第十五話:最後の壁 ~マスターアップへのカウントダウン~
リリース予定日まで、あと72時間。
第7開発準備室は、もはや単なるオフィスではなく、秒単位でカウントダウンが進む、緊迫した作戦司令室と化していた。
壁に貼られた巨大なホワイトボードには、残されたタスクがびっしりと書き込まれ、完了したものから順に赤いマジックで消されていく。
しかし、消される数よりも、新たに追加される細かな調整項目や、最終チェックで見つかった軽微なバグの方が多いようにすら感じられた。
富安京一郎
キラ☆
佐藤涼子
そして新たに参加したプログラマーやQAテスターたち。
誰もが、アドレナリンとカフェイン、そして使命感だけで動いているような状態だった。
最終的なゲームバランスの調整、パフォーマンスのさらなるチューニング、サーバーの最終負荷テスト、そして、各プラットフォーム(iOS、Android)への申請に必要な素材の準備…。
やるべきことは、まだ山のように残されている。
「京一郎リーダー、Android版の一部機種で、メモリリークの兆候が見られます。長時間プレイすると、アプリが不安定になる可能性が…」
「キラ☆さん、課金アイテムの価格設定、最終案はこちらでよろしいですか? バランス的に、もう少しだけ…」
「佐藤さん、チュートリアルの導線、最後の最後にもう一度だけ見直していただけませんか? 初心者がここで躓く可能性が…」
指示が飛び交い、キーボードを叩く音が鳴り止まない。
部屋には、濃いコーヒーの匂いと、メンバーたちの熱気が充満していた。
時折、誰かが張り詰めた空気の中で冗談を言って、乾いた笑いが起こる。
しかし、すぐにまた、厳しい表情に戻り、モニターとの睨めっこが再開される。
睡眠時間は、平均して3時間程度。
仮眠室代わりに使われている会議室のソファは、常に誰かが倒れ込むようにして眠っていた。
キラ☆も、この最終局面においては、さすがにいつものような呑気な様子は見せず、QAテスターとして、あるいはムードメーカーとして、自分にできることを必死に探していた。
ゲームを繰り返しプレイし、細かな表示のズレや、操作感の違和感を報告する。
徹夜組のために、大量のお菓子やエナジードリンクを買い出しに行き
「みんなー! もうちょいだよ! ファイト!」
と声を張り上げる。
その、ある意味で場違いなほどの明るさが、極限状態にあるチームの精神的な支えになっている部分も、確かにあるのかもしれなかった。
高山プロデューサーは、まるで地蔵のように、部屋の隅に座って戦況を見守っていた。
彼の顔には、深い疲労と心配の色が刻まれているが、同時に、この土壇場で驚異的な集中力と結束力を見せるチームに対して、かすかな信頼と期待の光も宿っているように見えた。
彼は、関係各所との最終調整や、リリースに向けたプレスリリースの準備など、裏方として奔走していた。
そして、リリース予定日の48時間前。
マスターアップ(製品版の最終バージョンを完成させ、プラットフォームへの申請準備を整えること)の期限が、目前に迫っていた。
主要なバグはほぼ修正され、パフォーマンスも、目標値にはわずかに届かないものの、許容範囲内に収まっている。
サーバーの負荷テストも、概ね良好な結果を示していた。
誰もが、「あと少しだ」「このまま行ける」と、安堵しかけていた、まさにその時だった。
「…た、大変ですっ!!」
QAチームのリーダーが、血相を変えて部屋に飛び込んできた。そのただならぬ様子に、室内にいた全員の動きが止まる。
「どうしたんですか!?」
京一郎が、鋭く問い返す。
「最終リグレッションテスト(修正による影響がないかを確認する最終テスト)中に、致命的な不具合が再発しました! あの…『キラキラ機能』に関連するバグです!」
「なっ…!?」
京一郎は、絶句した。
あの、プロジェクトを根本から揺るがした、悪夢のようなバグ。
完全に修正したはずだった。
