鑑定士の誇りを踏みにじり、孫娘の命を弄んだ成金男爵の末路。断罪されるはずの悪役令嬢が、男爵一族を塵(ごみ)に変えるまで
第一幕:黄金の檻に潜む蜘蛛
王都の北側に位置するエヴァンス男爵邸を包む空気は、どこか肌を刺すような落ち着かなさがあった。歴史ある貴族の邸宅が持つ、時が止まったような静謐さはそこにはない。代わりに漂っているのは、新興勢力特有の、金で買い叩いたばかりの調度品が放つ刺々しい輝きと、隠しきれない成金の焦燥だった。
王宮御用達の老鑑定士ダニエルは、応接室のソファに腰を下ろし、出された紅茶を一口含んで眉をひそめた。茶葉の質そのものは悪くない。だが、本来の香りを台無しにするほど過剰に人工的な香料が付けられていた。この家の主の、本質を誤魔化そうとする品性が透けて見えるようだった。
「ダニエル殿。急に呼び立てて済まないね」
主であるエヴァンス男爵が、脂ぎった顔に卑屈なまでの笑みを浮かべて現れた。その傍らには、娘のリリアンが控えている。一見すると「聖女」。まるでお伽噺から抜け出してきたような白く華奢なドレスを纏い、柔らかな金髪を揺らす姿は、この悪趣味な邸宅において唯一の清涼剤のように見えた。
「いいえ。……それで、鑑定のお品はどちらに?」
ダニエルが促すと、男爵は重厚な革製の小箱をテーブルに置いた。蓋を開けると、そこには深い海の色を閉じ込めたようなサファイアが、窓からの柔らかな陽光を撥ね返すように冷たく輝いていた。王家よりエヴァンス家に下賜された至宝、『蒼月の雫』である。
ダニエルはルーペを取り出し、石の深淵へと視線を沈めた。鑑定士の目にとって、宝石とは沈黙の証言者である。その石がどこから来、どのような熱に焼かれ、どのようなカットを施されたのか。サファイアの内部に浮かぶ絹糸のようなインクルージョン(内包物)をなぞり、屈折率を測る。一点の曇りもない、王家の紋章を背負うに相応しい本物であった。
ダニエルは職人の矜持にかけて、その場で厳格な鑑定印を捺した証明書を書き上げた。それが、自らを地獄へ引きずり込む片道切符になるとも知らずに。
「まあ、おじいさま。素晴らしい手際ですわね。誰もが、あなた様の言葉を『真実』だと信じますのよね?」
潤んだ瞳で見つめてくるリリアンの態度は、一見すれば年配者への敬意に満ちていた。しかし、ダニエルはその瞳の奥に、獲物を絡め取ろうと待ち構える蜘蛛のような、粘りつく光が走るのを確かに見た。
第二幕:蛇の囁き、あるいは淑女の皮を被った怪物
数日後、ダニエルの元に届いた噂は、職人としての彼の魂を根底から揺るがした。エヴァンス男爵が『蒼月の雫』を、王都最大の闇質屋『黒蛇の目』に流したというのだ。しかも、担保として添えられたのは、他ならぬダニエルが数日前に捺印した、あの「本物」の証明書だった。
憤慨したダニエルは、その日のうちに男爵邸へ乗り込んだ。応接室に踏み込むと、そこにいたのは男爵ではなく、優雅に刺繍を嗜むリリアンだった。
「男爵はどこだ! 王家の至宝を闇に流すなど、鑑定した私への冒涜だ!」
リリアンはゆっくりと針を止め、ハンカチを口元に当てて、可憐な仕草で溜息を吐いた。
「あら、おじいさま。そんなに声を荒らげては、お体に障りますわ。父様はただ、わたくしの夢を叶えるために、ほんの少しお金が必要だっただけ。……ちょうどいいわ。おじいさまには、さらなる『特別なお仕事』をお願いしたいの」
リリアンが小机から取り出したのは、一枚の書類だった。『販売委託証明書』の草案。そこには、目を疑うような文言が並んでいた。
「……第ニ王子アルフォンス殿下の婚約者、イザベラ・ロザリンド様からの売却依頼、だと!? 馬鹿な、そんな事実があるはずがない!」
現在、王宮ではアルフォンス王子が婚約者のイザベラを疎み、リリアンを次期王妃に据えようと画策している。そのために、高潔なイザベラを「悪徳令嬢」として陥れるための醜い噂が、毒霧のように街に流布されていた。
「な、何を考えている! 盗難の罪を、あの方に擦り付けるつもりか!」
絶句するダニエルに対し、リリアンは小首を傾げた。その表情は無垢な少女のようでありながら、瞳の奥には底なしの悪意が渦巻いている。
「あら、察しの悪いこと。……イザベラ様が、わたくしへの嫉妬に狂ってこの首飾りを盗み、あなたに秘密裏の売却を依頼した。書類にはそう書くの。わたくしと殿下の真実の愛を邪魔するあの『悪女』を、この国から完全に消し去るためにね」
ダニエルは震える手で机を叩いた。「鑑定士の良心にかけて、そのような偽証は断じてできぬ!」
その瞬間、リリアンの表情から温度が消えた。氷のような美貌がそこにあった。
「あら、拒むのですか? いいですわ。鑑定士の免許を剥奪し、あなたの家族を路頭に迷わせる。いえ、それだけだけでは、少し物足りませんわね……。……いいこと、おじいさま。今夜中よ。あなたの方から泣いて『嘘を書かせてください』と、わたくしの足元に縋りに来ることになるわ。……楽しみにしておきますわね」
