第六話:渋谷フィールドワーク狂想曲
富安京一郎が、自らの意志とは無関係に、平日の昼下がりの渋谷駅ハチ公口に降り立った時、彼の感覚器官は、かつて経験したことのないレベルの情報奔流によってオーバーロードを起こしかけていた。
まず、鼓膜を襲うのは、多重層のノイズだ。
巨大な駅ビルから流れ出すアナウンス、スクランブル交差点を埋め尽くす人々のざわめき、四方八方の大型ビジョンから降り注ぐCMソングやミュージックビデオの爆音、客引きの呼び込みの声、そして、どこからともなく聞こえてくる、重低音を響かせた流行りの音楽。
それら全てが渾然一体となり、彼の集中力を無慈悲に掻き乱す。
普段愛用しているノイズキャンセリングイヤホンを持ってこなかったことを、彼は激しく後悔した。
次に、視覚。目の前のスクランブル交差点は、信号が変わるたびに、まるで巨大な生物のように蠢き、膨大な数の人々を吐き出し、飲み込んでいく。
「この音と映像と人、人種の混沌としたカオス表現はゲームの中で表現は難しいだろうな…できたとして表現過剰でチェック機構に引っ掛かってしまいそうだ…」京一郎はプログラムの理路整然としたロジカルな空間との極北にありつつも、一種のカオスなりの秩序がある世界の情報量に圧倒される。
色とりどりのファッションに身を包んだ若者たち、スーツ姿のビジネスマン、大きな荷物を抱えた観光客。
そして、その中でも特に京一郎の目を引くのは、昨日遭遇したキラ☆と同種族と思われる、派手な服装と髪型をしたギャルたちの集団だ。
彼女たちは、周囲の喧騒など意にも介さず、楽しそうに笑い合い、スマホで自撮りをしている。その色彩の洪水と、絶え間ない動きの情報量に、京一郎の目はチカチカし、軽い眩暈すら覚えた。
さらに、嗅覚。排気ガスの匂い、様々な飲食店から漂ってくる食べ物の匂い、そして、行き交う人々が発する多種多様な香水や化粧品の匂いが混ざり合い、彼の鼻腔を刺激する。
昨日、第7開発準備室で感じたものと同系統の、甘く、しかしどこか人工的な香りが、ここ渋谷の空気には濃厚に漂っていた。
ここは、彼の知る世界とは全く異なるルールとエネルギーで動いている場所だ。
秩序ではなくカオス、静寂ではなく喧騒、論理ではなく感覚が支配する街。
京一郎は、まるで未知の惑星に不時着した宇宙飛行士のような、途方もない孤独感と疎外感に襲われていた。
彼は、人混みの端で立ち尽くし、無意識のうちにビジネスリュックのショルダーベルトを固く握りしめていた。
「うぇーい! やっぱ渋谷、アガる~!」
そんな京一郎の心境など露知らず、隣に立つキラ☆は、渋谷の空気を胸いっぱいに吸い込み、心底楽しそうな声を上げた。
彼女にとって、このカオスは日常であり、むしろエネルギーの源であるかのようだ。
その表情は生き生きと輝き、まるで水を得た魚、いや、渋谷という名のジャングルを得た野生動物のように、周囲の空気に完全に溶け込んでいる。京一郎との対比は、残酷なほどに鮮やかだった。
「ほらセンパイ、見て見て! あそこのカフェのテラス席にいる子たち、ちょーオシャレじゃない? あのコーデ、絶対流行るって!」
キラ☆は、京一郎の腕を引っ張りながら、特定の集団を指さす。
京一郎には、その「オシャレ」の基準も、「流行る」根拠も、全く理解できなかったが、キラ☆の瞳は確信に満ちている。
「は、はあ…」
曖昧な相槌を打つしかない京一郎にキラ☆は畳みかける。
「ああいう子たちがさー、今マジで何にハマってて、どんなゲームやりたいって思ってるか、直接聞くのが一番早いっしょ!」
キラ☆は、まるで宝探しでもするかのように、目を輝かせている。
「おーい! キラ☆ー!」
その時、前方から甲高い声が聞こえた。見ると、キラ☆と同じように、最新のギャルファッションに身を包んだ少女が、手を振りながらこちらに駆け寄ってくる。
キラ☆よりも少し背が高く、クールな印象の顔立ち。髪はシルバーアッシュで、目元は切れ長のアイラインが印象的だ。服装も、キラ☆のそれとは少しテイストが違い、モノトーンを基調とした、ややモード系のスタイルだ。
「るなちん! おつー!」 キラ☆は、その少女…るなちんと呼ばれたらしい…に駆け寄り、親しげにハイタッチを交わした。
