光と、全てを弾き返す鏡。どちらが上かね」

「ふん、見たところ、浄化の光を完全に使いこなせてないのだろう? それで、能力比べとは笑わせる」

「くっ」

 図星だった。

 そう、ルナス神の言う通りセイは力を使いこなせていない。レーシュ神のように帯状に光を操ることができないのだ。

 おそらく浄化の光は、レーシュ神のように帯状にして、変幻自在に動かすことが理想なのだろう。

そして、レーシュ神は複数の光を放つこともできた。

 しかし、セイには光弾として撃ち出すことと、棒状にすることしかできない。そして、複数出すこともできないのだ。

 つまり劣っている。

「確かに完全に使いこなせちゃいないけどな、浄化の光の能力が落ちているわけじゃない。月の鏡ごと消滅させてやるさ」

 セイは自分自身を奮い立たせ、ルナス神に突っ込む。

 セイは月の鏡を浄化の光で切り払おうとする。しかし、触れた瞬間、セイの腕は強い衝撃に弾かれる。

 切り落そうとした力が撥ね返されて、セイの腕はその分の衝撃を受けてしまったのだ。

 セイの腕は衝撃に頭の上に持ち上がり、すぐに引き戻すことができない。その間、体はガラ空きだ。

 その隙をルナス神は見逃さなかった。

 浄化の光の効果によって消滅させられた月の鏡の背後から、セイの心臓を貫こうと、ルナス神の貫手が迫る。

 切り裂かれる音が響く。

「ぐうぅ」

 肩口に走る痛みにセイは唸るが、まだ命はある。

 セイは反射の衝撃に逆らわず、後ろに倒れ込むことで、ルナス神の貫手の狙いをずらしたのだ。左胸が貫かれるところを、左肩を切り裂かれたのみで済ませたのだ。

 腕が動かなくなったが、心臓を貫かれるよりも遥かにマシだったとセイは思う。

 セイは光弾を放って相手を退かせようとするが、光弾は、ルナス神に届く前に、新たに発現された月の鏡によって反射される。

 跳ね返った光弾を受けても、セイ自身は消滅しないが、衝撃としては喰らってしまう。

 全てを消滅させる浄化の光。確かに月の鏡を消滅はできているけれど、反射もさせられてしまう。

 セイは光弾の衝撃を受けたことで吹き飛ばされて、距離は取れたものの、完全に動きが止まっていた。浄化の光を発現する余裕も無い。

 ルナス神は止めを刺そうと攻撃を仕掛けてくる。


「やめて下さい」

 イノがセイを庇うように立ち塞がる。

 ルナス神は戸惑うように動きを止める。

「……イノ?」

 セイは不思議そうに顔を上げる。

「何故止める? そいつは悪魔だぞ。天使になろうという者が、神に逆らうのか?」

「……彼は友達なんです。どうか、見逃して下さい」

 イノは躊躇いながらも言う。

「それは出来ない。何より、そいつは我の命を諦めたわけでは無さそうだしな」

 その言葉に、イノは後ろを見る。

 セイは血を流しながら、浄化の光を構えている。すぐに攻撃できるように。

「セイさんもやめて下さい。ルナス様が何をしたというのですか」

 セイを止めようと、イノはセイを非難する。

「天使は死です」

「死?」

「そう、人としての死です」

 イノはセイの言っている意味がわからなかった。天使になるということは幸せになるということだと教えて来られた。死という言葉は連想できない。

「天使になるということは、人ではなくなる。だから、人として死ぬのは当たり前だ」

 ルナス神が、何を当たり前のことをという顔をする。

「心も殺す必要があるのか?」

 セイはルナス神を睨む。

「心など、邪魔だろう。今も、この娘が我に逆らっているのは心があるからだ。我の言うことを聞く天使には邪魔なだけだ」

 ルナス神の言葉は、当然だと言わんばかりの口調だった。

「ならば、引くわけにはいかない。イノをそんな者にはさせられない」

 セイは痛みに顔を顰めながら立ち上がるが、イノの心は動揺していた。

 セイはイノの心を守るために、今、ここにいるというのだ。

 心を殺される。それはとても恐ろしい。

 自分の意思がない。悲しみも痛みも感じない代わりに、喜びも幸せも感じない。

 セイの話に出て来た天使になった少女のことを思い出す。

 天使になり、大切な人を傷付けても何も感じない存在。

 イノは嘘だと思っていた。

 しかし、神自身が肯定したのだ。

 セイの言葉を。

「ルナス様。神にとって、人とは何なのですか?」

「愛すべきものだ」

 イノの問いに、ルナス神は優しい微笑みを浮かべる。

 神は嘘を吐かない。

 ならば事実か?