淑女の仮面を脱ぎ捨てたリリアンの声は、濡れた蛇が耳元を這いずるような不快な響きを持って、ダニエルの魂にこびりついた。
第三幕:消えた光、そして神への絶望
不吉な宣告を背に帰宅したダニエルを待っていたのは、静寂ではなく、息子夫婦の悲鳴だった。 「父さん、エナがいなくなったんだ!」
ダニエルは、リリアンのあの嘲笑いを思い出し、心臓が凍りついた。老いた足を引きずり、彼は夜の王都へ飛び出した。泥にまみれた路地裏を這い、男爵の企みの影を追った。だが、どこにも孫娘の姿はない。夜の冷気が、絶望となって老いた体に突き刺さる。
自宅へ戻り、虚ろな目で執務室に座り込む彼の元に、男爵からの使いが現れた。
「ダニエル殿、伝言だ。『書類はまだか?』とな。今すぐ署名すれば、孫娘は明日の朝には戻るだろうよ」
ダニエルの指が、羽ペンを掴もうとして止まった。書けば、エナの命は助かる。だが、それは無実のイザベラ様を断頭台に送り込み、人間としての魂を永久に汚すこと。
「……帰れ!私は……私は鑑定士だ。嘘の事実を真実とは言えぬ……!」
使いが去った後、ダニエルは崩れ落ちた。 「……ああ、神よ。私のこの判断のせいで、エナが殺されるるかも知れない……!」
家族を守れぬ無力さと、真実を捨てきれぬ業。咽び泣く老鑑定士の背後に、一筋の冷たい風が吹いた。
第四幕:月光の令嬢、救世主への畏怖
「……真実を扱う指先が、そのように震えていては、鑑定に狂いが出ますわよ」
振り返ると、そこには月光を背負ったイザベラ・ロザリンドが立っていた。
「わたくしは現在、王立慈善病院の会計監査に携わっておりますの。困窮しているはずのエヴァンス男爵から、不自然な大金の流れがあり、出所を洗えば、質屋『黒蛇の目』に行き着くのは容易なことでしたわ」
イザベラ様は机の上に、孫娘の髪飾りを置いた。 「ご安心なさい。彼女は既に救出し、わたくしの別邸で休ませています。怪我一つありませんわ」
ダニエルの目から、堰を切ったように涙が溢れた。しかし、イザベラは扇を閉じ、淡々とした口調で続けた。
「誘拐を実行した賊共ですが、わたくしの私兵に対し愚かにも抵抗を見せたため、その場で『処理』させましたわ。……今頃は路地裏の塵に混ざっているでしょう」
塵。人を、まるで不浄なゴミのように切り捨てるその言葉に、ダニエルは戦慄した。この方は救世主だ。しかし同時に、敵を塵芥として踏み潰す絶対的な支配者なのだ。
「閣下……しかし、あの質屋は裏社会の……」 「『黒蛇の目』のことかしら? あの店主には、過去の脱税と盗品等関与の証拠を突きつけて、少々『法的に』お話を聞いただけですわ。今やあの店は、間接的にわたくしの管理下にあります。男爵が安心して証拠を預けた場所こそが、わたくしの手の内だった。……滑稽ですわね」
イザベラ様は真っ直ぐにダニエルを見据えた。 「身内の命を天秤にかけられてなお、真実を曲げぬ職人の矜持。それこそが、わたくしが守るべき至宝ですわ。……その至宝を、わたくしが守り、不浄な塵共を掃除して差し上げるのは当然のことでしょう?」
第五幕:断罪の終わりと、新たな忠誠
数日後、ダニエルは王宮の調査官に対し、一切の迷いなく証拠書類を提出した。男爵が質屋で署名した『売買契約の控え』、そして自分に強要しようとした『偽の供述書の草案』。
そして運命の舞踏会。 王宮の広間で、リリアンはその醜悪な野心を暴かれ、絶望の悲鳴を上げながら捕縛された。それと時を同じくして、エヴァンス男爵もまた、数々の罪状により邸宅にて逮捕された。
数週間後。没収された財産の整理とエヴァンス親娘の国外追放という報せを受け、街の騒動がようやく落ち着いた頃。ダニエルは孫娘エナを連れて、今や「王室顧問」となったイザベラを訪ねた。
「閣下……私の誇りと、家族を救ってくださいましたこと、生涯忘れません」
「わたくしのために、これからも精々その『目』を研ぎ澄ませておくことですわ」 彼女はそう告げるとと、エナに優しく祝い菓子を渡した。厳しい言葉とは裏腹の、細やかな配慮。
ダニエルは、その場に深く跪いた。 彼女は「悪役」などではない。 鋭利な知性、冷徹なまでの正義感で、腐敗した王国を正しく「細工」し直そうとしている唯一の希望なのだ。
「……私の目は、あの日から閣下という光しか映しません」
老鑑定士は心の中で誓った。この命尽きるまで、彼女が築く新しい王国の「真実」を支え続けることを。
(おしまい)
この話は「悪役令嬢イザベラの断罪手帖」の一部です。
よろしければ、他のストーリにもお目通しくださいませ。
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