第四話:ファーストコンタクト ~激突する論理と感覚~
第7開発準備室の異様な空気の中で、富安京一郎は数分間、ただただ硬直していた。
目の前の光景、鼻をつく匂い、そして何よりも、キラ☆と名乗る少女の存在。
その全てが、彼の処理能力を超えた情報として、脳内でエラーコードを吐き出し続けているかのようだった。
しかし、時間は有限であり、プロジェクトリーダーとしての(不本意ながらも)職務が彼にはあった。
彼は、深呼吸を一つし、無理やり思考を通常モードへと切り替えた。
まずは、現状把握と、目的の共有。
それが、どんなプロジェクトであれ、基本となるはずだ。
「…さて、キラ☆さん」
京一郎は、努めて平静な声を作り、口を開いた。
「まずは、この『プロジェクト・ギャラクシー』について、我々が何をすべきか、認識を合わせることから始めませんか?」
彼はビジネスリュックからノートPCを取り出し、テーブルの上に置いた。
キラ☆がガサッと脇に寄せた雑誌やぬいぐるみが、PCの置き場所をわずかに侵食していることに眉をひそめたが、今はそれを指摘する余裕はない。
PCを起動し、事前に作成しておいた企画骨子案のファイルを開く。
それは、昨夜、社長との面談後、不安と混乱の中で、それでも必死に思考を整理し、彼なりに考えた「ギャル向けゲーム」の可能性と課題をまとめたものだった。
「私が昨日、急遽まとめたものですが…」
京一郎は、モニターの角度を調整し、キラ☆にも見えるようにした。
「まず、ターゲットユーザーである『ギャル』層の市場規模と特性について。
これは、既存の公開データや、類似アプリの分析に基づいています。
次に、競合となりうるタイトルとその特徴。
そして、我々が参入する上での差別化要因となりうる技術的アドバンテージ、例えば、アストライア・エンジンを活用した高品質なアバター表現の可能性など…。
さらに、想定される開発スケジュールと、マイルストーンごとの目標設定、リスクとその対策案…」
京一郎は、普段通り、論理的かつ体系的に説明を始めた。
彼の声は、少し早口で、抑揚に乏しい。
だが、その内容は、短時間でまとめ上げたとは思えないほど、緻密で、多角的な分析に基づいていた。
グラフや表を多用し、専門用語を交えながら、彼はプロジェクトの全体像を提示しようと試みた。
これが、彼の仕事の進め方であり、彼が最も得意とするコミュニケーションの形だった。
まずは、客観的な事実とデータに基づいて、共通の土台を築く。そこから、具体的な議論へと進めるべきだと、彼は考えていた。
しかし、その試みは、開始からわずか数分で、無残にも打ち砕かれることとなる。
キラ☆は、最初のうちは、珍しいものを見るかのように、モニターを覗き込んでいた。
だが、京一郎が市場規模のグラフを示し、パーセンテージや成長率といった数字を口にし始めたあたりから、急速に興味を失っていくのが、京一郎にも見て取れた。
大きな瞳は、次第にモニターから外れ、窓の外を飛ぶ鳥や、自分のネイルアートへと移っていく。
やがて、小さく、しかしはっきりと聞こえるほどの、ふわぁ~というあくびを漏らした。
「…それで、この技術的課題に対しては、いくつかの解決アプローチが考えられます。第一に…」
京一郎は、キラ☆の反応に気づかないふりをし、説明を続けようとした。
だが、その言葉は、キラ☆の素っ気ない一言によって遮られた。
「ねー、センパイ。これ、いつ終わるの?」
「…え?」
「いや、だから、この説明? なんか、文字ちっさいし、数字ばっかだし、マジで眠いんだけどー」
キラ☆は、頬杖をつきながら、あからさまに退屈そうな表情で言った。
「てかさー、なんか、お腹すかない? クレープでも買いに行こーよ」
「…今は、会議中です。まずは、プロジェクトの全体像を…」
「だーかーらー! そーゆーカタいこと言ってるから、つまんないんだってば!」
キラ☆は、ぷいっと顔を背けた。
「もっとさー、こう、ワクワクするような話、ないわけ?」
京一郎は、言葉を失った。
会議中に飽きたと言い放ち、あまつさえクレープを買いに行こうと提案する。
彼の三十年間の人生において、このような状況に遭遇したのは初めてだった。
彼の常識、彼の価値観、彼がこれまで築き上げてきた仕事の進め方が、目の前の少女によって、いとも簡単に否定され、破壊されていく。