「イノ。誤魔化されては駄目です。神は嘘を吐かないけれど、誤解をさせるようなことを言います」

「誤解?」

「ルナス。お前にとって、人間は使い捨てのできる玩具のようなものなんだろう? 例え、愛しいと思っても、それは所詮、物としてなんだろ?」

「好きに思えばいい」

 優しく微笑むのみで、ルナス神は明確な答えを言わない。しかしそれは、その通りだと言っているようなものだ。

 それでも、イノの心は神のことを信じようとする。今まで信じて来たものをすぐに改めることなんてできない。

「問え」

 セイの言葉に、イノは恐怖する。

 そう、真実を知ることはできる。例え神であろうと、イノの能力は通用するはずだ。

 しかし、それは神への疑いを表す言葉。

 疑うということは、自分は神を信じていないということになる。そしてそれは、今まで生きて来た自らの人生を否定するということだ。

 それは自らが消えてしまうような恐怖だ。

 だが、イノは決意する。

 疑いを持ったことは事実なのだ。ここで問わないのは、自らを偽ることになるから。

「ルナス様、申し訳ございません」

 イノは先に謝る。

「『神に代わって問います。神にとって、人は救うべき民ですか。それとも、遊び道具なのですか?』」

 ルナスは悩んでいた。

 答えはもちろん、遊び道具だ。何故人間を、わざわざ救わなければいけない。神に

そんな責務なんてあるものか。

 下等な人間をどうしようと、我らの勝手だ。

 それが神の答えだ。

 それを言ってしまっても良かった。そうすればイノという少女はショックを受けて、絶望的な顔をするだろう。それも面白いとも思う。

 だがそれは、悪魔の言う通りにするということだ。それが気に入らない。

 ルナス神は無視することに決める。

 神は偽らない。

 偽れないのではない。偽らないのだ。

 それは神のプライド。

 神にとって偽るということは、相手を自分より上位の存在だと認めることだからだ。

 しかし、その逡巡が、全知ではない神に決定的な隙を与えた。

「……ぐうぅ、何だ、これは」

 ルナス神の全身に痛みが走る。

 ルナス神が今までに感じたことのない激しい痛みが。

 立っていられず、跪いてしまう。

「ルナス様。その痛みは真実を語らない限り引きません。お答え下さい」

「貴様の性か」

 ルナス神は怒りに任せ、イノを殴りつけようとする。しかし、その拳はイノに届かなかった。

 イノに完全に気を取られていたルナス神の腕を、セイが浄化の光で切り落としたのだ。

「ぐぅああぁぁ」

 ルナス神が痛みに叫ぶ。

「セイさん」

 イノが驚き止めようとするが、セイはそれを無視して、返す刀で切りつける。

 しかし、ルナス神は飛び退いてかわす。

「よくも、我が腕を。貴様らなど、高々、我ら神を楽しませる存在でしかないというのに、よくも」

 真実を話し、体の痛みが引くのをルナス神は感じる。それでも失った腕の痛みが無くなることがない。ルナス神が怒りと屈辱に震える。

「殺してやる。貴様らだけでなく、全ての人間を」

