第五話:カオスな日常と市場調査の波紋
富安京一郎のエンジニア人生において、最も理解不能で、最も生産性の低い一週間が過ぎようとしていた。
あの日、第7開発準備室でキラ☆と名乗るギャルと遭遇し、部屋のデコレーションから始めようという常識外れの提案を受けた衝撃は、まだ彼の心に生々しく残っている。
結論から言えば、部屋の壁がラメ入りのピンクに塗られるという最悪の事態は、京一郎の必死の抵抗によって回避された。
「会社の備品を無断で改造することは服務規程に違反する可能性があります」
「塗料の有機溶剤が精密機器に与える影響について検証が必要です」
「そもそも、開発業務と直接関係のない活動に工数を割くことは、プロジェクト全体の遅延を招きかねません」
―― 京一郎は、考えうる限りの論理と規則を盾に、キラ☆の突飛な要求を退けようとした。
キラ☆は最初、「マジ意味わかんないんだけどー!」「カタすぎ!」と不満を露わにしていたが、京一郎が「もし壁を塗るなら、正式な稟議書を作成し、関係各部署の承認を得て、予算を確保し、専門業者に依頼する必要があります。
その手続きには最低でも…」と、延々と続くであろう官僚的な手続きについて説明し始めると、急速に興味を失ったようだった。
「あーもー! めんどくさ! じゃあ、いいよ!」
と、あっさり引き下がったのだ。
ただし、完全に諦めたわけではなかったようで、その後、彼女はどこからか持ち込んだ私物で、着々とこの「アジト」のパーソナライズ化を進めていた。
ヒョウ柄のクッション、キャラクターもののぬいぐるみ、そして例のミラーボール。
京一郎が気づかぬうちに、デスクの隅には小さなクマのぬいぐるみまで置かれていた。
抗議しようかとも思ったが、その度にキラ☆の「えー? これくらい、いーじゃん! 癒やし担当!」という能天気な反論にあい、京一郎は次第に、無駄なエネルギーを使うことを諦め始めていた。
もはや、彼の精神的なキャパシティは、このカオスな環境に適応する(というよりは、感覚を麻痺させる)方向へと、否応なくシフトしつつあったのだ。
問題は、部屋の装飾だけではない。
キラ☆の存在そのものが、京一郎の確立された仕事のリズムを根本から破壊していた。
彼女は、コアタイムぎりぎりに出社してくるかと思えば、突然「ネイル行ってくる~」と言い残して数時間姿を消す。
部屋では常にスマホをいじり、友人たちとビデオ通話を始めたり、大音量で流行りの音楽(京一郎にとってはただの騒音にしか聞こえない)をかけたりすることも日常茶飯事だ。
極めつけは、時折、何の予告もなく彼女の友人である他のギャルたちが、この第7開発準備室に押しかけてくることだった。
彼女たちは、テーブルにコンビニスイーツを広げ、姦しくお喋りを始め、挙句の果てには、京一郎の仕事ぶりを珍しそうに覗き込んでは、「センパイ、マジメか!」などと囃し立てるのだ。
京一郎は、その度に思考を中断され、集中力を削がれ、ただひたすらに耐えるしかなかった。高山プロデューサーに現状を報告し、改善を求めたこともあったが、高山は困り果てた顔で、「まあ、社長のお嬢さんだからな…大目に見てやってくれ。外来OKなのは、そもそもキラ☆さんは社員じゃなくて出向扱いだし、ゲストは裁量ありでそのための第七開発室だからな…隔離されているし、他開発室に入れなければ問題ないだろう…それでも何か問題があれば、私に言ってくれれば対応するから…」と、社長権限による様々な特異な対応がされている以上、具体的な京一郎が望む解決には至らなかった。
そして何より深刻なのは、プロジェクトの中核であるはずのゲーム企画が、一向に進展しないことだった。
京一郎は、あの日以来、何度も企画会議の場を設けようと試みた。
彼なりに、キラ☆の語った断片的なアイデア(「盛れるアバター」「リアルブランドとのコラボ」「推しと繋がる機能」)を基に、技術的な実現可能性や、ビジネスモデルとしての妥当性を検討し、具体的な企画案に落とし込もうとした。
「キラ☆さん、先日のアイデアについてですが、アバターのカスタマイズ性を高める方向性は非常に興味深いと思います。
そこで、まずはコアとなる着せ替えシステムのプロトタイプを作成し、実現可能なカスタマイズ範囲を具体的に定義しませんか?