「…ワクワクする話、とは、具体的にどのような内容を期待されていますか?」
京一郎は、かろうじて平静を装い、問い返した。
「んー、だからさー!」
キラ☆は、身を乗り出し、目を輝かせた。
「うちらがマジで欲しいゲームの話だよ! なんかさー、既存のゲームって、どれもこれも、なんか『オジサンが考えたギャルっぽさ』みたいなのが透けて見えちゃって、萎えるんだよねー」
「…オジサンが考えた、ギャルっぽさ…」
京一郎は、その言葉を反芻した。
自分も、その「オジサン」の一人として見られているのだろうか。
「そ! もっとさー、リアルなうちらの『カワイイ』とか『エモい』とか、そーゆーのが分かってるゲームが欲しいわけ! 例えばさー、アバター作るじゃん? そしたら、髪型とかメイクとか、マジで無限にいじれて、最新のコスメブランドの色とかも全部反映されてんの! で、服もさー、渋谷の109とかに入ってるリアルなブランドとコラボしてて、毎週新作が入荷すんの! ヤバくない?」
「…技術的には、不可能ではありませんが、権利関係や更新頻度を考慮すると、運用コストが膨大になる可能性が…」
「コストとか、どーでもいーし! でね! その最強アバターで、友達と集まれる仮想空間があんの! そこもさー、渋谷とか原宿とか、リアルな街が再現されてて、そこでプリ撮ったり、TikTokみたいな動画撮ってアップしたりできんの! で、その動画がバズったら、ゲーム内通貨とか、限定アイテムとか貰えちゃったりして!」
キラ☆は、次から次へと、堰を切ったようにアイデアをまくし立てる。
その表情は生き生きとしており、先ほどまでの退屈そうな様子が嘘のようだ。彼女が語る内容は、京一郎の視点から見れば、既存にあるアプリの組み合わせではあるものの、加減のないバリエーションが突飛で、現実離れしているように思えた。
しかし、同時に、そこには奇妙な熱量と、そして、もしかしたら新しいゲームの可能性を示唆する何かが含まれているような気もした。
だが、京一郎がその可能性について思考を巡らせる前に、キラ☆はさらに続けた。
「でね! 一番欲しいのがさー! そのゲームの中で、マジで『推し』と繋がれる機能!」
「…『推し』、ですか?」
京一郎は聞き返した。
「アイドルや、アニメのキャラクターなどを指す言葉、でしたか?」
「そそ! その推しがさー、ゲーム内イベントとかに登場して、一緒に写真撮れたり、限定ボイスが聞けたりすんの! さらに! 自分のアバターが、推しとおそろコーデとかできちゃったり! あとさー、推しへの『愛』をポイント化して、ランキングとか競えんの! 上位になったら、推しからメッセージ貰えるとか! マジで、そんなんあったら、一生課金するんだけど!」
「…課金、ですか。マネタイズの観点からは興味深いですが、肖像権やパブリシティ権、さらには射幸心を煽るという点で、法的な問題や倫理的な問題が発生する可能性が極めて高いかと…」
京一郎が冷静にリスクを指摘すると、キラ☆は、途端に不機嫌そうな顔になった。 「はぁ? ホーテキ? リンリテキ? なにそれ、意味わかんない! いちいちケチつけないでくれる? せっかくテンション上がってきたとこなのに!」
「ケチをつけているわけではありません。実現可能性とリスクを検討するのは、プロジェクトを進める上で当然のプロセスです」
「もー! だから、そーゆーカタいことばっか言ってると、面白いもんなんて作れないんだってば! 大体さー、センパイがさっきから言ってる、その『エーピーアイ』とか『サーバー負荷』とか? 全然ピンとこないし!」
「APIはアプリケーション・プログラミング・インターフェースの略で、異なるソフトウェア間で機能を連携させるための規約です。
サーバー負荷とは、サーバーにかかる処理の重さのことで、これが高いと、応答速度の低下や、最悪の場合、サービス停止に繋がります。
これらは、現代のゲーム開発において、基礎となる重要な概念ですが…」
京一郎は、丁寧に説明しようとした。
だが、キラ☆は、聞く耳を持たないようだった。
「はいはい、分かった分かった。
つまり、なんかよく分かんないけど、難しいやつなんでしょ? うちは、そーゆーの、パス!