 ルナス神はそう宣言すると、真っ先にセイに攻撃を仕掛ける。

 セイは牽制するように光弾を放つ。しかし、月の鏡に易々と弾かれる。

 弾かれた光弾が消え去った時には、ルナス神は既に目の前にいた。

 セイは光弾の零距離射撃を試みようと考える。

 鏡の挟む隙が無ければ、ルナス神に喰らわすことができる。しかし、セイが手を当てた部分の服が月の鏡になっていた。

「なっ」

 セイは驚き、身の危険を感じて飛び退こうとするが、間に合わず、ルナス神の反撃を受けてしまう。

 腹部に強烈な痛みが走る。あまりの痛みに声が出ない。

 まるで、腹の内臓全部が抉りとられたような気分だ。

 事実、内臓がいくつか傷付いたのだろう、口の中に血が流れ込んでくる。

 足に力が入らず、自分の意思とは関係なく、勝手に膝が地面に付く。

「簡単には殺さない。ゆっくりいたぶってやる」

 ルナス神の腹部への一撃は多少手加減されていた。本気でやられていたら、本当に抉り取られて死んでいただろう。

 なんとか離れようと、セイは後ろに転がるように立ち上がろうとするが、それを狙い澄ましたように手刀を放ってくる。

 セイは浄化の光を棒状にして防ごうとする。

 全てを消滅するのだから、触れさえさせれば相手を傷つけることができる。

 だが、ルナス神はセイの行動を読んでいた。ルナス神の腕には月の鏡を纏っていたのだ。鏡の力で光が打ち払われ、セイの右腕を切り落とされる。

「セイさん」

 イノはあまりの惨状に、絶叫する。

 圧倒的だった。

 本気になったルナス神の前に、セイはどんどんボロボロになっていく。

 立っているのが奇跡のようだ。

 右腕は切り落とされ、左肩の傷は更に抉られ、あばら骨は折れて肺に刺さり、口からは血がダラダラと流れている。

 まさに虫の息だ。

 浄化の光を作り出す力も既にない。

「そろそろ、死ね」

 ルナス神が止めを刺そうと心臓を狙って貫手で突く。

 セイはそれを、体を傾けて心臓への直撃を避ける。しかし、心臓は無事なものの、腕は体を貫通していた。

 セイはルナス神に体を預ける。

「ふん、無駄な足掻きを」

 セイの行動を、ルナス神は見下す。

 セイの行動は、苦しみが長引いたに過ぎない。もう放っておいても数分もしないうちに死んでしまうだろう。

 だが、イノは見た。

 ルナス神の肩にもたれかかったセイの顔が笑ったのを。

 

 セイがルナス神に噛みついた。


「……何だ、これは」

 噛まれた瞬間、ルナス神は自らの異変に気付く。

 特に痛みは感じなかった。しかし、体が、光になって溶けていき、セイに吸い込まれていく。そして、更に気付く。セイの体が治って行っているのに。

「何なんだこれは」

 ルナス神は既に恐慌状態になっていた。体に力が入らなくなっていっている。

 セイはそれを見て高らかに笑う。

「ははは、これが俺の悪魔としての力さ。神に噛みつくことで、神を喰らい、その力を吸収する。それが俺の神食いの力。俺が何故レーシュの力を持っているのか不思議がっていたよな?」