「特定の条件下で、『キメ写モード』を使用した後、アバターデータの一部が破損する可能性があることが判明しました! 再現性は低いですが、もし発生した場合、ユーザーは自分のアバターを正常に表示できなくなり、最悪の場合、アカウントデータそのものに影響が出る可能性も…!」
その報告は、部屋にいた全員に、冷水を浴びせかけるような衝撃を与えた。
データ破損。
それは、オンラインゲームにおいて、最も忌避されるべき、最悪の事態の一つだ。
ユーザーのこれまでのプレイ時間、課金履歴、築き上げてきたコミュニティとの繋がり…その全てが、一瞬にして失われる可能性がある。
「そ、そんな…嘘でしょ…?」
キラ☆が、青ざめた顔で呟いた。
「なぜだ…!? 関連するコードは全て修正し、テストも繰り返し行ってきたはずなのに…!」
京一郎は、信じられないという表情で、自分のPCに向かい、猛烈な勢いでコードを確認し始めた。
残された時間は、あとわずか。
マスターアップの期限は、刻一刻と迫っている。
このタイミングでの、致命的なバグの再発。
それは、プロジェクト・ギャラクシーにとって、まさに最後の、そして最大の壁だった。
部屋には、絶望的な空気が漂い始めた。
「…もう、間に合わないかもしれない…」
「リリースを、延期するしかないのか…?」
「いや、延期したら、役員会が何と言うか…プロジェクト自体が…」
メンバーたちの間で、諦めに似た囁き声が交わされる。
高山プロデューサーも、苦渋の表情で頭を抱えていた。
リリース延期は、競合『ドリーム☆クローゼット』が勢いを増している現状を考えれば、致命的な判断となりかねない。
しかし、データ破損のリスクを抱えたままリリースするなど、論外だ。
進むも地獄、退くも地獄。
まさに、万事休すかと思われた。
その、重苦しい沈黙を破ったのは、京一郎だった。
彼は、モニターから顔を上げると、決然とした表情で言った。
「…まだ、諦める時間ではありません」
その声には、疲労の色は濃いが、それ以上に、技術者としての強い意志と、リーダーとしての責任感が宿っていた。
「原因は、必ずあるはずです。そして、解決策も。残された時間は少ないですが、全力を尽くします。皆さん、どうか、力を貸してください!」
京一郎のその言葉に、打ちひしがれていたメンバーたちの目に、再び光が灯った。
そうだ、まだ終わってはいない。
ここで諦めてしまったら、これまでの苦労が全て水の泡になってしまう。
そこから、本当の意味での総力戦が始まった。
京一郎は、若手プログラマー数名と共に、不眠不休でバグの原因究明にあたった。
膨大なログデータを解析し、コードを一行一行見直し、考えうる全ての可能性を潰していく。
その集中力は、鬼気迫るものがあった。
佐藤は、万が一、修正が間に合わなかった場合に備え、問題が発生する機能を一時的に制限するためのUIデザイン変更案や、ユーザーへの告知文案などを、迅速に準備し始めた。
それは、最悪の事態を想定した、冷静かつプロフェッショナルな対応だった。
キラ☆は、自分にできることは少ないと悟りながらも、開発メンバーのために、コーヒーを淹れたり、夜食を買い出しに行ったりと、必死にサポートに徹した。
「センパイ! みんな! 絶対大丈夫! ウチらならできるって!」
と、持ち前の明るさで、沈みがちな現場の空気を、必死に盛り上げようとしていた。
その奮闘は、第7開発準備室の中だけにとどまらなかった。
事態を知った他ラインのQAチームのメンバーが、自主的にテスト作業を支援しに来てくれた。
サーバーインフラチームのエンジニアたちも、サーバー側のログ解析や、負荷軽減のためのチューニングに協力してくれた。
高山プロデューサーは、関係各所との連絡調整に奔走し、五十嵐社長も、自ら現場に顔を出して、「君たちならできると信じている!」と、メンバーを力強く激励した。
部署や役職を超え、ドリームエンジンという会社全体が、この危機を乗り越えるために、一つになろうとしていた。
そして、マスターアップ期限まで、残りあと数時間という、まさに土壇場。