例えば、パーツの種類、カラーバリエーション、テクスチャの解像度などを…」
京一郎がそう切り出すと、キラ☆は、一瞬だけ興味を示したかのように見えたが、すぐに「んー、なんか、そーゆー小難しい話は、よく分かんないんだよねー」と、いつもの調子で議論を放棄してしまう。
「もっとさー、こう、パッと見で『ヤバ!』ってなる感じが欲しいわけ! 仕様書とか、細かいことはセンパイに任せるから、いい感じにヨロシク!」と、丸投げされる始末だ。
京一郎は、彼女の言う「ヤバい感じ」を具体化しようと、参考になりそうな既存のゲーム画面や、ファッション系のアプリのスクリーンショットを見せたりもした。
しかし、キラ☆の反応は、「うーん、悪くないけど、なんか違う」「もっと、キラキラが足りなくね?」「エモさが欲しい」といった、抽象的で感覚的なものばかり。
彼女の頭の中にある理想のイメージは、極めて曖昧で、かつ流動的なようだった。
(これでは、仕様書が書けない…)
京一郎は、内心で深い溜め息をついた。
彼は、建築家が設計図なしに家を建てられないのと同じように、明確な仕様と設計なしにプログラムを書くことはできないタイプのエンジニアだった。
彼の美学は、緻密な設計に基づいた、エレガントで効率的なコードを書くことにある。
しかし、今の状況は、まるで、目隠しをされたまま、手探りで未知の迷宮を進むようなものだった。
焦りと、苛立ちと、そして、このプロジェクトに対する根本的な疑問。
それらが、日増しに彼の心を蝕んでいく。
本当に、このプロジェクトは成功するのだろうか? いや、それ以前に、ゲームとして形になることすら、可能なのだろうか? そんな疑念が、彼の頭から離れなかった。
※
そんなある日の午後、京一郎は一つの決意をもって、キラ☆に向き直った。
彼は、この数日間で集められる限りのデータを基に、改めて市場分析レポートを作成していた。
ギャル層に人気のアプリ、彼女たちの消費行動、SNSでのトレンド…。
客観的なデータを示せば、少しは現実的な議論ができるかもしれない。
そう考えたのだ。
「キラ☆さん、少しよろしいでしょうか」
京一郎は、PCの画面をキラ☆に向けた。
「改めて、ターゲットユーザーについて分析してみたのですが…」
彼は、グラフや数値を使いながら、ギャル層の市場が持つポテンシャルと、同時にその攻略の難しさについて説明を始めた。
可処分所得、流行の移り変わりの速さ、コミュニティ内での同調圧力…。
「これらのデータから推測するに、単に『可愛い』『盛れる』という要素だけでは、継続的なエンゲージメント(ユーザーの継続プレイの指標)を維持するのは難しいと考えられます。何らかのゲーム性、あるいは、強いソーシャル要素を組み込む必要が…」
京一郎が説明を続けていると、キラ☆は、意外にも、今回は黙って画面を見つめていた。
何か、思うところがあるのかもしれない。
京一郎は、わずかな期待を込めて、説明を続けた。
「…そこで、私が提案したいのは、アバターカスタマイズをコアにしつつも、そこにコレクション要素や、ユーザー間のコミュニケーションを促進するような、非同期型の…」
「あのさー、センパイ」 キラ☆は、京一郎の言葉を遮った。その表情は、いつものような退屈そうなものではなく、どこか真剣みを帯びているように見えた。
「はい?」
「センパイが、めっちゃ頑張ってデータとか集めてくれたのは、マジで感謝してる。それは、ホント」
「…はあ」
「でもさー」
キラ☆は、少し言い淀むように、しかしはっきりとした口調で続けた。
「正直、こーゆーデータとか、グラフとか見てても、うちらが『マジで欲しい!』って思うものって、全然ピンとこないんだよね」
「…と、言いますと?」