「貴様、レーシュも喰ったのか」

「そういうことだ」

 セイはルナス神を嘲笑う。

「くそ、くそ、くそぉおおおおぉぉぉ」

 ルナス神は顔を憎しみと、そして、絶望の顔を浮かべて消えていった。


 完全に復活した体をセイは確かめるように動かす。

「……セイさん」

 恐る恐るイノが声をかけてくる。怖がって当然だろう。目の前にいるのは神喰いの悪魔なのだから。

「何ですか?」

 イノは意を決したような顔をしている。

「『神に代わって問います。あなたは本当に私を――友だと思っているのですか?』」

「思っているさ」

 セイはできるだけ安心させるように優しく微笑む。

「……そうですか」

 イノは頷くがそこには色々な葛藤があることだろう。

「もう一つ良いですか? 『神に代わって問います。公園で話した三十年前の少年の話は、セイさんのことだったんですか?』」

「そうですよ」

 セイは頷く。

 その顔に痛みは浮かばず、事実だとわかる。

「……神は救いではないのですね」

「ええ」

 イノは茫然とする。

 今まで信じていた全てが否定された気分なのだろう。

 セイは考える時間も必要だと考えて、スズネ達の様子を見に行こうと考える。

 瓦礫の上へと飛び上がる。

 体が今まで以上に軽い。神を喰らったからだろう。

 今までも普通の悪魔よりも身体能力が高かったが、それ以上になっている。神を喰らうごとに、神に近付いている自分の体に、幾ばくかの寂しさを感じる。

 スズネ達を見ると、向こうの戦いも終わっているようだ。参列者のほとんどは逃げ出したのだろう。残っている者達は身動きを取れないぐらいに痛めつけられている。

 アクシンも例外なく倒れている。

「殺してないですよね?」

 セイが声をかけると、スズネは顔を上げて安心したように息を吐く。

「良かった。そっちも無事終わったんだ」

「ええ、そちらも無事で良かったですよ」

「まぁね。周りに人がいたから、アクシンも本気を出せなかったようだし」

 まぁ、そうだろう。崩れやすい瓦礫が周りにあるんだ。アクシンが本気で風を放とうものなら、周りの人間も巻き込まれてしまう。

 参列者はいずれも教会の権力者だ。

 アクシンは周りを守りながら戦わねばならなかったのだろう。セイはアクシンに近付く。すると、アクシが顔を起こし、セイの足を掴む。

「貴様、……ルナス神はどうなった」

「死んだよ」

 セイの言葉にアクシンは悔しげに呻く。

「殺せ。私は神を守れなかったのだ。私の命も奪え」

 アクシンは懇願するように、死を望む。むざむざ、目の前で神を殺されてしまった自分が許せないのだろう。

「私は神殺しだけど、人殺しではないんですよ。死にたいのなら、勝手に死んでください」

「ふざけるな。この悪魔め」

 綺麗事を言うセイに、アクシンは睨みつける。だが、セイにはアクシンを殺す理由が本当にない。セイは肩を竦めて、アクシンの顎を蹴りつけて気絶させる。

「酷いことするね」

 スズネがからかうように言うのでセイは苦笑する。

確かに酷いとは思うものの、そうしなければ、アクシンが突っかかって来るのは明らかだ。

 力を取り戻して風の力を放ってきたら、厄介なことこの上ない。

「スズネはこれからどうするんですか?」

「ん? そうだね。クオンに久しぶりに戻ろうかとは考えているよ。セイも来るかい?」

「クオンですか。いつかは行ってみたいとは思っていたけれど、……そうですね。それも良いかもしれません。少し考えさせてもらって良いですか?」

「別に答えはそんなに急がなくていいよ。私も準備とかあるし」

「そうですか」

「その間、あの小屋を使わせてもらって良い?」

「構わないですよ」

「そう、ありがとう。じゃ、私は先に戻ってるね」

「ええ、それと、協力してくれてありがとうございました」

「はは、私の目的のためでもあったから、お礼はいらないよ。まぁ、上手くいって良かったわ」

 そう言って、スズネは教会から出ていく。

 セイは最後に、イノの元へと戻る。

 俯いていたイノはセイに気付き、顔を上げる。

「神は救いではない。それはイノにもわかったはずですよ」

「ええ。……でも、それなら私は何を信じれば良いんですか?」

 答えを求めるように尋ねてくる。

 セイは思い出す。

 自分も似たように、信じていたものを全て壊された。

 その時、自分はどうしただろうか?

「信じなくて良い。いや、違うな。信じるものを自分で探すんです。他人から与えられた知識ではなく、自分で触れ、考え、見つけ出すんですよ」

 セイも、色んなところを旅して、色々な考えに触れて、今の考えを持っている。だから、イノに自分の考えを押し付ける気はない。

 イノ自身に見つけて欲しいと、セイは思う。

「……考える」

「私はその為なら、いくらでも手伝いますよ」

 セイは優しく言う。


 イノは迷っていた。

 信じて良いのだろうかと。

 今まで信じていた神の姿は違うものだった。

 そして、セイもまた、イノを偽っていた。

 友だと思ってくれているのは真実だとしても、セイが他に隠していることがないというわけでもないだろう。

 だから、イノにはすぐに、セイの言葉を完全に信じる気にはなれなかった。

「あっ、そうだ」

 イノが迷っていると、セイが何かを思い出す。

「……どうかしたんですか?」

 イノは、おずおずと、警戒しながらも尋ねる。

「明日、ダンの下手くそな演劇を見に行くんですよ」

 その呆気らかんとしたセイの言葉に、イノは思わず吹き出してしまう。

学校で一緒に遊んでいた頃と、何も変わらないセイ姿がそこにはあった。

「イノも一緒に行きましょう」

 セイは微笑んで、手を差し伸べて来る。

 確かにイノにとって、セイは完全には信じられない。それでも、セイが自分を友達だと思ってくれている。それだけは信じられる。

 少なくともイノにはそう思えた。

 

 神を喰らう少年の手を、神に祈り続けた少女は握り返した。


最後まで読んでいただいた方に、最上級の感謝を。

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