「…見つけました!!」
京一郎が、叫んだ。彼の目は充血し、声は嗄れていたが、その表情には、確かな達成感が浮かんでいた。
「原因は、キラキラエフェクトの描画処理と、アバターデータの非同期保存処理との間に発生する、極めて稀な競合状態でした! 特定のタイミングが重なった時だけ、データが不整合を起こしていたようです!」
原因が特定できれば、修正は可能だ。
京一郎は、震える指で、修正コードを打ち込み、コンパイルを実行した。
そして、QAチームによる、入念な最終確認テストが行われる。
部屋中の誰もが、固唾を飲んで、テスト結果を待った。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「…問題、解消されました! データ破損の再現性、ゼロです!」
QAリーダーからの報告が響き渡った瞬間、第7開発準備室は、大きな、大きな歓声と拍手に包まれた。
抱き合って喜ぶ者、安堵の涙を流す者、 疲労困憊のあまりその場に座り込む者…。
京一郎も、椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。
佐藤が、彼の肩をそっと叩く。
キラ☆は
「やったー! よかったぁ…!」
と、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑っていた。
ギリギリのタイミングで、最後の壁は乗り越えられた。
そして、ついに、その瞬間が訪れた。
全てのチェックが完了し、最終的なビルドが生成される。
高山プロデューサーが、震える手で、マスターアップ承認のボタンをクリックした。
モニターに、「Master Up Completed」の文字が表示される。
プロジェクト・ギャラクシーのゲームは、ついに、完成したのだ。
部屋には、再び、深い静寂が訪れた。
それは、先ほどまでの絶望的な沈黙とは違う、万感の思いが込められた、感慨深い静寂だった。
誰もが、これまでの長く、険しく、そして濃密だった開発期間を、胸の中で反芻していた。
衝突、和解、危機、そして結束…。
その全てが、今、この完成したデータの中に詰まっている。
「…それで」
しばらくして、佐藤が、ふと思い出したように言った。
「このゲームの、正式なタイトルは、どうしましょうか? そろそろ決めないと…」
そういえば、プロジェクト名である『プロジェクト・ギャラクシー』は、あくまで開発コードネームだった。リリースに向けて、正式なタイトルが必要だ。
メンバーたちが、顔を見合わせる。
いくつかの候補名が、これまでにも挙がってはいた。
しかし、どれも、しっくりきていなかった。
その時、キラ☆が、少し照れたように、しかし、はっきりとした声で言った。
「…やっぱ、『ギャル☆コレ ~アゲ盛りパーティ~』…かな?」
それは、プロジェクトの初期に、彼女がノリで口にしたタイトルだった。
当時は、誰も本気にしていなかったかもしれない。
しかし、今、この瞬間、そのタイトルが、不思議なほど、このゲームの本質を表しているように、誰もが感じていた。
ギャル(キラ☆)が集めた、最高の「カワイイ」(コレクション)。
そして、開発過程そのものが、まるでハチャメチャなパーティのようだったこと。そして何より、「アゲ盛り」という言葉に込められた、ユーザーの気分を最高に盛り上げたい、という彼女たちの願い。
「…いいんじゃないでしょうか」
京一郎が、静かに言った。彼の口元には、珍しく、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「このプロジェクトに、ふさわしい名前だと思います」
佐藤も、高山も、そして他のメンバーたちも、笑顔で頷いた。
正式タイトル、『ギャル☆コレ ~アゲ盛りパーティ~』。彼らの汗と涙と、そしてたくさんの「カワイイ」が詰まったゲームが、今、まさに世界へと放たれようとしていた。