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第三話:異世界への扉、第7開発準備室

 翌朝、京一郎はいつもと同じ時間に起床し、いつもと同じ朝食をとり、いつもと同じ電車に乗って会社へ向かった。


 しかし、彼の内面は、昨日までとは全く異なっていた。


 まるで、自分の身に覚えのないOSが勝手にインストールされ、バックグラウンドで不協和音を奏で続けているような、落ち着かない感覚。

 思考は、どうしても昨日の社長との会話と、これから対面するであろう「最高のメンバー」、そして「プロジェクト・ギャラクシー」なるものの正体へと引き戻されてしまう。

 アストライア・エンジンの最適化アルゴリズムについて考察しようとしても、すぐに「ギャル」という理解不能な単語がノイズのように割り込んできて、集中を妨げるのだった。


 ※


 重い足取りで自分のデスクに着くと、既にメールが一通届いていた。

 差出人は、高山プロデューサー。

 件名は『プロジェクト・ギャラクシーに関するご連絡』。京一郎は、深呼吸を一つして、メールを開いた。

――――――――――――

 第一開発室・エンジニアリングチーム

 富安京一郎様 


 昨日、社長よりご指名があった件、承知しております。


 本日より、貴殿を「プロジェクト・ギャラクシー」のプロジェクトリーダーとして任命いたします。

 担当プロデューサーは私、高山が務めます。

 つきましては、開発拠点として「第7開発準備室」をご用意いたしました。


 必要な機材等については、リストを作成の上、私までご提出ください。

 また、社長がスカウトされたメンバーの方が、本日より合流予定です。

 まずは、メンバーの方と顔合わせの上、プロジェクトの概要について認識合わせをお願いいたします。


 今後のご活躍を期待しております。 


 第一開発室室長・プロデューサー

 高山健吾

――――――――――――

 簡潔で、事務的な文面。

 しかし、その行間からは、高山の心中…諦観(ていかん)と、そして京一郎に対するわずかな同情のようなものが滲み出ているように感じられた。


「今後のご活躍を期待しております」

 の一文が、やけに皮肉っぽく響く。


 京一郎は、鼻から一気息を吸いこんだ上で吐き出す溜め息を押し殺し、PCのシャットダウンボタンを押した。

 自分のデスク周りの、完璧に整頓された空間を維持するための最低限の私物…サボテンと、予備の眼鏡、そして数冊の技術専門書をビジネスリュックに詰め込む。

 他の開発メンバーたちの好奇と心配が入り混じった視線を感じながら、彼はシステム開発部のフロアを後にした。


 ※


 第7開発準備室は、社内でも最も辺鄙(へんぴ)な場所にあった。


 普段はほとんど人が立ち入らない、古い資料保管庫や使われなくなった機材置き場が並ぶ廊下の、一番奥。プレートの文字は掠れ、「第7」の数字がかろうじて読み取れる程度だ。

 扉には、いつ貼られたのか分からない『節電にご協力ください』という色褪せたステッカーが、斜めに貼られている。

 ここが、会社の未来を賭けた(と社長は言っていた)新規プロジェクトの拠点だというのか。


 まるで、島流しにでもあったかのような気分だった。


 京一郎は、扉の前で数秒間立ち尽くし、再び深呼吸をすると、覚悟を決めてドアノブに手をかけた。ギィ、と錆び付いたような、鈍い音がした。


 扉を開けた瞬間、京一郎は反射的に数歩後ずさりし、咳き込んだ。

 彼の嗅覚を最初に襲ったのは、強烈な匂いの奔流だった。


 甘ったるいフルーツ系の香りに、濃厚なフローラル系の香り、そしてどこかココナッツのような南国を思わせる香りが混ざり合い、彼の鼻腔と脳髄を直接刺激する。

 それは、彼がこれまで嗅いだことのない、人工的で、攻撃的な匂いのカクテルだった。

 香水か、あるいは芳香剤か。いずれにせよ、この密閉された空間には、明らかに過剰な量の香りが充満している。


 次に、視覚が現実を捉え始めると、彼の混乱はさらに深まった。


 部屋の中は、彼の想像を遥かに超えるカオスに満ちていた。

 壁の一部には、なぜかピンク色のヒョウ柄のタペストリーが画鋲で無造作に留められ、反対側の壁には、アイドルのものと思しきポスターが数枚貼られている。

 窓際には、昨日社長室で見たものよりも一回り小さいが、それでも場違いなミラーボールが吊るされ、カーテンの隙間から差し込む光を反射させて、壁や天井にちらちらと小さな光の点を踊らせていた。