「もう、遅いよー! さっきから待ってたんだけど!」るなちんは、少し呆れたような口調で言った。
「ごめんごめん! ちょっと、このセンパイ捕獲してくるのに手間取ってさー」
キラ☆は、悪びれもなく言い、京一郎を指さした。
るなちんは、京一郎の姿を一瞥し、怪訝そうな表情を浮かべた。
「…誰? この人。キラ☆の新しいパトロン?」
「ちげーし! この人が、うちが今一緒にゲーム作ってる、京一郎センパイ!」
「へぇー…」るなちんは、改めて京一郎を頭のてっぺんから爪先まで観察するように見た。
「…なんか、フツーの人じゃん。てか、だいぶ地味?」
「こら! 失礼でしょ!」
キラ☆は、るなちんの腕を軽く叩いた。
「でも、このセンパイ、見た目はアレだけど、技術はマジでヤバいんだから!」 (見た目はアレ、か…)京一郎は、内心で深く傷つきながらも、それを表情に出すことはなかった。
「橘瑠美奈です。るなって呼んでください。キラ☆がいつもお世話になってます…多分」
るなちんは、意外なほど丁寧な口調で自己紹介し、軽く頭を下げた。
京一郎も慌てて
「と、富安京一郎です。こちらこそ…」
と挨拶を返した。
彼女は、キラ☆とは違い、どこか冷静で、常識的な感覚を持っているように感じられた。
「で? 今日はマジで市場調査すんの? そのセンパイ連れて?」
るなちんが尋ねる。
「そだよ! うちらのリアルな声を聞かせて、センパイにギャルゲーの神髄を叩き込むの!」
「ふーん。まあ、面白そうだから付き合うけどさ。ちゃんと目的持ってやんなよ? ただ喋ってるだけじゃ、調査になんないからね」
るなちんは、キラ☆を軽く諌めた。
しっかり者、という第一印象は間違っていなかったようだ。
京一郎は、このるなちんという存在が、今日の調査において、わずかながらでも理性の砦となってくれるのではないかと、淡い期待を抱いた。
「オッケー! じゃあ、早速行ってみよー!」
キラ☆は、るなちんの忠告もどこ吹く風といった様子で、再び京一郎の腕を掴むと、近くのカフェにいたギャル二人組へと突進していった。この肌の接触が京一郎にとっては刺激が強い。大体何でギャルはこんなに挑発的な格好を好んでするのだろうか?やはりナンパ待ちみたいな所もあるのだろうか…等と失礼なことを周巡しているとそのままグイグイと連れていかれる。
「ねーねー、ちょっといーい? うちら今、新しいゲーム作ってるんだけど、ちょっと話聞かせてくんない?」
キラ☆は、持ち前の人懐っこさと、カリスマ的なオーラで、初対面の相手にも臆することなく話しかける。
驚くことに、声をかけられたギャルたちも、特に警戒する様子もなく
「え、なにー? ゲーム? やるやるー!」
と、すぐに打ち解けていた。
そこから先は、京一郎にとって、まさに異文化理解のフィールドワーク、いや、カルチャーショックの連続だった。
キラ☆とるなちんは、まるで井戸端会議でもするかのように、自然な流れでギャルたちからゲームに関する意見を引き出していく。
「マジでさー、着せ替えゲーとか、もっとパーツ細かくイジれたらいいのにねー」
「わかるー! 前髪の長さとか、ネイルの形とかさー」
「あと、カラコンの種類! リアルにあるやつ、全部入れてほしい!」
「それな! で、メイクもさー、流行りの涙袋メイクとか、地雷メイクとかできたら神!」
「課金? んー、まあ、推しのためならいくらでも出すけど?」
「ガチャは闇深いからなー。天井低いなら回すけど」
「てか、無料で貰えるアバターがダサいのは萎える。初期装備からある程度可愛くないと、やる気なくす」
「SNS連携は必須っしょ! インスタにすぐ上げれるやつ!」
「ゲーム内で友達と『映え』スポットで写メ撮りたい!」
「あと、ストーリーとかもさー、なんか『うちら』って感じのやつがいいなー。キラキラしてるだけじゃなくて、たまには病んだり、喧嘩したりするやつ」
「わかるー! エモいやつね!」
彼女たちの口から飛び出すのは、京一郎がこれまでデータ分析で見てきたような、抽象化されたニーズではない。
極めて具体的で、感覚的で、そして、彼女たちの日常と地続きになった、生々しい欲求だった。
特に、「盛れる」という言葉に込められた意味の多様性には驚かされた。
