第二話:嵐の予感と特命
社長室へと続く長い廊下は、まるで処刑台へと向かう道のりのように感じられた。
一歩進むごとに、京一郎の心臓は鉛のように重くなっていく。
一体、何を言われるのだろうか。
やはり、あの時のバグが見過ごされていて、今になって重大な問題を引き起こしたのか? それとも、自分の能力不足を理由に、担当プロジェクトから外される、あるいは最悪の場合…解雇?
ネガティブな思考が、彼の頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
普段、彼の思考は論理とデータによって構成されているが、予期せぬ事態と、過去のわずかな失敗経験が、彼の冷静さを蝕んでいた。
ようやくたどり着いた社長室の扉は、彼の知るどの扉よりも重厚で、威圧感を放っていた。磨き上げられたマホガニーの表面には、彼の緊張した顔が歪んで映っている。
数秒間、扉の前で逡巡した後、京一郎は意を決して、震える指で扉を三度ノックした。
「どうぞ入ってくれたまえ!」
扉の向こうから聞こえてきたのは、張りのある、そして妙に楽しそうな声だった。
その声の主がドリームエンジン株式会社のトップ、五十嵐健造その人である。
京一郎は、喉元まで込み上げてきた何かをぐっと飲み込み、静かに扉を開けた。
※
室内に足を踏み入れた瞬間、京一郎は思わず息をのんだ。
そこは、彼が普段身を置く開発部の機能的な空間とは全く異なる、別世界だった。
床には深紅の絨毯が敷き詰められ、壁には有名画家のものと思しき抽象画や、会社の歴史を物語るトロフィー、そして歴代ヒットタイトルの豪華な額装ポスターが飾られている。
部屋の中央には、彼の身長ほどもある巨大な一枚板のデスクが鎮座し、その後ろには、都心の摩天楼を一望できる大きな窓が広がっていた。
成功者の象徴ともいえる、過剰なまでの豪華さ。
しかし、その豪華な設えの中で、主である五十嵐社長は、まるで自分の部屋で寛ぐかのように、大きな革張りの椅子にゆったりと身を沈めていた。
「やあ、富安君! よく来てくれた! まあ、そんなところに突っ立っていないで、こっちへ来たまえ」
五十嵐は、還暦を過ぎているとは思えないほど若々しい声で、京一郎に手招きをした。
その瞳は好奇心に満ち、まるで面白いおもちゃを見つけた子供のようだ。
京一郎は、緊張でこわばった体のまま、吸い込まれるように社長の前へと進み出た。
社長は、デスクに置かれた内線電話の受話器を上げると、「ああ、お茶を二つ頼む。いつものやつで」とだけ告げ、すぐに受話器を置いた。
「まあ、座りたまえ」
社長は、デスクの向かいにある、これまた上等そうな革張りのソファを顎で示した。
京一郎は、まるで借りてきた猫のように、ソファの端にそっと腰を下ろした。
体が沈み込むような、柔らかな感触。落ち着かない。
「突然呼び出してすまなかったね。だが、どうしても君と直接話がしたかったんだ」
社長は、デスクの上で指を組み、真っ直ぐに京一郎を見据えた。
その視線は鋭く、京一郎の内面まで見透かしているかのようだ。
「君の活躍は、かねてから耳にしているよ。特に、現在開発中の『アストライア・エンジン』。先日、開発部から上がってきたデモ映像を見たが…素晴らしかった! あの光と影の表現、水のリアルな質感、キャラクターの滑らかな動き! まさに、我がドリームエンジンの技術力の結晶だ!」
社長は、抑揚をつけながら、熱っぽく語る。
それは、単なるお世辞ではなく、心からの称賛のように聞こえた。
「君のような優秀なエンジニアがいてくれることが、我が社の誇りだよ」
「…恐縮です」
京一郎は、俯きながら、かろうじてそれだけを口にした。
技術者として、自分の仕事が評価されることは、素直に嬉しい。
だが、この状況で、これほどの賛辞を受けることに、彼は違和感と、そして拭いきれない不安を感じていた。