 部屋の中央には、会議用と思われる長テーブルが置かれているが、その上は完全に私物で占拠されていた。

 ラインストーンでデコレーションされたスマホスタンド、キャラクターもののぬいぐるみが数体、飲みかけのタピオカミルクティーのカップ、開封されたままのスナック菓子の袋、そして最新号と思われるファッション雑誌が数冊、乱雑に広げられている。

 テーブルの脚元には、ブランドもののショッパー(紙袋)が無造作に置かれ、中からは衣類のようなものがはみ出している。

 隅には、小型の冷蔵庫が置かれ、その扉にはマグネットでプリクラらしき写真が大量に貼られていた。写真の中では、派手なメイクと服装の少女たちが、皆一様に同じようなポーズをとって笑っている。


 ここは、本当にドリームエンジンの社内なのだろうか? まるで、どこかの女子高生の部屋、それも特に片付けが苦手なタイプの部屋に、誤って迷い込んでしまったかのようだ。京一郎は、自分の目を疑い、無意識のうちに眼鏡の位置を直した。彼の持つ秩序と論理の世界とは、あまりにもかけ離れた光景。理解不能な情報量が、彼の処理能力の限界を超えて押し寄せてくる。


 京一郎が、その異様な空間の入り口で立ち尽くしていると、部屋の奥、窓際の椅子に深く腰掛けていた人影が、ゆっくりと顔を上げた。

 スマホの画面から視線を外し、怪訝(けげん)そうな表情で、京一郎を見ている。


 その人物こそが、このカオスの元凶であり、そして社長が言っていた「最高のメンバー」であるらしかった。



 色素の薄い、ハイトーンのアッシュブロンド(青味がかった銀髪に近い)。

 肩甲骨の下まで伸びた髪は、ゆるやかに、しかし計算されたように巻かれている。目元は、黒いアイラインでくっきりと縁取られ、ブラウン系のアイシャドウがグラデーションを描き、さらに異様に長い付けまつ毛が、まるで蝶の羽のように瞬いている。