「だってさー、数字とかって、なんか冷たいじゃん? 『ギャル層』って一括りにされてもさ、うちらだって、一人一人違うし、気分だって毎日変わるし。その時のノリとか、バイブスとか、そーゆーのって、データじゃ分かんなくない?」
キラ☆の言葉は、意外なほど的を射ているように、京一郎には感じられた。
確かに、データは過去の傾向を示すことはできても、未来の、しかも移ろいやすい若者の心を予測することは難しい。
「じゃあ、どうすれば…?」
京一郎は、素直に問いかけた。
「だからさー、言ったじゃん! 『リアルな声』を聞くのが一番だって!」
キラ☆は、目を輝かせた。
「データとにらめっこしてるより、実際にうちらみたいな子たちが、今、何にハマってて、何にキュンときて、何に『ぴえん』ってなってるか、直接聞いた方が、絶対早いし、確実だって!」
「直接、聞く…? それは、グループインタビューのような形式で、ということでしょうか?」
「んーん、もっとラフな感じ! てかさ、もう、うちらがいつもいる場所に行って、直接聞いちゃえばよくない?」
「いつもいる場所…?」
「そ! 渋谷! ギャルの聖地!」
キラ☆は、立ち上がり、得意げに胸を張った。
「市場調査だよ、センパイ! 机上の空論はもう終わり! 百聞は一見にしかずってね!」
「し、渋谷で市場調査…ですか? 具体的に、どのような方法で…?」
「そんなの、行ってから考えればいーじゃん! とりま、行くよ、センパイ!」
キラ☆は、有無を言わさぬ勢いで、京一郎の腕を掴んだ。
その力は、見た目に反して、意外なほど強い。
「ちょっ…待ってください! 今からですか!? 何の準備も…それに、業務時間中に、許可なく外出するのは…」
「大丈夫だって! 高山Pには、もう言ってあるから!『現場の声を聞くのも重要だ』って、なんか難しい顔してたけど、OKしてくれたし!」
「えっ…!?」
京一郎は、高山プロデューサーの顔を思い浮かべた。
あの苦労人が、こんな突飛な行動を許可したというのか? 信じられない思いと、そして、またしても自分だけが蚊帳の外に置かれていたことへの、わずかな不快感が込み上げてくる。
しかし、キラ☆は、そんな京一郎の内心などお構いなしに、彼の手を引いて、第7開発準備室のドアへと向かう。
「ほら、行くよ! うだうだ言ってないで! 新しいゲームのヒントは、渋谷に落ちてるんだって!」
「し、しかし…!」
京一郎は、抵抗を試みたが、キラ☆の強引さと、そして、どこか彼女の言葉に妙な説得力を感じ始めている自分自身に戸惑いながら、なすすべもなく、カオスな部屋の外へと引きずり出されていった。
ちょうどその時、廊下を通りかかった同期の佐々木が、その光景を目撃した。
片や、必死の形相で抵抗する京一郎。
片や、満面の笑みでその腕を引く、ド派手なギャル。
佐々木は、一瞬、何が起こっているのか理解できず、呆然と立ち尽くした。
(け、ケイチ…? あの、ギャルは誰だ…? まさか、例の新規プロジェクトの…? ケイチ、お前、大丈夫なのか…!?)
佐々木の顔には、驚きと、混乱と、そして友人に対する深い心配の色が浮かんでいた。
彼は、慌てて京一郎に声をかけようとしたが、二人はあっという間にエレベーターホールへと消えていった。残された佐々木は、ただ、「京一郎…強く生きろよ…」と呟くことしかできなかった。
だが、その後佐々木は、少しだけ面白くなってきたと反芻しながらプランナー仲間に情報のシェアを始める。
※
富安京一郎の、生まれて初めての「渋谷フィールドワーク」が、今、彼の意志とは全く無関係に、強制的に始まろうとしていた。
彼の論理と秩序の世界は、さらに激しく揺さぶられることになるだろう。
だが、彼自身もまだ気づいていない、ほんのわずかな変化の兆しが、その混乱の中から生まれようとしているのかもしれなかった。