嵐の前の静けさ、という言葉が頭をよぎる。
「ですが、それは私一人の力ではありません。チームのメンバーや、先行研究に携わった方々の貢献があってこそ…」
「はっはっは! 謙遜は美徳だが、過度の謙遜は嫌味になるぞ、京一郎君」
社長は、楽しそうに笑い飛ばした。
「もちろん、チームの力も大きいだろう。だが、その中核を担い、不可能を可能にしてきたのは、紛れもなく君の才能と努力だ。私は、それを正当に評価しているつもりだよ」
社長は、ふと真顔になると、少し声を潜めて続けた。
「だがね、京一郎君。その素晴らしい技術力をもってしても、今のドリームエンジンは、大きな壁にぶつかっていると言わざるを得ない」
「…壁、ですか?」
「そうだ。我々は、これまでコアなゲーマー層に支えられ、数々のヒット作を生み出してきた。それは揺るぎない事実であり、財産だ。しかし、市場は常に変化している。
スマートフォンの普及、SNSの浸透、新しい世代の価値観の台頭…我々がこれまで得意としてきたやり方だけでは、もはや通用しなくなりつつある。
このままでは、我々は時代の変化に取り残され、過去の栄光にすがるだけの、老いた恐竜になってしまうだろう」
社長の言葉には、経営者としての強い危機感が滲んでいた。
普段は楽天的に見える彼の、別の顔がそこにあった。
「我々には、革新が必要なんだ。既存の枠にとらわれない、全く新しい発想。
ドリームエンジンの持つ最高の技術力と、まだ見ぬ可能性を掛け合わせることでしか生まれない、次世代のエンターテイメントを創造しなければならない」
社長は、ゆっくりと立ち上がると、部屋の隅に置かれたホワイトボードの前に立った。
その背中からは、ただならぬ決意のようなものが感じられた。京一郎は、固唾を飲んで、その先を待った。
「そこでだ、京一郎君」社長は、振り返り、再び京一郎を指さした。「君に、その革新の先頭に立ってもらいたい。
我が社の未来を切り開く、全く新しいプロジェクトを、君に託したいんだ!」
社長は、おもむろに極太のマジックペンを手に取ると、ホワイトボードに、力強い筆致でこう書きなぐった。
『プロジェクト・ギャラクシー』
「…プロジェクト・ギャラクシー?」京一郎は、その文字を反芻した。
ギャラクシー…銀河。やはり、SF系の大型プロジェクトなのだろうか? アストライア・エンジンの性能を最大限に活かせるような、壮大な宇宙を描くゲーム? もしそうなら、技術者としてこれほど挑戦しがいのある仕事はない。
わずかな期待が、彼の胸に芽生え始めていた。
「壮大なネーミングだろう?」
社長は、満足そうに頷いた。
「だが、我々が目指すのは、物理的な宇宙よりも、もっと広大で、神秘的で、そして攻略困難な領域だ」
社長は、そこで意地の悪い笑みを浮かべた。
「そう…若者の心だよ。特に…ギャル! 京一郎君、ギャルだ!」
その単語が発せられた瞬間、京一郎の脳内で何かがプツリと切れる音がした。
「ぎゃ…る…?」
彼の口から漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しく、間抜けだった。
ギャル。
頭の中で、その言葉が意味するものと、自分が今いる状況とが、全く結びつかない。
昨日、佐々木が話していた「ぶっ飛んだコンセプトの新規プロジェクト」とは、このことだったのか? そして、なぜ、自分が?
彼の脳内データベースを検索しても、「ギャル」に関する情報は、極めて乏しい。
テレビのバラエティ番組で見るような、派手なメイクとファッション、独特の言葉遣いをする若い女性たち。
渋谷や原宿といった繁華街で見かける、自分とは全く異なる生態系に属する存在。
理解不能。
興味対象外。
可能であれば関わりたくないカテゴリー、クラスタ。
それが、彼の「ギャル」に対する認識の全てだった。
そのギャルをターゲットにしたゲームを、自分が作る? しかも、リーダーとして?