単なる外見の美化だけでなく、自己肯定感を高める手段であり、他者との共感を得るためのツールであり、時には、現実からの逃避や、理想の自分を演じるための仮面でもあるらしい。
京一郎は、録音文字起しは並行して行いつつも、ノートPCを開き、高速でキーボードを叩いていた。
彼女たちの言葉を、そのまま記録していく。
ギャル語や流行語が多く、意味の分からない単語も少なくない。…つまり、文字起しで拾えない単語が多い…しかし、今はとにかく、一次情報として記録することが重要だと考えた。
後で、一つ一つ意味を調べ、分析すればいい。
彼の目は、普段コードを追う時のように、真剣そのものだった。その必死な様子が、ギャルたちには少し奇妙に映ったようだ。
「ねー、あの人、マジメすぎじゃない? 大丈夫そ?」
「キラ☆のセンパイらしいよ。なんか、めっちゃ頭いいエンジニアなんだって」 「へー。ギャップ萌えってやつ?」
そんな囁き声も聞こえてきたが、京一郎は気にしている余裕はなかった。
彼の頭の中では、大量の新しい情報が、既存の知識体系と衝突し、火花を散らしていた。
※
るなちんは、時折、キラ☆の暴走しがちな話題を軌道修正したり、ギャルたちの意見をより深く掘り下げたりする役割を果たしていた。
「その『エモいストーリー』って、具体的にどういうのが読みたい? 例えば、友情? 恋愛? それとも、夢を追う話?」
「『推しに課金する』って言ってたけど、月いくらくらいまでなら許容範囲?」
彼女の質問は的確で、ギャルたちも真剣に考えながら答えている。
京一郎は、るなちんの冷静な分析力とコミュニケーション能力に、内心で感心していた。
キラ☆とは違うタイプの、これもまた一つの「ギャルの才能」なのかもしれない。
※
カフェを皮切りに、彼らは渋谷のセンター街を練り歩き、アパレルショップの店員、プリクラを撮りに来ていた女子高生、さらにはタピオカドリンクの列に並ぶギャルたちにまで、次々と声をかけていった。
京一郎は、その間、半ば無言で、しかし鋭い観察眼で、彼女たちの服装、持ち物、会話の内容、そしてその場の空気感を吸収しようと努めていた。
渋谷という街、そしてギャルという文化が持つ、独特のエネルギー。
それは、データや数値だけでは決して捉えきることのできない、生々しく、混沌としていて、しかし強烈な魅力を持つ何かだった。
彼はまだ、それを完全に理解するには程遠い。
拒否感や戸惑いも依然として大きい。
だが、同時に、この未知の世界の奥に、リアルに存在するギャルという生態の多様性の中に、何か重要なヒントが隠されているのではないかという、微かな予感も感じ始めていた。
※
数時間に及んだフィールドワーク(という名の渋谷散策とゲリラヒアリング)がようやく終わる頃には、京一郎は精神的にも肉体的にも疲労困憊していた。
人混み、騒音、そして大量の初対面の人々との(間接的な)コミュニケーション。
それは、彼のエネルギーを根こそぎ奪っていった。
「いやー、マジで有意義だったわー! やっぱ、現場の声、最強っしょ!」
キラ☆は、少しも疲れた様子を見せず、満足げに言った。
るなちんも、「まあ、面白い話は聞けたかな」と頷いている。
「センパイ、どうだった? ちょっとは、ギャルのこと、分かった?」
キラ☆が、期待を込めた目で京一郎を見る。
「…正直、まだ、混乱しています」京一郎は、正直に答えた。
「ですが…皆さんが、ゲームに対して、非常に強い自己表現の欲求を持っていること、そして、それが極めて具体的な部分と、感覚的なものがあることは、理解できました。データだけでは、決して見えてこない側面です」
「でしょー?」キラ☆は、嬉しそうに笑った。
「だから言ったじゃん! うちらの『リアル』は、現場にしかないんだって!」
その言葉は、以前よりも、少しだけ、京一郎の心に響いたような気がした。
会社に戻る電車の中で、京一郎はノートPCを開き、今日集めた大量のメモを整理し始めた。
支離滅裂に見えるギャルたちの言葉の中に、何か一貫した法則性や、本質的な欲求が隠されているのではないか。
彼のエンジニアとしての分析能力が、新たなターゲット…ギャルの心…に向けて、静かに動き始めていた。
それは、彼にとって、レンダリングエンジンの最適化よりも、遥かに難解で、しかし、もしかしたらそれ以上に興味深い挑戦になるのかもしれない。