 瞳の色は、おそらくカラーコンタクトによるものだろう、ヘーゼルナッツのような明るい茶色だ。

 陶器のように白い肌には、完璧なベースメイクが施され、頬にはオレンジ系のチークがふんわりと乗せられている。

 唇には、ラメの入ったピンク色のグロスが、ぷっくりと塗られていた。


 服装は、昨日京一郎が漠然と想像した「ギャル」のイメージを、寸分違わず、いや、それ以上に体現していた。


 丈の短い、お腹が少し見える黒のキャミソールの上に、オーバーサイズの白いパーカーをだらしなく羽織っている。

 パーカーの袖は、手の甲が完全に隠れるほど長い、いわゆる「萌え袖」の状態だ。

 ボトムスは、これ以上短くできないのではないかと思えるほどのマイクロミニスカートで、健康的な脚が大胆に露出されている。

 足元は、白いソックスに、厚底のスポーツサンダル。


 さらに、アクセサリーの多さも尋常ではなかった。

 耳には、大ぶりのフープピアスと、複数の小さなピアスが軟骨にまで並んでいる。

 首元には、細いチェーンのネックレスが二重、三重に重ね付けされ、そのうちの一つには、キラキラと光るチャームが付いていた。

 手首には、シルバーのブレスレットと、キャラクターものの時計。

 そして、何よりも目を引くのが、その指先だ。

 長く伸ばされた爪には、ピンクや白を基調としたジェルネイルが施され、その上には、3Dのクマやハート、そして大量のラインストーンが、これでもかと盛り付けられている。

 その爪で、キーボードを打つことはおろか、日常生活を送ることすら困難なのではないかと、京一郎は本気で心配になった。


 全身から発せられる情報量が、あまりにも多い。

 そして、その全てが、京一郎の理解と常識の範囲外に存在していた。

 彼は、まるで博物館で未知の生物の標本を観察するかのように、目の前の少女を凝視してしまっていた。


 美醜を超えた、圧倒的な異質さ。


 彼女は、このドリームエンジンという会社、いや、日本の一般的な社会規範から、完全に逸脱した存在に見えた。



 京一郎が声も出せずに固まっていると、少女の方が、けだるそうな、しかし妙に甲高い声で口を開いた。

「あ、おはよーございまーす。もしかして、トミヤスセンパイ?」


 その声のトーン、独特のイントネーション、そして初対面のはずなのに、馴れ馴れしく「センパイ」と呼ぶその感覚。それら全てが、京一郎の神経を逆撫でした。

(センパイ…? 初対面のはずだが。なぜ私の名前を知っている? いや、それ以前に、この状況は何だ? なぜこのような人物が、会社の、しかもこれからプロジェクトを進めるべき部屋にいるんだ?)

 混乱と疑問が、彼の頭の中を嵐のように駆け巡る。


「…っ! あ、はい。私が、富安、京一郎です。あなたが…今回、このプロジェクトに参加されるという…メンバーの方、でしょうか?」

 ようやく絞り出した声は、震え、上ずっていた。敬語を使おうとしているのに、言葉がうまく繋がらない。


「そそ! ビンゴ!」

 少女は、あっけらかんと答えると、椅子から立ち上がった。その動きに合わせて、甘い香水の匂いがふわりと漂う。

「うちはキラ☆。本名は五十嵐いがらしアキラだけど、ま、キラ☆って呼んでくれたらOK! 今回、パパ…あ、いや、社長? に、なんか面白そうだから、社会勉強がてら手伝ってこいって言われてさー。普段読モとかやってんだけど~ゲーム開発とか、正直よく分かんないけど、なんかウケるかなーって! よろしくぅ~!」


 キラ☆と名乗る少女は、屈託なく笑いながら、ペコリと頭を下げた。その軽いノリと、衝撃的な告白。


 パパ…社長…。


 やはり、そうだったのか。京一郎の中で、最後の希望的観測が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

 これは、社長の道楽だ。娘を社会勉強させるためだけに、会社の資源と、そして自分の貴重な時間を浪費させようというのか。

 技術者としてのプライドが、根底から揺さぶられるような、冷たい怒りが込み上げてくる。

 同時に、昨日すれ違った高山プロデューサーの、あの同情とも諦めともつかない表情の意味が、ようやく腑に落ちた。彼は、全てを知っていたのだ。


「よ、よろしく、お願いします…五十嵐、さん」

 京一郎は、かろうじてそれだけを口にした。

 声は、感情を押し殺したせいで、平坦で、抑揚のないものになっていた。

「もー、だから、キラ☆でいーってば! 五十嵐さんとか、マジ他人行儀すぎ!」

 キラ☆は、不満そうに唇を尖らせた。

「てか、センパイ、顔色悪くない? 大丈夫?」

「…いえ、問題ありません」

 京一郎は、反射的にそう答えた。大丈夫なわけがない。

 この状況のどこに、問題がないという要素があるだろうか。


「ふーん? ま、いっか! とりま、そこに座んなって!」

 キラ☆は、テーブルの上に散乱していた雑誌やぬいぐるみを、ガサッと脇に寄せると、空いたスペースの向かいにある椅子を指さした。

 京一郎は、一瞬、その場から逃げ出したい衝動に駆られた。

 この異質な空間、異質な存在と、これから一緒に仕事をしなければならないという現実を受け入れがたい。


 しかし、彼に与えられた選択肢は、もはや存在しなかった。

 彼は、ロボットのようにぎこちない動きで、指定された椅子へと歩を進め、ゆっくりと腰を下ろした。

 椅子の座面には、まだ誰かの体温が残っているような気がして、不快だった。

 彼の持つ秩序は、完全に破壊され、理解不能なカオスの中に放り込まれてしまったのだ。


 これから一体、何が始まるというのだろうか。

 彼のエンジニア人生は、間違いなく、今日、最も奇妙で、そして最も困難な局面を迎えていた。


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