「そうだ、ギャルだよ!」
社長は、京一郎の混乱などお構いなしに、興奮した様子で続けた。
「今の若者文化の中心にいるのは、間違いなく彼女たちだ! 彼女たちのエネルギー、発信力、そして未知の感性! それを取り込むことこそが、我が社が生き残る道だと、私は確信している!」
「し、しかし、社長…私は、その…ギャルという層について、全く知識がありません。市場調査もしたことがありませんし、彼女たちがどのようなゲームを求めているのか、見当もつきません。
それに、私の技術は、リアルでシリアスな表現を得意としており、いわゆる『ギャル向け』とされるような、ポップで可愛らしい表現とは、方向性が異なるかと…」
京一郎は、必死で反論の言葉を並べた。
これは、どう考えてもミスマッチだ。人選ミスだ。
「はっはっは! だからこそ、面白いんじゃないか!」
社長は、京一郎の反論を、まるで楽しむかのように一蹴した。
「知識がない? 結構! 既存の常識にとらわれない、斬新なものが生まれる可能性があるということだ! 方向性が違う? 大いに結構! 誰も見たことのない化学反応が起きるかもしれないじゃないか!」
社長の論理は、もはや常軌を逸しているように京一郎には思えた。
だが、その瞳は、狂気じみた輝きを放っている。
「君の持つ、世界最高峰の技術力。それは、どんな表現をも可能にする基盤となる。そして、そこに、新しい世代の、予測不能で、爆発的な、瑞々しい感性をぶつけるんだ! 想像してみろ、京一郎君! その二つが融合した時、一体どんなものが生まれるのか…!」
社長は、夢見るような表情で語る。
京一郎は、その熱量に気圧されながらも、必死で抵抗しようとした。
「ですが、私にはプロジェクトリーダーとしての経験も、マネジメント能力も…」
「経験など、これから積めばいい! 能力がないなら、補うメンバーをつければいい!」
社長は、京一郎の言葉を遮った。
「君に必要なのは、リーダーとしての経験やスキルじゃない。その卓越した技術力と、未知の領域に挑む…ほんの少しの勇気だけだ!」
「しかし…」
「いいか、富安君!」
社長は、京一郎の肩に手を置いた。その手は、意外なほど力強かった。
「これは、単なる新規プロジェクトではない。ドリームエンジンの未来を賭けた、聖戦なのだ! そして、その聖戦を率いる勇者に、私は君を選んだ! 君しかいないんだ!」
聖戦? 勇者? 社長の言葉は、ますます現実離れしていく。
しかし、その有無を言わせぬ迫力と、どこか芝居がかった熱弁に、京一郎は反論の言葉を失ってしまった。まるで、強力な催眠術にでもかかっているかのようだ。
「新しい感性については心配いらない、と言ったな?」
社長は、ニヤリと笑った。
「最高のメンバーを、この私が直々にスカウトしてきた、とも。そのメンバーについては、明日、プロジェクトルームで引き合わせる。きっと、君も驚くはずだ」
その言い方は、京一郎の不安をさらに掻き立てた。
最高のメンバーとは、一体何者なのか?
まともな開発者なのだろうか? それとも、社長のコネか何かで、素人同然の人間が送り込まれてくるのだろうか?
「ついては、明日から第7開発準備室を自由に使ってくれたまえ。
必要な機材や予算については、追って高山プロデューサーから連絡させる。
期待しているぞ、京一郎リーダー! 我々のギャラクシーを、この手で掴み取るんだ!」
社長は、力強く京一郎の肩を叩いた。
その衝撃で、京一郎は、はっと我に返った。
しかし、もはや、流れに逆らうことはできなかった。
「…は、はい。…承知、いたしました」
力なくそう答えるのが、精一杯だった。
※
社長室を出た京一郎は、心身ともに、これまで感じたことのないほどの疲労感に襲われていた。足元がおぼつかない。
エレベーターホールへと向かう廊下を、まるで夢遊病者のように歩いていると、前方から見慣れた人物が歩いてくるのが見えた。高山健吾プロデューサーだ。
開発部のベテランで、常に冷静沈着、数々の修羅場をくぐり抜けてきた、京一郎も密かに尊敬している人物だった。
高山は、京一郎の憔悴しきった様子を一瞥すると、全てを察したかのような、複雑な表情を浮かべた。
それは、同情のようでもあり、諦めのようでもあり、そして「ご愁傷様」とでも言いたげな、苦笑いのようにも見えた。
高山は、何も言わず、ただ軽く会釈だけして、京一郎の横を通り過ぎていった。
その無言の会釈が、これから始まるプロジェクトの過酷さと、自分の置かれた状況の異常さを、何よりも雄弁に物語っているように、京一郎には感じられた。
彼のエンジニア人生は、今日、大きな、そしておそらくは望まない方向へと、舵を切ってしまったのだ。彼の静寂な日常は、間違いなく終わりを告げようとしていた。