考えるのはセンパイの仕事でしょ? うちは、アイデア出す係だから!」
キラ☆は、そう言い放つと、再びスマホを取り出し、SNSのチェックを始めてしまった。
京一郎は、もはや反論する気力も失いかけていた。
会議は、完全に崩壊している。
企画骨子案の検討どころか、基本的なコミュニケーションすら成立しない。
論理は通用せず、データは無視され、リスクは考慮されない。
あるのは、キラ☆の際限のない要求と、それを実現するための技術的な課題、そして、その間にある、あまりにも深すぎる断絶だけだ。
(これは…無理だ…)
京一郎は、心の中で呟いた。このプロジェクトは、始まる前から破綻している。
ギャルとゲームを作る? 社長の思いつきに、自分が巻き込まれただけだ。
こんな状況で、一体どうやってゲームを完成させろというのか。
リーダーとしての責任? そんなもの、放棄してしまいたい。
今すぐこの部屋から逃げ出して、静かなコードの世界に戻りたい。
彼の思考は、ネガティブなスパイラルに陥り始めていた。
全身から力が抜け、深い疲労感が彼を襲う。
※
「…前途多難、ですね」
無意識のうちに、心の声が、か細い呟きとなって漏れ出た。
それを聞きつけたキラ☆が、スマホから顔を上げ、きょとんとした表情で京一郎を見た。
「え? センパイ、今なんか言った? てか、『ぜんとたなん』って、どこの方言?」
その、あまりにも間の抜けた問いかけに、京一郎は、もはや怒りを通り越して、一種の虚脱感に襲われた。
「いえ…独り言です」
力なくそう答えると、キラ☆は「ふーん?」と興味なさそうに呟き、すぐにスマホに視線を戻した。
だが、数秒後、何かを思いついたように、再び顔を上げた。
その目は、なぜかキラキラと輝いている。
「あ! そだ! ねー、センパイ!」
「…なんでしょうか」
「この部屋さー、マジでダサくてテンション下がるんだけど! まずはさー、うちらのアジトとして、もっと可愛くデコるとこから始めない?」
「……は?」
京一郎は、自分の耳を疑った。
今、この状況で、部屋の装飾を提案する? しかも、プロジェクトの第一歩として?
「だからー、壁とか、もっと可愛い色に塗ってさー、おしゃれなライトとか、ふかふかのクッションとか置いて! あと、冷蔵庫も、なんかステッカーとか貼って、もっと映える感じにしよーよ! やっぱさー、環境って大事じゃん? カワイイ空間にいれば、カワイイゲームのアイデアも、もっと湧いてくるって!」
キラ☆は、本気でそう提案しているようだった。
その目は、新しいゲームのアイデアを語る時と同じくらい、真剣に輝いている。
京一郎は、完全に思考を停止させた。
彼の持つ常識、価値観、仕事への取り組み方、その全てが、目の前の存在によって、根底から、粉々に打ち砕かれた。
企画会議の席で、部屋のペンキ塗りから始めようと提案される。
そんなことが、現実にあっていいのだろうか。
彼のエンジニア人生は、今日、間違いなく、最も奇妙で、最も理解不能で、そして最も絶望的なスタートを切った。
異文化との衝突は、彼の予想を遥かに超える形で、今、まさに始まろうとしていた。解決の糸口など、どこにも見えない。
ただ、圧倒的な不安と混乱だけが、第7開発準備室の異様な空気の中に、重く漂っていた。